2009年12月30日

12月の音楽 “What’s so funny’ bout Peace, Love and Understanding?” Nick Lowe

いよいよ2009年も終わろうとしています。一年前はどうだったか思い返すと、世界を覆う影はこれほど濃くなかったのではないでしょうか。
 
しんどいことの多かった今年を締めくくり、来年へつなげる一曲を選んでみました。30年以上前に生まれた歌ですが、そのメッセージは、時を超えより切実に響きます。

   このひどい世の中を僕は行く
   狂気の闇の中 光を求めて
   自分の胸に聞いてみる
   希望はもうすっかりなくなってしまったんだろうか?
   あるのは憎しみと痛み、苦難だけ?
   こんな気持ちになるたびに、知りたいと思うことがひとつある。
   平和、愛、理解することの何がオカシイんだい?

きれいな銀髪になってしまったニック・ロウが、テンポを落とし一言一言噛み締めるように歌うこの曲は、2010年へ踏み出す私たちの胸をノックするかのようです

Understanding, Brother! Understanding, Sister!

http://www.youtube.com/watch?v=P7txCdLCP9U




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2009年12月28日

FRENCH BLOOM NET 年末企画(4) 2009年の重大ニュース

晴天 LIVE IN TOKYO 1989 [DVD]■今年はマイケル・ジャクソン、忌野清志郎などミュージシャンの訃報が相次ぎましたが、個人的には加藤和彦が亡くなったニュースには驚かされました。彼は何をやっても成功する奇跡的な人で、今度は何をやってくれるのだろうかと常に期待させてくれる存在だったからです。まさかこういう形で逝くとは…。その活動の内、特に第二次サディスティック・ミカ・バンド(1989年、ボーカルは桐嶋かれん)のライブ演奏は衝撃的なものでした。このような破天荒ながら煌めくような音を聞かせてくれるバンドには今後はもうお目にかかれないような気がします。亡くなる間際の彼の様子を伝えた報道から察するに、才能がありすぎると、やりたいことが何なのか分からなくなってしまうのかもしれないとも感じました。
(不知火検校)

■個人的には自分の子供が生まれたことが最大の出来事でした。これからの人との付き合い方にも微妙に影響が出てくる気がします。以前フランス語を教えたことのある学生が逮捕されたのにも驚きました。振り返ると、温故知新と言えば聞こえはいいけれど、新しいものをフォローする努力に欠けた1年だったようです。やはり新聞とテレビのない生活では、こうなってしまうのでしょうか。
(bird dog)

■やはり政権交代?正直、どこの政党も選べなかったというか、選びたくなかったというか…。問題山積み状態ですが、どうなるのやら。
(tk)

性悪猫■個人的に思い入れのある人が世を去った年でしたが、ショックだったのは漫画家やまだ紫さんの突然の訃報でした。
■作品に出会った学生の頃、やまだ作品のヒロイン達—シングルにせよ、妻で母にせよ、離婚したシングルマザーにせよ、自分をひたと見つめながらしなやかにマジメに生活する、甘さ控えめな女たち–は仰ぎ見る存在。彼女達が吐露することばのひとつひとつに、いちいちほーっとなったものです。
■それなりの時間が経過したものの、やまだ作品のヒロイン達からはやっぱり遠いところにいるわけですが、台詞や絵の深さが身にしみてわかるようになりました。スクリーントーンを巧みに使った流れるような独特な線の絵と、詩人でもあった作者が選び抜いた言葉のコンビネーションは、マンガが到達した一つの高みだと思います。
■子供が巣立ち老いを見据える頃になったヒロインの日々を読める日も近いと期待していたのですが、とにかく残念です。
■他界されたことがきっかけになったのでしょうか、最近長らく入手困難だった作品のうち代表作が復刻されました。個人的には『性悪猫』をお薦めします。猫が主役で台詞をしゃべるマンガ、ときいてなごみ系愛猫マンガかい、と敬遠してはイケマセン。猫であるからこそヒトを動かすときの面倒くさいお約束から解放され、微妙なことが霧が晴れたように伝わることがあるのです!だまされたと思って、ぜひ手に取ってみてください。
(GOYAAKOD)

■INFO-BASEの「週刊フランス情報」から2009年の主要ニュースを拾ってみました。
■23 - 29 NOVEMBRE:2010年ワールドカップ・南アフリカ大会欧州予選プレーオフ、フランス対アイルランドの試合でフランスは辛うじてW杯出場を決めたが、決勝ゴールをアシストしたアンリ選手がハンドの反則をしていたことが発覚。サッカーを越えた問題に発展。フランスの1,003人を対象に実施したアンケート調査では、回答者の81%が「フランスはワールドカップに出場する資格がない」と答えた。
■9 - 15 NOVEMBRE:今年のボジョレー・ヌーヴォーに、1000円を切るペットボトル入りのボジョレーが登場。ボジョレー・ヌーヴォーのユニクロ化とも言われた。フランスではペットボトルなんてボジョレーの品格を落とすようなことをするなという生産者からの批判も。
レヴィ=ストロース入門 (ちくま新書)■2 - 8 NOVEMBRE:20世紀を代表するフランスの文化人類学者・思想家で、西洋中心型の近代的思考法を内側から批判する「構造主義」を発展させ、『悲しき熱帯』『野生の思考』などの著作で知られるクロード・レビストロースが10月30日死去。100歳だった。同じ週にフランスで最も権威のある文学賞の一つであるゴンクール賞に、マリー・ヌディアイの小説『トロワ・ファム・ピュイサント(3人の強い女)』が選ばれた。ヌディアイさんは、セネガル人の父とフランス人の母をもつ黒人女性。黒人女性がこの賞を受賞するのは初めて。
■19 - 25 OCTOBRE:パリ郊外の公的機関トップへの就任が取りざたされていたニコラ・サルコジ大統領の次男、ジャン・サルコジ氏が22日、就任を取りやめることに。就任する可能性が報じられてから、贔屓の引き倒しと、激しい批判の声が上がっていた。
■12 - 18 OCTOBRE:10月15日に仏通信最大手のフランステレコムの従業員が首を吊って自殺し、2008年2月以降25人目の自殺者になった。これまで自殺した従業員らは、経営陣の決定を非難したり、職場でストレスにさらされていたと主張する遺書を残している。かつて国営の独占企業だったフランステレコムは、ここ数年で何度か大規模なリストラを余儀なくされている。現在は約10万人の従業員をかかえ、携帯電話子会社オレンジ(Orange)は国際的に事業展開を行っている。(⇒関連エントリー「フランステレコムで何が起こったのか」)
■5 - 11 OCTOBRE:フランスのミッテラン元大統領のおいで、6月に入閣したフレデリック・ミッテラン文化相が、過去に買春した経験などを書いた自叙的小説をめぐって、極右政党から辞任を求められる騒ぎになった。この本は2005年に出版され、タイで複数の少年に金を払って性的な関係を持ったことが記されている。淫行つながりで、ちょうど前の月にローマン・ポランスキー(『戦場のピアニスト』(2002年)でアカデミー監督賞を受賞)が、チューリッヒ映画祭の「生涯功労賞」授与式に出席するためスイスに滞在中、アメリカでの少女への淫行容疑(1977年)に関連してスイス司法当局に身柄を拘束された。
戦場のピアニスト [DVD]■10 - 16 AOUT:パリ郊外エムランビルにあるプールが、全身の大部分を覆うイスラム教徒の女性向け水着「ブルキニ」を着用した女性の入場を拒否し、ライシテ(laïcité 政教分離)の問題が再燃。折しもフランスでは、サルコジ大統領が6月、全身を覆う衣服ブルカについて「フランスでは歓迎されない」と発言し、ブルカ着用禁止の是非を検討する議員32人からなる特別委員会が設立されるなど、イスラム教徒女性の服装をめぐる論争が激化しており、この一件が火に油を注ぐ格好となった。
■18 - 24 MAI:フランスの大学では2月からデモやストが断続的に続き、5月からはデモ隊の占拠で授業もなし。学生らが反対しているのはサルコジ政権が力を入れる大学改革。「大学の自由と責任に関する法律(LUR)」(2007年8月制定)によると、「魅力ある大学」「運営の硬直化からの脱却」「国際的評価の回復」を3大目的に大学の自治を認め、予算や人事で自由裁量を与える一方、責任も課すという内容だった。改革により、大企業や政府の息がかかった学長が選出され、資金が潤沢になった大学に生徒が集中するなどの弊害が出てくるというわけだ。地方大学の一部は、生徒の減少により廃校になる可能性もあるという。(⇒関連エントリー「『クレーブの奥方』事件」)
■30 MARS - 5 AVRIL:若者はルーブル美術館、オルセー美術館など、パリの有名美術館の入場がタダになった。サルコジ大統領は4月4日から25歳以下の美術館と国立の記念建造物の入場を無料にすると1月に発表。大統領は「美術館の無料化は美術館を殺すことにはならない。反対に、若いうちに美術館に行く習慣ができることで、大人になっても行くことになるだろう」と主張。太っ腹。それに引き換え、日本の美術館の入場料は内容が貧相なのにベラボーに高いよね。さらにサルコジ大統領は18歳の国民を対象に、新聞購読を1年間無料にすると発表。若者の新聞離れを憂い、「若いうちに新聞を読む習慣をつけるべきだ」と。
■5 - 11 JANVIER:昨年の12月末にイスラエルが突如としてパレスチナ自治区のガザに侵攻。フランス全土で数万規模のデモが行われ、パレスチナへの支持を表明。パリでは散会の際に警官との小競り合いも。一部の人々はイスラム武装勢力(ハマス)への支援とイスラエルへの憎しみを表明することを憚らなかったが、大多数はおだやかなデモを行った。デモには労働組合と左派政党が結集したが、社会党は参加せず、左翼のあいだで微妙な温度差があった。LCR(極左)のスポークスマンは「フランス国民の立場は、イスラエルに好意的なサルコジ大統領の立場に還元されるものではない」、緑の党の書記は「私たちは決してハマスへの支持を求めているわけではない。過激化は誰の役にも立たない」と。
(cyberbloom)





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2009年12月26日

FRENCH BLOOM NET 年末企画(3) 2009年のベスト本

『世界は村上春樹をどう読むか』
世界は村上春樹をどう読むか (文春文庫)■今年の重大ニュースは、『1Q84』を発端とした一連の村上春樹ブームだった。熱烈なハルキストというわけではないものの、村上作品は出版されたらだいたい読むようにしている。それにしても今年久しぶりの新刊が社会現象となるほど突然のベストセラーになったのは不思議であり、違和感を覚えるほどだった。個人的には、最近は村上作品そのものよりも、彼の作品を他の人たちがどう読んでいるのか見聞きする方に関心が向いている。
■そういう意味で各国の村上作品の翻訳者を集めたシンポジウムの記録である『世界は村上春樹を どう読むか』(文春文庫)は、作品の受容が国によっていろいろであることが紹介されていてとても興味深かった(翻訳本の表紙を見るのも楽しい)。とりわけひとつの短編を数カ国語に翻訳するワークショップでは、ひとつの言葉の訳し方でも翻訳者によってさまざまなアプローチが見られるのが面白い。さらにはこの本の編者のなかには村上氏の支持者でない人も入っている、というのもミソである。
■もちろん来年公開されるトラン・アン・ユン監督の「ノルウェイの森」も彼らしい読み方が提示されることを期待して今から楽しみである。
(exquise)

James W. Nichol Transgression(罪)
Transgression: A Novel of Love and War■偶然にもまた第二次大戦下のフランスが舞台。2008年の出版ですが、翻訳が今年中に出るのではということで。
■主人公はルーアンのフランス人少女アデル。ドイツ兵マンフレッドと恋に落ちた彼女が辿る数奇な人生の変遷と平行し、1946年カナダの片田舎で発見された人間の指を巡っての捜査が描かれる。捜査をするのは息子を戦争でなくした警察署長ジャック。ミステリーとロマンスを掛け合わせつつ戦争が世界中にもたらしたあまりにも大きな傷を描いた作品。
■前半はアデルの恋が彼女にもたらす身の破滅が重い。家族からも「祖国を裏切った敵国協力者」として追われ、マンフレッドを探す中で目にした戦渦と老人のようにやせ衰えたユダヤ人の子供たち。彼の故郷ドレスデンは廃墟と聞いて絶望し、全てから逃れるためにカナダ兵アレックスとの結婚に踏み切った彼女だが、彼もまた戦争の中、心に深い傷を負っていた。
■発見された指の持ち主は? なぜその捜査が海と時間を隔てたアデルの物語と平行して描かれるのか?「敵国協力者」と辱められ髪を切られさらし者にされた女性たち。彼女達がその後どんな人生を辿ったのかー時と場所が違えば微笑ましい恋愛でしかないものが許し難い忌むべき罪とされた時代。彼女達のその後の人生に救いがあってほしいと思わずにいられない。すべての謎が解けた後にほのかな希望が見える壮大なミステリー。
(黒カナリア)

佐藤正午『身の上話』
身の上話■佐藤正午の最新作。これまでの彼の最良の作品群――『彼女について知ることのすべて』『Y』『ジャンプ』....――に比べても遜色のない出来。よく練られた文体と精緻を極めたストーリーテリングも健在。ほんのちょっとした偶然に支配されのっぴきならない方向に動いていくひとつの人生を、ときに慈しみ、ときに突き放しつつ、丹念に描いていく。
■後藤明生が亡くなって以降、新刊が出たらすぐに飛びついて読むのはこの人だけになってしまった。デビュー作『永遠の1/2』(1984)以来ずっと読み続けている、一番好きな作家。
(Manchot Aubergine)

小熊英二『1968』
1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景■今年の一冊、これはもう、小熊英二『1968』につきます。出すたびに本が分厚くなる小熊さん。ここまでやるとは、誰が予想したでしょうか。あと、安岡章太郎にはまっています。『私説聊斎志異』がよかったです。
(奈落亭凡百)

夏石鈴子『逆襲!にっぽんの明るい奥さま』
■昨年末に出版された夏石鈴子さんの短編種『逆襲!にっぽんの明るい奥さま』は、今年繰り返し読んだ1冊です。「普通の奥さま」がしまいこんでいる、つぶやき、煩悶、怒り、嘆き、その他もろもろがこれ以上ない的確さでむき出しにされています。感情は強いほど捕らえ所がなくなり、使い古しの言葉で描写しお茶を濁すことが少なくありません。しかし作者は、奥さま達の中でふつふつ沸き立つ暗い思いも正面から受け止め、きちんと言葉にしてしまった。思いが形成された過程もきっちり描かれていて、すとんと納得できる。誰しも自然と奥さま達の思いを追体験できてしまうのです。
逆襲、にっぽんの明るい奥さま■強い思いを抱える一方、奥さま達は意外なほど冷静に、自分と自分の背負っているものを見据えています。その語り口は時にユーモアすら感じさせるほど余裕を見せつつ、少しの無駄もない。だからこそ、安心して、奥さま達の独白に身を任せられるのです。
■再読してしまう本にはもう一度体験したい何かがあります。ハッピーな気分を確約する本ではないのについ読んでしまうのは、こんなはずではなかった人生を前を向いて生きる奥さま達の独白を引き受けることで、何かしら自分自身も浄化され、強くなれるからかもしれません。「人生捨てたもんでない」と大見得切れるような見通しはたたないけれど、一日一日生きてゆく。そんな精神的なタフさに共感します。奥さまも、そうでないひとにも、おすすめ。
(GOYAAKOD)

イーユン・リー『千年の祈り』
千年の祈り (新潮クレスト・ブックス)■何かと注目を浴びる大国、中国。天安門事件から20年が経った。イーユン・リーは北京に生まれ、当時天安門のすぐそばの高校に通っていた。彼女はその後アメリカに渡り、大人になり、成功し、小説を書いた。その処女作である短編集『千年の祈り』は英語で書かれ、数々の賞を取った。彼女の強い意志により、中国本土での出版はしないという。それは彼女の書いた文章にいかなる手も加えられることなく、祖国の人々に読んでもらえる日が来てほしい、という彼女の「祈り」なのだと思う。祖国の何代もの、名もない人々の、慎ましやかな生活を彼女は淡々と描いている。主人公たちは孤独である。それは受け入れがたいものではあるけれど、最終的には静かに受け入れる、そんな姿が切なく、美しくもある。
■天安門事件当時、私は隣の国、日本でのんびりとした学生だった。20年という年月が経ち、いい大人になるべき歳になった。天安門にいた学生たちのその後を私は知らなかった。事件そのものが封印されることが可能な社会の恐ろしさも知らず、祈り続ける人々の内なる強さや広さを知らない私は大人になれているのだろうか?
■ちなみに、表題の「千年の祈り」は早速アメリカで「スモーク」の監督ウェイン・ワンによって映画化され、公開中である。彼の要望により、イーユン・リー本人が脚本を担当している。
ウェイン・ワン インタビュー
(mandoline)

映画館と観客の文化史 (中公新書)■こちらも新しい本はあまり読んでいません。なにしろ去年の正月休みには『イーリアス』を読んでいたくらいですから。堀田善衞の『ゴヤ』は、画家の内的発展以上に、18世紀ヨーロッパを知るうえで、大変参考になりました。加藤幹郎の『観客と映画館の文化史』(2006)も面白く読みました。ドライブインシアターの誕生が1950年代アメリカにおける住宅ローンの成立とリンクしていたことをはじめて理解しました。
(bird dog)

岡本太郎『壁を破る言葉』
壁を破る言葉■岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)ほか、岡本太郎関連(一冊じゃないですが)。家の本棚に埋もれていたのを読んでみたり、同じ研究室の先輩が岡本太郎研究をしている関係で、本を借りたりして読みました。岡本太郎の言葉は、短くてもひとつひとつがエネルギーの塊です。優しく諭すというタイプの言葉ではなく、むしろ突き放される感じですが、元気が出るという生ぬるい感じではなく、火がつけられるというか闘志が沸いてきます。「いつも危険だと思うほうに自分を賭ける。それが生き甲斐だ。」
■へこまされ続けると、無性に悔しくなってかえって腹がすわってくるような、また、追い詰められて妙に感覚が研ぎ澄まされるような(レポート締め切り間近でまだ真っ白の心境?)そんな時の感じです。(どんな感じだ?)
(tk)




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2009年12月23日

FRENCH BLOOM NET 年末企画(2) 2009年のベストCD

Luciole “Ombres”
Ombres■リュシオールLucioleのOmbres。23歳のフランス人女性歌手のファーストアルバムだが、すごい才能の持ち主が現れたという印象。ケイト・ブッシュを最初に聞いたときとおなじくらいびっくりした。元々はスラム(ポエトリー・リーディング競技)をやっていた人で(全仏スラム選手権(!)で2回優勝しているらしい)、発音の美しさ、表現能力の高さはピカイチ。天性の声の美しさと相まって、非常に魅力的なパフォーマンスを披露してくれている(作詞は彼女が担当)。フランスの歌手でいえば、カミーユCamilleとちょっと似たところがある(影響も受けているらしい)が、彼女ほどエキセントリックなところはなく、もう少し幅広い音楽ファンにも受け入れられそうだ。プロデュース(および楽曲の大半の作曲)は90年代に活躍したポップの魔術師ドミニク・ダルカンDominique Dalcan。この人、こんなに作曲の才能あったかなー、と思わせるくらいいい曲を書いている。
Luciole - Ombres
(Manchot Aubergine)

■新譜で買ったCDといったら、なんと「ハンキーパンキー」しかないことに気づき、愕然としました。L⇔Rの黒沢兄弟による企画盤です。いろんな意味で懐かしい感じのするアルバムでした。あとはネッド・ドヒニーのファーストとかビートルズのリマスターとか、古いものの買い直しばかりです。レンタルして聴いたライムスターもしばらくお気に入りでした。
(bird dog)

ロリー・ギャラガー『ライブ・イン・アイルランド’74』
ライヴ・イン・アイルランド■今年の一枚、それはやはり、あえてロリー・ギャラガーの『ライブ・イン・アイルランド’74(別名アイリッシュ・ツアー)』にさせてください。IRAのテロが各地で暴発する70年代中期、誰もこわがってライヴを開催しなくなったアイルランドの街々で、<あえて>ツアーを敢行し、その音源のみを収録するというココロ意気、アイルランド兄ちゃんロリーのロック魂にふるえました。
■新譜に、「コレ」というのが見当たらない、というか、新譜は曲ごとにダウンロードする、という世の趨勢とも異なり、「おしなべて最近のロックを聴かなくなった」(というかロリー・ギャラガーを発見してしまったら他のオンガク全部が耳に入らなくなった)という一種病的な状態にはまり込んでしまっています。ロリーのいたテイストもいいですよね。活動期間が短く、惜しいバンドでした。
■未来への展望が見当たらず、物足りぬ報告になってしまいました。お許しください。 あと、これはなんなのかなあ:「ザ・チン・チンズ」という男女二人組のCDを友人に借りたんですけど、これはかなりよかった。いつのアルバムか分からないんですがね。あ、演奏者は西洋人です。
Rory Gallagher - A Million Miles Away(Irish Tour 1974)
(奈落亭凡百)

The XX
XX■加藤和彦の遺書に「今の世の人々は音楽を必要としているのだろうか」という趣旨の言葉があったそうですが、そんな悲壮な問いかけにうすぽんやりと共感する、そんな今日この頃。古馴染みの音とだけつきあう後ろ向けな自分に危機感を持つ一方、おもしろい音楽との邂逅もありました。
■例えば、イギリスの4人組のバンドThe XX。20才そこそこのアートスクールの学生仲間が奏でるドラムレスでミニマムな音楽は、「君たち本当に若者かい!」とつっこみたくなるほど気だるい。音数少なく、美メロもサビもなし。ネオ・ヤング・マーブル・ジャイアンツと括ってしまう人もいるかもしれません。しかしよくよく耳を傾けると、やはり2009年の音楽。子供の頃からフツーにヒップホップを聴いて育った世代が、バンドを始めてみたら体に染み付いた、ウェット感のない音の感覚が自然に出てきました、という感じでしょうか(故アリーヤの曲をカバーしてますが、わかりやすい黒っぽさは全くありません)。
■起伏の少ないメロディーに、派手じゃないけどちょっと色気のある音色のギター、そして淡々とした男女ヴォーカルのかけあい(女の子の声が、これまた耳元で囁かれたらたまらんという声)。中毒性高いです。あまり難しいことは考えていないらしいところもいいですね。
■もうやり尽くしたかに見える音楽の世界にも、まだまだ、開けるべきドアはあるようです。
The XX - Crystalised
(GOYAAKOD)

Mr.children「HOME」
HOME(通常盤)■12月12日の京セラドーム講演の3日前くらいに、古い知人から「一緒に行く人がいけなくなったから、一緒にどう?」ということで、なんやら棚ボタな感じで(チケット代は払いましたけど)コンサートに行ってきました。しかし、ライブに行くのに曲を知らないのはまずい、ということで、最新の「supermarket fantasy」をレンタルしようと思ったら、全部貸し出し中。仕方ないので、すこし前の「HOME」を借りました。
■ミスチルは、以前(10年前くらい?)やたらとドラマやら何やらでそこらに溢れすぎて、じっくり聴こうと思う前に食傷気味になって、なんとなく聴かず嫌いになっていましたが、もったいないことをしたと思いました。歌詞が良いです。結局曲がわからないままライブへ行ったのですが、すごく歌が上手で、安心して聴けました。

BEATLES - ACROSS THE UNIVERSE
レット・イット・ビー■友だちとメールで音楽の話をするとき、youtubeのURLを貼り付けておくと、話がスムーズに運ぶし、予想もしない共感を生むことかある。まるでyoutubeで会話をしているような、記憶を知覚のレベルで共有するような新しいコミュニケーションの感覚だ。人間は言語=シンボルだけでなく、イメージや知覚的なものによって、よりシンクロ率が高いコミュニケーションを行うようになっている。やはりイメージや音楽がデータベース化され、まるで言葉のように操作できるようになったことが大きい。
■今年は小熊英二の「1968」(まだ精読中)が出たり、山本直樹の「レッド」が話題になったりして、1968年を意識した年だった。フランスでは去年、五月革命40周年記念で盛り上がっていたようだが、反応の鈍い私には68年は1年遅れでやってきた。今年の9月にビートルズのリマスター盤が出て、ビートルズとジョン・レノン(エントリー「Jealous Guy」参照)を通して68年を再発見。9月に紹介するのを忘れていた Across The Universe を今年の1曲に挙げておく。この曲は69年に出たので、今年で40周年だ。この曲は1968年にジョン・レノンがインドで受けたマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの教えにインスピレーションを得たと言われている。"words are flowing out like endless rain into a paper cup" というインスピレーションにとりつかれて言葉があふれ出す感じもいいし、"Nothing gonna change my world" というリフレインの力強い宣言は、宇宙に裸で放り出されるような厳しい時代にあっても、カッコ良く芯を通して生きたいものだと思わせてくれる。
Beatles - Across The Universe
Love 2■日本語回帰の時期もあって、初期の井上陽水(紅白出場が流れて残念!)をよく聴いた。「傘がない」がグランド・ファンク・レイルロードの「ハートブレーカー」のパクリだということを今更ながら知った。さらになぜか中国語のサイトに、「君に会いにいかなくちゃ」の「君」は実はグランド・ファンク・レイルロードのことだと書かれていた。大雨の中で「ハートブレーカー」を全員で合唱したという伝説の来日コンサートが始まるのを、陽水が喫茶店で待っていたときの体験がもとになっているようだ。このあまりに整合性のある話に妙に感動してしまった。同世代の斉藤和義(66年生)もかじった。彼は歌だけでなく、多彩なギターも聴かせてくれる。
■フランスに関しては、クラブ=ダンス系の音に触れておこう。今年は、エール Air、ローラン・ガルニエ Laurent Garnier、DJ Cam がそれぞれ新譜を出していた。エールの "Love 2" に収録された Heaven's Light は Cherry Blossom Girl に続く名曲かもしれない。新譜 "Tales Of A Kleptomaniac" はまだ聴いていないが、ローラン・ガルニエと言えば、初期の曲「Acid Eiffel」(アシッド・エッフェル)はテクノチューンの傑作。映画や小説につけたくなるようなタイトルだ。ヒップホップ&ジャス系の DJ Cam はジャズメン4人を従えたバンド・プロジェクト Dj Cam Quartet で新境地を打ち出している。今年3枚目 "Diggin" が出たが、サンプリングやカバーの元ネタとなっているジャズやソウルをカバー。これもむちゃくちゃ良いですよ。特に Everybody Loves the Sunshine にはシビれます。Neburosa の流麗なピアノにも。
Air - Heaven's Light
DJ Cam - Everybody Loves the Sunshine
Laurent Garnier - Acid Eiffel
(cyberbloom)




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2009年12月21日

FRENCH BLOOM NET 年末企画(1) 2009年のベスト映画

クエンティン・タランティーノ『イングロリアス・バスターズ』
■ブラピというのは常に脇役に食われる気の毒な人だ。ベンジャミン・バトンでも達者な女優陣に食われ、今回も彼が取り立てて悪いのではないのだが、常々脇に来る人がうますぎる。顎を突き出して頑張ったのに今回は完全にハンス・ランダを演じたクリストフ・ヴァルツの映画だ。
■タランティーノは久しぶりに良かった。胸やけする行き過ぎのアクションや無理な展開が姿を潜め、ナチスドイツ占領下のフランスを舞台にしながら、昔の戦争映画と、家族を皆殺しにされたユダヤ少女の復讐という西部劇的展開を貼り合わせた作りに、必要最小限かつ的確なアクション。一見ミスマッチな音楽の組み合わせも粋だ。
■それにしてもユダヤ・ハンターであるランダ大佐の人物造形が最高だ。嫌味なくらい語学に長け身振りも優雅。冒頭のシーンでのフランス語から英語に切り替わる滑らかさ。乱暴な振る舞いなどみじんもないのに、ペンをインクつぼに浸す仕草一つでぞっとするほどの冷たい才気と残酷さを感じさせる。しかも笑い出したくなるおかしさをも感じさせる稀有なキャラクター。彼が現れると画面がぴりりとひき締まる。
■史実からすれば荒唐無稽な「嘘」なのだが、短編としても別々に楽しめる五つの章を、第二次大戦を舞台に最後まで飽きさせない復讐劇に仕立てたあたり、まさにお帰りなさい!タランティーノだ。彼の才気と、黄金時代の戦争映画を思い出しつつ痛快なでっちあげに酔える一本。
(黒カナリア)

オリヴィエ・アサイヤス『夏時間の庭』
夏時間の庭 [DVD]■今年はクリント・イーストウッドの新作が二本も(『チェンジリング』、『グラン・トリノ』)公開される奇跡的な年でした。本当はこの二本のどちらかを選ぶべきなのですが、甲乙つけがたいので、フランス映画からオリヴィエ・アサイヤスの『夏時間の庭』を選んでおきます。久しぶりにフランスの田舎の緩やかな時間を感じさせてくれたことと、安易な解決を放棄した映画作りの姿勢に敬意を表しました。ちなみに全くの偶然ですが、この映画ではジュリエット・ビノシュの恋人役をイーストウッドの息子カイルが演じています。『センチメンタル・アドベンチャー』(1982年)の少年もすっかり渋い男に成長しましたので、ご覧ください。
(不知火検校)

クレイグ・ギレスピー『ラースと、その彼女』
ラースと、その彼女 (特別編) [DVD]■悩んだ挙句、公開は2008年の年末でしたが、今年劇場で観たこともあり、今年の1本にしました。原題は「 Lars and the real girl 」。
■小さな田舎町に住む主人公、シャイな青年ラースは、ある日、恋人ビアンカを食事に招待し、兄夫婦に紹介する。しかし、その彼女は、ボディコンを着せた等身大のリアル・ドールだった・・・。
■簡単に言えば、青年ラースが周囲の見守りの中、「心を再生させるドラマ」なのですが、そう言ってしまうのはとても野暮に感じてしまいます。ラース役のライアン・ゴズリングの演技は透明感があり、登場する医師(女性)や近所のおばさまたちの広くて深い愛情が伝わり、観ている私が癒されるようでした。くすっと笑わせてくれて、ジーンとさせられっぱなしでした。
■今、様々な要因で心を病む人は多いですが、ありのままを受け入れること、こんな風にそっと心に寄り添うことが出来る家族やコミュニティーがあれば、どんなにか人も社会も救われることでしょう。私もそうありたいと思わせてくれる映画です。
(mandoline)

クリント・イーストウッド『チェンジリング』
チェンジリング 【VALUE PRICE 1800円】 [DVD]■迷うことなく、クリント・イーストウッドの『チェンジリング』。久しぶりに、場内が明るくなってからも立ち上がれませんでした。
■細やかで誠実な描写を積み重ねてゆくことで、「昔のアメリカで起こった信じられないような実話」は、過酷な運命に翻弄される女性についての、今に繋がる普遍的な物語に昇華されました。いなくなった一人息子を探し求め、結果的に世間を動かすことになるシングルマザーのヒロインの思いに寄り添えたのは、映画の冒頭に彼女がどんな人であり息子とどんな関係にあるか、ふとした表情や会話をさりげなく使ってきっちり描写されていたからと言えます。嘘がないんですね。イーストウッドの映画は、この人はこう、とキャラクターを強調するのではなく、少し距離を置き人物の周りの空気感も含めた絵にするところがありますが、そうしたアプローチがこの映画では言葉にならなかった情感を手触り、肌触りのレベルで伝えることに成功しています。映像も演技も音楽も、無駄がなく、けっして喚かない。
■幼い子供を平気で手にかけるシリアルキラーを題材としたことが災いしてか(またその禍々しさを後でうなされそうになるほどきっちり描いたせいか)、何となく遠巻きにされた感があるけれど、時が経てばちゃんとした評価を受ける映画だと思います。(おそらく、評判になった『グラン・トリノ』以上に)。つらい話だけれど、希望が残される。そんな映画です。
(GOYAAKOD)

チャーリー・カウフマン『脳内ニューヨーク』
去年マリエンバートで  HDニューマスター版 [DVD]■フランスでは、もっぱら古い映画ばかり見ていたので、今年の映画といって挙げるほどは本数を見ていないのですが、それでも、シネマ・コンプレックス全盛の時代に、チャーリー・カウフマン(『マルコビッチの穴』の脚本家、本作が監督デビュー作)の『脳内ニューヨーク』(2008年、米作品)のような作品がが公開されたことは、それなりに意義があったと思います。
■『脳内ニューヨーク』は、劇作家が主人公の物語で、彼が生きている現実と彼の書く芝居の世界が、話が進むに連れて、徐々に融合してしまい、どちらが本当の世界かわからなくなってしまうという映画です。観客の眼前に展開されるイメージは現実のものなのか、それとも彼の「脳内」で想像されていることなのか。ついぞ判断の基準は明確にされません。こうした構成は、レネ = ロブ・グリエの『去年マリエンバートで』(写真)の世界を彷彿とさせて、見ていて嬉しくなってきました。作品自体は、件の劇作家がニューヨークを舞台とした作品を仕上げることができるかどうかが大きなテーマとなっており、そのことがサスペンスを生み出して、最後まで飽きさせない展開となっていました。
■今年の関西の映画状況について、もう一言いわせていただければ、京阪神地区では、未だ『こまどり姉妹がやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』(片岡英子監督)が公開されていない(多分)ことが不満です。
(MU)

ロシュフォールの恋人たち デジタルリマスター版(2枚組) [DVD]■映画はいろいろ見ましたが、新作よりも旧作の見直しに印象的なものが多かった一年でした。デジタルリマスター上映の『ロシュフォールの恋人たち』は楽しかったです。ほかには、金沢21世紀美術館で『AKIRA』の爆音上映会に参加しました。ロックコンサート並みにスピーカーを積み上げての上映、芸能山城組の音楽が心臓を直撃し、耳を聾しました。音量が映画鑑賞に与える影響をあらためて考えてしまいました。
(bird dog)

ジョン・ウー『レッドクリフPartU−未来への最終決戦−』
【初回生産限定】レッドクリフ Part I & II DVDツインパック■周瑜が『三国志』のイメージより格好良すぎるのですが、今回の主役だから仕方ないか(笑)。美男で才知に長けてはいるのですが、何かと諸葛亮に煮え湯を飲まされてるイメージだったので…。ストーリーとかキャストとか、ポイントは何かとあるはずなんですが、一番印象に残ってるのは合戦のシーンでした。
(tk)

粟津潔『ピアノ炎上』
■2009年映画館で見た中の私の最高傑作。この作品は大阪で10月に「日独仏実験映画祭3」が開かれ、その時に日本の70年代実験映画の作品として上映されました。私は寺山修司の作品を見に行ったつもりが、なんと粟津氏の作品に衝撃を受け、その場で頭をハンマーで殴られたような感じでした。ストーリーは簡単。ヘルメットをかぶった1人の男(山下洋輔)が原っぱで燃えさかるピアノを弾き続ける、というもの。単純な話だが、私が注目したのは即興のピアノのメロディが時間の経過とともに妙なノイズ(「パチ、パチと炎が弾ける音)と一種の共生状態に入り、我々を既成の時空を飛び越えた、別次元にいざなってくれること。私は恍惚状態になり、ふと小学校時のキャンプファイヤーのワンシーンを思い出す。赤々と照らされた仲間の顔に、火花に熱された我々の歌声がゆっくりと舞い上がる、何ともいえない神々しい瞬間。映画の終りは、男も画面から消え、ただ黒い残骸が残るのみ。今でも私の頭の中で「パチ、パチ!」といった炎の戯れる音がこだまする。
(里別当)

『宇宙戦艦ヤマト、復活編』
■今年、唯一映画館で見た映画。映画館に行ったのは何年ぶりだろう。もちろん、子供の付き添いです(笑)。最初の日曜だというのにシートは半分も埋まっていない。子供は少なく、客層は私と同年代くらいのマニアックな風貌のオッサンばっかり。それでも私が小学校6年生のときに夢中になっていたアニメシリーズを子供と見に行くなんて感慨深いものがある。いきなり、原案「石原慎太郎」という文字が浮かび上がって唖然とした。確かに特攻シーンが多かったが、これはヤマトでは反復されているモチーフなので目新しくはない。あとは民族自決のメッセージが石原風なんだろうか。
■地球がブラックホールに飲み込まれるという話だが、人間だけが意識する宇宙という空虚。それをイデオロギー=物語で埋めなければ不安でしょうがないのが人間の性だ。イデオロギーの本質はこういうB級映画の中でこそ浮き彫りになる。そのやり方があまりにもご都合主義で、もう一度太平洋戦争をやり直したいという欲望が見え隠れする(アメリカが映画の中でベトナム戦争をやり直したがるように)。宇宙に逃げようとじたばたする人間たちとは裏腹に、地上の動物たちがいちばん潔い(それを象徴させるようなシーンがある)。特定の環境にのみ適応するようにプログラミングされている彼らは、宇宙の果てを思い巡らすこともないし、地球が滅びようがお構いなしだ。そういう環境を持たない人間は虚空に向けて、虚妄に満ちた言葉=物語を紡ぎ続けるしかない。
■ところで、最近映画を見ているとやたらとベタなセリフや演出が目に付く。つまり必要以上に言葉で説明したり、演出に関しても紋切り型に依存する。「おくりびと」を見ていてそれを強く感じた。あるシーンを映画の文法にのっとってさらりと見せるのではなく、わざわざシーンの解説を上からかぶせるような無粋さを感じてしまうのは私だけだろうか。おそらく映画の文法の共有度が落ちてきていて、それを補わなければ観客にアピールしなくなってきているのだろう。
(cyberbloom)






★みんなで選ぶ FRENCH BLOOM NET の年末企画です。このあと、2009年のベスト・アルバム、2009年のベスト本、2009年の重大ニュースと続きます。ぜひ読者の皆さんもコメント蘭に自分のベスト映画を書き込んでください。

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2009年12月19日

ブッシュ・ド・ノエル Bûche de Noël

友人宅でちょっと早いクリスマス・パーティーにブッシュ・ド・ノエルを持って行きました。小さな子どもさんがいなかったので、少し大人のケーキです。
スポンジを焼くのが面倒な人はロールケーキを買ってきて、自分の好きなデコレーションをしてみても・・・

buchenoel01.bmp

*材料*
☆スポンジ生地(28×28cm天板1枚分)
卵         ・・・4個
グラニュー糖    ・・・120g
薄力粉       ・・・60g
ココアパウダー   ・・・20g
バター(無塩)   ・・・20g
牛乳        ・・・大さじ2
☆クレーム・シャンティ
生クリーム     ・・・200cc
グラニュー糖    ・・・5g
キルシュ(さくらんぼのリキュール)・・・大さじ1
☆チョコレート・ホイップクリーム
クーベルチュールチョコレート(製菓用)・・・60g
牛乳        ・・・40cc         
生クリーム     ・・・200cc

*作り方*
準備:天板に薄紙を敷いておく。
   オーブンを200℃に余熱しておく。
   薄力粉とココアパウダーを合わせてふるっておく。
   湯せん用に大きな鍋に50℃ぐらいのお湯を用意しておく。
   牛乳とバターをボールに入れ、一緒に湯せんにかけるか、電子レンジで50℃ぐらいに温めておく。
1. ボールに卵を割りほぐし、泡だて器でかき混ぜながらグラニュー糖を加えて溶かす。
ボールを湯せんにかけて人肌に温めたら、湯せんから外しハンドミキサーで泡立てる。
目安は高速で約10分。卵液に筋が描けるぐらいまで。最後の3分ぐらいを低速で泡立てると大きな気泡が消えて、きめの細かい生地に仕上がる。
2. ハンドミキサーを外したら、ふるった粉を加えてゴムべらで軽く混ぜ合わせる。混ぜきらないうちに、温めておいた牛乳とバターのボールの方にひとすくい分の生地を入れて混ぜ、ボールに戻して全体を混ぜ合わせる。混ぜすぎないようにする。
3. 用意した天板に生地を流し入れ、隅まで生地を入れ表面を平らにならしたら、180℃に設定を下げたオーブンに入れ、12分〜15分焼く。
4. 焼けたら紙を外さず、ケーキクーラー(網)にのせて冷ます。粗熱が取れたらラップをかけるなどして表面が乾かないようにする。
5. 生クリームを氷水を当てたボールに入れ、グラニュー糖を加えて泡立てクレーム・シャンティをつくる。筋が描けるようになったら、キルシュを加え、泡だて器から落ちない程度に泡立てる。(8分立て)
6. 冷ましたスポンジ生地の紙を外し、ロール紙などにおいて表面にクレーム・シャンティを塗り、海苔巻きの要領で巻く。
巻き終わりを下にしてロール紙を巻いたままラップをかけ、冷蔵庫で10分以上冷やしてなじませる。
7. 耐熱の容器にチョコレートと牛乳を入れ、50℃ぐらいに温めてチョコレートを溶かし、ゴムべらでよく混ぜ合わせる。
氷水に当てて冷ましたら、少し大きなボールに移して生クリームと混ぜ合わせ、冷やしながら泡立て器で8分立てになるまで泡立て、チョコレート・ホイップクリームを作る。
8. ロールケーキをお皿に盛り、全体にチョコレート・ホイップクリームを少し厚めに塗ったら、フォークなどで筋を入れ、分量外のココアパウダーを茶漉しでふったりして飾る。
(一部を斜めに切りとって切り株風にするのがオーソドックスですが、自由にデコレーションしてください。)

フランスではクリスマスのケーキと言えば、ブッシュ・ド・ノエルのようですが、クリスマスに何故ブッシュ・ド・ノエルなのかご存知でしたか?
その起源はケルト人とゲルマン人の冬至祭「ユール」に一晩中薪を焼いて、長い夜の魔物を追い払うことから始まるらしく、キリスト教が信仰されるようになったのち、フランスではクリスマスにロールケーキにクリームを塗って筋をつけ、「薪」に見立ててブッシュ・ド・ノエルが作られるようになったようです。なのでキリストの受難を表す「ひいらぎの葉と赤い実」、子孫繁栄を意味する「きのこ」が定番の飾りだとか。
卵白が余っていたら、メレンゲにして絞り出し、低温のオーブンで焼いて飾りのキノコを作ってもかわいいです。




mandoline@かんたんフレンチレシピ

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2009年12月17日

リフレって何?(2) リフレとデフレ

これで、リフレ政策の大枠はご理解いただけたかと思いますが、その一方で「???…」と謎で頭がいっぱいになられた方もいると思います。代表的なのが、「こんなことしてなんになるの?」でしょう。経済の実体はお金のやりとりでなく、モノやサービスのやりとりが本質だとさきほど述べたことがたしかなら、どれだけ名目成長率を上げても意味がありません。それを政策として意図的にやるのですから、ぱっと見には理解に苦しむところがあります。くわえて、リフレ政策というのはインフレ政策といいかえてもよく、インフレといえば第一次大戦後のドイツ経済や、日本のオイルショック後の狂乱物価の例などを挙げてもわかるように、あまり響きのいいことばではありません。実体の裏打ちもなく、物価だけ変動するなどそこに住む国民にとって迷惑なだけでしかありません。

ところが、現実を見渡せば、世界のかなりの多くの国がこの政策をとっています(たとえばお隣の韓国)。これはどういうことでしょうか? 結論からいうと、リフレ政策の目的は中央銀行が意図的にお金の価値をさげることといってもいいかと思います。さらに踏みこめば(ここが大事になるかと思いますが)、不況に見舞われている国々では、政府や中央銀行がなにもしなければ、国民はどんどん財布のヒモをかたくして、できるだけモノを買わないようになります。するとさらに経済全体が冷えこむ。そこで、中央銀行が意図的にお金の価値を落として(インフレを起こす)、国民を消費に向かわせる。これがリフレ政策の中心にある考えかたになるでしょう。

この記事を読むと、まるで中国だけでなく韓国もぐんぐん成長しているかにみえます。ところがこれは記事にははっきり明記されていませんが、間違いなく名目成長率であり、最後まで記事を読めばわかるようにしっかりインフレ率が数%アップしています(それどころか韓国経済の実体は…この動画をご覧ください)。

そしてこのリフレ政策にはもちろん好ましい側面と危なっかしい側面があります。そちらを整理しておきましょう。

勝間さんの主張を綿密に調べたわけではないのですが、ともかく彼女の主張は現在の日本をデフレ状態から脱却させたいという狙いがあると思います。

デフレというのはインフレの正反対で、すくなくとも結果的にお金の価値がどんどんあがっていく現象を指します。現在の日本がまさにそうなのですが、このところモノの値段がどんどんさがってきています。このこと自体は悪いことでないようにみえるのですが、このことがお金の価値を高めることにつながってしまいます。どういうことかというと、たとえばいま手元に100万円の資金があり、これをつかって100万円の車を買おうと考えているとします。ところが、この車が来年には80万円になると予想されています。このとき合理的な人であればどうするでしょうか。緊急の必要性に駆られているのでもなければ、来年買って、20万を手元に残すことにするでしょう。「デフレ=お金の価値があがる」というのはこういうことで、モノを買うことよりお金を手元に残したがる傾向になってしまうということです。これでますますモノが売れなくなり、デフレスパイラルとなってしまいます。

リフレの好ましい側面ですが、以上のようにいまの日本のような「お金の価値があがっている=国民がお金を手元に残したがる」状態にある国においては、中央銀行によって意図的に市場でのお金の量を増やし、適正レベルでその価値を下げることに成功すると、好ましいかたちで国民を消費に向かわせる要因になるということです(中央銀行が100万円刷ればそのまま100万円分物価が上昇するという単純な話でないのがむつかしいところなんですが、それはさておき)。そしてこのときはデフレのときと逆の効果、つまりお金はもっているだけでは損をするということになります。現在の車の価格が100万円、来年200万円になるとすれば、手持ちが100万円以下の場合でもなんとか工面して今年中に買っておこうと思うはずです。

このようにリフレ(インフレ)というのは「物価狂乱」ということばを連想するなど悪いイメージがつきまといますが、お金の価値がさがっていくという効果を通じて、消費を刺激するといった意味では、不況下においてはありうる対症療法のひとつにもなります。

ついで、危なっかしい側面をみていきます。中央銀行のこうした政策が思わぬ負の副産物を生みだしかねないという点を押さえておきましょう。リフレ政策を実施するにあたって、中央銀行はインフレターゲットを設定します。これは中央銀行が目標とする物価上昇率のことで、たいていは1~3%程度といわれます。

そしてまず第一の負の側面ですが、リフレ政策によりハイパーインフレが起こってしまうかもしれないことが挙げられます。たとえば想定外の円安、国債の暴落などの要因により、目標値として定めた以上の物価高騰をまねきかねないということです。

つぎに、バブルを引きおこしかねないという側面です。お金の流通量のアップ=お金の価値の低下→金余りの状態となります。もしもこのお金が望ましい消費や投資に向けられるのならいいのですが、そうではなく株や不動産の取得に向けられた場合、バブルを誘発してしまう可能性が高くなります。現にこちらの記事をみていただければわかるように、実質的な経済成長がないにもかかわらず、韓国では不動産価格が高騰するという状況になっています。

そのほか、そもそも人口が減少傾向にある日本において、「デフレ」はそれ単体で悪と決めつけられるわけでなく(むしろ人口がどんどんどんどん減っていくのに、GDPが下落しないのだとすれば驚異的です)、日本においてデフレ脱却の手段としてのリフレ政策は、その有効性云々を議論する以前にこうした点も考慮に入れる必要があるでしょう。




superlight@super light review

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ラベル:勝間和代
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2009年12月16日

リフレって何?(1) 名目成長率と実質成長率

先日、経済評論家の勝間和代さんが管直人副総理に「リフレ政策」なるものを提言しました。ところで、そもそもリフレってなんなのかよくわからないという人が多いと思います。そこでわかりやすく紹介してみたいと思います。

リフレ政策を理解するにあたって、まず押さえておきたいのは名目成長率と実質成長率の区別をしておくことです。いずれも国などの一年の成長率をお金で表したものであることに変わりありません。違いはといえば物価を考慮しているかどうかです。物価変動を考慮に入れないで、たんにお金の増減だけに注目するのが名目成長率。物価変動も考慮に入れて、再調整したのが実質成長率となります。具体的には、まず車しか生産していないある国を想定してみます。

A年度  車100台×100万円=1億円
B年度  車110台×110万円=1億2100万円

この国の名目成長率は21%(2100万円)となり、実質成長率は10%(1000万円)となります。実質成長率の計算方法ですが、

@1億2100万円(名目成長)から、10%(10万円)の物価上昇分を考慮に入れ差し引く。つまり

1億2100万円(名目成長)−(10万円(物価上昇率)×110台)=1億1000万円(実質成長)

つまり車一台あたり10万円だけ「見せかけ」が混じりこんでいますから、これを控除する方法です。こうやって実質成長率を10%ととらえることもできます。

A以下のとらえかただともっとシンプルに、前年度の物価水準をもとに計算することもできます。

100万円(A年度の物価水準)×110台(B年度の生産高)=1億1000万円(実質成長)

というとらえかたです(以前、地域通貨の記事で経済の実体は金のやりとりでなく、実際のモノやサービスのやりとりを指すと指摘しましたが、これとからみます。上記モデルの国は1年間であらたに10台の車を生産する力(厳密にいうと売れるかどうかという需要サイドの問題もありますが、ここではあえて無視しておきます)が生まれたということになります。この10台分のあらたな上乗せが実質成長率というわけです)。

以上をまとめると、たんなる金の増減にだけ焦点をしぼったのが名目成長率。実際のモノやサービスのやりとりをある一定の基準点(物価水準)のもとであらわすのが実質成長率といっていいかと思います。

そして、ここのところを押さえておくだけで、リフレ政策がどのようなものかの大筋がわかってくると思います。リフレ政策とは「中央銀行が物価上昇率に一定の目標を定めることであり」、さきの例でいうと

a年度  車100台×100万円=1億円
b年度  車100台×110万円(10%の物価上昇)=1億1000万円

a年度にこの国の中央銀行が1000万円あらたにお金を発行し、車しか産業がないこの国において車1台が100万円だったのを、b年度には110万円にアップさせるというのもリフレ政策となります。この国の実質成長率は0%です。モノやサービスのやりとりに増減がないからです。しかし、中央銀行が1000万円お金を追加したために見かけ上、つまり名目成長率が10%アップしたということになります。(…続く)




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2009年12月15日

『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』

ハイデガーとハバーマスと携帯電話 (ポスト・モダンブックス)世界中でモバイル化が進んでいる。日本はすでに飽和状態だ。ケータイはどんどん便利になり、もはやケータイなしの生活なんてありえない。モバイル化は英語で、mobilization というが、同時に「動員」という意味もあわせ持つ。モバイル化されているのは電話ではなく、人間なのだ。繁華街ではケータイのキャンペーン campagne(=宣伝活動)が華々しく行われているが、キャンペーンには「軍事行動」という意味もある。インターネットはもともと軍事目的で始められたし、今やケータイに標準装備のGPSは、湾岸戦争のとき、砂漠のど真ん中でも自分の位置がわかるようにと開発された。世界のモバイル化は平和利用というよりは、軍事技術の日常化という様相を呈している。

さらにケータイは支配だけでなく、抵抗のイメージさえも取り込んでいる。『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』の著者は、ガソリン税を上げた政府に抗議するためにケータイで連絡を取り合ってガソリン配送施設を封鎖したイギリスのトラック運転手の例を挙げている。私は真っ先に「黒を着ろ、エサドに行け」というチェーンメールのことを思い出す。それは黒い服を着たフィリピンの群集をエサド通りに集結させ、エストラーダ政権を倒した。ケータイは便利なだけでなく、変化し続ける時代の気分を的確に表すモノなのだ。自分は新しい時代の人間だと実感したいなら、ケータイこそが手に取るべきものだ。

単に便利なものが発明されたということではない。私たちはもはやケータイなしには生きられない。モバイルは私たちの生き方や文化に深く入りこんでいる。モバイル化されているのは人間の方だというのは、そういう意味だ。ケータイのCMを見ていると、コミュニケーションという言葉が全世界の人々とつながり合えるようなイメージをふりまき、それは薔薇色の未来を保証するかのようだ。しかし、コミュニケーションって何だろう。一体、ケータイを使って私たちは何をしているのだろう、と著者は問いかける。

まず勘違いしてしまうのは、コミュニケーションが拡大しているのはケータイの方で、人間ではないということだ。ケータイは互換性が進み、違う機種でもスムーズにつながる。通信速度が速くなり、サクサクと動く。人間といえば、規格(人格)がバラバラでかみ合わないし、飲み込みも遅い。さらに人間関係を深めるには時間がかかる。

だからケータイを使ったコミュニケーションが最もうまくいくのは、人間を相手にしているときではなく、ひとりでネットにつないでいるときだ。国民の半分がケータイをもっているとか、どこかの国で加入者が50%増えたとか、宣伝される驚くべき数字とは裏腹に、コミュニケーションとは孤独な行為なのだ。その場合のコミュニケーションとは、言葉を限り切り詰めたメッセージのやりとりによって行われる。またケータイに向かって欲しいものをオーダー(命令=注文)し、それが瞬く間に手元に届けられることである。ケータイのコミュニケーションの理想は、インテリジェントでインタラクティブな最速の応答だ。しかし、インタラクティブといっても、それはバーチャルなもので、応答してくるのはシステムにすぎない。

スターバックスまであと3分に迫ったところで、ケータイでスタバのメニューを呼び出して、カフェラテのSサイズをクリックする。これで注文も支払いも済む。あとは取りに行くだけ。ハイデガー&ハーバーマス(ふたりともドイツ人)はこのようなモデルをコミュニケーションとは考えない。例えば、ハバーマスによると、コミュニケーションをとるのは、自分の欲望を「満たす」ためではなく、相手に自分の目的や欲望を「知らせる」ことである。もちろん知らせることで、批判されたり、様々なリアクションが想定される。さらにリアクションに対して自己弁護することもありえる。このようなコミュニケーションは外堀からゆっくり埋めていって、核心へと近づいていく。ケータイが無視し、切り詰めようとするコミュニケーションの過程や積み重ねを逆に重視するのである。

しかし、すべてのケースにおいてそんな悠長なことをやっていられない。現代社会では人間関係が複雑で、かつ処理すべき情報が多いからだ。本当に人間的なコミュニケーションを持とうすれば途方もない時間が必要になる。それゆえ、人間の取り決めの多くは、真のコミュニケーションよりも、「システム」によって行われる。ハバーマスによると、システムの代行の仕組みは、コミュニケーション・メディアの形を取って現れ、言葉による説明はできるだけ切り詰め、対話の代わりをする規則や金銭(通貨)や地位の交換(官僚機構や権力)によって済ませられる。健全な社会ではそれが地ならしをすることで、真のコミュニケーションのお膳立てをする。それはある程度までシステムにゆだねる合理的なことだ。しかし、システムが自己増殖して、人間の共感を担保するスローなコミュニケーションが必要な領域までも覆いつくす危険性がある。ハバーマスの言う「生活世界のシステムによる包摂、植民地化」という事態である。

今やシステムの最大の担い手がケータイということだ。しかし、この著作にはユーザーの視点がなく、個人がそれをどう使いこなしているのかということあまり考慮していない。ケータイを使うことは孤独な行為と言っているが、メールのやりとりに関してもそう言えるのだろうか。例えば、大澤真幸があとがきで、若者たちがケータイに求めているのは近接性の感覚だと書いている。単に近いのではなく、「遠く隔たったものの間の近さの感覚」である。それも本来入り込めないはずの内面に直接入り込むような近さである。これは若くない私にも実感できることだ。また大澤によると、「街中で、電車の中で、そして授業中に、終始、送受信されている短いメールにおいては、肝心なのは何が伝えられているかではなくて、単に伝え合っているという事実である」。これは商売や政治につながる戦略的なものではなく、純粋に相手とつながっていることを楽しむ使い方と言える。






cyberbloom@サイバーリテラシー

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2009年12月12日

クラシックなひととき(4)―ドキュメンタリーの巨匠、再び:『パリ・オペラ座のすべて』―

La-Danse-Le-Ballet.jpgドキュメンタリー映画の巨匠、フレデリック・ワイズマン(1930年〜)の新作が再び、日本の映画館のスクリーンにかかり始めた。『パリ・オペラ座のすべて』と題されたその作品はタイトル通り、パリのオペラ座のダンサー達、スタッフ達の日常風景を84日間にわたって丹念に追い、その芸術活動の核心部分に迫ろうとするドキュメンタリーである。この題材と手法はワイズマン映画の真骨頂であろう。

ワイズマンといえば、様々な作品の中でも『コメディ・フランセーズ−演じられた愛−』(1996年)が取り分け日本の観客には良く知られているのではないだろうか。全編で3時間半以上に及ぶこの映画によって、フランスの国立劇場の実態を余すところなく抉り出したワイズマンの手腕は、演劇関係者のみならず映画関係者をも驚嘆させるものであった。日本でもドキュメンタリー映画としてはかなり数の観客を動員したようである。

『コメディ・フランセーズ』という映画は、このフランス最古の劇団の役者達の稽古の様子、劇団の運営を巡る延々と続く会議、練達したスタッフ達の鮮やかな仕事ぶりを、幾つかのフランス演劇作品(ラシーヌ、モリエールなど)の実際の上演場面と交互に映し出すことによって、この劇団の活動がその背後にある様々な葛藤から成り立っているという事実を鮮やかに浮き彫りにしていた。中でも、『ドン・ジュアン』に関わる俳優、スタッフ達がその主人公の思想に関していつ果てるともなく議論を繰り広げる場面は秀逸だった。彼らは狂気の縁に迫るほどの真摯さで作品の哲学に迫ろうとするのである。その凄まじさは実際の演技以上の迫力であった。日本の国立劇場の楽屋でこのようなシーンがあるのだろうか。

バレエの宇宙 (文春新書)『パリ・オペラ座のすべて』は、作品の題材としては『コメディ・フランセーズ』の姉妹編ということになるであろう。この作品は特にバレエ・ダンサーの生活に密着取材を行っている。バレエ・ダンサーといえば、大変な体力と技術が要求される仕事であり、栄光を掴むことのできる時間は俳優よりも遥かに短い。定年は40歳であるという。しかしそれだけに、彼ら彼女らはその栄光を掴むために狂気的な稽古を果てしなく続ける。バレエの指導者はダンサーに言う。「世界一過酷なこのオペラ座だからこそ、あなたたちは世界一輝くことが出来る」と。このようなバレエに関する最近の入門書としては、佐々木涼子『バレエの歴史』(学研マーケティング、2008年)、『バレエの宇宙』(文春新書、2001年)、鈴木晶『バレエ誕生』(新書館、2002年)などが読みやすく、映画の参考になるかもしれない。

実際にエトワールになれるのは一握りであり、その期間も極めて短い。そんなものを目指すなどというのは常識的感性からすれば狂気の沙汰だ。にもかかわらず、彼ら彼女らが辞めることなく続けていられるのは、まさに他の誰も決して味わうことのできない「瞬間の輝き」に執り憑かれているからなのかも知れない。『パリ・オペラ座のすべて』は狂気に執り憑かれた人間達の姿を理性的に、そしてリアルに捉えた作品であると言えよう。狂気を眺めている者は、しかし、知らず知らずのうちに狂気に執り憑かれてしまうかもしれない。







不知火検校@映画とクラッシックのひととき

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2009年12月10日

役者としてのポランスキー、あるいは迷宮としてのパリ〜懐かしの70年代の名優たち(10)

2009年9月、映画監督ロマン・ポランスキーが滞在先のスイスで身柄を拘束されたというニュースが流れた。このブログでも以前に触れた、32年前のアメリカでの暴行容疑の為である。マーチン・スコセッシら世界の映画人たちが彼を支援する声明を発していたが、どうやら釈放される見通しである。新作の完成も控えているということで、気になるニュースであった。さて、ここではクリント・イーストウッドと同様に、フランスで最も愛されている映画作家の一人、ロマン・ポランスキーについて語ってみよう。

戦場のピアニスト [DVD]最近のポランスキーといえば『戦場のピアニスト』(2002年)が米国アカデミー監督賞を受賞したり(しかしもちろん授賞式には出席していない)、ディケンズ原作の文芸大作『オリバー・ツイスト』(2005年)を世に出したりと、妙に巨匠じみた振る舞いをし、またそのような扱いをされているのが目につく。しかし、昔からのポランスキー愛好者は最近の作品には到底満足していないだろう。ポランスキーの真骨頂は彼の60年代後半から70年代の活動にこそあるのだから。

むろん、『マクベス』(1971年)がシェークスピアの史劇をおどろおどろしい恐怖映画に変貌させたとか、『テス』(1979年)が女優ナスターシャ・キンスキーを世に送り出し、トマス・ハーディの原作を映画史に残る傑作に仕上げてしまった、という程度の話ではない。これらの作品でもまだポランスキーらしさが完全に発揮されているとは言えないのだ。むしろポランスキー自身が役者として出演する作品にこそ、彼の映画の真髄があるのではないだろうか。例えば『吸血鬼』(1967年)。このオカルトなのかコメディなのか分類不能の映画の中で、頼りない生真面目な青年を嬉々として演じているポランスキーは実に素晴らしい。そして『チャイナタウン』(1974年)。ジャック・ニコルソン主演のこのフィルム・ノワール史上に残る傑作の中で、突然、主人公にナイフで切りかかる男として登場するポランスキーは自分の映画が孕む衝撃を完全に掌握しているという印象を与える。この頃の彼の映画が持つ強度を我々は忘れることが出来ないであろう。

しかし私が一番問題にしたいのは、日本では未公開の『下宿人』(1976年)という映画だ(『テナント/恐怖を借りた男』という邦題でビデオ発売あり)。この作品こそ、その後のポランスキーの世界を決定付ける作品になったといっても過言ではない。パリに住む会社員の男(ポランスキー)が、あるアパートに引っ越す。若い恋人(イザベル・アジャーニ)も出来て、新しい生活が始まろうとする。だが、どうやらその部屋の以前の住人に何か悲惨な出来事があったらしいのだが、詳しいことを知ることが出来ない。しかし、ことあるごとに以前の住人の影が男のそばにしのびより、次から次へと男の身辺に奇怪な出来事が起こり始める。男は精神的に追い詰められていく。これは現実なのか、それとも男の単なる妄想に過ぎないのか…。

こういう人物を演じるとき、ポランスキーは実に巧みな俳優となる。これはポランスキーがパリに住み始めたころの作品だが、まるで彼自身がパリという都市の中で彷徨っている様を捉えたかのようにも思えてくる。この作品はこの年老いた都市に住む魔物、その迷宮的感覚を見事に捉えた傑作であると思う。魔術的幻惑を生み出すことに長けたポランスキーの映画術にかかればパリがこのように不気味な街に変わってしまうのかと誰もが唸らされるのではないだろうか。

フランティック [DVD]実際、このあとのポランスキーの映画はこの『下宿人』を反復しているのではないかと思える。例えば、『フランティック』(1988年)では学会の為にパリに滞在しに来た医師(ハリソン・フォード)のもとから妻が忽然と姿を消す。彼女を探していくうちに理由の分からぬ犯罪の中に巻き込まれ、男はパリという見知らぬ都市の中で彷徨い続けることを余儀なくされる…。また、『赤い航路』(1992年)では謎めいた美女の魅力に憑かれた初老の作家がパリの街で果てしなく転落していく様が描かれる。そして、『ナインスゲート』(1999年)では廃墟に残された古文書の解読を任された探偵(ジョニー・デップ)が、行く先々のパリの街角で奇怪な殺人事件に巻き込まれ、いつのまにか狂信的組織の犯罪に絡め取られていく…。まさに、『下宿人』のテーマをポランスキーは繰り返し映像化しているのだ(主人公を幻惑の中に誘う女が常にエマニュエル・セニエというポランスキーの妻でもある女優によって演じられることも興味深い)。

ポランスキーにとってパリは常に自身のアイデンティティーを揺るがされる迷宮に他ならない。自分が信じていたものが消え去り、自分が確かだと思っていたものの根拠が瞬く間に失われていく場所。いかなる人物もそこで安息を得ることは出来ない場所。それこそがポランスキーにとってのパリなのだ。彼はそれ以外の形でパリを捉えることはできないし、そうする気はさらさらないであろう。

このようなポランスキーの映像感覚は彼がポーランドという地図上から三度姿を消した国の出身であることと無関係ではあるまい。国家ほど彼にとって不確実であるものはこの世にはないのだ。いつ自分の住む場所を奪われるのか。いつ自分が自分であることを否定されるのか。これこそがポランスキーが常変わることなく持ち続けている感覚なのだ。こうした感覚は彼がどのような名声を得たとしても変わることはないだろう。そしてこれは一人ポランスキーだけのものではなく、実は誰もが感じてもおかしくない普遍的な感覚なのではないだろうか。





不知火検校@映画とクラッシックのひととき

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ラベル:ポランスキー
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2009年12月09日

< 鶏の赤ワイン煮 > Coq au vin

寒い季節にはお鍋でコトコト煮込んだ料理が恋しくなりますね。先日、友人宅で何か煮込み料理をと、リクエストされて作りました。ワイン好きな人はそれこそワイン片手にのんびり作られてはいかがでしょうか?色の濃い、しっかりしたお味のワインを使うと、きれいで艶のあるソースに仕上がると思います。

coqauvin01.jpg

*材料*(4人分)
鶏もも肉 ・・・・・2枚(大きなもの)

マリネ用
にんじん ・・・・・1本
たまねぎ ・・・・・1個
セロリ ・・・・・1本
にんにく ・・・・・3片
ブーケガルニ ・・・・・1個 ※パセリの茎2~3本、ローリエ1枚、タイムなどを糸でくくる。

赤ワイン ・・・・・1本(750ml)
ドミグラスソース(缶詰) ・・・・・1缶(約300g)
マッシュルーム ・・・・・12個
小たまねぎ ・・・・・12個
ベーコン(薄切り) ・・・・・4枚
パセリ(みじん切り) ・・・・・少々

*作り方*
1.鶏もも肉は余分な脂を取り除いて12等分にする。マリネ用の野菜はすべて薄切り、にんにくは包丁で叩いてつぶしておく。
2.マリネ用の材料と赤ワインを合わせ、鶏もも肉を漬けて、冷蔵庫に入れて4~5時間マリネする。
3.マリネしたものを鶏肉、野菜、赤ワインに分けたら、赤ワインは鍋に入れ、約1/4量になるまで弱火で約30分煮詰める。
4.厚手の鍋にマリネしたにんにくを入れ、サラダ油・バター各適量を熱して炒める。
汁気をふいた鶏肉に塩・こしょうをふり、小麦粉を薄くまぶして両面に焼き色を付ける。
ブランデーがあれば、ここでフランべし、鶏肉とにんにくを取り出す。
5.同じ鍋にサラダ油を足し、マリネした野菜をよく炒める。(鍋底に付いた小麦粉を木べらでこそげながら炒めるとよい。)
6.鶏肉とにんにくを戻し、煮詰めたワイン、ドミグラスソース、水1・1/2cupを加えて、弱火でじっくり約40分煮込む。
鶏肉を取り出したら、煮汁を濾し器で濾し(→ソース)、鶏肉と一緒に鍋に戻す。
7.フライパンにサラダ油・バターを熱し、軸を取ったマッシュルームを弱火で炒め、水少々を加えて蒸し焼きにしたら、取り出しておく。
続けて小たまねぎ、3cm幅に切ったベーコンを入れて炒める。
小たまねぎを赤ワイン煮の鍋に加えて少し煮込んだら、マッシュルーム、ベーコンも加え、塩・こしょうで味を調え、最後に冷たいバター大さじ2を加える。(→monter )
器に盛ったら、パセリを散らす。



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2009年12月07日

ミレーヌ・ファルメール Mylene Farmer - C'est dans l'air !

フレンチ・ポップス界の人気歌姫、ミレーヌ・ファルメール Mylene Farmer の最新ライヴ・アルバムがちょうど今日リリースされた。2009年6月にフランスで行なった壮大なスケールのステージの模様を収めたCD2枚組作品で、タイトルは‘No. 5 on Tour’。彼女はどのくらい人気があるのか。会場を埋め尽くす観客の熱狂を見ればそれを実感できるだろう。

MYLENE FARMER - C'EST DANS L'AIR

ミレーヌ・ファルメールの名前はときどき耳にしていた。80年代に似たような名前の歌手がいたなあと思っていたら、同一人物だと最近知ったのだった。ゴシックな要素が入っていたり、フランスのマドンナって感じのビデオクリップを見ても、80年代のときの印象とはかけ離れていたし、そんな昔から活躍していたような年齢には見えなかったから。1961年生まれというから、すでに熟女の域だ(マドンナだってそんな歳か)。もちろん、年齢なんて問題ではない。最近の方がアクが抜けて何だかラブリーな印象すら受ける。

ミレーヌ・ファルメールはカナダのケベック生まれ。フランス語圏だけでなく、ロシアや東欧でも人気が高く、売れたアルバムの総数は2500万枚を超えている。しかし、名誉な賞の授賞式にも出なかったりと、メディアの露出度は少なく、主としてコンサートとビデオクリップによって彼女の音楽の世界を作り上げている。1991年に狂信的なファンが彼女に会おうとして、レコード会社の受付係を銃殺した事件が起こり、それが彼女をメディアから遠ざけることになったようだ。それでもライブアルバムの音源となったコンサートの直後に France 2(6月14日)にインタビュー出演しており、彼女の魅力的な仕草を垣間見ることができる。

Mylène Farmer 2009 06 14 Interview dans JT de France 2

曲のタイトルが、 ’Dessine-moi un mouton’ や ’Beyond my control’などと文学作品を暗示していたり、ビデオクリップもどれも凝っていてクオリティが高い。VCはセクシャリティを強調したものも多いが、アルバム「Avant que l'ombre...」(影が迫り来る前に)からの5本目のビデオクリップ、「Peut-etre toi」(あなたかも)は日本の「プロダクションI.G.」とのコラボによるアニメ作品だ。その制作には監督の楠美直子や作画監督の黄瀬和哉など『イノセンス』(押井守監督『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』の続編)のスタッフが集結することになった。

Mylène Farmer - Peut-Être Toi

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2009年12月05日

アメリカのフランスに対するイメージが著しく改善 29%から62%へ

12月3日付の「ル・モンド」紙 'L'image de la France aux Etats-Unis progresse considérablement' によると、アメリカのフランスに対するイメージが著しく改善したようだ。10月と11月に行われた2000人対する調査の結果、62%のアメリカ人がフランスに対して好意的だった。2003年の調査では29%だったが、その年は、フランスがイラク戦争に関してアメリカを厳しく批判していた時期である。その後、2005年46%、2007年48%と上昇していた。また民主党支持者(71%)の方が共和党支持者(53%)よりも、フランスに対して好意的という結果も出た。

chirac02.jpgアメリカ人はフランスに対して抱いていたわだかまりを忘れてしまったのだろう。2003年においてフランスはアメリカに極端に反感を持たれたが、それはイラクに関する対立から生まれたものだった。「クリアストーム事件」で株を落としてしまったのドヴィルパン首相(当時はシラク政権下、写真)も国連の演説でイラク開戦に反対を表明したときはカッコよかったし、アメリカ人がフランス産のワインをヒステリックに割っていた光景もつい最近のことのように思えるが、その後のイラク戦争の泥沼化は、どうみてもフランス側に理がある。アメリカ人はフランス人の視点を評価することを学んだのかもしれない。もちろん、フランスが正義を通したとかいうキレイ事では全然ない。イラク戦争はフセインが外貨準備をドルからユーロに切り替えようとしたことが原因とも言われている。今もくすぶり続け、誰が最初に抜けるかチャンスを伺っているようにも見える「ドル離れ=ドル危機」の流れの中の出来事とも言えるのだろう(そういえば、ドル円は先週末84円台をつけたあと、今週末90円台まで一挙に戻した)。

アメリカにおけるサルコジ大統領のイメージも世論の建て直しに一役買っている。アメリカでのサルコジ大統領のイメージはすこぶる良く、アメリカと一緒にやっていこうという彼の意志が浸透している。思い出せば、サルコジ大統領は大統領就任直後、真っ先にアメリカに飛び、演説のなかで「アメリカを愛している」とまで言った。当然の巡り会わせとして、フランスのオバマ大統領の人気はヨーロッパのどの国よりも高いのである。




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2009年12月04日

フランス・テレコムで何が起こったのか?(2)

フランスの雑誌 Nouvel Observateur に掲載された「フランス・テレコムの自殺の波−オンラインの苦しみVague de suicides à France Télécom − Souffrances en ligne 」の続き。



orangestresse.jpgステファヌは毎週、他の何人かの同僚と同じようにメールで配置換えの提案を受け、それに暗に答えることを強く求められている。ステファヌは43歳。「私は老い始めていることを思い知らされた」。また別の日にはマネージャーが近いうちにリストラがあるかもしれないと言い、万力で締め付けられるように感じた。ある同僚のことが彼の頭から離れない。同僚がバカンスから帰ってきたとき、彼の机には他の誰かがいて、持ち物がダンボールに入れられ、階段の踊り場に放置されているのを見つけた。ステファヌは誰も守られていないことを知っている。フランステレコムにおいて、良い社員とは黙って去っていく社員なのだ。

「精神的な打撃を与えるために、管理職ならMOTに、平社員は店舗か10-14に送ると脅される」と、ティフェーヌは証言する。10-14とは、大量飼育の鶏のように一列に並び、不満な顧客の電話を受けるプラットフォームである。非常に辛いその業務は、販売の研修も、コミュニケーションの研修も受けていない技術者にとって拷問に近い。MOTは、「mission opérationnelle temporaire (一時的作業の任務)」の頭文字であり、最大で6ヶ月間、ときには本人の立派な資格にはそぐわないポストか、することのない暇なポストに割り当てられる。かつて多忙だった上級管理職のセバスチャンもそのようにして「1日3時間」の恥ずかしくて誰にも言えないようなポストに割り当てられた。

フランステレコムの社員たちは雇用の安定と安心のために公的な仕事に就いた。民営化が達成され、今彼らがいるのは柔軟性 flexibility-flexibilité という悪夢の中だ。シャンタルは名の通った部署を経た上級管理職であり、彼女は2年前から「任務」についている。社内での面談をおよそ100回受けたが、無駄に終わった。「彼らはシステム化されたハラスメントを確立した。私たちの間で、それは年長者殺しと呼ばれている」と彼女は言う。「マネージャーは服従させるために選ばれている。彼らを見ると、私は kapos (ナチスの強制収容所の班長)のことを思い出させる。その唯一の目的は人々を解雇することだ。もう一方の鎖の端では、サンディが働いている。今は店舗にいるが、その前はコールセンターにいた。彼女もまたマネージャーの役割がここ10年で変わってしまったと言う。「今、マネージャーは私たちを助けるためにいるのではありません。逆に、私たちに悪い評価を下すために欠点ばかりを洗い出します。そのため恐ろしい雰囲気になっています」。以前は、技術の知識を分け合う「リーダー」がいたと、元社員は言う。今は、人事を支配する「マネージャー」がいる。

企業文化の変化は根本的なものであると同時に急激である。「金融の論理が組織全体を支配してしまった」と『ストレスにさらされたオレンジOrange stressé 』(写真上↑Orange はフランス・テレコムの携帯ブランド)の著者、イヴァン・デュ・ロワ Ivan du Roy は分析する。それぞれの従業員は定められた目的を持ち、常に評価され、同僚との競合関係に置かれる。販売員は多くの使用契約を取らなければならないが、マネージャーは管轄の人員を減らさなければならない。

もちろん、このような雰囲気が直接的に自殺の原因になったとは言えない。しかし、落胆の空気が支配している。オフィスでは、最先端のテーマを扱った博士論文を書いている人間がコピー取りをしたり、ポリテクニシアン(理工科学校出身のエリート)が会議でオレンジジュースを配っているのを目にする。たくさん売るためにちょっと嘘をつくという思いつきに耐えられない無愛想な技術者が販売店に配属されていたりする。RH(ressources humaines 人的資源)の部署が廃止された、51歳のサンドラには、自宅から300キロ離れた職場が提示される。みんな身をかがめ、顔には失望の色が浮かぶ。誰もあえて語らない。なぜなら、サンドラが言うように「誰がマネージャーに告げ口するかわからないから」から。

しかし、みんな目撃している。女性は泣き崩れ、男性は精神的に参ってトイレに逃げ込むか、看護婦のところに行くのを。心筋梗塞を起こす者もいるし、指をコンセントに突っ込んで死んでやると言う者もいる。神経的な発作も起こっている。ある者は抗うつ剤の影響で、会議で一貫性のない発言をする。同僚のあいだで、起こっていることに不安になっている自分を見る不安の瞬間が多々ある。欠勤も相次いでいる。それは従業員一人当たり年間で平均4週間になる。抗うつ薬を飲んで働きに来る人たちもいる。嘱託医でさえ疲れ果てている。組合によると、企業の70人の従業員のうち10人が、苦痛に耐えられずに退職してしまっている。仕事の構造的な組織化によって生み出される被害をケアするのは「カウンセリングルーム」ではないはずだと、彼らは言う。「それはアスベストのようなものだ」と彼らの一人は言う。「これ以上病気にならないためには、それを廃止すべきだ。ここで病気の原因になっているのは、人事管理のやり方だ」。

7月14日、自殺したのは、移動体通信網の専門家で、マルセイユ出身のミシェル・ドゥパリ Michel Deparis だった。自分の行動をはっきりと示すために、彼は手紙を残した。「私は、フランス・テレコムの仕事が原因で自殺する。(・・・)多くの人がこう言うだろう。仕事以外に原因があると。しかし、違う。仕事が唯一の原因なのだ」。ミシェル・ドゥパリはマラソン選手だった。歯を食いしばることには慣れていたが、何よりも困難なレースが存在するのだ。



フランスの大企業は伝統的に経営者と従業員の立場がはっきり分かれている。最近は改善してきているようだが、大企業の経営者の半分近くがエナルク(enarque=ENA出身のエリート)の官僚によって占められていた時期もあり、現場の従業員が出世して経営側に回ることがほとんどない。そのため経営者は従業員のことはあまり考えないし(日本とは逆に福利厚生は国任せ)、従業員は将来経営側に回れると思っていないので、経営に対して無関心になる。確かにちょっと前までフランスといえば、サービスや接客の態度が悪く、見るからに労働生産性が低そうだった。それゆえ中間管理職といった現場とトップとをつなぐポストが存在してないか、あっても機能していないケースが多かった。しかし、国際経済の荒波に巻きこまれたフランス企業もどんどんアメリカ化している。もちろんそのため中間管理職といった会社内の調整役も必要になるのだが、フランスはこの部分が脆弱なので従業員は孤立化する傾向が強いのだろう。一方でアメリカでは雇用が流動化していて、解雇されたとしても次の仕事を見つけやすい。それを前提にリストラが行われるが、そういう受け皿がない状態でリストラだけを行えば、社員に大きなプレッシャーがかかることは想像に難くない。しかしフランスでは雇用の流動化にアレルギーがあることは、2006年のCPEに反対するデモの盛り上がりを見てもわかる。この問題は日本と共通していて、正社員の権利が手厚く保護されているがゆえに、イヤガラセのようなことをして自発的に辞めるようにしむけるのだろう。

アメリカ式の企業運営の最も象徴的な存在がコンサルタントである。上の記事の中でマネージャーと呼ばれている人々である。理論的には企業に対して客観的な助言や戦略を提供する役割を果たすことになっているが、実際は組織活動の再編の中でも不快な業務―つまり退職勧告、部署の廃止、残された業員の新たな任務の分配―を請け負っている。リチャード・セネットによると、経営者にとってのコンサルタントの効用は、何よりも企業内に権力が行使され、重大な変化が起こっているという信号を送ることができる。一方で企業の中枢に居座る重役たちは不快な決断に対する責任を免れる。我々ではなく、コンサルがやったことだと。そしてコンサルタントは企業に入ってきたと思えば、すぐに出て行く人々で最終的には責任を負わない。これだけコンサル業が政治力を発揮しているのは、命令と責任が結びつかないからである。これが最大の柔軟性なのだろう。

新興国を含めた厳しいグローバルな競争にさらされ、いっそうのコスト削減と、技術革新と市場の変化に迅速に対応するためのフレキシブルな組織が必要になった、というのが彼らの考え方のベースになっている。何よりも人件費を削減することが最大の問題としてクローズアップされる。今更だが、企業はもはや個人を支え、人間関係をはぐくむためにあるのではない。フランス・テレコムの内情がそれを赤裸々に語っている。企業はそれ自体のために、企業が存続するためにある。アメリカからもたらされた「金融の論理」とは、従業員のことを考えるよりも、配当を要求する株主に答えることだ。つまりEPS(一株あたりの利益)を上げることが最優先される。

そして現在、人間は労働の担い手というよりも、潜在的な能力を持った人的な資本とみなされている。労働者は新しい事態に対応するために、みずから能力を開発することを怠らない。そのために自己投資を続けなければならない。外資系の銀行に勤めている友人によると、今回の金融危機で多くの社員が解雇されたが、みんなそれをチャンスと捉え、大学院に入り直したり、新しい資格を取ったりして、更なるスキルアップを図るのだという。若い社員だけでなく、40代、50代の同僚さえもそういう自己投資に何百万円もかけることを厭わないようだ。つまり、そのときどきに何ができるかという、スキルのリストアップよりも、自分がどれだけ潜在力を高め続けられるか、それが評価の対象になる。

つまり現代の労働者は自分を事業主としてセルフ・プロデュースしながら、市場で競争し、常に生産力を高めていかなければならない。その手始めが、就職活動の際に求められる「就活力」なのだろう。日本では70年代以降、大学がエリート教育の場であることをやめ、大学新卒者の大量採用によって、大学生はサラリーマン予備軍と化した。その背後には終身雇用制度と年功序列賃金制度の確立があった。その時代の仕事はそんな過大な能力を要求するものではなかったし、むしろ頭を空っぽにして社畜になることが推奨された。そして就職の際には最低限の体裁と身振りを整えるマニュアルがあった。今は全く別の意味で大学と仕事が結びつかなくなっている。つまり、大学(縦割りの学科で構成される現状では)で何かを学んだとしても、それはある知識を詰め込み、ある技術を身につける、限定的な一段階にすぎなくなっている。





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2009年12月01日

皇帝ペンギン

皇帝ペンギン -La Marche de l'empereur-来年の正月の目玉映画のひとつとしてジャック・ペランの「オーシャンズ」が公開される。「WATARIDORI」で様々な渡り鳥の生態を記録したペラン監督が、世界中の海とそこに暮らす生命体を革新的な映像美で描いた海洋ドキュメンタリーだ。ハンドウイルカの大群、ザドウクジラの捕食、5万匹に及ぶクモガニの交尾、ウミガメの孵化など、自然界で起きる奇跡的なシーンの数々。日本版ナレーションを宮沢りえが担当したことも話題になっている。

フランスは自然界を舞台にしたドキュメンタリーの秀作を多く生み出しているが、リュック・ジャケ監督の「皇帝ペンギン La Marche de l'empereur 」もそのひとつに数えられるだろう。こちらは南極に住む皇帝ペンギンの産卵と育児を追った作品であるが、それは自然界で最も過酷な子育てとも言われる。

しかしそういう過酷な自然の中にあってもペンギンは何をすべきか知っている。やるべきことがプログラミングされているからだ。ペンギンたちは気の遠くなるような距離を歩き続け、極寒の吹雪の中で何日も立ち尽くし、その営みを何代にもわたって続けるのである。

分化し、専門化した本能は、それぞれの状況において何をすべきか、絶対的な確かさをもって指令を下す。分化した動物は生存目的と関係のない対象を知ることはない。人間のように対象を対象として捉えずに、行動系列の一部として把握する。動物にとって生態的に限定された環境で生きることは当然のことで、それに完全に対応した器質と本能を持っているので、不確実さや迷いが生じることもない。知覚は何らかの行動に結びつき、根拠のない行動、つまり知覚からの指令のない行動は存在しない。知覚と行動が完全に調和した円環の中を生きている。

ペンギンの生の営みに驚異と畏怖を感じるのは、ペンギンが自然の中に完全に組み込まれているからだ。またそのように人間が自然=ペンギンを対象化し、さらに表象しようとするのは、人間が自然と乖離し、自然から疎外されているからでもある。私たちの弱さの本質はそこにあるのだ。宇宙の果てについて思い巡らすのも、将来のことを考えて不安になるのも、人間だけなのだ。

ペンギンにはひとつの決まった仕事が待っている。しかし私たちは何をすべきか知らないし、自分の任務は何ひとつ決まっていない。これから仕事を探そうとしている若い人には羨ましいことだろう。ペンギンの姿を見ていると意外にも人間の労働について考えさせられる。人間は良くも悪くも可能性の生き物なのだ。動物はすべてがプログラムされているから可能性がない。

近代以前、生まれてから死ぬまで自分の生まれた村から出ることなく一生を終えた時代の人間は、ペンギンに近い存在だったのかもしれない。近代化とは人間をそういう反復と習慣に塗りこめられた動物的な環境から解放することだったが、人間を絡めとっていた(一方では安心と安定を与えていた)あらゆる文化的な網の目は次々とほどけ、よりどころのない世界に放り出されてしまった。私たちの周囲で渦巻く知覚=情報は、私たちの人生をますます不確実で、迷いに満ちたものにしている。

それでも歩くペンギンのコケティッシュな姿を見ると頬がゆるむし、柔かい毛に覆われたペンギンの赤ちゃんの愛らしさには癒される思いがする。不況の時代には動物や赤ちゃんのCMがうけるという話を聞いたことがある。過酷な状況に置かれたとき、人間は盲目的で絶対的な、本能のような感情に身を任せたくなるのだろう。それは現実逃避ではなく、過酷な状況を過酷だと思わないプログラミングへの志向性なのだ。個人的には、両足の上に卵を載せて温めていたお父さんペンギンが、卵を落として割ってしまったときの表情に言いようのない切なさを感じてしまったが、これも人間の勝手な感情移入に過ぎないのだろう。

LA MARCHE DE L'EMPEREUR - trailer
□フランスのエレクトロな歌姫、エミリー・シモンがサントラを担当



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