2010年11月28日

『ノルウェイの森』を観る前に(4)

アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン 通常版 [DVD]トラン・アン・ユン監督は、過去にFBNでも『夏至』と『シクロ』を取り上げたほど、個人的に大好きな映画監督の一人です。『ノルウェイの森』の前に何か一作観るとしたら、今回はあえて『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』(2009)を挙げます。「あえて」と言ったのは、この作品がトラン作品のなかではあまり評判がよろしくないからです。それは物語が観念的、キリスト復活のモチーフがわかりにくい、という理由だけでなく、ハリウッドやアジアの映画スター、さらには木村拓哉まで出演させたという「派手な外見」が「監督らしくない」と思われたからかもしれません。

『夏至』が2000年に公開された後、この作品についてのプロットや出演者の情報は早くから発表されていたにもかかわらず、なかなか製作まで至らず、結局公開されたのは9年後でした。そしてその9年の間に、トラン監督は念願の村上春樹氏との会談を果たし、シナリオを練り上げ、『ノルウェイ・・』製作の準備を並行して進めていました。つまりこの2作品は非常に近い時間のなかで製作されたわけですから、『アイ・カム・・』には『ノルウェイ・・』につながる監督の最近の方向性が見られるかもしれません。

『アイ・カム・・』には「現代のキリスト」のイメージとして木村拓哉演じるシタオという青年が登場します。彼は他人の苦痛を吸い取る(それゆえ吸い取った自分はその苦しみに耐えなければならない)特殊な能力の持ち主で、このシタオを見ていたら『ねじまき鳥クロニクル』の登場人物で、ありとあらゆる苦痛に耐えなければならなかった加納クレタという女性を何だか思い出しました。姿を見せない父親の依頼による行方不明の息子(シタオ)を探す探偵、その探偵のトラウマとなっている猟奇的殺人、マフィアの男がふりかざす絶対的な暴力、などこの映画に現れるモチーフはどこか村上作品に出てきそうなものばかりですが、トラン監督は『ノルウェイ・・』を撮影するまで他の村上作品を読まないようにしていたそうだから驚きです。村上氏も、もともとトラン監督の映画が好きだったそうですから、この二人はやはりどこか通底する部分を持っているのでしょう。

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2010年11月25日

『ノルウェイの森』を観る前に(3)

花様年華 [DVD]トラン・アン・ユン監督の作品にかかせないのが、えも言われぬその映像美。『ノルウェイの森』についても、スチール写真を見るだけで、ため息が出るくらいです。今回撮影監督を務めたのは台湾出身のリー・ピンビン。トラン監督とは『夏至』(2000年)以来、2度目のタッグです。『夏至』で表現された、濡れたような透明感あふれる映像は、作品の内容と絶妙にマッチしていましたが、今回でもその手腕を存分に発揮しているようです。

リー・ピンビンは主にホウ・シャオシェンなどアジアの監督と組んですばらしい仕事を続けてきました。日本の作品でも、三島由紀夫原作、行定勲監督の『春の雪』や、是枝裕和監督の『空気人形』などに参加し、やはりはっとするような美しい映像を残しています。どの作品の撮影も捨てがたいのですが、一作挙げるとすれば、ウォン・カーウァイ監督の『花様年華(かようねんか)』でしょうか。

ともに伴侶がいる男女の秘めた恋愛を描いたこの作品では、暗めの渋い色調の映像が展開され、日本版ポスターに使われた写真からもわかるように、特に赤い色が印象的です。マギー・チャンとトニー・レオンという美男美女のカップルをバックで彩るこの赤い色は、控えめではあるけれども深く濃厚な色合いで、大人同士の許されぬ恋の官能性を強調しているかのようです。

ウォン・カーウァイの美意識に応えた完成度の高いこの映像の効果もあってか、この作品はフランスでも一大ブームとなりました。マギー・チャンの着こなす美しいチャイナ・ドレスもすばらしく、まさに目の保養となる映画です。

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2010年11月23日

高校生さえもデモをするフランスの現状と将来

サルコジ大統領の強行突破を契機に年金改革に反対するデモは収束しつつあるとはいえ、昨日22日も5つの組合が依然としてデモを呼びかけていた。今回のデモでは高校生が参加したことが話題になっていたが、それは今に始まったことではない。高校生たちは2006年のCPE(若者雇用促進策「初期雇用契約」)に反対するデモにおいても重要な構成メンバーだった。

仏メディアTF1で「若者を苦悩させる未来」(Cet avenir qui angoisse les jeunes)という特集があった。INSEE(フランス国立統計経済研究所)によると、彼らは親の世代よりも生活水準が悪くなる初めての世代である。セゴレーヌ・ロワイヤルが彼らを煽ったと批判されたが、彼らは政治組織や組合に命令されて声を上げたわけではない。若者のあいだには危機意識が広がり、怒りと不安にかられて叫んでいたのだ。教育費は無料だが、教科書代を払うためにテレビの中の18歳の女子高生は週末にアルバイトをしていると言っていた。

1968年のときのように若者たちは「革命」をスローガンにしていたわけではない。多くを望んでいるわけでもないし、起こっていることに対して幻想を持っていたわけでもない。定年と安全と雇用に関して自分の置かれた不安定な身分について訴えていただけだ。先の女子高生は生き残れるかの問題だと言っていた。

若者の失業率は23%。日本と同じように、学生は既成のルールにしたがい、大学に入り、さらに大学院に上がり、学業を積み重ねても仕事は遠ざかるばかりだ。テレビに映し出されるシューカツの熾烈な光景は日本と同じで、それは中世の騎士の聖杯探しにたとえられていた。つまり果てしのないドラゴンクエストだ。しかし何もやらないわけにはいかない。何の卒業(修了)資格もない場合、失業率は40%に跳ね上がる。

最後に登場した30歳の若者は社会学の博士論文も書き、やることはすべてやったと言う。3年間研修で働き(奴隷のように安くこき使われた)、その後も職を転々としたが、もう仕事に幻想を持つことをやめた。バカバカしいゲームから降りて、マージナルに生きることを決めた。今は週末だけ食料品屋で働き、月600ユーロ(約7万円)稼ぐだけ。残りの膨大な自由時間は小説を書いて過ごしている。フランスでもこうやって社会から退却する若者が出てきている。仕事に就くことの社会的な承認やイニシエーション的意味合いはとっくに失われている。

高校生は学生になったら奨学金か親の援助で生活しなければならないし、その先62歳で年金を満額もらうための十分なお金を払いこめないと知っている。さらに彼らは仕事の世界に入るのが難しくなることを覚悟している。仕事の多くは空きが出ないわけだし、公務員に関しては特にそうだ。公務員の削減は加速する一方だから。それでも年金改革に反対するのは、この改革を見過ごしてしまえば、将来さらにひどいことになり、年金をもらう40年後には彼らの大半が犠牲者になってしまうだろうから。もちろん改革に反対しても決定的な解決にはならない。今のまま年金制度を放置すれば、国家財政に重くのしかかる。しかしそれは国家による分配型年金システムを破壊し、純粋に資本主義的な個人年金のシステムに道を開くものでもある。また失業のリスクが高く、競争が熾烈で、税金の負担が大きくなる世界で、仕事を続けなければならない年数がさらに長くなるのだ。

今や国家の制度の破綻に、先進国の若者が共通して大きな影響を受ける。それは国境を越えた共感やつながりの可能性も示唆している。先日もロンドンで、大学の授業料の上限を3倍に引き上げようとする政府・与党に抗議する学生デモがあり、約5万人が集結した。デモの一部が暴徒化し、政府与党の本部を壊して一時占拠する騒ぎになった。戦後最大といわれるイギリスの歳出削減策では、各省庁の予算を平均で19%カットし、このうち大学教育の支出は40%減らそうとしている。一方で先進各国の若者の反応の違いも対照的だ。「UK students protest, US students apathetic イギリスの学生は抗議し、アメリカの学生は無関心」というアメリカの動画ニュースもあった。「彼らはフーリガンではありません、授業料値上げに反対するイギリスの学生たちです!」という驚きとともにアメリカの人々に紹介している。

グローバリゼーションは世界をひとつのマーケットに統合していく。すでに各地域、各国のマーケットはつながっていて、石油、穀物、工業製品の値段が世界規模のマーケットの中でひとつの価格に収斂していく。それが先進国においてデフレという現象に顕著に現れている。モノの値段が上がらず、賃金が上がらない。企業は利益が上がらず、値下げ競争だけを強いられる。これは貨幣供給量や国内需要の問題ではなく、同じモノや労働力に対する対価、つまり価格や賃金が、基本的に世界の同じ額に収斂していく動きだ。これは中国を初めとする新興国が先進国中心の市場に生産基地として組み込まれた結果であり、先進国共通の問題になっている。つまり自分たちとは関係のない遠い国のことだと思っていた貧困問題が、自分たちの現実に入り込んできたことでもある。企業が資金の余裕を得たとしても、賃金水準の高い日本国内で人を雇い、事業を拡大しようとは思わないだろう。海外の投資に振り向けるだけで、国内の雇用の増加と賃金の上昇には結びつかない。すべてはそういう大きな潮流の中にある。





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2010年11月18日

『ノルウェイの森』を観る前に(2)

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド [DVD]『ノルウェイの森』の音楽を、レディオヘッドのジョニー・グリーンウッドが手がけると聞いたとき、大げさですが「奇跡」が起きたように感じました。レディオヘッドのフロント・マン、トム・ヨークは村上作品のファンだそうだし、村上氏も『海辺のカフカ』で主人公のカフカ少年が聴いている音楽として挙げるくらいレディオヘッドを愛好しているようだし、トラン・アン・ユン監督もこれまでの作品のサントラにレディオヘッドの曲を使っているし、三者は相思相愛状態なのはわかっていたのですが、まさか映画作品の音楽全体を本当にバンドメンバーが担当するとは思ってもみませんでした。何でもジョニー・グリーンウッドは最初にオファーを受けたとき断っていたらしいですから・・。

そういう夢のサントラが実現したのは、ジョニー・グリーンウッドが過去に音楽を提供した『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の存在があったからなのは確実でしょう。彼が初めて音楽を手がけたこのメジャーな映画作品は、ポール・トーマス・アンダーソンという一癖も二癖もある監督によるもので、油田に取り付かれた強欲な男と、彼に土地を奪われた狂信的な牧師の青年との確執が描かれたものです。映画の重苦しさに負けぬほど、緊張感に満ち、不安をかきたてるジョニーの抽象的な音楽は、ロック・ミュージシャンが映画のサントラを担当したものでも、今までに聴いたことのないような非常に特異な音で、物語ともども深く印象に残りました。158分という長さで、内容的にも鑑賞にエネルギーを要する映画ですが、見応えは十分ですので、音楽ともどもじっくり味わってみてはいかがでしょうか。

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2010年11月17日

『ノルウェイの森』を観る前に(1)

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)村上春樹原作、トラン・アン・ユン監督による『ノルウェイの森』がいよいよ12月11日に公開されることになり、各メディアでも頻繁に取り上げられるようになってきました。原作で、監督で、出演俳優で、などいろいろな理由で公開を楽しみに待っておられる方も多いことでしょう。ワクワクしながら待つ時間をもっと楽しんでもらえたらと、この映画に関連するいくつかの作品を集めてみました。

村上作品のファンであれば、原作はもちろん他の著作もたくさん読んでおられることでしょうが、一方でこれから読もうかなと考えている人も多いかと思います。原作は長編なのでなかなか手が伸びない、という方には短編集『蛍・納屋を焼く・その他の短編』をまずおすすめします。それは、短編集のタイトルにも含まれている『蛍』という短編が、後に長編化されて『ノルウェイの森』となったからです。

『蛍』は『ノルウェイの森』の冒頭部分と物語がほぼ共通しており、『蛍』の登場人物「僕」「彼女」「同居人」は、それぞれ『ノルウェイの森』での「ワタナベ」「直子」および「突撃隊」にあたっています。登場人物に固有名詞が与えられず、シンプルな文章で書かれた短い物語であり、短い作品であるがゆえに「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という一文が全体に大きく響く ー 『蛍』は『ノルウェイの森』のエッセンスを抽出した作品だとも言えるでしょう。

「僕」と「彼女」との静かで物悲しいやり取りをバランスよく中和するように、「僕」と「同居人」とのエピソードが配置されているのもこの短編の魅力のひとつです。映画では「同居人」ー「突撃隊」を演じるのは柄本時生(柄本明の息子さん)で、スチール写真を見る限りではイメージにぴったりです。


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2010年11月08日

ヴェルサイユ宮殿の現在

ヴェルサイユ宮殿での村上隆の作品展をめぐり、ルイ14世の末裔シクストアンリ・ド・ブルボン公らが記者会見し、「美少女フィギュア」などの展示は祖先への冒とくとして、作品展の中止を求め、主催者の宮殿当局に法的措置を取る考えを表明した。こちらが記者会見の模様だが、さすがに優雅な物腰。このような事態に、東京の在日フランス大使館には「ヴェルサイユ宮殿での村上隆氏の展覧会が、フランス国民に迷惑を掛けているのではないか。それなら日本人として謝罪したい」と繰り返し電話がかかって来ているという(笑)。



とはいえ、村上隆展に対する批判勢力のニュースはトーンダウンしている。反対派は2年前に同じ場所で行われたアメリカ人作家、ジェフ・クーン Jeff Koons の美術展の際も、作品の展示を禁ずることを求めたが、ヴェルサイユの裁判所と国務院 Conseil d'Etat に却下されている。一方で、村上展のようなイベントがないと宮殿の維持管理費をまかなえないのも現実なのだ。ヴェルサイユ宮殿は今のところ財政的に潤っていて、随時修繕が行われている。今年はすでに宮殿に600万人が訪れ、去年より50万人増えている。 とりわけ新興国からの訪問が増え、中国だけでなくロシアやインドネシアからも客がやってくる。入場料は宮殿の収入の3分の2に達するほどだ。

最近、ルーブル美術館とポンピドゥーセンターがそれぞれランス Lens とメッス metz に分館を作ったが、分館の誘致には美術館側の財政的な利点がある。分館の敷地や建物は経済効果を当てにする地方自治体が用意してくれる。有名美術館も今や厳しい国際競争にさらされる時代だ。政府からの補助金も削減され、財政的に厳しい状態に置かれている。それゆえ独自のアイデアで財源を確保しなければならない。ヴェルサイユ宮殿も例外ではない。

マリー・アントワネット (通常版) [DVD]ソフィア・コッポラの「マリー・アントワネット」がヒットしている時期に、ヴェルサイユ宮殿がマリー・アントワネットにちなんだ「女王の残り香」という香水を売り出していたのが思い出される。高級バージョンはバカラのクリスタルのボトル入り(25cl)で、8000ユーロもしていた(手頃なものは350ユーロ)。香水の売上はマリー・アントワネットが使っていたセクターの修繕に使われていた。

ヴェルサイユ宮殿では企業の資金による修復も行われていて、例えば、あるコニャックのブランド会社によって天井の壁画が修復された。それを見て資金提供しようという個人もいる。「これは私の寄付で直したのよ」と庭園の彫像を指差すマダムがニュースに登場し、小さなパネルには彼女の名前が記されていた。このようなスポンサーに応えるためにも、目をひく美術展やイベントが必要になる。古典的な作品とともに、村上隆のような現代的な作品が新しいお客を引き寄せている。古今東西の文化を混ぜ合わせ、多くのお客を楽しませるのが今のヴェルサイユの姿だ。アヤゴン館長のしたたかな戦略なのだろう。宮殿はとっくにブルボン王家のものではない。国が財政を切り詰める中、独自の収入がなければ巨大な文化遺産の維持もままならないのだ。

ヴェルサイユ宮殿ではまだ公開されていない部屋の修復が進められている。宮殿のすべての部屋を公開し、音楽のための部屋とか、夕食のための部屋とか、宮殿全体における各部屋の機能を訪れる人々に知ってもらうという大きな計画があるようだ。




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2010年11月05日

新しい優生学?−精子を売る若者とデンマークの精子提供の実態

加爾基 精液 栗ノ花デンマークの議会で性倫理に関する新しい法が審議されるというニュースを France 2 が伝えていた。デンマークは精子提供の最も多い国で、今や提供者の髪や瞳の色とか学歴などが細かくカタログ化されている。提供者の子供の頃の写真もあって、どういう子供が生まれるか想像できるようになっている。議会ではそれを禁じようというのではなく、状況をきちんと把握し、どうやって具体的に法を適応していくかが議論されるようだ。

ニュースでは精子を売りにきたデンマークの若い失業者がインタビューを受けていた。精子を売買するデンマーク(籍は外国)の会社のオフィスに行けば、身分を特定することを条件に、精子の状態や量によって 1日30から70ユーロ稼げる。最後の手段として血を売る話は昔から聞くが、実にショッキングな話だ。若い男はポルノビデオや雑誌のある個室に入って採取するが、そこにはいかがわしさのかけらもない。その会社は年間400万件の精子提供を受け、60ヶ国に販売し、1年に1000人近くの子供が産まれている。ネットでも売買されていて2000ユーロから。20万円ちょっとで買える計算だ。

身分を特定するのは生まれた子供が将来自分の父親を知りたがるときのためだという。アメリカでも金銭的な動機で若者がドナーになるが、そういうドナーでも自分の精子から生まれる子供に興味を持ち、子供の将来を心配するのだという。子供もまた自分に父親がいないことに関心を持ち、生物学上の父について知りたがる。しかしこれらは従来の父子の関係を超えてしまっている。

どのような人々が精子の提供を望むのかというと、不妊のカップル、レズビアンカップルやGIDカップルなどである。むしろ興味深いのは「選択的シングルマザー」の存在だ。つまり子供は欲しいが、男は要らないという女性だ。このような男性との関係性の否定は「男は種にすぎない。男の庇護も、男とのコミュニケーションも要らない」という女性の生き方の可能性を告げ知らせる。男は容姿や学歴などの属性のデータのみ測られ、選択される。それは否応なしに優生学的になり、容姿や学歴の高いほうに偏るだろう。レッセフェールな状態にすると、選ばれた少数の精子が多数の子供を生むことになるだろう。アメリカの精子バンクでは近親婚や遺伝病を避けるために1人あたりの出生数を厳しく制限しているが、ネット上ではそういう規制をかいくぐって売買されている。自分の精子提供によって少なくとも650人の子供の父親になったと主張している男性もいるようだ。一見、一夫多妻の王様のようだが、彼は人格や彼の取り結ぶ人間関係ではなく、カタログ化された属性によって評価されているにすぎない。選択権は明らかに女性の側にある。女性は自ら精子を選び、子供を宿し、子供と関係性を育む。男はわずかな金で精子を搾り取られるだけだ。

これが日本で起こった場合、臭いものに蓋をする式にありえない問題にされるだろう。例えばヨーロッパでは避妊の方法としてピルが普及しているが、日本では保険がきかないし、処方の体制が整っていないので普及していない。それは従来の家族規範にとらわれた保守派の政治家が、性病がひろがるとか、男女関係が乱れるとか言って反対しているせいだ。同じことが精子提供に関しても起こり、一方で問題は地下に潜るだろう。すでに一部の人々にとっては現実的かつ切実な問題になっているのだろう。だからヨーロッパでは起こっていることを認め、現実を把握しつつ、法規制によってコントロールしていくやり方を取る。

デンマークの精子提供のニュースは「これは新しい優生学なのか」と問いかけていたが、これはユダヤ人の大量虐殺という蛮行に至ったナチスのような、国家主導型の強制的な優生学ではない。両親たちの出生前診断や遺伝子治療や、今回の精子のカタログ化が、結果的に優生学的な効果を生み出してしまっているのだ。

親は美しく賢く健康な子供が欲しいと願う。それは自然なことで、偏見に基づくものとは言えない。その欲望が技術的に実現可能になったとき、局所的な視野と欲求充足によるとはいえ自分の生を最適化するために合理的な判断を下すだろう。しかしそれは極めて排他的な社会を生む可能性がある。(東浩紀「情報自由論」)

個人的な経験になるが、連れの妊娠の兆候が現れて、最初に飛び込んだ産婦人科で羊水検査を勧められた。高齢出産の年齢にひっかかっていたからだ。羊水検査とは出生前診断のひとつで、子宮に長い注射針を刺して羊水を抜き、得られた羊水中の物質や胎児細胞によって染色体や遺伝子異常の有無を調べる。「もし異常がわかったら堕ろすことになるのか」と産婦人科医に問い正したら、彼は「社会のお荷物になるだけだから」と言い放った。二度とその病院に足を踏み入れることはなかったが、この確信犯的な物言いは、個人の「局所的な視野と欲求充足」を背景にしている。「キレイごとを言ったって、みんなの本音はそうだろう」ってことだ。

生まれてくる子供すべてが肯定されなければならない。しかしそれまで自然の摂理として否応なしに受け入れていたものが、選択の問題になる。整然とカタログ化された形で、どのコースにしますかと選択を迫られるのだ。その選択は子供に対して重大な責任をともなうものになる。私たちは判断をめぐって右往左往し、これまでありあえなかった後悔を生むことになるだろう。

「正義とは計算不可能なものである」。生活のあらゆる場面がデータ化され、解析され、リスク管理の資源としてシステムへとフィードバックされる環境管理社会において、この言葉ほどわかりやすく実行が難しいことがほかにあるだろうか。(東浩紀「情報自由論」)




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