2011年02月28日

2月の一曲 “Love Has No Pride” Bonnie Raitt (1972)

もはや「ヴァレンタイン・デイの月」、になってしまった2月に、あえてトーチソングのクラッシックを選んでみました。

ずばりタイトル通りの内容。あなたにまた会えるのなら何だってする・・というリフレインだけでも切ないのに、胸揺さぶるサビのメロディがたまらない。「そういう状況」に身を置いていなくとも、しんみりしてしまいます。

歌い手をその気にさせてしまう曲なようで、この歌の作者も含め男女とりまぜいろいろなバージョンがありますが、ボニー・レイットの歌ったものが個人的に一番だと思います。

思い入れしやすい歌詞に、盛り上げてくれるメロディのおかげか、ついつい歌い上げ上滑りになったり、過剰に甘くなるパターンに落ちてしまうのが多い中、地に足の着いた歌いっぷりなのがまず違う。そして「説得力」がある。共感できない嘆きをえんえんとまくしたてられても困ってしまいますが、丁寧に、繊細に歌われる「痛み」にはつい耳を傾けてしまいます。

そして、歌の力で、歌詞が描くヒロイン像を超えたところを垣間見せてくれるのがいい。歌詞だけ読むと過去にしがみつく哀しいヒロインが浮かびますが、ボニー・レイットの歌には、やり直せるものなら・・・という言葉とは裏腹に、愛を失った事を受け入れまた歩き出そうとする姿が見いだせます。彼女の声にある、いい意味での「真面目さ」がそうさせてくれるのかもしれません。

歌い手の個性と、それに引き合ういい歌とが結びついた時に起こるマジック・モーメントの例だと思うのですが、いかがでしょう。男子はナチュラルなコケットがあるリンダ・ロンシュタットの歌を好むようですが、女子が支持するのはやはりボニーのほうでしょう。


聞いてみたい方はこちらをどうぞ。ライブバージョンですが、弾き語りでじっくりと、聴かせます。

http://youtu.be/KbqXMQCq59U


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2011年02月25日

『パリ、恋人たちの2日間』(2) フランス的誠実さとは

SEX:EL [DVD]ジャックはパリに来て街のいたるところでマリオンの元カレに出会い、マリオンが今も彼らと友人関係にあることが信じられない。元カレと親しげに振る舞う彼女の姿を見て嫉妬心と猜疑心にさいなまれ、ふたりの関係がギクシャクし始める。奔放なのは彼女だけではない。マリオンの母親もドアーズのジム・モリソンと関係を持った過去があり、343人のあばずれ(343 salopes)のひとりだったと告白する(中絶を経験した343人の女性たちが1971年4月5日付の『ヌヴェル・オプセルヴァトゥール』に中絶の自由を訴える嘆願書を掲載)。彼女たちは本当に「あばずれ」なのだろうか。宮台真司がジャン=マルク・バール監督の『SEX:EL』でアメリカ的性愛とフランス的性愛を対比させているが、この図式が『パリ、恋人たちの2日間』にもそっくり当てはまる。

浅野素女『フランス家族事情』が描くように、フランス的性愛の外見的な緩さは、非倫理性を表さない。流動的な関係の中で、にもかかわらず揺らぐことのない「代替不可能なもの」「取替え不可能なもの」を倫理的に模索していると見られるからである。自堕落どころかむしろ求道的に見えるブシェーズの佇まいは、こうしたモチーフを具現しよう。対照的に、映画に描かれた「米国人たち」は、米国人たちがフランス人たちに馬鹿にされがちな点なのだが、関係の流動性という外形を、短絡的に非倫理性の兆候と見なそうとする。

フランス父親事情ジャックは百戦錬磨のフランス人からはあまりにナイーブに見え、常にからかわれる。いたって真面目なジャックは混乱する分だけ見る者の笑いを誘う。マリオンは相手を傷つけないための小さな嘘は許されると思っている。その嘘は見かけであって、真実や本当の気持ちはその奥にあるとわかって欲しいのだ。しかし外見的な形にこだわるアメリカ人にとってそれはとんでもない話。彼女の小さな嘘はすべて裏目に出て、嘘の上塗りになり、さらなるドツボにはまる。二人がすれ違っていくのは倫理が宿る場所が決定的に違うからだ。中絶の問題にこじつけて言えば、1971年当時中絶は非合法で、当事者と幇助者は堕胎罪で罰せられた。中絶は男女の乱れた関係の結果であり、「あばすれ」という偏見的なイメージで見られた。しかし彼女たちの関係性の内実への訴えは、男女についての意識を根本的に変え、形よりも中身を取るという重要な合意形成に至ったのである。

またジャックはフランス人の食文化があまりに「むき出し」なことに耐えられない。ウサギを頭まで食べることが信じられないし、市場で生きたままの姿の豚や子羊がさばかれているのを見て気分が悪くなる。アメリカ人は本当にそういうのが嫌いなのかもしれない。「ザ・コーブ」が日本バッシングを誘発したのもむべなるかな。結局は同じ残酷なことをやっていても、ハンバーガーのように元の姿や過程を隠し、「見た目」を整えろってことなのだろう。それでもジャックは「ブッシュ・キャンペーン」のTシャツを着て、キリスト原理主義的な関心によって「ダビンチ・コード」ツアーをしているロボットみたいなアメリカ人観光客たちに対して、「あいつらは愚鈍な政治や文化の象徴だ」と吐き捨てる。

「街は臭くて、人々はいいかげんで、男は女を口説くことしか考えていない」とマリオンは言う。ある意味、見た目を気にしない、なりふりかまわない健全な世界だ。生身の人間どうしがぶつかりあい、とりとめなく紡ぎだされる言葉。それはとことん甘いか、激しい口論かのいずれかだ。フランス映画はこの古典的なパターンを永遠に反復すればいい。そのたびに少しずつ違ったフランスの姿が見える。クールジャパンなんか気にもとめない、愛の国を地で行くフランスが温存されていい。

『恋人たちの二日間』には「何でこれがアートなわけ?」というアイロニーも感じられる。フランスはアートに理解があるというより、アートを補助金=税金で底上げして、アートの物語を回している国だ。マリオンの父親の書く絵は下品だし、友人のアーティストにとってアートは女性を口説く口実に過ぎないように見えるが、すべてアートの名のもとに許されてしまうのだ。

また言葉がわからなくて状況を把握できていないのはジャックだけではない。映画に登場するタクシー運転手はこぞって差別主義者だ。昔はパリでは英語が通じないとうのが定説だったが、今はむしろ英語がまかり通る状況だ。外国人を頻繁に相手にするタクシー運転手が英語を話せないとすれば、反動的になっていくのもわかる。


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2011年02月22日

『パリ、恋人たちの2日間』(1) ボボとは誰か

パリ、恋人たちの2日間 特別版 [DVD]ジュリー・デルピー監督&主演の『パリ、恋人たちの2日間』を見た。ゴダールに見出され、レオス・カラックスの『汚れた血』で夜のパリを軽やかにかけていた少女も、いい感じで歳を重ねるマダムになった。デルピーは1990年からアメリカに移り住み、ニューヨーク大学で映画作りを学んでいる。この主演&監督作品は、アメリカ人とフランス人が戯画化されて描かれるラブコメディ。男女の信頼関係といった古典的なテーマの反復だが、68年とかグローバル化とか独特の味付けがある。

デルピーによると主人公のふたりは典型的なボボ(ブルジョワ・ボヘミアン)」だという。ところでボボとはどのような人々なのか。デイヴィド・ブルックスの『アメリカ新上流階級 ボボズ―ニューリッチたちの優雅な生き方』が参考になるだろう。

ブルックスによれば、アメリカのボボたちのライフスタイルは「脂肪分ゼロのトールサイズのラテをすすりながら、携帯電話でおしゃべりをする。きちんと整備されたSUVに乗って、ポッタリー・バーン(インテリア・雑貨店 http://www.potterybarn.com/ )へ48ドルのチタン製フライ返しを買いに行く。彼らはブランド店が並ぶ豪華な通りを、最高品質のハイキングブーツで闊歩し、オリーブとウィートグラスのマフィンのために5ドルも払うことをいとわない」ことに象徴されている。これまでのブルジョワはSUVなんて乗らないし、チタン製のフライ返しなどに興味を持たない。ブランド街にハイキングブーツは本来馴染まないはずだ。しかし彼らは成金趣味やブルジョワ的な退屈さやベタさの代わりに、洗練されたモノやスタイルへのこだわり、ダイエット志向やエコロジーをライフスタイルに組み込むのだ。つまり彼らは本来相容れないはずの文化の同居とせめぎあいの中に生きている。

ベースとなるのは1960年代以前のブルジョワ文化と60年代の対抗文化である。これがブルジョワ+ボヘミアン、ボボ ( Bourgeois+Bohemian = Bobo )という言葉の由来である。ボヘミアンは19世紀フランスのロマン主義に端を発しているのだが、60年代の対抗文化を生きた急進派学生は「セックス、ドラッグ、ロックンロール」に象徴されるボヘミアンな自己表現を好んだ。やがて彼らの運動や文化は国家によって抑圧されたように見えたが、その中でも1969年に行われ、多くの若者を動員したロックフェスティバル、ウッドストックの両義性に注目する必要がある。両義性とは反資本主義や反商業主義の主張や身振りが巨大産業になりうることを証明したことである。相反するふたつの力が折り合い、互いを取り込んだのである。ブルックスはボボの典型としてオリバー・ストーンやルー・リードの名前を挙げている。

ボボたちの本質はつまるところ世俗的な成功と内なる美学の両立にある。彼らは成功を求めるが、野心によって魂を枯渇させてはいけないし、物質の奴隷になってはいけないと思っている。彼らは資産を蓄積するが、それはやりたいことに使うためであって、資産に縛られ、意味のない習慣に陥るためではない。経済的な成功を楽しみながらも自由な精神を持った反逆者でありたいし、クリエイティブな自己表現と一緒に大金が入ってくるのが最も理想的な仕事なのだ。新製品のプレゼンの際にはスーツを着ずに、自由な雰囲気でユーザーたちに語りかけるアップルのスティーブ・ジョブズもこのジャンルに入るタイプである。彼は実際60年代にインドを放浪したヒッピーだった。

ジョブズだけでなく、シリコンバレーの新しい技術者たちもボボたちの二面性を共有している。認知科学者、エンジニア、コンピュータ科学者、ビデオゲーム開発者など、彼らの多くはコンピュータやインターネットにかかわる高いスキルを持ち、新しくて独特な「ヴァーチャル階級」を形成している。社長たちは期限付きの契約でこれらのテクノ・インテリゲンチアを雇い、組織する。彼らは良い給料をもらうだけでなく、仕事のペースと仕事の場所に対してかなりの自立性を持っている。この新しい働き方が、ヒッピーと組織人の文化的な区別を曖昧にし、労働のイメージを一変させた。また彼らの仕事のアイデアは遊びの中にこそあり、彼らの生み出す製品やサービスを利用する者たちと同じ目線からのフィードバックが必要なのだ。これもグーグルの社内を思い出してみるといい。

『パリ、恋人たちの2日間』のカップルはインテリアデザイナーとカメラマン。コンピュータとは直接関係ないが、情報化時代の自由な職業であり、イメージや高付加価値を売り物にしていることには変わりはない。マリオンが過去に付き合った男たちも小説家やアーティストで、仕事をしているのか遊んでいるのかわからない、ある意味胡散臭い連中だ。この映画は2007年に公開で、ユーロバブルの絶頂期に撮られていることになるが、芸術という物語の中で戯れ、理想のパートナー探し=自分探しにうつつを抜かせるのも経済的余裕があってこそである。




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2011年02月17日

隷属への道?

きょうたまたま youtube を観ているときに発見した動画です。なにかと毀誉褒貶の激しい F.A ハイエクの著作、『隷属への道』を元にした漫画版です。もともと『隷属への道』は、「ナチズム批判」さらには「ナチズム」と「社会主義」がおなじ病巣を有しているのではないかと指摘した著作です。



が・・・。そういったテーマはさておき、ぼくがこの動画をみて思ったのは、ところどころで世界情勢&日本国内情勢を暗示するかのような記述があること。ハイエクの思惑通りに自分の記述がどの国に対しても絶対的&実際的に進まないだろうことは、ハイエク自身が潜在的に(?)認めているだろうので、ハイエクの意図に反して自由に鑑賞してみました。この動画は、18のアフォリズム=段階に区分けして「隷属への道」が完了する様を描いていますが、おのおののアフォリズム=段階で、いま国内外で起きている情勢を暗示してるやんと、感慨に耽りました。たとえば、A「終戦の兆しが見えた頃(註=政権交代としてみると)平和と生産の議論が生まれる」&B『議員は「理想郷」を約束する』〜E「議員は強行することを嫌った」をみてると、いまの日本政治状況が、グギッ!と思われるような流れになってます。さらにDのなかにある、「市民にも不満がある」に続いて、「暫定計画は、市民にとっては妥協できるものではない。農民が好むものは、工員の嫌うところである」なんかは、TPP 問題に密接に絡むやんと。またべつに、とくにB『議員は「理想郷」を約束する』〜D「市民にも不満がある」に注目すると、日常品の価格高騰に苦しむいまのアラブ諸国での民主化運動が、今後どう発展するのかということについても無視できません。さらには、中国がオリンピックのフィギュアスケート選手派遣で年齢を詐称したのではないかという疑惑があるニュースに接するとなおのこと、Pの「(…)もちろん、娯楽もスポーツも入念に統制され、厳格に国家が管理する」という言葉がなんだかぼくの脳内に響いてきます。

まぁともかく、世界が無秩序になってバラバラになることは避けて欲しいものです。




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2011年02月14日

瞳の奥の秘密

 どこか懐かしさを覚える画面づくりだ。
機内で見たせいか全体に黄色っぽく見えたからか。それとも女が走り出す列車に追いすがるという昔のメロドラマさながらのあまりに定番な別れのシーンのせいか。
 ラテン映画らしくきっと「濃いだろう」というこちらの期待を裏切らない。人間関係における愛憎。そのどちらもが強く激しい。
 かつて検察書記官だった男が、昔関わったある殺人事件を小説にするところから物語は幕を開ける。
 新婚間もなく殺された美しい若妻。男はアルバムに残された写真の人物の視線(瞳)から犯人を割り出す。男とその友人の活躍の末、犯人は捕らえられるのだが、その処遇を巡って当時のアルゼンチンの政治事情から、予想だにしない方向へと事件は展開することになる。
 瞳は黙っていても語る。
 男が上司である新米検事に寄せる少年のような初々しい憧れ。
 今でいうストーカーの犯人が新妻に向けるゆがんだ視線。
 犯人を求めて毎日駅に立ち続ける被害者の夫の献身。
 いつも酔いどれで情けない友人が見せる思わぬ侠気。
 様々な場面で色々な愛の形を見せられる。
 事件から数十年を経て男に突き付けられるのは衝撃の事実と、長い時間を経ても消えなかった大人の愛。そして憎しみ。
 単なるサスペンス映画ではない。人間の怖さと愚かさでいえばホラーよりもずっと怖い映画だ。主人公の男と検事の年を経て熟成した愛が救いになっている。
 どうにもならない感情に悩んだときに見ると、これに比べると大したことないかと思えます。あくまでもドラマチックな展開に身を委ねる快感を楽しめる一本。


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2011年02月12日

夏時間または失われた1時間のこと

ヨーロッパや北米、オーストラリアに1年以上暮らした人なら、夏時間を経験したことがあるはずだ。アメリカ英語で daylight saving time と言うとおり、日照時間を活用するのが主旨で、時計の針を1時間進めることで、朝早くから活動し、夕方も早く帰宅して、まだ日のあるうちに家族と過ごせるのが利点である。蚊の少ないヨーロッパでは、庭にテーブルを出して、日が暮れていくなか、屋外で夕食をとることがある。これはなかなか気持ちいいし、多少は照明代の節約にもなるだろう。庭があればの話だが。

このたび、ロシア政府が夏時間を取りやめる方針を発表した。正確には冬時間の廃止と言ったほうがよい。3月に夏時間に切り替え、そのまま戻さない、ということらしい。したがって、時差は標準時より常に1時間進んでいるということになり、時差計算は多少ややこしくなる。ニュースによると、「季節によって時間を切り替える生活は国民の健康に好ましくない影響を及ぼす」というのがその理由らしい。これに対して、慣れ親しんだ時間を変えないで欲しい、という不満の声が挙がっているという。http://bit.ly/fEefWw

北欧で白夜になるように、緯度が高いほど、夏の日照時間は長くなる。モスクワの日照時間を調べてみると、夏至の日の出は5時前、日没時刻は22時頃である。これに夏時間を加えると、夜は23時に訪れるということになる。ちなみに冬至は日の出が10時、日の入りが17時となっている。僕はロシアを訪れたことはないので、いまいちイメージできないのだけれど、夏と冬のこの極端な日照時間の差が、そこに住む人々のメンタリティに大きく影響するだろうということは容易に想像できる。北欧では冬の自殺率が上昇すると聞いたことがある(いわゆるSAD=季節性情動障害)。

フランスに住んでいたとき、夏時間が終る直前の11月下旬、大学へ行くのがとてもつらかったことを思い出す。授業は8時30分からスタートするのだが、これは実際には7時30分であり、家を出るのはさらに30分前だったので、外はまだ真っ暗だった。白い息を吐きながら、うつむき加減で地下鉄の階段を足早に下りていく人たちにまぎれながら、ひしひしと孤独を感じたものだ。逆に夏時間に入る日を忘れていて、しっかり1時間遅刻してしまったこともある。

ちなみに、日本では過去に4年間だけ夏時間が実施されたことがある。第二次大戦直後、米軍占領下にあったとき、アメリカ流に夏時間が導入された。しかし、日本人には馴染まなかったのか、占領終了とともに廃止された。終戦直後の日本人には余暇を楽しむ余裕などなかっただろうし、日本の夏はむしろ夜の方が過ごしやすい(『枕草子』の「夏は夜」から久隅守景の「夕顔棚納涼屏風」まで)ため、昼を延ばすのは、労働効率から言っても、あまり意味がなかったのかもしれない。

夏時間を経験して強く感じたのは、時刻というのは、結局は人間が太陽の出没を基準に目盛りを付けて区切っているに過ぎない、という当然の事実である。ベルクソンは、時計は時間を空間化して表現しているに過ぎず、本当の時間体験は持続性のなかにこそある、と説明した。それはそうなのだが、その批判は、空間化する必要が人間の歴史を貫いていることまでは説明してくれない。

時刻とは慣習である。24進法に従っているのは古代メソポタミアに倣ってのこと、中国では長らく12進法で1日を区切っていた。フランス革命期には、有名な革命暦だけでなく、10進法の時計も作られた。同じく10進法のメートル法は普及したが、10進法の時間はすぐに廃れた。これはいったいどういうことなのだろうか。「伝統」と言ってしまえば簡単だが、不思議なことである。たぶん24進法がフランス人の身体の奥まで浸透していたのだろう。夏時間を採用するか否かという問題も、結局はそれが身体化されれば、誰も文句を言わなくなるはずだ。

しかし、ロシア政府の言い分には、少し疑問が残る。ロシア人の健康を蝕んでいるのは、「季節によって時間を切り替える生活」よりも、アルコールであるような気がするが。いずれにせよ、政府が強引に廃止した場合には、最初は朝の日射しの違いに違和感を覚えるだろう。しかし、結局は慣習なのだから、ちょうど明治の人々がだんだんと24分割された1日に慣れていったように、ロシア人も夏時間から離れていくだろう。

ところで、標準時より進めた際に失った1時間はどうなるのだろうか。深夜零時のはずが、もう1時になっているわけだから、どこかに1時間を落としているはずだ。この1時間は、冬時間に戻らない限り、取り返せない。その1時間で何ができるわけでもないけれど、そのことが妙に気になる。




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2011年02月10日

フランスは昔から農業大国だったわけではない

2月8日、クボタや井関農機などの農業機械株が上昇した。農地集約を進めるため、政府が農地の売買や賃貸借を仲介する「農地バンク」の設立検討に入ったと、日本経済新聞朝刊が報道したからだった。今後農地集約化と大規模化にともなって、農機の大型化など、機械需要が高まるとの思惑で農機株が買われたわけだ。日経によると、「農地バンク」は農地に関する情報を一括管理し、規模拡大や新規参入を目指す農家や農業生産法人に提供することで、農地の大規模化を促す公的機関になるとのこと。日本の農業競争力強化は、環太平洋経済連携協定(TPP)との絡みでも避けては通れない道である。

菅首相も1月24日の通常国会冒頭の施政方針演説で、「貿易を自由化したら農業は危うい、そのような二者択一の発想は取らない」と強調している。また過去20年で国内の農業生産が2割減少、若者の農業離れが進んだ点に触れつつ、「商工業と連携し、六次産業化を図る。あるいは農地の集約で大規模化する。こうした取り組みを広げれば、日本でも若い人たちが参加する農業、豊かな農村生活が可能」との認識を示した(2月8日付 Bloomberg 参照)。
 
農地バンクのニュースは去年の12月22日に読売新聞に掲載されたフランスのフィリップ・フォール Philippe Faure 駐日大使のインタビュー記事「農と言える日本へ…自給率120%仏の経験は?」を思い起こさせた。

フランスは「世界のパンかご」と言われるほど農業大国のイメージが強い。実際、穀物、根菜、畜産などすべての農業部門において世界の上位10位の生産高を誇る。しかし驚くべきことに昔からそうだったわけではない。農業改革が始まった1950年代当時は、自給自足さえできていなかったのだ。そのような状況で最初にフランスが重点的に取り組んだのは農家の規模拡大だった。1955年から2000年のあいだに、農業人口を3分の1に減らし、専業農家1戸当たりの平均農地面積を約70ヘクタールと約7倍に広げた。農家の平均年齢も40代半ばと10歳以上若返った。

その際に大きな役割を果たしたのが、農地売買を仲介する公的機関「農村土地整備公社」(SAFER、サフェール)である。これがフランスにおける「農地バンク」である。売りに出された農地を優先的に購入できる権限を持ち、サフェールが買い上げた農地を、規模拡大の意欲を持つ近隣農家に転売する。このシステムにより農地の大規模化が実現し、宅地や商業地への転用も防ぐことができたのだ。

日本は戸別所得補償制度を導入しているが、「農産物を高値に設定し、農家収入を維持する間接的な支援は好ましくない」とフォール大使は主張する。農家への支援は必要だが、農産物に価格差を付ければ、流通を大きくゆがめてしまう。フランスでは価格決定は市場に任せ、政府が直接農家の所得を補償している。またフランスでは、環境に配慮した農業や有機農業に取り組む農家への補償を重点的に行うなど、政策目標を軸に支援にメリハリを付けている。自国農業を守ることは大事だが、最も効率的な農業を目指すべきだと。




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2011年02月06日

2010年の3冊

流麗な文章で綴られた端正な小説ばかり読んでいると、突然正反対のタイプのものを読みたくなる。2010年はそういう年で、実験的、暴力的、破壊的といった性格の文章を好んで読んでいたように思う。


名もなき孤児たちの墓 (文春文庫)そのきっかけは2009年に初めて読んだ中原昌也の作品だった。ノイズ・ミュージシャンあるいは映画好きとしての彼は前から知っていたが、小説を読んだときはかなりの衝撃を受けた。作品の内容が不条理、というどころかストーリー性を求めること自体に意味がなく、話者が突然変わるなど小説のきまりごとと思い込まされている要素がことごとく無視されているのである。一方で全体が破綻のない冷静な文章で語られていて、そのギャップから生まれる得体の知れぬおかしさがたまらない。昨年文庫化された『名もなき孤児たちの墓』に入っている「点滅…」はついに芥川賞の候補にまでなったのは快挙だと思うが、やはり彼の作品は万人にはおすすめしない。「ワッケわからん。金返せ」とか言われそうだし・・


高慢と偏見とゾンビ(二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)ジェイン・オースティンは、同じ作品でも新訳が出れば読むようにしているくらい大好きな作家で、なかでも『高慢と偏見』はいちばんのお気に入りなのだが、セス・グレアム=スミスの『高慢と偏見とゾンビ』はその名の通りゾンビもののパロディ小説である(より正確に言うとマッシュアップ小説と言うらしく、オースティンの原文そのものに文章を加える、という手法で書かれたものである(*))。内容も基本的には原作を踏襲して登場人物たちの恋愛を描きながらも、彼らの周囲に出没するゾンビたちに少林拳(!)で立ち向かうという荒唐無稽な内容なのだが、案外違和感なく楽しく読めてしまうのは、原作がもともと持っているアイロニーがうまく活かされているからだろうか。ところどころに散りばめられたお下劣なユーモアも苦笑を誘う。ハリウッドで映画化が決まり、一時はナタリー・ポートマンがエリザベス役との話があったのだが、どうやらこのキャスティングはポシャった様子で残念。

*:マッシュアップとは既存の2作品を組み合わせることだそうなので、厳密に言うとこの表現も当てはまらない。


猫にかまけて (講談社文庫)さて昨年は総じて町田康イヤーだった。それまでは文体が苦手そうで食わず嫌いだったのだが、本屋で『猫にかまけて』なんていうタイトルが目に飛び込んでくると、猫バカの身としては手に取らざるをえない。ひとたび本を開けば、その独特の言葉遣いとリズムの文章に取り込まれて、次々と他の作品も読み進むことになった。『猫に・・』は町田家に暮らす猫との日々を綴ったもので、それぞれ性格が違う猫たちの行動を面白おかしく読んでいたが、一見おどけたようなそれらのエッセイは、実はとても真摯な言葉でもって愛情深く描かれていることが次第にわかってくる。猫バカ本は多数あれど、個人的にベスト3に入るくらい好きになった。この本に出てくるゲンゾー君という猫さんが家の猫を思い出させて、読むのがとても楽しかったのだが、この本の続編『猫のあしあと』を読んだ今では、彼の写真を見るだけで目がうるんでしまう。


今年に入ってからはまた反動でクラシックな小説を好んで読んでいる。只今は夏目漱石を再発見中。芥川賞を受賞した対照的な2人の作品も気になってます。


exquise@extra ordinary #2



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2011年02月04日

日本がアジアの頂点に ―"Le Matin" より

アジアカップは日本代表が4度目の優勝を飾った。決勝でオーストラリアを下した末、2007年度優勝のイラクから王者の座を引き継いだ。

日本代表が延長戦の末、オーストラリアを最小僅差の1−0で下し、アジアカップを手に入れた。GKシュワルツァーを前にしてフリーとなった李忠成がゴール隅に見事なボレーを叩き込み(110分)、オーストラリアをねじふせた。1992、2000、2004年につづいて4度目の栄冠であり、「日出る国」が優勝回数でも単独トップに立った。カタールで開催されたこの大会は、残念ながらおおくの観客を動員することはなく、ヨーロッパではほとんど話題に上らなかった。とはいえ全体的にみれば、ゲームのレヴェルはまずまずのものだった。

大会方式

アジアカップは4年おきに開催され、ユーロとおなじ方式である(我々にとって馴染みのある方式で、直近ではスイスとオーストリアで共同開催され、スペインが優勝)。16のチームが参加し、4つのチームが4つのグループに分けられる。各グループ上位2チームが準々決勝に進出し、そこからはノックアウト方式のトーナメントとなる。優勝候補の――日本、韓国、オーストラリアは順当に4強まで勝ち進んだが、予想外のチームも勝ち残った――ウズベキスタンである。

この中央アジアのチームは、組み合わせに恵まれてこのステージまで勝ち上がることができた。グループリーグで対戦したのはカタール、クウェート、中国で、「白い狼たち(註:ウズベキスタン代表の愛称)」は力を温存し、しっかりとチャンスをものにしてグループリーグトップで準々決勝に進出した。準々決勝では、またもやセカンドグループと目されるヨルダンを破ったが、準決勝ではとうとうオーストラリアの軍門に下り(0−6)、3位決定戦では韓国にも敗れた(2−3)。けれども、FIFAランキング108位に位置するこのチームは結果を残念に思う必要はまったくない。というのも、その戦いぶりはまったくの快挙だったからだ。「旧大陸(ヨーロッパ)」において、キプロス(89位)、アゼルバイジャン(97位)、アイスランド(113位)がおなじような偉業をなしとげ、センセーションを巻き起こすことなどほとんど想像もできないのだ。

オーストラリアがオセアニア連盟を脱退

アジアカップ中、よく疑問とされてきたのが、オセアニア地域のオーストラリアがどうして大会に参加しているのかということであったが、これはオーストラリアサッカー協会がオセアニアサッカー連盟を脱退して、2006年1月1日にアジアサッカー連盟に加盟したことを踏まえておく必要がある。彼らがこの選択を選んだのは、「サッカールー(註:オーストラリア代表の愛称)たち」が何度もワールドカップの壁に阻まれてきたからであり、オセアニア地域を制しただけでは直接ワールドカップに出場できないからである。オーストラリアの移籍は、それ以外のオセアニアのチームにとってまったく無視できないものであり、というのも、20年ものあいだ地域に君臨していたオーストラリアがいなくなることで、彼らにもあらたな展望が開けてくるからだ。実際、ニュージーランドはアジア地域5位のバーレーンとのプレーオフを制して、2010年南アフリカ・ワールドカップに出場することができた。

安心を与えられなかったカタール

次回のアジアカップ開催国はオーストラリアである。カンガルーの国では、まちがいなく今回のカタール大会以上の国民的熱狂を期待できるだろう。中東の首長国(カタール)は、2020年のワールドカップ・ホスト国になったことについて、国際世論を安心させる必要があったが、それは主催者側にとっては少々、悩みの種となった。中国とウズベキスタンとの一戦には22000人収容のスタジアムに3529人しか観客が集まらなかったし、開幕戦では、ホスト国のカタールが試合終了間際に2点のリードを奪われると、観客はいっせいにスタジアムをあとにしたという。

(訳者註:今回の記事はスイスの新聞『Le Matin』が出典。アジアのサッカーをヨーロッパがどのようにみているのかがうかがい知れるし(記事中のウズベキスタンの話題について、ちょっとした皮肉も混じっているのかな?)、最近のアジアサッカー界の情勢をコンパクトにまとめてあるので訳してみました)



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2011年02月02日

1月の一曲“Just a Little Lovin’” Dusty Springfield 

Dusty in Memphis寒い日が続くこの頃、聞きたくなるのがこの1曲。何かに例えるとすれば、寒い朝に頂く、いつもの一杯のコーヒーでしょうか。カップを両手で覆って、立ち上る香りと湯気に鼻をつっこみ、一口すする瞬間の、あの何とも言えない気持を形にしたのがこの曲だと思うのです。
 
実は歌詞の中にも「モーニングコーヒー」が登場します。早朝、世界が目覚める時に、コーヒーをかき混ぜながら思うこと。ほんの少しの愛があれば、この世の中は思っているほどひどいところでも悲しい場所でもなくなるのに・・そんな歌です。
 
朝のコーヒーというのは、まさにその”just a little loving’”だと思うのです。眠気を振り払いしゃきっとする Eye Opener として飲むものでもありますが、最初の一口をすする時、不思議と静かな気持になれます。今日片付けなければならないあれこれやら雑念とはちょっとの間脇に置いておいて、「空」な状態になる。そして、何気なく願う。「今日もみんな何事もなく過ごせますように。」朝の儀式のように朝のコーヒーを続けてきたのは、そんな祈りの瞬間を持ちたいと本能的に思うからかもしれません。
 
“loving”などと言われるとちょっと大げさで身構えてしまいますが、そんなほんの少しの「祈り」のキモチがを朝の一杯を楽しむ時にあれば、確かに世の中はもうちょっとばかり良い場所になるのではないでしょうか。ダスティの歌声はまさに、美味しいコーヒーだけが持つ豊かな味。朝の冷たい空気や目覚めゆく街の喧噪が聞こえてきそうなアレンジも、素晴らしい。


聞いてみたい人はこちらでどうぞ。
http://youtu.be/uz3znHG70dk


GOYAAKOD@ファッション通信NY-PARIS

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