


20世紀の日本が、フランス思想を一つの流行として捉えてきたということは改めて言うまでもない。確かに、1960年台に一世を風靡したサルトルの実存主義哲学は、その読者を哲学の専門家に限定せず、あらゆる文化の領域に多大な影響を及ぼした。また、それに続く70年台から80年代にかけて、レヴィ=ストロース、フーコー、デリダらの思想も一時的ながら大きな勢力を持つことになったことも間違いない。ただ、日本のフランス思想研究者がそれらの思想を貪欲に摂取して行ったことが確かだとしても、これらが現代社会に持つ意味・意義が真に吟味されたことは一部を除けばなかったように思う。それらは余りにも速く「吸収」され、「消化」され、またたく間に忘れ去られていったのである。ドゥルーズもまたこのような流れのなか「消費」されていった哲学者の一人であるかのように思われた。
実際、ドゥルーズが自ら命を絶った1995年、「ポスト構造主義」とひと括りで呼ばれたこれらの思想は完全にその勢いを失い、人文科学の世界はそのような英雄的哲学者を追い求める時代ではなくなっていた。その年に起きた阪神大震災や地下鉄サリン事件といった未曾有の大惨事も、人々の心の在り処を完全に変えてしまう。世紀を越えても状況は変わらず、9.11やイラク戦争といった明日をも見えぬ混沌状態に直面した人々は、もはや個人の思想に心の拠り所を見出そうとはしなくなった。人文科学は実証主義だけが生き残り、事実だけを追い求めようとする動きの中でディシプリンとして社会学が隆盛を極め、「公共性」がキーワードの一つとなる。そこに個人の解放を説こうとする哲学にもはや居場所はないはずだった。
しかし、にもかかわらず、ドゥルーズは読まれ続けている。かつての流行を知らない新しい読者を生み出し、研究者も世代交代をしながら、彼について語る者、聞く者は後を絶たないようだ。一体、ドゥルーズ哲学の何が現代の人々を引きつけるのだろうか。



まず、何よりも魅力的なのはドゥルーズ哲学に漂う「根拠不明の明るさ」だ。ドゥルーズはどのような局面を前にしても、ペシミスティックな思考に陥ることはない。そこにあるのは「運動」であり、「生成変化」であって、「静止」したもの、「同一」なものは決して取り上げられない。重視されるのは「創造」であり、「想像」であって、「内省」や「沈思黙考」ではない。つまり、過去の歴史的災厄がトラウマになって先に進めなくなるということが彼の思想には全くないのだ。彼の哲学にあるのは常に未来という時間だけなのだといっても良い。あらゆる状況が停滞している現代には、このようなドゥルーズの思想が魅力的に見えるのかもしれない。
また、どうみても「学者的」哲学ではないところもドゥルーズの魅力かもしれない。哲学史への膨大なる引用(カント、スピノザ、ヒューム、ニーチェ、ベルグソン、ハイデガーなどなど)は確かにあるのだけれども、自分自身の哲学的出自は巧妙に曖昧にし、体系化を徹底的に拒絶する。加えて、これら過去の思想を直接知らなくても読めるように書かれていることも魅力の一つではないだろうか。実際、ドゥルーズの著作はどこからでも読めるように書かれている。彼の本は一冊まるまる読まれることを必ずしも望んでいないようだ。誰かがあるページをめくり、そこに綴られた言葉から何らかのインスピレーションを得てくれればそれだけで構わない、という風に。
加えて、文学(『カフカ』、『プルーストとシーニュ』、『マゾッホとサド』)は言うに及ばず、映画(『シネマI 、II』)、絵画(『感覚の論理―フランシス・ベーコン』)、演劇(『重合』)など、彼が哲学的思索の対象とするものの幅の広さも魅力の一つであろう。メルロ・ポンティにおける絵画のような例が過去にあったとはいえ、これほど様々なジャンルに対し、専門家をも瞠目させるような該博な知識を駆使して、それぞれの対象の本質に肉迫して行った哲学者はこれまで存在しなかったのではないだろうか。哲学に関心のない人までをも惹きつけてしまうドゥルーズの魅力の一端はそこにあるのだろう。
しかし、こんなことは昔から言われていたことではないか。ドゥルーズの不思議なところは、いざ、その哲学の特徴を説明しようと思うと言葉に窮し、似たりよったりの貧弱な表現しか出てこないところだ。これは今も昔も全く変わっていない。ドゥルーズの思想は安易な要約を拒み続ける。にもかかわらず、いやだからこそ、ドゥルーズは現在でも読まれ続けているのかもしれない。
「20世紀はドゥルーズ的なものになるであろう」とはフーコーの言葉であったが、これだけドゥルーズが読まれている現状を察すれば、彼の予言は「21世紀は〜」と修正されなければならないかもしれない。しかし、いま人々がドゥルーズの思想から何を掴みだそうとしているのか。そして、そのことによって世界の何が変わろうとしているのかは相変わらず曖昧なままだ。それでも確かなことは、存命中の話題や流行とは関係なしに、時代を越えて「読まれ得る思想家」が20世紀後半にもいたということだ。そのことの意味が今後問われていくことになるだろう。
不知火検校@映画とクラシックのひととき

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