2010年03月31日

就活化する世界(2) ハイパーメリトクラシーとは

それに対して、今求められつつあるのは、既存の枠組みに適応するよりも、新しい価値を自ら創造し、変化に対応し、変化を生み出していく人材である。組織的、対人的には、異なる個人のあいだで柔軟にネットワークを作り、そのときどきの必要性に応じて他者を使いこなすスキルを持つことが必要になる。

多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで  日本の〈現代〉13教育社会学者、本田由紀はそれをメリトクラシーに対して、「ハイパーメリトクラシー」と呼び、前者が要求する近代型能力に対して、後者が要求する「ポスト近代型能力」を対置する。近代型能力において、努力=勉強すれば向上できる部分が相当に大きかった。受験勉強に代表されるような知識の暗記、公式や文法規則の適用、計算の習熟などの能力を伸ばすために最も必要なことは、時間をかけてしかも効率的にそれらのスキルを自分の頭に叩き込むことだった。つまり近代型能力を身につける一定のノウハウが存在し、それを的確に繰り返せばよかったのである。

しかしポスト近代型能力は努力やノウハウとはなじまない。個性や創造性、ネットワーク形成力を知識として詰め込むことはできないから。これらの柔軟で形が定まらず、しかも十人十色な能力は、身につけるためのはっきりしたマニュアルが存在しない。ポスト近代型能力は、個人の生まれつきの資質か、あるいは成長する過程での日常的、持続的な環境条件によって多くの部分が決まる。それは個人の人格や感情や身体と一体化したもので、家庭環境の及ぼす影響も大きい。

この求められる能力の変化は根拠のない話ではない。実際に、1996年に経済団体連合会が提出した「創造的な人材の育成に向けて―求められる教育改革と企業行動」の中にはっきりと書かれている。それによると、これから評価されるのは「主体的に行動し、自己責任の観念に富んだ、創造力あふれる人材」、「他者の定めた基準に頼らず、自分自身の目標・意思に基づいて、進むべき道を自ら選択して行動する」人材である。問題への対応に際しても「知識として与えられた解決策を機械的に適応するのでなく、既存の知識にとらわれない自由な発想により自力で解決する能力」が求められるのだ。教育の領域でこれに対応するのが、1996年の中教審の第1次答申に打ち出された「生きる力」である。「生きる力」もまた「人間としての実践的な力」であり、「単に過去の知識を記憶しているということではなく、初めて遭遇するような場面でも、自分で課題を見つけ、自ら考え、自ら問題を解決していく資質や能力である」と定義されている。

教育の職業的意義―若者、学校、社会をつなぐ (ちくま新書)整理してみよう。メリトクラシー=近代型能力が「基礎学力」、「標準性」、「知識量、知識操作の速度」、「共通尺度での比較可能性」、「順応性」、「協調性、同質性」という言葉で表現されるのに対し、ハイパーメリトクラシー=ポスト近代型能力は「生きる力」、「多様性、新奇性」、「意欲、創造性」、「個別性、個性」、「能動性」、「ネットワーク形成力、交渉力」によって特徴付けられる。

もちろん、近代型能力とポスト近代型能力が完全に入れ替わったわけではない。近代型能力は依然としてベースにあって、その上に新たな能力が付け加わりつつあるという形だ。もはや「ガリ勉」タイプが全く評価されない時代(佐藤俊樹)になってしまったが、表向きはスマートにふるまえる「隠れガリ勉」は全くOKだし、むしろそれが推奨されるのかもしれない。またハイパーメリトクラシーは人間の全人格にわたる様々な側面を不断の評価のまなざしにさらす。例えば、大学の授業の平常点評価を考えてみればいい。期末試験の一発勝負で成績を決めるのではなく、毎回の「授業の態度」で評価するとする。出席していたか、ちゃんと授業を聞いていたか、授業で積極的に発言したか、グループ学習の際にグループをうまくまとめていたか、など授業のあいだに言動が絶え間なく評価される。実際にそこまで細かく評価する教師はいないと思うし、「授業の態度」なんて本来数値化できないものだ。しかし、ハイパーメリトクラシーは、意欲や創造性、柔軟な対人関係能力を日々の生活において常に発揮することを求め、それを不断に評価する。それは社会が個人を裸にし、その「剥き出しの柔かい存在」(本田由紀)のすべてを動員し、活用するという、ある意味非常に過酷な状況と言える。
(続く)




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2010年03月30日

3月の音楽 “Complainte Pour Ste Catherine” Kirsty MacColl

ショーウィンドウの中はもう春一色。本番まであと一歩、なこの時期にふさわしい、うきうきする曲を選んでみました。
 
Kiteロンドン出身のシンガー・ソングライター、カースティ・マッコールによるカバーで、アルバム“Kite”の最後を飾るナンバー。日本では、ポーグスのクリスマスクラシック、“Fairytale of New York”のデュエットのお相手として認知されているようですが、本人名義のアルバムもなかなかすてきなんです。
 
オリジナルはカナダのフォークデュオ、ケイト&アンナ マッギャリグルのローカル色あふれる一曲(ケイトはルーファス&マーサ・ウェインライト兄妹のお母さん。先頃闘病の後召されました。R.I.P.)Ste Catherineは、乙女・女学生の守護聖人ですが、この曲ではモントリオールの目抜き通り(サントカテリーヌ通り)にもひっかけていて、激寒(マイナス30度!と歌詞にあり)の街をうろつく彼女のひとりごと、的な内容。ちょっと野暮ったいけれどウォームな伴奏にのせしみじみ歌っていたのが元々のスタイルでしたが、カースティは真逆の音をぶっつけて、全く違うイメージの曲に仕立てています。
 
彼女が選んだのは、西アフリカの音楽、ハイライフ。にぎにぎしいホーンセクションを引き連れ、疾走するエレクトリック・ギターが印象的な音楽です。童謡を思わせるメロディーに、カースティの色気を感じさせないイノセントな声がマッチして「無邪気なばか騒ぎ」の音楽が誕生しました。
 
天駈ける勢いのギターの音色が、ゆるんできた3月の空にすいこまれるようで、爽快。桜一色の春のうたもけっこうですが、こういうからっとしたのもまたよろしいんじゃないでしょうか。
 
Youtubeでは残念ながら試聴できません。収録されているアルバムは、上質の甘酸っぱいギター・ポップがいっぱい詰まっていて、いい感じの「女の子っぽさ」にも満ちています。ぜひお試しあれ(ちなみにこの曲ともう一曲だけ、フランス語で歌っています。 

□同じアルバムでの彼女はこんな感じです。
http://www.youtube.com/watch?v=lOKWqtocXWs
http://www.youtube.com/watch?v=46pfPVE5q1o

□The Smithsのカバーもやってます(ギターはジョニー・マー本人!)
http://www.youtube.com/watch?v=2Ic5PlEwivk&feature=related




GOYAAKOD@ファッション通信NY-PARIS

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2010年03月29日

就活化する世界(1) あなたは会社のために何ができますか

トウキョウソナタ [DVD]2008年のカンヌ映画祭の「ある視点」部門で審査員賞を受賞した『トウキョウソナタ』。46歳の主人公の男がリストラに遭う。前の会社で総務課長までやっていた自分が何で他の会社で受け入れられないのか。男のプライドは傷ついている。リストラされた会社でも、新しい会社の面接でも「あなたは会社のために何ができますか」と聞かれて何も答えられない。質問の意味すらわからない。これまで与えられた仕事を淡々とこなしてきただけだからだ。アメリカ式の人事担当者は「すぐここであなたの能力を示してください」とまで言う。自分がゼロから会社のために何ができるかなんて考えたこともない。

「フランステレコムで何が起こったのか」で書いたことだが、今や労働者は与えられた仕事を従順にこなすことを求められているのではなく、潜在的な能力を持った人的なリソースとみなされている。新しい事態に対応するために、みずからの能力を開発し続けなければならない。学習は生涯続くのだ。そのための自己投資も必要になる。外資系の銀行に勤めている友人によると、今回の金融危機で多くの社員が解雇されたが、みんなそれをチャンスと捉え、大学院に入り直したり、新しい資格を取ったりして、更なるスキルアップを図るのだという。若い社員だけでなく、40代、50代の同僚さえもそういう自己投資に何百万円もかけることを厭わないようだ。つまり、何ができるかということと同時に、どれだけ潜在力を高め続けられるか、それが評価の対象になる。

このように現代の労働者は自分を事業主としてセルフ・プロデュースしながら、市場で競争し、常に自分の生産力を高めていかなければならない。その手始めが、就職活動の際に求められる「就活力」なのだろう。日本では70年代以降、大学はエリート教育の場であることをやめ、大学新卒者の大量採用によって、大学生はサラリーマン予備軍と化したが、その背後には終身雇用制度と年功序列賃金制度の確立があった。その時代の仕事はむしろ頭を空っぽにして社畜になること、組織とべったり同調することが推奨された。今は全く別の意味で大学と仕事が結びつかなくなっている。つまり、大学で何かを学んだとしても、それはある知識を詰め込み、ある技術を身につける、限定的な一段階にすぎなくなっている。それはすぐに役に立たなくなるかもしれないのだ(最初から役に立たないというケースも多いのだが)。

このような現状に対する学生の反応を紹介すると、

■「大学で学んだことは限定的な一段階である」という記事の部分に深く納得できる。机上の空論では実践的な問題解決をすることはできない。この力を磨くには、より実践的な場、例えばバイトやボランティアなどで自分から主体的に問題を見つけ、解決するというプロセスを繰り返す必要がある。これは学問と呼ばれるものとは大きく異なる。学ぶだけか、学んだことを実践でアウトプットできるか。気が利くかどうか。社交性があるか。思うに、怖いのは、就活のときからこれらの能力が見られるということだ。
(SH)

■やがて就職活動をしなければいけない身としては、記事の最後のセルフ・プロデュースの話が興味深かった。中学や高校のときと違い、大学は自由だと感じながら、何となく日々を過ごしているが、今できることがあるのではないかと少し危機感を感じた。
(YT)

ところで、近代社会は「人々を生まれや身分と切り離し、その資質や能力に応じて社会の中に再配置する社会」と定義できるだろう。近代以前、人々は自分の生まれた村からほとんど外へ出ることなく一生を送った。生まれによって人生はほぼ決定されていた。しかし近代社会では自分の資質や能力を生かして、自分の望む職業に就いたり、生まれが貧しくても学業によって成り上がることもできる。その意味でも近代社会は個人の自由と平等の実現を建前としているわけである。

その際に基準となるのが個人の成績である。それを基準にして個人を社会の中に位置づける制度をメリトクラシーと言う。「メリット」(=能力)によって人々が配置され、メリットを持つ人々によって統治されている社会だから。メリトクラシーのもとでは、何をめぐって競争しているのか、何を目指して努力すればいいのか、はっきり示されていた。受験勉強がそうであるように、共通に与えられた内容を一生懸命消化すれば、良い成績や学歴を手にすることができた。そしてそれにふさわしい社会的に地位を期待することができた。

つまりこれまで評価の対象になってきたのは、標準化された知識内容をどれだけ習得できるか、どれだけ速くこなせるかなど、いわゆる基礎学力としての能力だった。それはテストの点数や偏差値という共通の尺度によって測ることができ、個人間の比較を可能にしていたのである。それは同時に与えられた枠組に対して個人がどれくらい順応できるかを測っている。組織的、対人的な側面として、同質性の高い文化や規範を共有する集団(つまり日本の企業)に対して協調的であることが期待されていた。
(続く)




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2010年03月27日

『未来の食卓』または未来に食卓はあるのかという話

僕は日本で献血ができない。それは「1980年から2004年までの間に通算6ヶ月以上フランスに滞在歴がある」(日本赤十字社による定義)からだ。つまり、変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(狂牛病との関連が疑われる病気)の原因物質を血液が含んでいるかもしれない危険人物ということである。

未来の食卓 [DVD]このような予防措置は当然必要だし、僕の血液が危険ではないと、僕自身も言い切れない。しかし、僕はそのような危険を賭して、フランスに留学したのではなかった。そこに問題がある。いつの間にか、巻き込まれてしまった。だからといって、僕が無辜の被害者だというわけでもない。というのは、狂牛病の場合で言えば、肉骨粉を飼料にして安くあげようとする社会のシステムの恩恵を十分に蒙って、貧乏学生の身分でもたまには肉を買って食べていたからである。

環境汚染もまた同様である。映画『未来の食卓』を観て、その思いを強くした。このドキュメンタリー映画の原題は”Nos enfants nous accuseront”、直訳すれば「私たちの子供たちはいずれ私たちを告発するだろう」。南フランスの農村地帯では、小児がん患者が増加の一方をたどっている。それは明らかに農薬と化学肥料の直接・間接摂取の影響だ、とモンペリエ大学の医学博士は証言する。除草剤と殺虫剤を散布すれば、少人数で大規模な農地の管理が可能になり、それだけ収穫と収入を増やすことができる。だが、土壌は汚染され、やがては不毛の地となるだろう。

http://www.uplink.co.jp/shokutaku/
http://www.nosenfantsnousaccuseront-lefilm.com/

恐ろしい映像を見た。30年間、有機栽培(フランス語では有機栽培の農作物や製品をひっくるめてビオbioと呼ぶ)を続けてきた葡萄畑と、農薬散布を続けてきた葡萄畑が、ちょうど隣り合わせている。春先、ビオの畑は畝の間に雑草がびっしり生えているが、農薬散布の畑は、まるで墓標のように葡萄の苗木が並んでいるだけで、草一本生えていない。土を掘り返すと、ビオの畑の方は、土塊は湿気をたっぷり含みながらもばらけず、中にはミミズが数匹這い回っている。農薬散布の方は、煉瓦を重ねたように粘土質の階層状に分離してしまう。もちろん生物は皆無だ。どちらがまともか、一目瞭然である。だが、僕たちが口にするフランスワインの大半は、この煉瓦状の土から育った葡萄で作られていると思ってよい(ちなみに、「AB (agriculture bio)」というビオの認定マークを受けるには最低3年間の無農薬栽培が必要)。

こうした現状に危機感を抱き、南仏のバルジャック村では、村長のイニシアティブで学校給食の完全ビオ化を実行した。農薬を使い続ける家庭もあるなか、その意義をめぐって村では議論が巻き起こる。健康が大事なのは分かるが、ビオは作るのに手間がかかり、買う側としても値段が高い。しかし、村の映画館で開催された討論会で、村長は言い放つ。「すぐに金の心配をするな、まずは自分の良心に問いかけろ」。実際、ビオ給食は赤字予算なのだ。それでも、これは必要なことなのだから、他の予算を削ってでもやらなければならない、と村長は確信している。

良心の問題は、労働現場にも影響する。給食をビオにしてから、調理人の意識が変わった。かつては殺虫剤まみれの缶詰を使っていたが、今では自分が責任をもてる食材を子供たちに提供している。そのことが、調理人にとっても誇りとなる。学校の片隅には畑が作られ、子供たちはビオを食べるだけでなく、野菜の栽培と収穫を通して、ビオのサイクルに自ら関わることを教えられる。教師も、子供たちの前で、消費社会の矛盾をはっきりと口にすることができる。

僕はと言えば、まさに殺虫剤まみれの缶詰を3年間もフランスの大学の学生食堂で食べた人間であり、今さらながらぞっとした。しかも、それが自分の子供に間接汚染を惹き起こすかもしれないということになれば、まさに僕は次世代への犯罪に加担したことになる。知らなかった、では済まされない。と言うよりも、まさにそんなことも知らずに、生産と消費のからくりも知ろうとせずに、汚染された食品を摂取し続けたことが罪状となるのだ。それは逃れようのない罪と言うべきだろう。僕は子供たちに告発されるのを待つしかない。

映画の冒頭、ユネスコの会議でアメリカの科学者が警告する。「近代が始まって以来、子供の健康が初めて親のそれに劣るであろう」と。医療技術の発達が乳幼児の死亡率や疾病率を下げてきたとすれば、環境汚染が今度は子供たちをゆっくりと殺していくことになる。「そんなことがあってはならない(That should not be.)」と科学者は付け加えた。本当にそうだ。野菜が虫に食われる方が、人間が薬品に蝕まれるより、どれだけ平和な光景かわからない。『未来の食卓』とは、一見希望に満ちた邦題だが、この映画の原題が伝えているのは、むしろ「未来に食卓と呼べるものがあるのか」という危機感である。これからどんなものが食べられるのか、というよりも、安全に食べられるものが何かあるのか、という問いに、僕たちは直面しているのである。




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2010年03月25日

「湖のほとりで」

イタリアらしくない映画ともいえるしイタリアらしい映画ともいえるだろうか。

湖のほとりで [DVD]というのもこれは「親子」の映画なのだ。湖の近くにある小さな田舎町。少女が行方不明になるが無事に見つかる。ところがこの少女の口から湖で若い女性が蛇の呪いで眠っているということが語られてから大騒ぎになる。

湖のほとりで全裸で発見された遺体はアンナ。恋人もいてホッケーの主力選手、父親に溺愛されていた美少女とわかる。

そこから犯人の捜査が始まるのだが、小さな町の町民はお互いに顔見知り、さまざまな憶測やうわさが飛び交う。そう多くない登場人物のほぼ全ての親子関係が顔を出す。

犯人と目される少女の恋人は父親を知らず母の手一つで育てられた。捜査の指揮を執る警部の妻は精神病で娘の顔もわからない。真実を知らされない娘はいつまでも子ども扱いと警部をなじる。遺体の第一発見者の男性には知的障害があり、その父親は足が悪く、容姿と才能に恵まれた被害者を憎んでいた。被害者と不倫関係にあったと目される男性には重い障害がある子どもがいたが亡くなっている。

人気があり、将来に何の問題もないと思われた被害者は実は処女で、脳腫瘍であと半年の命だったことがかなり早い段階でわかるのだが、犯罪捜査というのは実にその人の人生を暴きたてるものなのだなあと思いいたる。何が好きで、何が嫌い。どんな人と付き合い、どんな夢を抱いていたのか。殺されるのはもちろん嫌だが秘密にしておきたいこともすべて白日にさらされる。それもまた嫌な話だ。

ここで描かれるのは親子の悲劇だ。親だからといってすべての親が子供を愛せるわけではない。望まれぬまま生まれる子供も多い。たまたま美しく生まれつき、才能にも恵まれるか、障害を持って生まれ親に多大な負担を強いるか。それは蓋を開けてみないとわからない。また愛し合っていてもすれ違うこともある。溺愛もまた行き過ぎると病的なものを感じさせる。

懸命に親業を果たそうとしたけれど果たせなかったとき、それを責める事ができるのかー問いかけてくる映画だ。






黒カナリア@こんな映画あんな映画

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2010年03月24日

フランスの子育てが変わった!? ― maternage intensif 

アフリカやアジアで生まれ、アメリカで理論化された maternage intensif という子育てのやり方がある。France 2 で特集していたので紹介してみたい。

eleverautrement01.jpgすべての時間を自分の子供のために捧げる。この子育てをとても有効な方法だと信じている母親が増えている。その一方で、議論も巻き起こしている。キャプシーヌは3歳半の娘を胸に抱いて母乳をやる。このやり方は家族の了解を得ている。「いつまでやるの?」「はっきり決めていないけど…」。父親は「続ければいい」と容認している。母乳のあとは栄養のバランスのために普通のご飯も食べさせる。それは栄養学的な観点からだけではない。母と子供の関係を特権化する方法なのです。それをmaternage intensif(=強い母子関係)と呼ぶ。キャプシーヌはそれをネットで知った。そのためのフォーラムもあった。「子供の欲求に答えるのが嬉しくてやっているの。その喜びを分かち合うサイトがたくさんあるわ」。小児精神科医は、「子供の欲求ではなく、親の欲求でやっているのでは」と疑念を抱く。

大きいスカーフで赤ん坊をおんぶしたまま、一日の家事をやる母親もいる。「ベッドに寝かしておくよりいい。目が覚めたらぐずらないでちゃんと起きるわ」。maternage intensif のもうひとつの側面なのだが、「この子はオムツをしたことがないの。5ヶ月の赤ちゃんでも、子供がおしっこのサインを出したら、すぐに準備することができる。子供の反応を見て、おしっこをさせる。したくなったら眉のあたりが赤くなって私をじっと見るの。自然なおしっこよ。これはしつけではなくて、母子のコミュニケーションの問題。ふたりのあいだに会話を構築するの」。

母子一体化が進む一方で、疎外感を訴える父親もいる。またリポーターはお約束のように「それは赤ちゃんの奴隷になることでは?」と尋ねる。「いいえ、赤ちゃんの欲求に答えているだけです」。「おむつ代がかからないし」と言う父親もいる。7ヶ月のヨアキムは母親と毎日一緒に寝ている。「踏んづけたりするのが怖くないですか?」。「全然」。コドド co-dodo(=一緒に寝ること)もオムツと同じように子供がいやだと言うまで待つ。「この子の姉は一人で寝れるようになるまで3年かかりました」。お父さんの中には疎外されていると感じている人たちもいる。健全じゃないと思っている父親もいる。「ベッドは親用なのにいつも必ず子供が入ってくる」と母子関係が一体化していることを心配する父親。精神科医は言う。「それは母親の強い不安に対する薬のようになっている。父親が疎外されると、夫婦関係にもよくない」。3分の1の家族がコドドをやっていて、ときどきそうするという家族も3分の1いる。精神科医によれば、赤ちゃんの発達にどのような影響があるか、それは大人になってからしかわからない。

以上がニュースの内容である。日本人からすると「なぜそれがダメなの?」っていう印象だが(元サッカー日本代表監督のジーコが6歳まで母親のおっぱいをしゃぶっていたというエピソードなんかも思い出す)、 maternage intensif とは母親が3歳を過ぎても子供を抱いて母乳をやることに象徴されるように、歳を決めて早い時期に母子関係を切り離すのではなく、子供が望むままにべったり関係を続けること。フランスは早め早めに子供の自立を促すお国柄だったので、違和感を覚えている人も多いのだろう。日本人とフランス人のカップルの友達がいるが、日本人の父親が娘を寝かしつけながらそのまま一緒に寝てしまうので、フランス人の母親が子供の自立によくないといつも怒っていたのを思い出す。小さな子供でも別室で寝かせるのが当たり前、子供は親=大人の空間に入り込ませないというのが前提の国だったのに。いろんな分野でフランス的な価値観が崩れている。

このような傾向は情報化、消費化した社会の影響があるのかもしれない。現在求められている「ポスト近代型能力」(本田由紀)は、独創性、視点の広さ、コミュニケーション能力によって特徴づけられる。その能力の開発は子供が生まれた瞬間から始まり、子供を放任しておくだけでは伸ばすことができない。子供の意欲やコミュニケーション能力を伸ばすために子供に手間をかけ、細かく気を配る必要がある。教育社会学者の本田由紀は『多元化する「能力」と日本社会』の中で親子のコミュニケーションの豊富さや信頼関係が、子供の意欲や対人能力などのメンタルなスキルに影響を与えるというデータを出しているが、その種のディスクールは最近メディアの中でも蔓延している。maternage intensif はこういう考えと結びつきやすいし、すでに結びついているのかもしれない。

ニュースに「子供の奴隷」という表現が出てきたが、maternage intensif がフランスで懸念されるのはそれが女性の自立の妨げになるかもしれないからだ。まさに本田由紀は、母親が子供の能力を引き出すことに専念せざるをえないと思うことによって、女性のライフコースの選択に大きな影響を及ぼすのではと危惧している。つまり子供をあきらめるか、仕事をあきらめるかの選択を迫られ、仕事と子育ての両立が難しくなると。



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2010年03月22日

『アンヴィル!』または半端な才能に恵まれることについて

トロント出身のバンド、アンヴィルのことは、名前さえ知らなかった。1982年に発表されたアルバム『メタル・オン・メタル』は、ヘヴィーメタルの領域では名盤として名高いらしい。日本のロックフェスティヴァルでは、ヴァイブレーターを使ったギタープレイが話題になった(僕はのちにミスター・ビッグが電気ドリルにピックを装着して弾いたことを思い出したが、あれもアンヴィルの影響なのだろうか)。アンスラックスやメタリカといった僕でも名前くらいは知っているバンドのメンバーが、アンヴィルのステージを見たときの衝撃を語っている。ガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュに至っては、「僕らは彼らから盗み、そのうえで見捨てた。もっとリスペクトすべきだったんだ」とさえ言っている。

http://www.uplink.co.jp/anvil/

映画『アンヴィル!』は、そんな伝説的バンドの現状を取材したドキュメンタリー映画だ。「伝説のバンド」は、よく数枚の名盤を残して解散する。しかし、アンヴィルは解散しなかった。ヴォーカル&ギターのリップスとドラムスのロブは14歳からの付き合いで、「この世でいちばん近い存在」と呼んではばからない。彼らにとって、いちばん大事なのは、音楽を続けることだった。しかし、バンドでは食えなくなり、現在、リップスは給食の配達係、ドラムスのロブは内装工事現場で働いている。なんだかシルヴァーの名曲「ミュージシャン」を彷彿とさせるが、あれは若い下積みの辛さを歌った曲。50代に差し掛かった二人にとって、「ミュージシャンの人生は楽じゃない」ことは、あまりにも厳しい現実である。

http://www.youtube.com/watch?v=geMC_LDXt1Y

そんな彼らの往年のファンだというルーマニアの女性が欧州ツアーを企画してくれるが、各地のバーやライブハウス巡りは散々な結果になり、プラハでは遅刻を理由に支払い拒否までされてしまう。失意のリップスは、かつてのプロデューサーにデモテープを送る。すると意外にも色よい返事があり、プロデューサーが所有するドーヴァーの個人スタジオで13枚目のアルバム録音に取りかかる。レコーディング費用を稼ごうとリップスは、地元トロントの熱狂的ファンが経営するコールセンターでアルバイトしてみるが、嘘をつけないたちでうまくいかない。結局、彼の姉が200万円相当を貸してくれて、ようやく渡英する。しかし、レコーディングが始まると、プレッシャーを感じたリップスは癇癪を起こして、ロブを罵倒してしまう。プロデューサーが仲裁し、なんとか音源は完成するが、カナダEMIをはじめ、どのレコード会社も出してくれない。「こんな音では、今は出せませんよ」と、糊の利いたシャツを着た社員にあっさり断られてしまう。

Metal on Metalこのあたりを見ていると、バンドが成功するためには、楽曲や演奏の質だけでなく、優れたマネージャーも必要なのだということを痛感する。ビートルズは、ブライアン・エプスタインという青年がマネージメントに乗り出してから、ヒットチャートへの道を歩み始めた。1980年代以降のヘヴィメタ事情に関しては、僕はまったくの無知だが、アンヴィルが時代の潮流に乗れなかったこと以上に、主流に対してアンヴィルを位置づけてくれる助言者が皆無だったことが不幸だったということくらいは想像がつく。

とはいえ、映画『アンヴィル!』がよかったのは、凋落したスターの痛々しい物語ではないところだ。二人には、ちゃんと妻や子供がいて、家庭をまともに営みながら、少年の夢を追っている。そんな彼らを家族たちは温かく、多少のあきらめも込めて、見守っている。セールスというかたちで報われなくても、やり続けること自体が彼らの人生を支えてきたと言える。「人生で一番大切なのは人とのつながりだ。音楽でいろんな人と出会えたことに感謝している」というリップスの言葉は素敵だ。その音楽自体は、残念ながら僕には魅力的には思えなかったけれど、やはりリップスが言うとおり、「人生はいつか終わるのだから、たとえアホな夢でも、今やるしかない」という覚悟は、とても潔く聞こえた。

ドーヴァーで自費制作した13枚目のアルバム『これが13番目だ』をネット上で発売したアンヴィル。すると、日本のプロモーターがアンヴィルをメタルフェスに招待してくれることになる。30年ぶりの来日。幕張メッセで満員の客を前に演奏したところでフィルムは終わる。おまけに、この映画のおかげで、日本ではソニーからアルバムが発売される運びとなった。日本人メタルファンはすごいな。英米ポップスファンの僕は、長門芳郎が、引退してアンティーク家具店を営んでいたアルゾのアルバムをひそかに日本で復刻し、それを知った本人が仰天して連絡してきたというエピソードを思い出した。

大きな文脈で考えてみると、結局のところ、英語圏のバンドであるということが、アンヴィルを完全な忘却から救い出してくれることになったのではないか、と思ってしまう。英語で歌うということは、単にアメリカやイギリスで聴かれる可能性を生み出すだけでなく、英語を母語としない聴衆にも訴えることになる。それは、英語とともにやってきたロックという音楽形式において、英語で歌うことが、もっとも屈折の少ないスタイルだからだ。そうでなければ、僕自身も含め、歌詞を十分に聞き取れない英米ロックをなぜこれほど熱心に聴き続けるのか、うまく説明できないだろう。その背後には、やはり文化的な刷り込みがあると考えるべきである。リズムがすでに身に染みついてしまっているのだ。

それはそれとして、『アンヴィル!』は、人生の目的とは何かということについて、かなり真剣に考えさせられてしまう映画だった。かっこ悪くても、誰も褒めてくれなくても、やりたいことがあるなら今やるしかない、というのは本当だ。と同時に、そんなことは時間の無駄だ、もっと有益なことをすべきだ、という批判に立ち向かうためには、盲目的なまでの自己への信頼と、能天気とも言えるほどの楽観性を備えていなければ、とても続けられるものではない。それもまた才能の一部だと思う。これは、いろんな意味において、誰もを説得する圧倒的才能には恵まれず、しかし人を少しだけ動かすことのできる半端な才能に恵まれた人の勇気の物語である。そして、おそらく、契約や成功に恵まれない多くのミュージシャンや、創造に係わる人にとっても、まったく無縁の話ではないはずだ。


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2010年03月21日

春の音楽(2) GENESIS - THE LAMIA

ザ・ラム・ライズ・ダウン・オン・ブロードウェイ(眩惑のブロードウェイ)(DVD付)(紙ジャケット仕様)「月」の話を先に書こうと思ったが、「蛇」の話が先に仕上がってしまった。今回の曲はジェネシス Genesis の「レイミア The Lamia 」である。この曲は『幻惑のブロードウェイThe Lamb Lies Down On Broadway 』(1975)に収録されている。このアルバムでボーカルのピーター・ガブリエルと他のメンバーの軋轢の収拾がつかなくなり、彼が在籍する最後のアルバムになってしまった。メンバーの人間関係は最悪だったわけだが、傑作というものは往々にしてそういう緊張関係の中で生まれるものだ。『幻惑のブロードウェイ』はラエルという少年が主人公のコンセプトアルバムで、「レイミア」ではラエルが女性の顔をした3匹の朱色の蛇に魅惑される。美しいピアノに導かれた神秘的な曲である。

http://youtu.be/jWRrQ6GlI8o

Lamia には元ネタがあって、ギリシャ神話までさかのぼるのだが、最も知られているのはイギリスのロマン派の詩人、ジョン・キーツ John Keats が1819年に書いた物語詩である。キーツが語るところによると、ヘルメスはこの世で最も美しいニンフを探している途中で、蛇の姿のレイミアに出会う。レイミアはニンフのことを教える代わりに人間の姿に変えてもらう。レイミアはコリントの若者リシウスと結婚しようとするが、結婚式の場で賢人アポロニウスに正体を暴かれ、リシウスは悲しみのあまり死んでしまう。理性と感情のあいだの葛藤を描くキーツお得意のテーマである。

改訂版 雨月物語―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)今でも「魔性の女」という言い方がされるが、そういう女性の原型と言えるのだろう。危険だとわかっていても、たとえ身を滅ぼすことになるという確実な予感があっても、近づいてしまう。まさに理性と感情のあいだを揺れ動きながら。

日本にも同じような蛇の物話がある。上田秋成の「蛇性の淫」である。秋成によって江戸時代後期に著わされた読本の代表作『雨月物語』の中の一篇だ。蛇の化身である美女が豊雄という男につきまとうが、道成寺の僧侶に退治され、最後に三尺の大蛇の姿をさらす。

黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ (光文社古典新訳文庫)セルペンティーナ Serpentina という美しい金緑色の蛇に恋した大学生アンゼルムスが非現実の世界に足を踏み入れていくという、E.T.A.ホフマン Hoffmann によるドイツ・ロマン主義の傑作『黄金の壷』も忘れられない蛇の物語だ(ノヴァーリスの『青い花』やフーケの『水妖記―ウンディーネ』とともに)。

ところでジェネシスの「レイミア」であるが、アルバムの主人公ラエルが不思議な香りに誘われて、シャンデリアに照らされた通路を進むと、そこには霧に包まれ、薔薇色の水をたたえたプールがあった。そこには信じられないことに、女性の顔をした3匹の朱色の蛇がいた。ラエルは恐怖心を抑え、美しさに我を忘れ、服を脱いでプールの水の中にすべり込む…

Rael stands astonished doubting his sight,
Struck by beauty, gripped in fright;
Three vermilion snakes of female face,
The smallest motion, filled with grace.
Muted melodies fill the echoing hall,
But there is no sign of warning in the siren's call:
"Rael welcome, we are the Lamia of the pool.
We have been waiting for our waters to bring you cool."





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2010年03月18日

ロシアン・ドールズ Les Poupées russes

ロシアン・ドールズ スパニッシュ・アパートメント2 [DVD]「スパニッシュアパートメント」の続編「ロシアンドールズ」をようやく見た。「スパニッシュアパートメント」は授業で教材に使い、何度も繰り返し見ているので、登場人物たちと何だか顔見知りのような気がしてしまう。実際、この作品は前作の同窓会的なノリだ。

タイトルになっているロシアン・ドールズはいわゆるマトリョーシカってやつで、入れ子になっている人形のこと。ロシアン・ドールズは、これが最後の相手と思っても、その向こうに理想の相手が待っているのでは、と疑ってしまうことの象徴になっている。ひとりの相手を決めることができない。あらゆる可能性を試さずにはいられない。カバは一生、ひとり(一頭?)の相手と添い遂げるというのに(笑)。

モード雑誌の表紙を飾るスーパーモデルとも関係ができたりして、グザビエ君、ありえない。「スパアパ」でも美しい人妻と不倫していたし。とはいえ、グザビエだけでなく、マルティーヌもウェンディも恋愛に関して至って真剣だ。恋愛にはそれぞれの実存の問題がからむとは言え、傍から見ていてもあまり同情する気になれない。欲望にはきりがない。きりがないのが欲望だ。それって何だがバブリーなテーマじゃない?日本ではバブルの80年代後半くらいに「トレンディードラマ」(笑)でよく見かけたパターンのような気がする。バブルになると自分の可能性まで広がったと勘違いする。可能性のバブルと際限のない差異の戯れの中で溺れてしまうのだ。

この映画の公開は2005年。時期的にもリーマンショック以前の映画なのだが、さらにはユーロ・バブルの産物と言えるかもしれない。ユーロはリーマンショックの直前に1ユーロ=170円(=1・6ドル)をつけるが、2005年はそれに向けてまっしぐらな時期だった。セシルはグザビエと同じ経済学部出身だが、テレビのメロドラマを書いたり、モデルのゴーストライターをやったり、不本意な作家生活を送っているグザビエとは対照的に、金融資本主義の波にうまく乗り(グザビエは父親の意向に沿えばそうなるはずだった)、レズビアンの友だちを集めて羽振りの良い生活をしている。とどめには金融情報メディア、ブルームバーグ Bloomberg にも出演している姿が映し出されている。ウェンディは父親がロンドンに買っておいてくれたフラットに住んでいて、「今じゃ高くて買えないわ」と、不動産バブルをほのめかしている。当時パリでも不動産価格の高騰や家賃の上昇がよくニュースになっていた。

ユーロはリーマンショック後110円台にまで下落し、現在、ギリシャ危機の影響で120円台で低迷している。経済的な余裕があるから恋愛にこだわっていられる。理想の相手を求め続けることは普遍的な問題ではあるものの、今は恋愛すら難しい状況にある。実際、リーマンショックの予感の中で撮られたクラピッシュの最新作「PARIS」の登場人物たちはパリのすさんだ空気の中で萎縮し、臆病になり、人を愛することさえためらっている。

「スパニッシュアパートメント」で混沌としているが可能性に満ちたEUの未来を信じ、「ロシアン・ドールズ」でユーロ・バブルなメンタリティーを描き出したクラピッシュは「PARIS」で明らかに方向転換し、堅実なメッセージを発している。

「みんな不満だらけで、文句ばかり言っている。これがパリだ。」グザビエと同じくロマン・デュリスが演じるピエールのセリフが毎日続くデモの話題と重ね合わせて発せられる。「みんな自分が幸せだということをわかっていない」。パリあるいはフランスという枠の中で不満を言い、分け前をよこせと言っているわけだが、「PARIS」の中で、密航によってパリを目指すアフリカの若者が平行して描かれているように、パリもフランスもすでにグローバリゼーションの波の中にある。そういう自分たちの狭い特権的な枠の中で考えられなくなっている、とクラピッシュは言いたいのだろう。もはや分け前をとるだけとって、逃げ切る場所なんてどこにもない。身も蓋もない言い方をすれば、幸せになるためには幸せのレベルを下げろ、幸せの質を変えろということなのだ。

これは日本の世代間の話にもそっくりあてはまる話でもある。

関連エントリー「PARIS」
関連エントリー「スパニッシュ・アパートメント」




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2010年03月16日

マクドナルド・レビュー

マクドナルド化する社会★先月、日本マクドナルドホールディングスの2009年12月期連結決算が出ていたが、営業利益が前期比24%増の242億円、税引き後利益が3・4%増の128億円と、01年の上場以来の最高益を2年連続で更新。一方、構造改革のため1年以内に不採算店など計433店を閉店するという新たな方針も打ち出している。
★ブログの記事を読んでくれた学生のレポートの一部を紹介。まずは「金融危機下の外食産業(1) マクドナルドの復活」に対して。

■私はこの記事を読んで、「もう絶対ファストフードは食べない」「大学に入って一人暮らしをしたら自分で健康的な食事を自炊しよう」と『スーパーサイズ・ミー』を観て考えていた高校時代の自分を思い出した。そんな自分とは対照的に、現在の私は「先日、年末で閉店するウェンディーズで1つ970kcal.のバーガーを食べ」、「自炊など全くしていない」。
■学生寮で一人暮らしをしながら月単位で生計を維持する必要に迫られてみると、安い出費で手軽に腹を満たせるマクドナルド等のファストフードを避けて通ることはできないことを自覚させられる。そこには選択の余地はほとんど無く、「マクドナルドは不況に強いというよりは、不況が恒常化する世界(まさにグローバリゼーションの本質だ)を前提にしたビジネスを展開していると言った方がいい」という記事に照らせば、高校時代から現在への考えの変化はごく現実的で自然なものなのだと自己弁護したくなる。
■しかし、現状に埋没するのではなく、「食生活がどうあるべきで、それをどうすべきか」を考え続けることを忘れるべきではないだろう。マクドナルドを含めた現在のファストフード業界の多くが持続可能でないことは明白であり、マクドナルドが活躍する現状を肯定し続けるべきではない。私は今後世界で、持続可能かつ手軽で経済的な新しい外食モデルが登場すること(もしかすれば、「自分で」登場させること!?)が楽しみである。そのときには、「任天堂とタイアップして子供を惹きつける」、「週ごとに携帯クーポンを更新して在庫の管理・キャンペーンの強化をする」といった日本マクドナルド社のしたたかなビジネスノウハウからヒントを学ぶことはできると思う。
■いずれにしても、マクドナルドが今後の社会(21世紀で言えば残り9decades)にどのように対応・展開していくかが私自身とても気になる。もしかすると、I'm lovin' it キャンペーンに記事で書かれているような裏側があったと知らなかった私は、いつかマクドナルドにI’m amazed with it状態にさせられるかもしれない。
(HK)

ハンバーガーの教訓―消費者の欲求を考える意味 (角川oneテーマ21)★一時私もバリバリのオーガニック至上&菜食主義者になりかけたが、今はちょっとオーガニック好きくらいの感じで落ち着いた。さすがにマクドナルドは今でも食べる気がしないが、「リーマンショック後」の、あるいは「ユニクロ化する世界」において、外食産業界を餃子の王将とともにしたたかに生き抜く姿に学ぶべき部分も多いのだろう。
★新しい管理形態について書いた「マクドナルドの硬い椅子」が高い関心を呼んでいたが、これに関して、実際にマクドナルドでバイトをしている学生からの証言。

■僕もマクドナルドでバイトをしているが、確かにマクドナルドの椅子は硬い。記事に書いてある通り、客の回転率を上げるためなのであろう。マクドナルドの従業員は速さが重視される。カウンターでは客の注文を25秒以内に受けなければいけないことになっている。僕はあまり守っていないが、注文を受けるときに発する言葉にもマニュアルがあり、これを遵守しなければいけないらしい。自分がまるで機械のように働いている感じがして、嫌気がさすこともある。しかし、ハンバーガーを受け取る客の笑顔を見ると、マクドナルドのアルバイトも捨てたものじゃないと感じる。
■食料廃棄の問題もある。マクドナルドでは出来上がってから7分以上経ったポテトは捨てられる。大量のポテトで埋まったゴミ箱を見るととても心が痛む。マクドナルドが1日に出すゴミの量は非常に多い。1日に僕の1ヶ月分くらいのゴミを出しているだろう。
(SH)

ファストフードが世界を食いつくす★日本の食料自給率は40%と言われるが、世界的な指標とされている金額ベースでは65%ある。「40%」というのはカロリーベース自給率で、日本の農業を貧弱に見せようする農水省が「発明」したとも言われる。日本の農業を再興するために農水省が必要で、そのためには多くの予算をというカラクリだ。
★ところで食料廃棄にからめて言えば、日本が廃棄している食糧は年間1940万トン。これは年間5800万トンの食料輸入量の3分の1にも相当し、それを3割抑えるだけで、自給率は10%以上がる計算になるという。それに加え、日本人は必要なカロリー量の126%を摂取しているカロリーバーな国民なのだ。これも10%くらいそぎ落とせるだろう。
★もうひとつ、環境型管理の例として挙げた「モスキート音発生装置」について書いてくれた。

■ところで初耳だった「モスキート音発生装置」について調べてみた。販売会社の広告には「若者を排除することで、信頼感を与え、女性や年配の方などに安心してお店を利用していただくことができます」と書かれていて、この区別は何だろうと非常に疑問に思った。私も若者に含まれるから、コミュニケーションがどうのこうのという以前に気分が悪い。もしこの装置がどの公園やコンビニに設置されるようになれば、若者には居場所がなくなってしまう。今日居場所を失っている愛煙家の気持ちがわかるような気がした。若者も煙草の煙のように周りの人たちに迷惑をかけているのかもしれないが、やはり年齢という無差別的なふるいで区別するのは間違っていないだろうか。よく似たものに女性専用車両がある。痴漢の被害から女性を守る、確かに重要だが、一部の男性のために、性別で善悪を判断されているような気分になる。反対ではないが、一男性として少し肩身が狭い。
(KN)




★commented by cyberbloom

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2010年03月15日

I DreamYou Love Me Still The Same A. マックイーンの死に思う

アレクサンダー・マックイーンの訃報から一ヶ月が経ちましたが、いまだに実感が湧きません。まだ40才。パンク以降の新しいイギリス発ファッションを世界中に認知させた立役者としたデザイナー、スコットランド系のルーツを大事にするワーキングクラスヒーロー(ロンドンのタクシードライバーの息子でもありました)として広く知られた彼の身に何が起こったのか。
 
alexander-mcqueen-1.jpg母を亡くしたばかりで、死を選んだ日は葬儀が執り行われる事になっていました。スター・デザイナーとして華やかな日々を生きる一方、マックイーンは普通の人である家族との絆を大事にする人だったようです。640,000 ポンドもするフラットに住みながら、下町にある実家に帰っては両親のためにお茶を入れ、クッキーをつまみくつろぐ時間も大事にする。そんなマックイーンにとって、家族の死は深い悲しみであったのは想像に難くありませんが、母の喪失は特別の意味があったようです。
 
社会科の教師をしながら6人の子を育て上げたマックイーンの母、ジョイスは、この「ちょっと変わった」末っ子をずっと支えてきました。16才で学校をドロップアウト。伝統的なイギリス紳士のスタイルを守り続けてきた仕立街、サヴィルロウで仕立職人見習いとして働き始め、ロイヤルファミリーのスーツを手がけるまでに腕を磨いた後、多くの著名デザイナーの出身校として有名な芸術大学、セント・マーティンズ・カレッジで初めて正規の教育を受ける — 他のファッションデザイナーと比べても異色の経歴です。マックイーン自ら、自分のことを”一家のPink Sheep”と称していたそうですが、人と違う道を行く息子を、母はずっと応援してきました。最初のコレクションでは材料の購入資金を援助するだけでなく、針を持ってビーズの飾りを作るのを手伝い、成功した後もコレクションのバックステージで息子を気遣っていたそうです。ゲイである事をカミングアウトしても、最終的に受け入れてくれました。新聞の企画で母からインタビューを受けた際、面と向かって「(あなたを)誇りに思う」と言い切ったマックイーンにとって、その死は計り知れない悲嘆をもたらしたのでしょう。
 
isabella-blowolllkko.jpgこの母とは違うやり方で理解し、支えてくれた人を、マックイーンは3年前に失っています。イギリス・ファッション界の名物スタイリスト/エディター、イザベラ・ブロウ(→)。マックイーンの卒業制作コレクションを、偶然見たのが事の始まりでした。表面のキラキラにまどわされず、真の輝きを秘めた才能の原石を掘り出すことで有名だったブロウのアンテナが反応します。「空いている席がなく、私は階段に腰を下ろしてショーを眺めていた。そして突然思った。素晴らしい。今見せられた作品をみんな手元に置いておきたい。」ブロウは結局、このコレクションの作品全部を買い上げることにします。お値段は、一着300ポンド。デザイナーの卵にしては強気な値段です。さすがにまとめて支払う訳にゆかず、毎月1着ずつ購入することになりました。マックイーンは毎回作品をゴミ袋(!)に入れて持参し、ブロウが代金を銀行のキャッシングコーナーで引き出すのに付き合ったそうです。
 
きっぱりしたボブの黒髪に、発想の限界に挑戦する斬新な帽子(自ら発掘した帽子デザイナー、フィリップ・トレーシーの手によるもの)、流行や虚栄と一線を画した着こなしがトレードマークのエキセントリックな才女は、デザイナーとして一歩を踏み出したマックイーンを励まし、業界の泳ぎ方を教えました。ファーストネームの“リー”ではなくミドルネームの“アレクサンダー”を名乗るよう進言したのもブロウでした。また、押し掛けPRとして、独自の人脈を駆使しマックイーンの売り出しに尽力します。ジバンシーのデザイナーに就任したのも、グッチ・グループ傘下にマックイーンのブランドが入ったのも、ブロウの力添えがあったと言われています。
 
Honor_Fraser_0.jpg強い個性と挑み続ける姿勢はもちろん、笑いのツボから繊細さまで似通ったところの多かった二人は、20才ほどの年の差や階級の違い(ブロウは由緒正しい貴族の出)を乗り越え、友情を超えた強い絆で結ばれていました。マックイーンの両親ともお茶を楽しむ間柄であったようです。しかし、ファッションビジネスの世界は、二人の関係に影を落とします。一般の目には奇抜にしか見えないものにも美を見いだし、世間のファッションの許容度を変えてきたブロウの心意気は、利益を上げていかねばならないビジネスの世界にはしっくりこず、骨を折ったにもかかわらず、「デザイナー」マックイーンと仕事をする機会はついに与えられませんでした。(オードリー・ヘップバーンのお召し物として名を馳せたジバンシーのデザイナーになることが決まった時、ブロウは新生ジバンシーの顔として、イギリスのモデル、オナー・フレーザー(↑)を起用することを考えていたそうです。しかしこの興味深いプランも実現しませんでした。)  
 
名声は得ても実を手に出来ないもどかしさ、失意を味わい続けたブロウは心を病みます。プライベートでの悩みとガン発病が追い打ちをかけ、追いつめられた彼女は、ある日致死量を超える除草剤を飲んで倒れているところを発見されます。徐々に臓器の機能を弱らせてゆく毒のせいで、緩慢な死への時間を耐えなければなりませんでした。お気に入りのマックイーンのドレスを着せられて、ブロウは旅立ちます。
 
マックイーンは、霊媒師をやとってあの世のブロウとコンタクトを試みていたことがあるそうです。ブロウは上機嫌でした。「こっちではみんな元気でやってるわ。でも、ママは私の帽子と靴がどれも気に入らないみたいで、借りようとしないのよね。」今頃、二人で問題解決のために知恵を絞っているのでしょうか。R.I.P.





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2010年03月14日

春の音楽(1) MIKE OLDFIELD "OMMADAWN"

Ommadawn春の音楽と題して、70年代半ばのプログレッシブロックの名曲を3回に分けて紹介してみたい。春の音楽というからには春の風物詩をテーマにしたり、春っぽい雰囲気の曲を選ぶわけだが、音だけでなく、イメージも豊かに膨らませるために文学作品とも絡めてみたい。

まずはマイク・オールドフィールド Mike Oldfield の「オマドーン Ommadawn 」(1975)である。

マイクの最も有名なアルバムは1枚目の「チューブラ・ベルズ Tublar Bells 」(1973)で、それはチャールズ・ブランソンのヴァージン・レーベル創業期(今は飛行機の方が有名)の記念すべきアルバムでもある。全英チャート1位を記録し、これまでイギリスで34番目に売れたアルバムでもある。確かにイギリス人の郷愁をかきたてるような音だ。さらにアルバムの導入部が本人の意図に反してホラー映画「エクソシスト」のサントラに使われ、不本意な形で彼の知名度を上げたことでも知られている。

マイク・オールドフィールドはプログレッシブ・ロックの範疇に入れられることが多いが、ひとりであらゆる楽器を演奏して、ダビングを重ねながら作品を作り上げる元祖多重録音ミュージシャンである。アメリカではニューエイジ系の先駆者として数えられているようだ。1枚目からそうなのだが、3枚目のアルバム「オマドーン」にもタイトル曲一曲(+小曲)で構成されている。CDではPart 1 Part 2 と2楽章に分かれているが、もとはLP盤のA面とB面だった。

Crisisこのアルバムはケルト音楽の強い影響下にあって、イラン・パイプ uilleann pipes というアイルランドのバグパイプも使われている。このアルバムは2枚目と同じくHergest Ridge(ハージェスト・リッジ)で録音されている。そこはマイクが住んでいたヒアフォードシャーとウェールズの境にある丘の名前で、2枚目のアルバムのタイトルにもなっている。マイクはチューブラベルズの成功のあと、人の目を避けて田舎に引きこもっていたのだった。

ジャケットにも写しだされている優しい目をした内向的な青年の隠遁生活が伝わってくるような、途切れのない数十分の音の織物だ。ワーズワースの詩を思い起こさせるような牧歌的な風景が目の前に広がる。雪解けの冷たい水が流れる小川を渡り、ケルトの薄暗い森を抜け、突然開ける平原を横切って、どんどん歩き続ける。

アコースティックな楽器の類だけでなく、エレクトリック・ギターも使われているが、音色がうまく溶け込んでいてあまりエレクトリックな感じがしない。それでいて情熱をひたすら内側に向けるマイクの心の動きを直接映し出すようにエモーショナルで、じわじわと聴く者の魂を高揚させていく。ミニマルなアフリカン・ドラムとも絶妙に絡んでいて、それらが生み出す土着的なグルーブは土の下から萌え出る春の胎動のようだ。

広大な平原でひとり佇み、強風に流されていく雲を見上げているような2枚目の「ハージェスト・リッジ Hergest Ridge 」も甲乙つけがたいアルバムである。ちなみに美しい月のジャケットは中期の作品「クライシス Crisis 」(1983)で、中身よりもジャケットが印象深い。女性ボーカルと組んだキャッチーなシングル曲「ムーンライト・シャドウ」がヨーロッパで大ヒットした。次回はその「月」をテーマにしてみたい。

Mike Oldfield - Ommadawn
Mike Oldfield - Moonlight Shadow


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Mike Oldfield
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おすすめ度の平均: 5.0
5 アイリッシュ・トラッドに根ざした
優しいサウンドが魅力
5 初期最高傑作!
5 最高の非商業音楽
5 イギリス人の心に響く音楽
5 録音が古いところが
現代では少し辛いのですが...。




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2010年03月12日

動物と人間の世界認識(2)

動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない (ちくま学芸文庫)先回、ハリネズミやダニの話を通して書いたように、動物たちはそれぞれの環境を持っている。それは私たちが見ている客観的な世界とは違って、そのごく一部を切り取って見ている。それは極めて主観的で、それぞれの動物によって違うものだ。一本の木にクモとリスが住んでいたとしても、クモにとっての木とリスにとっての木は何の関係もない。それぞれに知覚と行動の独自の系列があり、その中で自足した閉じた回路の中で生きている。動物にとって意味があるのは、ささいな動きや音であって、それが環境を構築する要素になっている。それ以外に存在しているもの、私たちが客観的に存在していると思っているものは、動物にとって存在していないに等しい。動物の世界は客観的なものではない。それは主体の動物が構築し、主体の動物にとってのみ存在する極めて主観的なものである。私たちはイヌやネコの主観を無視して(他の動物よりはシンクロ度が高いかもしれないが)、私たちと同じものを見たり感じたりしていると想像的に感情移入しているわけだ。

それでは人間はどうなのか。そもそも人間のそれは客観的と言えるのだろうか。もちろん人間にも知覚的な枠がある。私たちには紫外線や赤外線は見えないし、感じることもできない。その作用を受けているだけである。それを概念的にとらえ、それが作用している世界を頭で考えている。それは現実的な価値を持つ場合もある。日焼け止めクリームを塗ったり、赤外線ヒーターを作ってそれを熱として感じることができる。目に見えない世界を構築しているわけである。しかしそれは、アゲハチョウが紫外線を感知し、それによって世界を構築しているのとは根本的に違うのである。

人間はどこまで動物か (新潮文庫)人間は何らかの自然の生存圏に対して器質的に適応していないし、そこに組み込まれてもいない。人間は知的活動や計画的活動をするように構造的に強制されている。人間はどんな自然状況にも対応できる生存の技術と手段を用いながら環境に働きかけ、自然を加工したり、方向付けたりして、どんな場所でも、どんな気候のもとでも生きることができる。つまり他の動物とは全く違った可能性を生きているわけだ。

人間はどんな条件のもとでも生きられるが、例えばジャングルに住む原住民が大都市で生活することには困難が生じるかもしれない。人間がどこにでも住めるのは、そこで習慣や訓練によって文化圏を作り上げるからで、文化依存度が高くなるほどそこから離れられなくなる。その場合、自然ではなく文化が問題になる。人間はどこでも生きられるという同じ理由で、どこでも生きられるわけではないのだ。

さらに人間は自分の生きている生存空間や文化圏だけでなく、宇宙の果てにまで思いを馳せる。人間は自分の生きている空間を、それを越える広大な世界の一部として捉え、そのように世界を解釈している。つまり人間は主観的に世界を所有している。人間の意識は部分的にしか知覚できないが、頭の中で拡張できるものすべて、思い抱くことのできるものすべてを所有している。

よく言われるように、人間には他の動物から見ると欠けたものが多い。寒さをしのぐ毛皮はないし、ハリネズミのような外敵から身を守るよろいも、素早く逃げる脚力もない。嗅覚や視力が極度に発達しているわけでもない。何よりもダニのような瞬時に発動する精確な行動形式がない。本能的な行動であっても不確かで迷いが生じるのが人間である。また大人になるまでの成長の期間が長く、長期間の保護が必要なのも人間の特徴だ。
(続く)




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2010年03月10日

FRENCH BLOOM MUSIC と TWITTER を始めました!

お気づきになった読者の方もいらっしゃると思いますが、音楽関連記事を専用にストックするブログ FRENCH BLOOM MUSIC を始動しました。過去記事だけでなく、最新の音楽情報も掲載していく予定です。お気に入りやブックマークにご登録お願いします。INFO-BASE にカテゴリーが増えすぎてカオス状態になっているので、映画と音楽を切り離します。映画専用サイト FRENCH BLOOM CINEMA もただいま準備中で近いうちに始めます。音楽好きのライターがそろっていますので、フランスものをはじめとして、古今東西様々なジャンルの音楽をご紹介できると思います。

□FRENCH BLOOM MUSIC http://frenchmusic.seesaa.net/

ついでに今流行の TWITTER も始めました。INFO-BASE の右サイドバーに表示されるようにしました。今日のニュース(主に FRANCE 2 )で面白かったものをピックアップしたり、日々の感慨を適当につぶやきます。興味のある方 FOLLOW お願いします。



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2010年03月09日

フランスで弁当ブーム!(2) 弁当とプレゼンテーション

Presentation Zen: Simple Ideas on Presentation Design and Delivery (Voices That Matter)先回の記事「フランスの弁当ブーム!(1)」でガー・レイノルズ Garr Reynolds が弁当に言及していることに関してIsaoさんという方からコメントをいただいた。ガー・レイノルズはプレゼンテーション、デザイン、話し方のオーソリティとして知られているが、彼の著作『プレゼンテーション Zen 』はレイノルズが新幹線で駅弁を食べるシーンから始まる。そして彼の隣で文字のぎっしり詰まったプレゼンの資料を用意しているサラリーマンを前にして次のように問うている。なぜこの弁当の精神をプレゼンに発揮しないのか。なぜコンパクトかつワクワク感に満ちた日本の伝統をモデルにしないのかと。ネットでもレイノルズの講演がアップされていて、そこでも弁当に言及されている(23分20秒)。

And the first chapter of the book, I talk about Obento. How many people eat Obentos. Sometimes Obentos are poplular ,very healthy. I sort of use that as an analogy. Obento beautifully, simply packaged. All the content is delicious and nutritious and it’s just enough. How much? Not too much. Not too little. But it’s designed beautifully but nothing goes to waste, right? It’s just all right there, and I thought “Why can’t presentations be like that?” Right, nothing superfluous, everything has a reason and beauty matters but it’s also the content, especially the content that matters.(00:23:20)

なぜ今がプレゼンなどが注目されるパフォーマティブな時代なのかというと、共有されている自明な価値(=大きな物語)がもはや存在しないからだ。みんな壁に囲まれた小さな世界に生きているので、その壁を越えることが先決になっていると言えるだろうか。まずは相手の興味を引かないことには何も始まらないのだ。また人にわざわざ割いてもらう時間は貴重であると同時に、限られた時間でそれほど多くのことを人に伝えられるわけではない。

レイノルズが奨励するプレゼンは、文字や数字を極力少なくして、質の良い画像を使い、視覚的に伝えていくというスタイルだ。確かに細かい文字や数字を目で追うよりも、写真やイラストなどで視覚的に訴える方がメッセージが伝わりやすい。情報の詳細は配布資料に載せておけば、興味を持った人々があとで確実に読んでくれる。見た目よりも、中身が大事だと反論する人もいるかもしれないが、それは正しくない。中身が良ければわかってもらえるというのはコミュニケーションのレベルを考えない傲慢な考えだ。見た目と中身を適切に結びつけることが重要なのだ。それが、’everything has a reason and beauty matters but it’s also the content, especially the content that matters.’の意味するところだろう。

ところで、料理や弁当がどうしてブログのテーマになるかというと、それはプレゼンテーションであり、パフォーマティブな行為だからだ。ひと手間をかけるだけで、その分バリエーションが生まれる世界でもある。会社や大学で行われるプレゼンは一般的に時間をかけて準備されるものだが、料理は一発勝負なのでいっそうパフォーマンス度が高い。しかも料理はいつも流動的な状況で行われる。私が問題にしているのは、ありあわせのもので作る毎日の料理のことである。まず献立をはっきり決めて、それから買い物にいくというタイプの料理ではない。しかしその場合ですら、途中で考えが変わったりして状況は流動的である。食料品店は何かと誘惑の多い場所だから。

冷蔵庫にどんなストックがあったとか、食欲はあるかとか、どんなものが食べたい気分だとか、スーパーの安売りは何かとか、どれとどれを組み合わせることができるか。ちょうどスロットマシーンの目がそろうように、流動的な条件の中でチャンスを捉える。頭の中でとっさに思いついたり、ひらめいたことはその場限りのことで形に残らないが、書き留めておくほどのことでもない。しかし情報とパターンは確実に蓄積されていく。それは潜在力として生かされるのだ。料理は有無を言わせない実践である。理屈をこねる前にとりあえず何を作るか決めて、それを形にして出さなくてはならない。お腹を空かせて殺気立っている人たちが目の前にいるのだから(笑)。

残り物をベースにして作る弁当も基本的に同じである。まさにひらめきが物を言う技芸である。それは弁当の食材や美味しさだけの問題ではない。見た目の色合いや、栄養のバランスや、弁当箱との相性まで視野に入っている。さらには、弁当を相手に渡すときの態度とか、かける言葉とか、そこまでの一連の流れを含んでの弁当なわけだ。弁当はひとつの物語を作っている。むしろ弁当は物語を引き寄せ、いろんな要素を内に折りたたむアイテムと言った方がいいかもしれない。それが弁当を広げるときのワクワク感を生むのだ。(先回、弁当をスノビズムの産物と言ったが、それが下の相撲の話題にも通じるし、マンガとの相性がいいのもそのせいだろう)

Holy Bento(マンガの中の弁当!)

レイノルズによると、印象深いプレゼンには次のような法則が見出せるという。それらは、単純明快であること、意外性のあること、具体的であること、信頼感を与えること、感情にアピールすること、物語性があること。弁当の話題ではないが、『クリエ・ジャポン 1月号』に韓国の新聞記者が書いた「日本独自の文化メイクアップ」という記事が面白かった。この記者もまた優れたプレゼンテーションには物語性があることを証明している。

COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2010年 1月号 [雑誌]韓国には古くから伝わるシルムという朝鮮相撲があるが、なぜ日本の相撲のように国境を越えてアピールしないのか、と記者は問うていた。記者は特派員として東京に住み、日本の相撲を見るようになってシルムに不満を持つようになった。シルムでは水着のようなスパッツをはき、お尻にはスポンサーのロゴまで入る。つまりシルムにはスタイリッシュではないのだ。相撲のイメージは日本相撲協会によって周到に管理されている。お尻は丸見えだが、まわしは独創的な衣装である。髷を結い、土俵入りや四股などの独特な儀式が見所のひとつであり、それによって立会いまでの緊張感を高めていく。こうした立ち振る舞いや形式美のおかげで相撲には格調高い印象がある。相撲のプレゼンテーション効果の高さに比べると、シルムは場末の芝居小屋みたいなものだと。もちろん、どちらが優れているという問題ではないが、世界的な認知度においては相撲がはるかに上である。シルムはスポーツ的要素に重点を起きすぎ、先祖代々継承されてきた豊富な知恵を生かしきれていない、と記者は結論づけていた。

最近マッコリ(韓国のどぶろく)が洗練されてきたのに、相変わらず「安い酒」というイメージから脱却できないのも同じ理由による。日本酒のようにグローバルに成功するためには何かが足らないのだ。日本の酒屋で店頭価格が10万円を越える日本酒がある一方、日本に輸出されるマッコリは500円レベル。安っぽいというレッテルを貼られても仕方がない。日本酒には銘柄それぞれにこだわりがある。何を材料に使い、どのような製造工程で作られるのか。製造過程にこめられたストーリーとパッケージを含めたイメージ作りが付加価値をつけているのだ。




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2010年03月07日

「アコースティックパワーポップ」LP――Le premier clair de l'aube / Tété

Le Premier Clair De Laube待望久しいテテTétéのニューアルバムLe premier clair de l'aube(タイトルは「夜明けの最初の明るみ」の意。4枚目のオリジナルアルバム)。

一聴してすぐに気づくのは、ギターの音色と歌声の変化。ギターは以前よりもずいぶん硬質に響き、声も、意識して音域を下げた感じで、これまでのアルバムに特徴的だったふわふわしたファルセットがほぼ姿を消している。前作(Le sacre des Lemmings(2006))で目立ったストリングスや管楽器も影をひそめ、全体的にシンプルでタイトなサウンドになっている。フォークやブルースを基調にした音楽性自体はあいかわらず。ただ、マイナー調のメロディに乗せてしっとりと歌い上げる、これまでのお得意パターンの曲は今回見あたらない。

リーフレット(私が入手したのは限定版仏盤)にはテテ自身による長文の自作解説(英文)が載っている。それによると彼は、これまでの3枚のアルバムは「オーバープロデュース」気味で「クリーン」過ぎたと考えており、今回は従来の「フォークレコード」とは違う、分厚くてしかもシャープなギターを伴った「アコースティックパワーポップLP」を目指した、とのことである。また、punchy / earthy / dirty / energy and emotionといった言葉を本作のキーワードとして示している。何となくこのアルバムの雰囲気がわかってもらえるだろうか。さらに、本作制作に際し参考にした他人の曲をずらりとリストアップしている――ライトニン・ホプキンスからグリーン・デイ、ウィーザー、はたまたエミリー・ロワゾーまで多種多様――が、これも「ふ〜ん、なるほど」という感じでなかなかおもしろい。音楽家なら御託など並べず音だけで勝負したらいいという意見もあるだろうが、私はこういう説明好きなひとって好きだな。きっとまじめで律儀なヤツなんだと思う。

この変化をどう評価するか、聴くひとによって意見はさまざまだろうが、私は本アルバムを非常に気に入った。これまでの3枚はどれも好きだが、上で引用したテテ本人の不満と同じような不満を(とくに2枚目と3枚目にたいして)ときに感じてもいたので。個人的にはこれまでの最高傑作だと思う。アーティスティック・テテ、メランコリック・テテのファンの感想はまた違ったものになるかもしれぬが...。


■収録曲L'envie et le dédainのヴィデオクリップ。きりっとした名曲。

■日本盤もまもなく出るもよう。詳しくは発売元のブログを参照のこと。輸入盤を入手するのならジャケットがブック形式で、収録曲のデモ・ヴァージョンが5曲追加された「限定盤」のほうがいいと思う。アマゾン・ジャパンのカタログには輸入盤(仏盤?)が2種載っているが、どちらが限定盤かは不明。


MANCHOT AUBERGINE



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2010年03月05日

新旧フランス女優列伝(3)ヴァレリア・ブルー二=テデスキの巻

嘘の心 [DVD]ヴァレリア・ブルー二=テデスキという女優が気になりだしたのは、クロード・シャブロル監督の『嘘の心』(1999)という作品を観た辺りからだ。物語は例によってフランスの片田舎で起きた殺人事件。犯人は一体誰なのか。たまたま通りかかっただけの女性に疑いがかけられるのだが、真相は分らない。この映画でヴァレリアは冷静沈着な刑事を演じており、次第に真犯人を追い詰めていく。

ポーカーフェイスの表情と洗練された立ち居振る舞い。そして、抑制が効いた低いハスキーな声。無機質なようで鋭いまなざし。一目見ただけでは悪玉なのか善玉なのか、全く見当がつかない。しかし、圧倒的な存在感でそこに佇む女…。そんな役をやらせたらこの人の右に出る者はいないだろう。彼女の出現は、確かにフランス映画に新しい風をもたらしたといっても過言ではない。いま、彼女のような実力派女優を抜きにしてはまともなフランス映画を作るのは難しいのではないだろうか。

彼女はある意味で、フランスで最も有名な女性の姉でもある。妹はサルコジ大統領夫人のカーラ・ブルー二だが、彼女の演技力に魅せられてしまった者はそんなことを気にすることはまずないだろう。妹が大統領夫人であろうがスーパーモデルであろうが、そんなこととは無関係に、ヴァレリアは間違いなく映画史に名を残す名女優であるからだ。

ぼくを葬る [DVD]そんな彼女の才能を世界の映画作家が放っておくはずがなく、誰もが好んで自分の映画に彼女を使おうとする。『愛する者よ、列車に乗れ』(1998)のパトリス・シェロー(もっとも、彼女はシェローの演劇学校で学んだ経緯があり、この起用は当然なのだが)。『二人の五つの分かれ道』(2004)、『僕を葬る』(2005)のフランソワ・オゾン。『ミュンヘン』(2005)のスティーヴン・スピルバーグなどがそれだ。『プロヴァンスの贈り物』(2006)のリドリー・スコットの名を加えても良いかもしれない。日本人では諏訪敦彦が『不完全なふたり』(2005)で彼女を主演に据えたことが記憶に新しい。この映画はロカルノ映画祭で高い評価を受けたことで知られている。

余りにもフランス映画で活躍しているので、彼女がイアリア人とフランス人の混血であるということを忘れてしまいそうになるが、ある映画がそのことを思い出させてくれた。日本で『明日へのチケット』(2005)という題で公開されたその映画は、ケン・ローチ、アッバス・キアロスタミ、エルマンノ・オルミという三人の名匠が撮った短編によって構成されるオムニバス映画である。三本の短編はどれも、ある特急列車に乗った人物を主人公にしている。

明日へのチケット [DVD]エルマンノ・オルミが監督した作品の中で、ローマに帰る大学教授を駅まで見送る企業秘書の役をヴァレリアは演じている。教授は列車の中でも秘書の面影が忘れられず、回想に浸る…。この映画でヴァレリアは当然ながら終止イタリア語を話すのだが、これまでフランス語を話す彼女ばかりを見ていた観客に、これはいささかの驚きをもたらしたと思う。フランス語を話すときは冷徹な雰囲気を醸し出すヴァレリアの声が、イタリア語では何とも艶めかしい響きになるのである。彼女は間違いなくイタリア女優―ステファニア・サンドレッリやモニカ・ヴィッティのような―の官能的な血を受け継いでいるだということを改めて思い知らされた。と同時に、この作品は短編ながら、彼女の演技の幅の広さを強く印象付ける作品ともなっている。

最近、彼女はActrice『女優』(2007)という映画で、監督・主演を果たしている。映画監督としては二本目であり、女優としてはコメディエンヌとしての側面もこの映画ではクローズアップされている。いまではソフィー・マルソーまで監督をやるような時代だから、誰でも監督をやれると言えばその通りなのだが、ヴァレリアにかかる期待はソフィーにかかるそれとは同じものではないだろう。ヴァレリアの次の作品を期待しているのは私だけではないはずだ。







不知火検校@映画とクラシックのひととき

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2010年03月04日

「ゆれる」

ゆれる [DVD]香川照之とオダギリジョーが全く似てない兄弟を演じている『ゆれる』。ゆれているのは吊り橋だけではない。(ネタバレになるので映画を見てから読んでください)

才能ある人間は自由に移動できる。クリエイティブな人間はひとつの場所に縛られずに、移動しながら仕事をする。弟は派手なアメリカ車(フォード)に乗っていて、オルガン入りのジャズがバックに流れる導入のスタイリッシュなシーンはアメリカの郊外を思わせるが、それは弟の自由な感覚を決定的に印象付けている。一方兄は仕事と家庭に縛りつけられている。兄の仕事が、車にガソリンを供給し、車を整備する、つまり車に奉仕する仕事というのが象徴的だ。家では頑固な父親の相手をし、母親を失くしたあとは家事もやらなければならない。

弟の存在が田舎の人間の隠されていた劣等感や欲望をあぶりだしていく。それを容赦なく自覚させるのだ。危険をさけて臆病に生きていたら(つまり田舎にとどまっていたら)、何にもない人生になってしまったという、死ぬ直前の千恵子の告白が重く突き刺さる。誰も責められないような、不幸な男と女のあいだに起こった事件だが、引き金をひいてしまったのは弟だ。成功したカメラマンなんてそういるものじゃないが、不幸にもそれを弟に持ってしまった兄。クリエイティブな人間は自由にふるまい、欲しいものを簡単に手に入れる。兄のかけがえのない、ささやかな幸福を、遊び半分で奪ってしまった。裁判の場で告げられる、被害者の体内に残っていた物的証拠があまりに生々しく、残酷である。

私たちは裁判を通して事件の真相や客観的事実が暴かれると信じている。しかしそんなものは存在するのだろうか。芥川龍之介の『藪の中』のように、それぞれの立場からの視点によって現実が相対化されているだけでなく、さらには思い込みと抑えきれない感情によって、現実は容易にゆれ動き、塗り替えられる。裁判員に当たってしまったら、こういう現実を吟味させられることになるのだろう。そして裁判の過程で作られる真実とは全く別物の、映画を見る者に暗示されるだけの内的な真実がある。

都会と田舎のメンタリティーが兄と弟のあいだで入れ替わっていく過程も見物だ。不幸な事故がきっかけで、兄の心は「都会的に」すさんでいく。夢も希望もない反復の地獄からようやく解放されたのが塀の中という皮肉。一方、弟の方は忌み嫌い、捨て去ったはずの共同体に固執し始める。

「都会と田舎」は19世紀の近代小説の始まりからの主要なテーマである。都会に出て一旗揚げようとするのは近代人の典型的な行動パターンだ。小説だけでなく、「都会で夢破れる」というテーマは映画や流行歌の定番でもあった。かつては成功できなくても少なくとも挑戦することはできた。しかし現在、夢破れるどころか夢にトライすることすら難しいという閉塞感が田舎にはある。越えがたく広がる希望格差。実際、自分が田舎に帰ると、繁華街ですら若者や子供の姿が少なく、少子高齢化の状況も切実に感じられる。不況がやってきても、なすすべもなく立ち往生しているような地方の姿は、そのまま今の若い世代と重なり合う。

ゆれる-予告編

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おすすめ度の平均: 4.0
3 香川さんの存在感
5 素晴らしい
5 答えなんてない
4 静かな映画
4 兄ちゃんは許していない





cyberbloom

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2010年03月01日

クラシック音楽、究極の一枚を探せ!(1)ミュンシュの『幻想交響曲』

ベルリオーズ:幻想交響曲いまやダウンロードの時代でCDも売れないようであり、クラシック音楽などはむしろ、コンサートを聴きに行く人の数の方が増加しているらしい。確かにどれほどオーディオ機器の性能が向上したとしても、生(なま)の音楽は(それも弦楽器や木管楽器などのマイクを通さない音は)再現のしようがない。コンサートで直に聴かなければその演奏の本当の価値を知ることは出来ないのだ。

しかしながら、世を去ってしまった指揮者や演奏家、もはやかつてのようには演奏していない管弦楽団の音に少しでも近づくためには、やはりCDというものを聴くしかないであろう。そして、クラシック音楽の世界にもジャズやロックと同じように「伝説的名盤」というものが数多く存在していることもまた確かなのだ。これは、これからクラシック音楽を聴き始める人の為にそのような名盤を紹介して行くコーナーである。

その第一弾がベルリオーズ作曲『幻想交響曲』。演奏はシャルル・ミュンシュ指揮パリ管弦楽団。録音は1967年、EMIレーベル。

1967年、フランスの文化大臣アンドレ・マルローはある決定を下した。それは、フランス音楽の伝統を後世に伝えるために、世界的水準の演奏能力を持つ管弦楽団を設立するという決定である。こうして既に存在していたパリ音楽院管弦楽団が解散され、新たにパリ管弦楽団Orchestre deParisが誕生する。問題はこのオーケストラを統率する指揮者だ。そこで白羽の矢が立ったのが、当時、ボストン交響楽団を率いてアメリカで華々しい活躍をしていたシャルル・ミュンシュCharles Munch (1891-1968)である。

アルザス地方のストラスブール生まれのこの指揮者は、ドイツの名門オーケストラであるライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団でヴァイオリンの首席奏者まで務めた経験を持つ、独仏双方の音楽に通じた音楽家であった。既にボストン交響楽団と共にブラームスの『交響曲第一番』の名演を録音し、破竹の勢いで活躍を続けるミュンシュに目を付けたマルローの審美眼に狂いはなかったと言えよう。ミュンシュは急遽、アメリカからフランスに呼び戻される。

そのミュンシュが誕生したばかりのパリ管弦楽団と共に録音したのがベルリオーズの『幻想交響曲』である。1830年に作曲されたフランス・ロマン主義音楽を代表するこの曲は五楽章構成。「夢、情熱」、「舞踏会」、「野の風景」、「断頭台への行進」、「ワルプルギスの夜の夢」という具合に、各章に標題が付いていることでも知られている。また、のちにワーグナーが多用するライトモチーフの先駆けとも言うべき「固定観念」(ある一定のメロディを曲中に何度も登場させる方法)を使用するなど、当時としては極めて斬新な方法が取られた管弦楽曲の傑作であった。

ミュンシュによって演奏、録音された『幻想交響曲』は類い稀なる精度を持つ仕上がりとなった。それから40年以上が過ぎた現在、例えパリやベルリンやロンドンに行っても、これほど高度な水準の演奏でこの曲を聴くことは殆ど出来ないといっても過言ではない。細部に至るまで精緻に演奏され、一切の揺らぎがなく、それでいて、最初から最後まで煌めき渡り、迸るような音楽の流れ…。これほど鮮やかな水準でこの曲を演奏することが出来た発足当初のパリ管弦楽団とミュンシュの能力は、演奏家・指揮者が望みうる最高の地点に到達していたと言うべきであろう。

『幻想』と同時に、ミュンシュはブラームスの『交響曲第一番』もパリ管と録音し直し、これもボストン版に勝るとも劣らない名演となる。しかし翌年、アメリカへの演奏旅行に向かったミュンシュは何とその地で急死してしまう。享年77歳。というわけで、ミュンシュがパリ管弦楽団の音楽監督をしていたのは1967年から68年のたった一年限りということになる。その後、このオーケストラはカラヤンの暫定的在任を挟み、ショルティ、バレンボイムといった錚々たる面々を首席指揮者として運営されていくのだが、やはり、発足当初の輝かしい一年には例えどれほどの指揮者が登場しても、まだ、敵わないのではないだろうか。それほどミュンシュの仕事は巨大なものに思えるのである。

現在、ボストン時代のミュンシュの録音が続々とCD化されている。『幻想交響曲』と合わせて、それらを聴いてみるのも面白いのではないだろうか。


ベルリオーズ:幻想交響曲
ミュンシュ(シャルル)
TOSHIBA-EMI LIMITED (2007-06-20)
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おすすめ度の平均: 4.0
5 幻想・幻覚・妄想交響曲
ミュンシュの熱い演奏
5 異様な熱気溢れる名演
4 幻想交響曲と言えば
まずこの盤でしょう
5 ゴッホの絵を思わせる、
強烈な色彩が渦巻く演奏




不知火検校@映画とクラシックのひととき

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