2009年11月30日

11月の音楽 –2つの国の言葉で聴く”Dream a little dream of me”–

せちがらい世の中、ひとときでもゆったりのほほんとした気分にさせてくれる曲はないかな、と思いセレクトしたのが”Dream a little dream of me”。
 
ママス&パパスのオリジナルとばかり思いこんでいましたが、最初に世に出たのは何と1931年。リッキー・ネルソンのお父さんが最初に吹き込んだそうです。(聴くたびにそこはかとした昔懐かしさを感じていましたが、なるほど、そういう訳でしたか!)その後もポップス、ジャズ、ロックといろいろなジャンルで歌い継がれ、本国アメリカはもちろん世界中で親しまれています。
 
Carry on up the Charts: The Best of the Beautiful Southエトランゼの吐息


さてこの曲、フランス語のヴァージョンもあるんです。イギリスのバンド、ビューティフル・サウスが吹き込んだもの。メグ・ライアンがメグ・ライアンらしかった頃のチャーミングな映画『フレンチ・キス』で使われています。(最近では『プラダを着た悪魔』でもちらっと流れていましたね。)実は元々フランスのシャンソンだったんです、と言われても信じてしまうぐらい違和感のない仕上がりで、エンゾ・エンゾやシルヴィー・ヴァルタンといったフランス人のシンガーにも歌われています。
 
ちなみにフランス語ヴァージョンでは全く新しい歌詞が付いています。(タイトルも“les yeux ouverts”となりました。)オリジナルの歌詞が、現在進行形の甘い恋を歌うのに対し、フランス語の歌詞は「あなたとのあの素晴らしい思い出」をテーマとしたいささかビターな内容。どちらの歌詞をのっけてもまた違った世界が開けるのは、よくできたメロディのおかげでしょうか。

個人的な正調。ママ・キャスのたっぷりした歌声に包まれ夢見心地。
http://www.youtube.com/watch?v=ajwnmkEqYpo

ビューティフル・サウスのフランス語版。
http://www.youtube.com/watch?v=P1JhKQBSyuk

フランス人によるバージョン。エンゾ・エンゾの歌でどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=wLpB9xx2sHE





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2009年11月28日

フランス・テレコムで何が起こったのか?(1)

下に訳出した記事はフランスの雑誌 Nouvel Observateur に掲載された「フランス・テレコムの自殺の波−オンラインの苦しみ Vague de suicides à France Télécom − Souffrances en ligne 」である。フランス・テレコムで相次いだ自殺(1年半のあいだに25人)は、今年フランスで起こった重大ニュースのひとつであることは間違いない。9月17日掲載のちょっと古い記事だが、アメリカ流の金融の論理のもとでリストラが進行するフランス・テレコム社内の重苦しい空気をリアルにリポートしている。フランス・テレコムで起こったことは、日本でとっくに起こっていることなのだろう。日本ではひとつの企業から何人の自殺者と数えられることはなく、年間3万人という自殺者のなかにひとくくりにされている。

抄訳に簡単な解説をつけて3回に分けての掲載予定だが、まずは第1回。



不安な経済/漂流する個人―新しい資本主義の労働・消費文化私たちの人生はどんな糸によって支えられているのだろうか。セバスチャンにとって、それは家族の写真だ。妻の優しい視線。娘たちの微笑み。彼はその写真を見て、会社の窓の外から飛び降りることを思いとどまり、自分の家に帰る。そこでは、彼はお払い箱にされようとしている厄介者でもないし、お荷物でもない。彼は家で会社の出来事を忘れようとするが、それはその後彼の日常的な運命となる。不安で、方向を見失い、無言の暴力がはびこり、みんなが悲しい顔をして、ストレスによって衰弱した同僚の数を数えながら恐怖におびえている。

フランス・テレコムの不安は、新年度の始まりを襲った新型インフルエンザに次ぐ、ふたつ目の伝染病だった。トロワではひとりの男が腹にナイフを突き立てた。それは彼のポストがなくなったと知らされたときだった。マルセイユ、ブザンソン、ラニヨン、パリで同じ事件が起こった。何人かの男たちは首を吊り、睡眠薬を飲んだ。若い女性は虚空に身を投げた。2008年の2月以来、23人が自殺で亡くなった。伝染することが恐れられている。首脳陣は問題を個人の精神的な脆さのせいにしたあと、国から強い圧力を受け、ようやく重い腰を上げた。

セバスチャンはそれでも、25年前にフランス・テレコムに入社したときの誇らしい気持ちを思い出す。技師の免状をポケットに入れ、素晴らしいキャリアが前途にあり、あらゆるネットワークが構築されようとしていた。彼は多いときで200人の部下を率いていた。技術的な問題に挑み、移動体通信網の構築に参加した。上級管理職だった彼は、いつの日か自分が陰のような存在になるとは思ってもみなかった。彼は全てが一変した瞬間をとてもよく覚えている。それは2006年のこと、管理職向けのセミナーだった。「会社側はいかにして私たちの仲間を緊張状態に置くかを説明しようとしていた。50歳付近が膨れ上がった従業員の年齢構成を示したピラミッドを私たちに見せつけることから始めた」と彼は思い出す。「司会者は言った、『問題がどこにあるかわかりますか?問題、それはあなた方です』」その日集められたおよそ百人の管理職は、その発言に驚いた。熱意のある人間は次のような方法に従うという条件で何とか切り抜けようとするだろう。「あなた方は、自分のチームのメンバーに、できるだけ早く会社を去るように働きかけるべきです。彼らに転職を勧めてください。例えば、家でホームステイを受け入れるとか、ダイビング・クラブを営むように。彼らをスケジュール的に追い詰めるか、彼らがミスを犯す現場を押さえるためにメールと通話を監視することをためらわないでください」。セバスチャンは思い出す、「私たちはあまりにも気分が悪くて、互いに顔を見ようともしなかった」。

自分が最初に追い出されようとしているひとりであることをセバスチャンははっきりと理解した。年齢と地位、そして給与が問題なのである。民間企業の首脳部にとって、方程式は単純である。情報通信の市場は非常に競争が激しい。株主は(フランス・テレコムは国が筆頭株主で27%を保有)配当を要求する。給与の全体を減らすことでコストを下げ、利益を出さなければならない。「私たちはもう、利用者のために働いているのではない。今や顧客を満足させるために闘っているのだ。私たちは全員、この要求に応じなければならない」、グループの最高経営責任者、ディディエ・ロンバールの右腕の一人、ルイ=ピエール・ヴェーヌは説明する。「私たちのうちの1万人は転職して満足している。他の者たちについては、それが困難なのでまだ私たちと一緒にいる。競合他社とは逆に、私たちは誰も解雇しなかったことを今一度申し上げておく」。2006年から2008年までに22000人分のポスト削減につながった「ネクスト計画」のあと、組合はそれでも、新たな人員削減計画があるのではないかと疑っている。ルイ=ピエール・ヴェーヌはそのことを激しく否定する。





現代の労働は際限のないフレキシビリティを特徴としている。ある仕事から別の仕事に移る柔軟性、ひとつのポストで様々な仕事を引き受ける柔軟性。そこで求められている能力は、不安定な状況に慣れ、一時的な変動に適応し、不慮の事態にすばやく反応し、任務を可能な限り遂行することだ。

技術革新のスピードが速く、先端の技術を学んでも、それがすぐに時代遅れになってしまう。同じように、一生使いまわせるような知識の体系などないのだろう。それゆえに、労働者が評価されるためには、そのときに身につけた技術やインプットした知識ではなく、一般的な学習能力を披露しなければならない。スキルとは、すでに習得されたものの活用能力ではなく、新しい状況に常に適応し、新しい何かをつねに習得できる「潜在能力」として再定義されてしまった。

現代の資本主義社会では学ぶことに終わりはない。学びは学校だけでなく、生産活動のあらゆる段階に存在する。労働は再教育の連続であり、人は教育に生涯つきまとわれることになる。生涯教育が行われる原因は、先に述べたようなフレキシビリティだが、それに加え、生産サイクルにおいて知識と情報の役割が増大したこともある。

リチャード・セネットはフレキシブルな組織が個人に及ぼす影響を次のように述べている(「不安な経済/漂流する個人―新しい資本主義の労働・消費文化」を参照)。

―組織がもはや長期的な枠組みを提供しないとすれば、個人は自らの人生を即興で紡ぎだすか、一貫した自己感覚抜きの状態に甘んじなければならない。
―新たに台頭した社会秩序は一芸に秀でるという職人的な理想に否定的な影響を及ぼした。現代の文化は職人芸に変わって過去の業績より潜在能力を高く評価する。
―いかに過去と決別するか。職場では地位を自分のものとして所有している人間はひとりも存在しない。過去のどんな業績も地位の保証にならない。

まさにフランス・テレコムの社員が置かれた状況とぴったりあてはまる。しかし人間は人生の一貫した物語を必要としているし、一芸や特殊なことに秀でていることに誇りを感じる。また過去の経験は自分を作り上げるかけがえのないものだ。この新しい組織の理想は明らかに人間を傷つけている。




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2009年11月23日

オリヴィエ・アサイヤス、話題の3本

NOISE [DVD]今年の夏、全国で上映されたオリヴィエ・アサイヤス Olivier Assayas の「NOISE」がDVD化される。この作品は、2005年6月にフランスのサン=ブリュー Saint-Brieucで開催されたアート・ロック・フェスティバルのライブドキュメント映像である。とりわけ、アメリカのソニック・ユース Sonic Youth のメンバー4人が、MIRROR/DASH(サーストン・ムーア&キム・ゴードン)、TEXT OF LIGHT(リー・ラナルド&スティーヴ・シェリー)という、2人ずつ2組のユニットに分かれて参加したことが話題になった。その2組のユニットは、ソニック・ユース以上にアヴァンギャルドでフリーキーなプレイを披露。また、新作を発表したばかりのジム・オルークがエンディングで音楽と映像を提供した。アサイヤス監督は実験的なモンタージュによって、不均質だが、ロック感にあふれる映像を演出している。

アサイヤスといえば、離婚したばかりのマギー・チャンと「クリーン」(2003年)を撮ったが、それが日本で先月公開されたばかりである。「クリーン」でマギー・チャンは主人公のエミリーを熱演し、第57回カンヌ映画祭主演女優賞を受賞している。

http://www.clean-movie.net/

夏時間の庭 [DVD]もう一本、「ノイズ」とは対極的な美を描く「夏時間の庭」。印象派の画家たちが魅せられたイル・ド・フランスの美しい庭が舞台。これはすでに今年の5月に日本で公開され、来月DVDが発売される。

http://natsujikan.net/

個人的には5分×18本のオムニバス映画「パリ、ジュテーム」の中の "Quartier Des Enfants Rouges" のスタイリッシュな映像に魅せられた。アメリカから撮影のためにパリにやってきた女優を演じるマギー・ギレンホールが素敵すぎる。

http://www.youtube.com/watch?v=00jJ6IHRflg

「NOISE」のように、アサイヤスは通常の映画の枠にとどまらない活躍をしている。2008年にはモダン・ダンスの振付師、アンジェリン・プレリョチャイ Angelin Preljocaj のバレエ「エルドラドEldorado 」を撮影したが、この作品は2007年に亡くなった現代音楽家、シュトックハウゼンとの出会いによって生まれた。




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2009年11月21日

映画 「ジュリー&ジュリア」 I'm Julia Child. Bon appetit!

1949年パリにやってきたアメリカ人主婦ジュリアは退屈な毎日を打破するために、好きな「食べること」をいかそうと、「ル・コルドン・ブルー」で料理を習い始める。初めは包丁を握る手もおぼつかないジュリアなのだが、その明るさとバイタリティーでだんだんと周囲も巻き込みながら、アメリカにはそれまでなかった「家庭でも作れるフランス料理の料理本」を執筆するまでに・・・。

一方、現代のニューヨークに住むアラサーのジュリーは作家になる夢を半ばあきらめ、仕事に疲れる毎日をなんとか打破しようと、尊敬しているジュリア・チャイルドの執筆した本にのっているフランス料理全524品を1年で制覇してその様子をブログにすることを思いつく。



時代や環境は違うけれど、配偶者や友人たちに支えられながら夢に向かって、料理を作る2人を同時進行で描いていく映画です。

とにかく185cmという大柄のジュリア・チャイルドを好演していると評判のメリル・ストリ―プ。微妙にアメリカ人ということがマイナスに働く当時のパリの雰囲気の中で、美味しいものが食べたい、旦那さんにも友達にも作って食べさせてあげたい、そしてアメリカの人たちにも食べさせてあげたい・・・純粋な気持ちと情熱で成功を手にします。かたやジュリーは現代らしく、ブログで成功することがいつしか目的になってしまって純粋に料理が楽しめなくなり、挫折してしまいそうになりますが・・・

1950年代のパリと現代のニューヨークの街並み、食材を買いに行くフランスのマルシェと都会の「ディーン&デルーカ」、という様々なコントラストがとても興味深いです。

でも2人が愛用しているお鍋が共にル・クルーゼのオレンジ色のココットだったり、それぞれの優しく支える旦那さんが、奥さんが作った「ブッフ・ブルギニョン」(牛肉の赤ワイン煮込みブルゴーニュ風)を美味しそうに食べている様子は、時代や環境が違えど料理を作ることが与えてくれる幸せだったり、美味しい食卓を囲む幸せが普遍であることを教えてくれます。

私は勉強不足でジュリア・チャイルドを知りませんでしたが、当時コルドン・ブルーの家庭料理コース(ゆで卵のゆで方を学びましょう〜だったりする)ではない本講習をアメリカ人女性が男性ばかりのなかで挫けずに受ける、それは異例中の異例で、想像を超える努力だったのだろうなと思います。けれど彼女はそんな大変さの微塵も見せず、後にはアメリカのお茶の間の料理番組で明るくフランス料理の手ほどきをする。そしてそれは決して気取ったり、小難しいものだったりしない、シンプルな美味しさを伝えようとするものであって、それが彼女の素晴らしさなのでしょう。

ジュリーが深夜旦那さんとジュリアのDVDを見ているシーンがありますが、中にたぶん「サタデーナイトライブ」でダン・エイクロイドがジュリア・チャイルドをものまねしているコントが流れます。

内容はかなりブラックで笑ってしまいましたが、真似されるぐらい彼女はお茶の間の人気者だったんですね。

「ジュリー&ジュリア」を観れば、人が生きていくうえで本質的な食べるという行為を支える「料理」の中に、国によって異なる食文化や、以前に流行った番組「料理の鉄人」のようなエンターテイメント性や、料理を作り上げるという行為の芸術性、達成感そして分かち合うことの幸福感、色々な側面を発見することでしょう。そして、残念ながら最近は長らく人気のないフランス料理ですが、観終わった後には、きっと温かい香りの漂うビストロに行ってみたくなるのではないでしょうか?

□「ジュリー&ジュリア」(公式サイト、予告編)  http://www.julie-julia.jp/
料理で人生が変わる!(コルドン・ブルーHP)
□『ジュリー&ジュリア』(ジュリー・パルエル著、↓原作小説)


ジュリー&ジュリア (イソラ文庫)
ジュリー パウエル
早川書房
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おすすめ度の平均: 5.0
5 読むと元気が出る!
けどお腹がすくので注意!





mandoline@かんたんフレンチレシピ

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2009年11月19日

オニヨングラタンスープ Soupe à l’oignon gratinée

寒い日には温かいスープが食べたくなりますよね。いざ作ろうと思うと面倒な気がしますが、たまねぎを根気よくあめ色に炒めれば、あとは簡単!たまねぎの甘さがたまらないスープになります。

ガーリック・トーストを浮かべてオーブンで焼けば、お腹にも嬉しい「食べるスープ」になるので、是非試してみてください。

ogniongratin.jpg

*材料*(2人分)
たまねぎ oignon ・・・・・500g(小3個ぐらい)
ブイヨン bouillon ・・・・・600cc(インスタントなら規定量のお湯で溶かしたもの)
グリュイエルチーズ gruyère ・・・・・適量(ピザ用チーズでもよい)
バケット baguette ・・・・・2枚(8mmの厚さに切ったもの)
にんにく ail ・・・・・1片
サラダ油 huile
塩・こしょう sel, poivre

*作り方*
1.たまねぎは縦半分に切り、芯を取り除いて薄切りにする。フライパンにサラダ油を熱してたまねぎを入れて軽く塩をして強火にかける。しんなりしてきたら、中火に落としてあめ色になるまで、かき混ぜながらゆっくり炒める。
2.たまねぎを鍋に移し、ブイヨンを加え強火にかける。沸騰したら中火にして20分ぐらい煮込む。
3.8ミリの厚さに切ったバゲットを軽くトーストしたら、表面ににんにくの切り口をこすりつけてガーリック・トーストを作っておく。
4.オニオンスープは塩・こしょうで味をととのえ、耐熱性のあるスープ皿に注ぎ、ガーリック・トーストを浮かべ、上からグリュイエルチーズをたっぷりかけて200℃のオーブンで焼き、チーズに焼き色を付ける。(オーブントースターでも出来ます。)




mandoline

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2009年11月17日

秋に聴きたい3曲 Musique pour l'automne 2009

11月に入ってようやく秋らしくなってきました。この季節になるとなぜかしんみりとした音楽が聴きたくなります。cyberbloom さんはスペーシーな音を聴かれるそうですが、私はしんみりした音を選ぶことが多いです(我ながら単純すぎ・・・スペーシーな音は冬になると俄然聴きたくなります)。最近耳にして「秋」を感じた曲を3曲ご紹介します。

Nick Drake - At the Chime of the City Clock

Bryter Layterすばらしい才能を持ちながらも、世間にほとんど認められぬまま短い生涯を終えた不遇のシンガーソングライター、ニック・ドレイク。彼の死後、多くのミュージシャンたちに再発見され、残された3枚のアルバムは今ではどれも高い評価を確立しています。元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケールも参加したセカンド・アルバム「ブライター・レイター Bryter Layter 」は、3枚中最もポップと言われる作品で、70年代の作品とは思えないような現代的なアレンジがされています。繊細でメランコリックな旋律とニックのはかなげなヴォーカルが融合した美しいブリティッシュ・フォークの名曲は、この季節になるとじっくり聴き込みたくなります。

At the Chime of the City Clock


Astor Piazzolla - Adios Nonino

Adios Noninoフィギュアスケートのシーズンが始まり、例のごとく各競技会を観ているのですが、タンゴをプログラムに使っている選手が何人もいて、そのなかでも「アディオス・ノニーノ」の使い方がとても印象的でした。アルゼンチン・タンゴに革命を起こしたと言われるアストル・ピアソラの代表作で、「ノニーノ」とは彼の父親の愛称です。巡業中に訃報に接し、旅費もなく故郷に帰ることのできなかったピアソラが、遠く離れたニューヨークで亡き父に捧げて作ったのがこの曲で、バンドネオンの音色がことさら哀愁を帯びて聞こえます。ピアソラのモダンタンゴの名曲の数々は、秋から冬にかけての風景にしっくりはまります。

Adios Nonino


Chet Baker - Born to be Blue

チェット・ベイカー・シングス学生時代、行きつけのレコード屋さんに、手始めにジャズを聴くなら何がいいかと尋ねたら、ちょうどその当時 LP が再発されたばかりの「チェット・ベイカー・シングス Chet Baker Sings 」を薦められました。チェット・ベイカーはトランペッターですが、ヴォーカリストとしても人気があり、その気怠くて色気のあるヴォーカルを初めて聴いたとき、まだまだ未熟者だった私はその大人びた空気に圧倒されたのを記憶しています。このアルバムに収められた、どこが「ファニー」なのかすら分からなくなっているほど暗い「 マイ・ファニー・ヴァレンタイン My Funny Valentine 」もいいのですが、その後ジャズ好きな友人に、「すっごいカッコいいんだ〜」と薦められた「ボーン・トゥ・ビー・ブルー」は、タイトルもずばりだし、陰のある彼の声が最も魅力的に聞こえる曲だと思います。この曲は Baby Breeze というアルバムに収録されています。

Born to be Blue



exquise@extra ordinary #2





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2009年11月16日

Good work, kid! ニューヨーク ファッションシーンを見守る伝説のストリートフォトグラファー(2)

ビルさんのコラムに「登場」する人には3つのタイプがあります。US版ヴォーグの編集長アナ・ウィンターを初めとする、いわゆるセレブの方々。ファッションリーダーとして、一歩先行くことを意識している人達にとって、ビルさんに選ばれないことは由々しき事態なのだとか。(もっとも、テレビのない生活を送っているビルさんは、有名人と気づかずにシャッターを切っていることもたびたびですが。)

marilyn2-full.jpg

次のタイプは、流行に流されず我が道をゆく本物のお洒落さん。コラムの常連である重役秘書嬢は、毎回チャレンジングな着こなしで、ビルさんを驚喜させてきました。4つ袖があるコートをお召しだったり、額縁をネックレス代わりに首にかけていたり。突飛だけれど、その人らしく見事に決まっている。ビルさんにとっては、立派な芸術家なのです。
 
そしてもっとも多いのが、一般のみなさん。ファッション業界とも縁がなく、マンハッタンで働き生活し、自分がお洒落な人間だとはつゆ思っていない人々。しかし、そんな彼・彼女が日常の一部としてクローゼットから選び身にまとっているものにこそ、その時々の人々の気分が反映され、思いがけなく共鳴し、トレンドになる。手持ちのアイテムで、その日の気分にびったりくる「ちょっといい感じ」な姿をつくる、誰もがやってる朝の儀式から、知らず知らずのうちにあたらしいものが生まれてくる。ストリートは、思いがけないものや「流行の発露」を見いだせる、スリリングな場所なのです。
 
ティーンエイジャーのころから街行く人を眺めるのが趣味だったビルさん。ファッションの源としてのストリートに目が向くようになったのは、60年代に見たフラワーチルドレンのデモのおかげだとか。ファッションショーの会場からでてきた時に目撃したデモ隊の着こなしは、自由で、色彩に溢れ、不思議な調和に満ちていて、さっき取材したばかりのハイファッションの印象が消し飛んでしまうほどのインパクトだったそうです。「僕の目は美しいもの、すばらしいものしか捉えない。こんな格好ぜんせんおしゃれじゃないですよ、って被写体になってくれる人は謙遜するけど、気がついていないだけ。本当に美しい物はあちらこちらにあるんだよ。」
 
運が良ければ、マンハッタンで取材中のビルさんに会えるかもしれません。高級百貨店バーグドルフ・グッドマンの近くの歩道で、青い上っ張りにボロボロのニコンをぶら下げたおじいさんがいたら、それがビルさんです。めでたく被写体になれるかどうかはわかりませんが、この伝説の人物に是非挨拶してみてください。

ニューヨークの初冬のファッションについて語るビルさん

パリからの番外編。参考になる方も多いかと。

いかにも好々爺な、ビルさんの語りがたまりません。話の中身は結構鋭くて、考現学が好きな方にも楽しんで頂けるとおもいます。  

(「ニューヨーカー」2009年3月号より)




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2009年11月14日

電子ブックと書籍の未来(3) 本の未来図

kindle01.jpg電子ブックにもグーグルの罠が待ち構えている。読者は目を引く本の表紙や面白い書評の代わりに、「頻繁に引用される文章」という検索結果によって本に出会うことになるかもしれない。これまで世界中で書かれたすべてのページが競合関係に置かれることになる。1冊の本というまとまりは意味がなくなり、検索エンジンにひっかかりやすい独立したページや段落の集まりにすぎなくなる。何より頻繁に引用され、検索エンジンにひっかかることが販売戦略になる。それは本の書き方や販売方法を変えるだろう。

作家や出版社はページごと、あるいは章ごとにグーグルのランク付けを念頭において文章を書くようになる。キンドル kindle (写真↑)で売られている本の多くは最初の1章を無料サンプルになっているが、それは本の帯に書かれたキャッチコピーのような役割を果たすようになる。作家は読者が本の全体を買いたくなるように、この部分に力を注ぎ、入念に構成するようになるだろう。

これは19世紀のフランスで隆盛を極めた新聞小説を思い出させる。新聞小説は新聞の発行部数を伸ばすために案出された形式だが、それは波乱万丈の物語を連載の一回一回がちょっとした山場になるように按配し、1回分の最後には未解決の謎や未完のプロットを残し、続きを読みたくなるように構成していた。この手法は今のテレビの連続ドラマにも受け継がれているが、新聞という日刊の媒体に小説の形式が適応した例である。

しばしばコンピュータは画一化や均質化をもたらすと言われるが、それはむしろ印刷物にあてはまることだ。私たちは印刷物をその固定された構造にしたがって読んでいた。文学作品が正典となりえたのは、同じテキストの同じ読書体験が可能だと信じられたからであり、それをベースにすべての人々が文学的な遺産を共有し、文化的な統一も可能だという理想(妄想?)を抱けたからである。また印刷物は書き換えができないがゆえに、著者が決めたバージョンは神聖不可侵であり、それが書き手を読み手から遠いものにする。その関係を通して著者はモニュメンタルな姿を獲得し、読み手はその崇拝者になる。

しかし電子テクノロジーはテキストの章や段落をひとつひとつ別のものにする。印刷物のように有機的でひとつの方向に展開する全体を持たず、それぞれが完結した単位のつながりなる。電子テキストは断片的だが、潜在的な可能性を秘め、絶えまない再組織化の中に置かれることになる。新しい読者は著者に限りなく近づき、テキストを自分で操作するようになる。自分でテキストの断片を再配置し、作られたものを壊しながら、新たに結びつけるのだ。

とりとめない連想は自分が最も自由に感じられる楽しみであるが、印刷物の時代において、それは書く前の準備段階にすぎなかった。書くときには印刷物の厳密な秩序に従わなければならなかった。連想関係はテキストの源泉だが、そういう秩序関係に表れることない思考とイメージのつながり方である。それゆえ印刷物の構造では表現できず、排除されてきた。しかし電子テキストは段落や章、索引や注といった階層的な秩序の中に、多元性をひきこみ、書物をツリー構造からネットワークへと変貌させる。電子ブックは印刷物の形態を残しているが、そこでは階層的な思考と連想的な思考は共存することができるのだ。

キンドルには辞書が搭載されていて、わからない言葉があるとすぐに辞書を引けるが、可能になるのは言語的な参照だけではない。電子ブックはマルチメディア的な参照へと展開するだろう。ちょうどこのブログのような形態になっていく。小説の中に音楽が出てきたら、映画のサントラのように背後に流すことができるし、映画のシーンに言及された場合はその断片を映し出すことができる。当然、書き手もそういうものを小説の中に取り込んでいくだろう。これは自分でもやってみたいことである。文学理論では作品は参照・引用の織物であるとよく言われるが、これはマルチメディア的に現実のものになるだろう。

先回、「小説を読みながら不可解な文章に遭遇した場合は、すぐにオンライン上でその文章の意味について、世界中の読者がどのように注釈を加え、解説し、議論しているかを検索するようになるだろう」と書いた。そして参照されるのは「決して権威のある文学者や批評家ではない」と付け加えた。上意下達方式で「正統的な読み方はこれだ」と言ったってもう誰も聞いちゃいない。正しい解釈を上からおしいただくという権力関係から、議論を広く共有するような水平的な関係と、自らテキストに介入していく楽しみに移行しつつあるのだ。先回「文化的正統性のすき間に自分たちの創意や工夫をしのびこませながら、こうした教化をかわしている」というミシェル・ド・セルトーの一節を引用したが、読書の楽しみはもともとそういうもので、ただ単にそれが顕在化しなかっただけなのだ。文学者や批評家は「こういう読み方は面白いぞ」と介入していくようなプラットフォームをネット上に作るといいのかもしれない。お高くとまっていてもただスルーされてしまうだけだし、お高くとまる根拠なんてもうないのだから。

ブラックジャックによろしく (13) (モーニングKC (1488))東洋経済の8月29日号「アマゾン特集」で最も興味深かったのは、『ブラックジャックによろしく』や『海猿』の人気漫画家、佐藤秀峰氏が自分のHPで著作の有料配信を開始したという記事だった。これは最も出版社が戦慄する話だろう。それだけではない。佐藤氏と同じ機能を持ったシステムを一般に公開し、誰でも登録さえすれば、自由に自分の作品を発表できるようなマンガのためのインフラを作るつもりだという。それは多くの漫画家が参加する電子コミックを取りまとめたポータルサイトの形式で、佐藤氏のHPもそのうちのひとつにすぎなくなるという。

佐藤氏が出版社や電子書店と組んで共同開発をしなかったのは、中間業者が入ると値段が上がってしまうからだ。漫画家からすれば経費以外がすべて売り上げになるし、読者も既存のサイトよりも安く漫画を読めれば双方の利益になる。これは佐藤氏個人の選択と言うよりは、この先、漫画雑誌が立ち行かなくなって、いずれはなくなるだろうという現状認識がある。著者と読者を直接つないでしまう動きはマンガだけでなく、他のジャンルや書籍一般に関しても出てくるだろう。

□このエントリーは下記の記事を参照



電子ブックと書籍の未来(1) アマゾンのキンドル
電子ブックと書籍の未来(2) 読書の楽しみとは



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2009年11月12日

Good work, kid! ニューヨーク ファッションシーンを見守る伝説のストリートフォトグラファー(1)

topics_cunningham_395.jpg今マンハッタンでは何が流行っている?答えを知りたければ、まずウェブ版ニューヨーク・タイムズで名物コラム、”On The Street”をチェックして。タイトル通り、街を行く人々を写したショットが満載。どのファッション雑誌より速くて信頼ができる、“もぎたて”ファッション通信なのです。
 
ファッション雑誌でしょっちゅうやってる「街角ファッションスナップ」みたいなもんでしょ、と早合点してはいけません!足掛け20年連載を続けてきたフォトグラファー、ビル・カニングハムは、業界のエディターのそれとは違うところを見ています。
 
まず、セレクトのポイントが違う。ビルさんにとって関心があるのは純粋に「服とその着こなし」のみ。上から下までばっちり決まっている必要はなく、さりげない工夫、閃きが大事。着ている「人」は興味の対象外。何気に“完璧な着こなしの理想の彼女”をピックしている日本のおしゃれスナップとは、ここで一線を画しています。一見地味にみえるけれど洗練された着こなしに惹かれ路上で激写、後で編集者に見せたら被写体は伝説の女優、グレタ・ガルボだった、という逸話もあるビルさん。徹底しているのです。
 
アイテム単独の魅力につられないのもビルさんのポリシー。ファッションメディアに足を踏み入れて約半世紀、社交界の記事も手がけるビルさんは、そんじょそこらの業界人なぞ足下にも及ばない、歩くファッション辞典のような御仁。いい物をさんざん見てきた審美眼はもちろんのこと、知識も豊富なのですが、特定のアイテムを取り上げ良さを褒め上げることはありません。街角おしゃれスナップの脚注がおおむね被写体の持ち物、服の身元調査に終止しているのとは対照的です。ファッション・アイテムとは「道具」であって、それを使いこなし、着こなしてこそ生きるもの。ハイファッションは素敵だけれど、それにひれ伏しちゃあおしまい、なのです。
 
そして、何よりも、ファッションに対するスタンスが違う。スナップ特集の背後には、読者の代表として、また業界人として、少しでもお洒落を盗み活用しようという血眼な眼差しが感じられます。あくなき追求心を否定しませんが、ビルさんはそういった生々しい欲とは無縁です。街を行く人々のファッションは、刻々と変わるニューヨークという街の表情そのもの。現れては消える流行は、生まれては消える街のスラングのようなもの。人々の装いを通じて、時ににぎやかに、時に静かに語りかける街を見ることこそが、ビルさんにとってこのうえない喜びのようです。
 
ビルさん自身は華やかなマンハッタンの業界人と一線を画した、仙人のような生活を送っています。カーネギーホールになぜか奇跡的に残っている、バス・キッチン共同の狭いアパートに一人暮らし。牛乳缶でこしらえた手製のベッドで眠り、移動手段は基本自転車!今時制服屋さんでも売ってるの?といぶかしんでしまうようなクラシカルな事務職系スモックを着て街を走り回るビルさんの辞書に、「虚飾」の文字はありません。
(続く)
 
□「ニューヨーカー」誌2009年3月号より




GOYAAKO@ファッション通信NY-PARIS

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2009年11月11日

『クレーヴの奥方』事件(2) Lisez, surtout lisez!

前回の動画ニュースのデモの参加者たちは Je lis la Princesse de Clève.(私はクレーブの奥方を読む)と書かれたバッジを身につけていたが、それは反サルコジ・キャンペーンのキャッチフレーズになった。下の動画にも同じバッジをつけた人々が登場して、それぞれ J’ai lu la Princesse de Clève.(クレーブの奥方を読んだわ) とか Il faut le lire tout le temps. (いつもそれを読まなくちゃいけない)とか言っている。場所は Salon du livre (毎年春に porte de Versailles で催される本の見本市)。そこでゲリラ的にバッジを配ったのだろう。



Je lis la Princesse de Clève ― この言表において「読むという行為」に重点が置かれていることに注意しよう。普段、私たちは文学作品を前にするとき、当然のようにテキストの意味内容に関心が向く。その場合、私たちはそれを誰にも邪魔されない隠れた場所で読む。自分の部屋や図書館、あるいは「群集の中の孤独」を保障してくれるカフェや電車の中で。静かな読書はテキストの意味内容に従属する行為なのだ。

しかし、「クレーブの奥方」事件では、小説の中身についてほとんど言及されることはなかった。テキストはあくまで口実にすぎず、それを読んだと宣言することや、人前で声に出して読むというパフォーマンスが前面に出ていたのである。つまり、テキストの内容を後ろに押しやって、読むという行為に特権を与えているわけだが、それは儀式的な行為である。

儀式の本質とは何か。それは沈黙を破って、声を発することである。同時に他者の視線の中に立ちはだかることでもある。動画に登場する女性が message politique と言っているように、それは何よりも政治的な行為である。話すこと、声に出すこと、メッセージを発すること。その行為が表面化するのは、私たちが何らかの困難や危機的な状況にあって、目の前が不透明で、不確かなときであり、それを乗り越えようとするときだ。それは必然的に、あるコンテクストに介入し、それを変えようとする政治的な行為につながる。『クレーヴの奥方』事件の本質はここにある。

声に出すことは危機の時代の自己表現だ。今の時代の特徴は危機が恒常化していることにある。私たちを守ってきた様々な文化的、制度的な網の目が次々とほどけ、剥き出しの状態におかれていることを日常的に実感じざるをえない。そういう時代だからこそ、他者に働きかけるベーシックなコミュニケーション能力、つまりは自身の言語能力を自覚し、声を発することでその都度それを確認するのである。

サルコジの『クレーヴの奥方』発言をめぐる討論番組もあったようだが、上の動画の突き抜け方は痛快だ。かつて文学がこんなふうに扱われたことがあっただろうか。あのポップなバッジがすべてを物語っている。マジで欲しいと思わせる。キャッチフレーズ、グラフィック、ゲリラ的な偶発性。つまりは広告的な戦略を流用している。ポップな戦術は声を発すること、話しかけることの延長線上にある。ポップとは、わかりやすさと目立つことである。ポップなものは、オーディオ・ヴィジュアル(聴く+見る)に訴え、注意をひきつける。孤独に本を読むこととは対照的に、他者のプレゼンスを前提にしている。対人的なコミュニケーション能力を刺激し、それを引き出そうとする。最後に女性がバッジにキスして口紅をつけるが、ポップなものは何よりもセクシーである。

おそらくサルコジも戦略的に『クレーブの奥方』発言をしたのだろうが、学生たちはそれをパロディ化し、アイロニカルなやり方で抵抗のシンボルとして練り上げた。仲間や賛同者たちと共有しつつ、政治的なメッセージとして投げ返したのである。共感を集めたり、連帯を促すためにはアートな政治表現が必要になってくる。インスピレーションを与えるようなカッコ良さが必要なのだ。

バッジが Salon du Livre (本の見本市)に集まった人々の共感とリアクションをもたらし、そのやり取りによって一時的であれ、その場を占拠したように、「声に出して読むという行為」(=教師と学生が参加した6時間にわたる『クレーヴの奥方』のリレー朗読)はデモと連動し、まさに「都市の占拠」という直接的な戦術とつながっていた。その場で声を出すこと、人の注意をひきつけることは、「いまとここ」のリアリティーを求める。そのリアリティーは普段研究室に閉じこもっている人たちには最も縁遠いものだったはずだ。

クレーヴ事件が生んだおびただしいパフォーマンスと、それを演出した動画の数々。動画を通して私たちは他者の行為を見ることができるし、それに呼応した行為を動画共有サイトを通して見せることができる。それは文章を書いたり、黙って読んだりすることとは本質的に異なるパフォーマティブな行為だ。ネット上も新たな占拠の対象になったのだ。おそらくブログや動画共有サイトはクレーヴ事件において大きな役割を果たしたのだろうが、それはメディアを利用することではなく、自らがメディアになることだった。
(続く)

『クレーヴの奥方』事件(1) Je lis la princesse de Cleve!





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2009年11月08日

エッフェル塔の見えるレストラン Au Bon Accueil

ブリジット・フォンテーヌの記事にトラックバックをしてくださったブログ「パリ6区サンジェルマン村」に、パリのサンルイ島にあるカフェ、Les Fous de l'Ile が紹介されていた。こちらも素敵なカフェである。ブリジット・フォンテーヌも常連客で、お店でよく見かけるんだそうだ。その記事のの下に聞き覚えのあるレストランのリンクが貼ってあった。

パリ7区のシャン・ド・マルス Champs de Mars にある Au Bon Accueil である。リンク先はブログ「フランス美食村」で、以前、日本にも進出しているパティスリー、ジェラール・ミュロ Gerard Mulot の記事にリンクを貼らせていただいたことがある。

AU BON ACCUEIL(「フランス美食村」写真がキレイ!)
AU BON ACCUEIL(お店のサイト)

Au Bon Accueil はテラスからエッフェル塔が至近距離で見えるという絶好のロケーションで、シャトーブリアン(ステーキ)に添えられたマッシュポテトの絶妙な味付けが記憶に残っている。お店のサイトを見ると、昼が27ユーロ、夜が31ユーロと値段設定もリーズナブル。

Au Bon Accueil ではつねに日本人の料理人が働いている。パーティーをしたときにソプラノ歌手の友だちがそこで修行をしているふたりの若い料理人を連れてきてくれたことがあって、その場でトンカツ(a la francaise ?)を揚げてもらった覚えがある。当時ソプラノ歌手はふたりに毎日食事を作ってもらっていると言ってたが、彼女は見るからに女王様体質で、ふたりの料理人をはべらせている感じだった(笑)。かれこれ10年以上も前の話だ。

ニースにお店を構えるミシュラン1つ星のシェフ、松嶋啓介さんもブログでこのレストランを紹介している。Au Bon Accueil で働いている佐々木さんというシェフとお友達なんだそうだ。パーティーに来てくれた人だったりして。




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2009年11月05日

電子ブックと書籍の未来(2) 読書の楽しみとは

SONY LIBRIE EBR-1000EP e-Bookリーダーキンドルで本を読んでいて、ふと別の本のことが気になり、それをダウンロードして読み始めたとする。次の本に移ったのはとっさの思いつきだが、それは元の本に書かれていた引用や参照、文中の間接的な示唆などがきっかけになったのかもしれない。いつでも利用できる書店の誕生は、本の売り上げや知識の普及にとっては良いニュースかも知れないが、それは人間が1冊の本に没頭するための集中力を奪うことになる。21世紀の最も限りある重要な資本、それが集中力なのだ。集中力は、ひとつの線に沿い、ひとつのテーマに焦点を当てる読書を求め、ひとつの物語や議論に没頭することを強いるのだ。(写真はアメリカで普及しているソニーの電子ブック「リーダー」の日本版「リブリエ」)

本のデジタル化が進めば、作家の思想や、そこに広がる別世界にどっぷり浸かるという読書の最大の喜びが失われる危険もある。雑誌や新聞と同様に本も雑誌や新聞のようにつまみ食い的に読まれるようになるかもしれない。

しかし、もともと読書というものは持続的な集中力によって直線的に進むものなのだろうか。読書の楽しみはそういう形でしか存在しなかったのだろうか。ミシェル・ド・セルトーは『日常的実践のポイエティーク』の中で次のように書いている。もちろん、これが書かれたのは80年代後半のことで、セルトーはハイパーテキストの存在など知る由もなかった。

「読むという行為はページを横切って迂回しながら漂流する。それによってテクストを変貌させつつ、その歪んだ像を生み出す眼の旅だ。何かふとした語に出会うと想像の空を駆け、瞑想の空を駆ける。軍隊さながら活字が整列している本の表面でひょいと空間をまたぐ。(…)新聞だろうが、プルーストだろうが、テクストはそれを読む者がいないと意味をなさない。テクストは読み手とともに変化していく。テクストは読み手という外部との関係を結んで初めてテクストとなり、2種類の期待が組み合わされてできあがる、共犯と策略のゲームによって初めてテクストとになる。ひとつは読みうる空間(=字義性)が組織する期待、もうひとつは作品の実現化に必要な歩み(=読むこと)が組織する期待である」

セルトーによると、作者が決めた物語や議論の道筋に従って読まなければいけない、と私たちが思っているのは、読書という行為に「主人(=作者)と奴隷(=読者)」、「生産者と消費者」という権力関係が刻印されているからだ。つまり書くことは生産的な行為であるのに対し、読むことは受動的な行為であり、単なる消費にすぎないと考えられている。読者という行為は、このような社会的な権力関係と、詩的操作(=読者によるテクストの再構築)との結節点に位置する。社会的な権力関係は、読者をエリートのほどこす教化に従わせるようにしむけ、指定された道をまっすぐ行くように命じる。しかし、読者は実際のところ、作者の言いなりになっているわけではない。読むという操作によって文化的正統性のすき間に自分たちの創意や工夫をしのびこませながら、こうした教化をかわしている。読書とは寄り道と道草だらけの珍道中なのだ。

セルトーの「ページを横切って迂回しながら漂流する」とか「何かふとした語に出会うと想像の空を駆ける」とか「ひょいと空間をまたぐ」とかいう読者の意識の動きは、キンドルの操作によって、またネットとつながることによって、可視的なものになり、さらには共有可能なものになる。読書という行為が貶められていたのは、それが孤独な隠れた行為で、痕跡や結果が残らなかったからである。直線的な読書を迂回し、押し付けがましい教化をかわしたとしても、それはせいぜい読者の想像力の中でしか起こりえなかった。

電子ブックによって、読者が本と出合う機会や論じ方も変わるだろう。読者同士が公に本の感想をコメントするブログならぬ「ブックログ booklog 」が盛んになり、グーグルは本のページごとや段落ごとにインデックスをつけ、オンライン上で交わされる会話をもとにランク付けを始めるだろう。小説を読みながら不可解な文章に遭遇した場合は、すぐにオンライン上でその文章の本当の意味について、世界中の読者(決して権威のある文学者や批評家ではない)がどのように注釈を加え、解説し、議論しているかを検索するようになるだろう。自分が今まさに読んでいる文章や段落について、いつでも世界の誰かが話し合っている恒久的かつ世界的な読書クラブの誕生することになる。もう誰も孤独ではない。読者はもはや個人的な作業ではなく、世界の見知らぬ人々との会話することができる共同的な行為となる。






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2009年11月03日

パトリシア・プティボンがまたやってきた!

 昨年の初来日に引き続き、パトリシア・プティボン Patricia Petibon がまたやってきた。今年はなぜか大阪に来てくれないので、しかたなく山積する雑用を放ったらかしにしたまま、のこのこ東京まで聴きに行ってきた。私が観たのは、10月31日の東京オペラシティコンサートホールでの公演。

恋人たち この日のプログラムは、東京フィルハーモニー交響楽団(デイヴィッド・レヴィ指揮)との共演。歌なしのオーケストラ曲とプティボンの歌唱がほぼ交互に並ぶ構成である。前半はモーツァルトとハイドン。もちろん悪かろうはずはないが、お茶目なプティボンが好きなミーハーファンの私から見ると、少々正統派的におすまし気味という感じ。見どころはむしろ、圧倒的に後半だったように思う。バーバーとバクリでしんみりとさせておいて、バーンスタインの「着飾ってきらびやかに」(「キャンディード」)で大爆発! こういう、いろんな感情が高速度で切り替わっていくようなタイプの曲が、やはり彼女の魅力を一番引き立てるようだ。フロラン・パニー Florent Pagny のライブDVD(Baryton(2005))でのパフォーマンスをはじめて見たとき、この曲はまさに彼女のためにある!と強く感じたものだが、今回目の前でいっそうパワーアップした名演を見せられ、その感をさらに強くした。最後の曲はハロルド・アーレンの「虹の彼方に」。とてもよかったが、オーケストラの音がほんのちょっぴり大きすぎ、彼女の声がその中に埋もれ気味だったのが少々残念。アンコールの Everytime we say goodbye(コール・ポーター)は洒脱で自然体でいうことなし。プティボンの間口の広さを改めて認識させられた。

 この日はサイン会もあり、アンコールが終わるやすぐにロビーに出て行列に並ぶ。サインをしてもらうとき至近距離で見た私服姿のプティボンは、思っていたよりも小柄な、可憐な感じのひとだった。


■以前当ブログで書いたプティボン関連の記事はここ

■上記フロラン・パニーのライブDVD Baryton(PAL盤)には、プティボンのソロ(「着飾ってきらびやかにGlitter and Be Gay」を含む)が2曲、パニーとのデュエットが3曲収録されている。

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MANCHOT AUBERGINE



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2009年11月02日

フランス女性はみんなセクシー!?

フランス女性は太らないアメリカでは相変わらずフランス女性たちが話題に上らない日はない。ミレイユ・ジュリアーノの『フランス人女性は太らない』がベストセラーになって以来、彼女たちはアメリカ出版界で追い風を受けている。かつてジェイミー・キャット・キャランの『フランス女性は独りで眠らない』という本もあった。『フランス女性が愛、セックス、その他の心の問題について知っていること』の中で、フランスで10年生活したジャーナリストのデブラ・オリヴィエは、フランス女性たちが情熱について知っていることをアメリカ女性たちに披露した。

「私たちアメリカ女性は、あなた方みんながハイパーセクシーであるという神話を信じています」。デブラは、フランス女性たちを魅力的にしている何かはっきりとは定義できないものがあり、それは下着とか、口紅に結びついているものではなく、文化なのだと言う。

What French Women Know: About Love, Sex, and Other Matters of the Heart and Mind「フランス女性は恋愛に関する規則や縛りがない。これをしろ、これをするなというものが少ない」と現在ロサンゼルスに住んでいるデブラは説明する。「フランス女性はアメリカ女性のように、完璧に愛するか、完全に拒絶するかという選択はしない。物事は白黒つけれないものだから」

情熱に関して、フランス女性たちは感情のニュアンスとうまく付き合っている。フランスの少女たちはこの微妙な差異を「彼は私を愛している―少し、とても、情熱的に、狂ったように il m'aime, un peu, beaucoup, passionnément, à la folie 」と、花びらをちぎりながら花占いをするときに学ぶのだ。一方アメリカの少女たちは「彼は私を愛している、彼は私を愛していない」というふたつの選択に自分たちを閉じ込めている。

French Women Don't Sleep Alone: Pleasurable Secrets to Finding Loveアメリカでハウツー本がたくさん出ているおかげで、恋愛のルールは部分的にアメリカに広がった。それらは恋愛作法のマニュアルを提供していると主張している一方で、アメリカ女性たちを逆に束縛している。デブラはその矛盾を認めていて、『フランス女性が知っていること』も恋愛マニュアルの長いリストに付け加わわることになるだろう。しかしデブラは彼女の最初の意図がフランス女性のこうしたクリシェ(紋切り型)の息の根を止めることだったと断言している。以下がそのクリシェの例である。

@フランス女性はアメリカ女性とは違って戯れの恋をする―これは本当
この違いはフェミニスト運動から来ていて、フランスの運動はアメリカよりもはるかにラディカルだったと説明する。デブラはパリでディナーに招待されたとき、招いた女性の巧妙な席の配置に驚かされた。それは女、男、女というふうに交互に配置されていて、男と女が戯れるように仕向けていた。

Aフランス女性は不倫のプロ―これは誤り
デブラはランセルム(l'Inserm)という研究機関に所属するアラン・ジアミという社会学者の比較研究の成果を仕入れに行った。フランスでもアメリカでも、みんな恋のアヴァンチュールをしていることがわかったが、アメリカの方がフランスよりも愛人関係や一晩だけの関係が多い。一方フランスでは愛人関係が少ないが、その関係は長続きする傾向にある。

Bフランス女性は太らない―これは誤り
デブラはついでに『フランス人女性は太らない』のミレーユ・ジュリアーノの公準を取り入れる。フランス女性がやせているのは、楽しみながら食べるので、食べ過ぎることはないからだ。しかしそれは本当の理由ではなく、フランス女性がやせているのは、太っていることが「政治的に正しくない」からだ。アメリカでは少し偽善的で、直接的な言い方を避け、太った女性に対して“You look great” と言う。フランスでは「太りすぎたんじゃない。気をつけて」とためらわずに言う。

Cフランス女性はレアリストである―これは本当
フランス女性は、規範にとらわれずに自由に行動し、より経験に学ぶ。アメリカ女性のように「死ぬまで幸せに暮らしましたとさ」(“Happily ever after”)という考えを持たない。関係がうまくいっていないとすれば、それは世界の終わりではなく、別の人生に出会うきっかけと考える。


« Vous, les Françaises, êtes toutes sexy » et autres clichés
Par Laure Guilbault
Rue 89
27/10/2009

translated by cyberbloom





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ラベル:ダイエット 恋愛
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