
先回の記事「
フランスの弁当ブーム!(1)」でガー・レイノルズ Garr Reynolds が弁当に言及していることに関してIsaoさんという方からコメントをいただいた。ガー・レイノルズはプレゼンテーション、デザイン、話し方のオーソリティとして知られているが、彼の著作『
プレゼンテーション Zen 』はレイノルズが新幹線で駅弁を食べるシーンから始まる。そして彼の隣で文字のぎっしり詰まったプレゼンの資料を用意しているサラリーマンを前にして次のように問うている。なぜこの弁当の精神をプレゼンに発揮しないのか。なぜコンパクトかつワクワク感に満ちた日本の伝統をモデルにしないのかと。
ネットでもレイノルズの講演がアップされていて、そこでも弁当に言及されている(23分20秒)。
And the first chapter of the book, I talk about Obento. How many people eat Obentos. Sometimes Obentos are poplular ,very healthy. I sort of use that as an analogy. Obento beautifully, simply packaged. All the content is delicious and nutritious and it’s just enough. How much? Not too much. Not too little. But it’s designed beautifully but nothing goes to waste, right? It’s just all right there, and I thought “Why can’t presentations be like that?” Right, nothing superfluous, everything has a reason and beauty matters but it’s also the content, especially the content that matters.(00:23:20)
なぜ今がプレゼンなどが注目されるパフォーマティブな時代なのかというと、共有されている自明な価値(=大きな物語)がもはや存在しないからだ。みんな壁に囲まれた小さな世界に生きているので、その壁を越えることが先決になっていると言えるだろうか。まずは相手の興味を引かないことには何も始まらないのだ。また人にわざわざ割いてもらう時間は貴重であると同時に、限られた時間でそれほど多くのことを人に伝えられるわけではない。
レイノルズが奨励するプレゼンは、文字や数字を極力少なくして、質の良い画像を使い、視覚的に伝えていくというスタイルだ。確かに細かい文字や数字を目で追うよりも、写真やイラストなどで視覚的に訴える方がメッセージが伝わりやすい。情報の詳細は配布資料に載せておけば、興味を持った人々があとで確実に読んでくれる。見た目よりも、中身が大事だと反論する人もいるかもしれないが、それは正しくない。中身が良ければわかってもらえるというのはコミュニケーションのレベルを考えない傲慢な考えだ。見た目と中身を適切に結びつけることが重要なのだ。それが、’everything has a reason and beauty matters but it’s also the content, especially the content that matters.’の意味するところだろう。
ところで、料理や弁当がどうしてブログのテーマになるかというと、それはプレゼンテーションであり、パフォーマティブな行為だからだ。ひと手間をかけるだけで、その分バリエーションが生まれる世界でもある。会社や大学で行われるプレゼンは一般的に時間をかけて準備されるものだが、料理は一発勝負なのでいっそうパフォーマンス度が高い。しかも料理はいつも流動的な状況で行われる。私が問題にしているのは、ありあわせのもので作る毎日の料理のことである。まず献立をはっきり決めて、それから買い物にいくというタイプの料理ではない。しかしその場合ですら、途中で考えが変わったりして状況は流動的である。食料品店は何かと誘惑の多い場所だから。
冷蔵庫にどんなストックがあったとか、食欲はあるかとか、どんなものが食べたい気分だとか、スーパーの安売りは何かとか、どれとどれを組み合わせることができるか。ちょうどスロットマシーンの目がそろうように、流動的な条件の中でチャンスを捉える。頭の中でとっさに思いついたり、ひらめいたことはその場限りのことで形に残らないが、書き留めておくほどのことでもない。しかし情報とパターンは確実に蓄積されていく。それは潜在力として生かされるのだ。料理は有無を言わせない実践である。理屈をこねる前にとりあえず何を作るか決めて、それを形にして出さなくてはならない。お腹を空かせて殺気立っている人たちが目の前にいるのだから(笑)。
残り物をベースにして作る弁当も基本的に同じである。まさにひらめきが物を言う技芸である。それは弁当の食材や美味しさだけの問題ではない。見た目の色合いや、栄養のバランスや、弁当箱との相性まで視野に入っている。さらには、弁当を相手に渡すときの態度とか、かける言葉とか、そこまでの一連の流れを含んでの弁当なわけだ。弁当はひとつの物語を作っている。むしろ弁当は物語を引き寄せ、いろんな要素を内に折りたたむアイテムと言った方がいいかもしれない。それが弁当を広げるときのワクワク感を生むのだ。(先回、弁当をスノビズムの産物と言ったが、それが下の相撲の話題にも通じるし、マンガとの相性がいいのもそのせいだろう)
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Holy Bento(マンガの中の弁当!)レイノルズによると、印象深いプレゼンには次のような法則が見出せるという。それらは、単純明快であること、意外性のあること、具体的であること、信頼感を与えること、感情にアピールすること、物語性があること。弁当の話題ではないが、『クリエ・ジャポン 1月号』に韓国の新聞記者が書いた「日本独自の文化メイクアップ」という記事が面白かった。この記者もまた優れたプレゼンテーションには物語性があることを証明している。
![COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2010年 1月号 [雑誌]](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51z3qEFIjWL._SL160_.jpg)
韓国には古くから伝わるシルムという朝鮮相撲があるが、なぜ日本の相撲のように国境を越えてアピールしないのか、と記者は問うていた。記者は特派員として東京に住み、日本の相撲を見るようになってシルムに不満を持つようになった。シルムでは水着のようなスパッツをはき、お尻にはスポンサーのロゴまで入る。つまりシルムにはスタイリッシュではないのだ。相撲のイメージは日本相撲協会によって周到に管理されている。お尻は丸見えだが、まわしは独創的な衣装である。髷を結い、土俵入りや四股などの独特な儀式が見所のひとつであり、それによって立会いまでの緊張感を高めていく。こうした立ち振る舞いや形式美のおかげで相撲には格調高い印象がある。相撲のプレゼンテーション効果の高さに比べると、シルムは場末の芝居小屋みたいなものだと。もちろん、どちらが優れているという問題ではないが、世界的な認知度においては相撲がはるかに上である。シルムはスポーツ的要素に重点を起きすぎ、先祖代々継承されてきた豊富な知恵を生かしきれていない、と記者は結論づけていた。
最近マッコリ(韓国のどぶろく)が洗練されてきたのに、相変わらず「安い酒」というイメージから脱却できないのも同じ理由による。日本酒のようにグローバルに成功するためには何かが足らないのだ。日本の酒屋で店頭価格が10万円を越える日本酒がある一方、日本に輸出されるマッコリは500円レベル。安っぽいというレッテルを貼られても仕方がない。日本酒には銘柄それぞれにこだわりがある。何を材料に使い、どのような製造工程で作られるのか。製造過程にこめられたストーリーとパッケージを含めたイメージ作りが付加価値をつけているのだ。
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posted by cyberbloom at 02:00| パリ |
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