しかも今回の作品では卵にあたる母親は間違ってもいなかったのである。
ある日突然いなくなった9歳の息子。半年後警察が息子が見つかったと連れてきたのは見知らぬ少年だった。しかし誰も彼女の言葉を信じない。当のナゾの少年までが「マミー」と抱きついてくる。
あらゆる権力に、世間に間違っていると言われても彼女は叫び続ける。「わたしの息子を取り戻したいの」−と。
秀逸な作品を撮り続けるイーストウッドゆえに楽しみにしていた反面、不安でもあった。主役のシングルマザーにA・ジョリーという起用が、である。これまでイーストウッドはあまり色のついていない、というかどんな役でもこなせる本当にうまい役者しか使ってこなかった。それをアンジーである。下手だというのではないが、あまりにも知られすぎた女優。しかも今まで強い役を演じているのに不意に内側から崩れ落ちるような脆さがあったジョリーである。しかし今回はその逆をいって、こんなに華奢な人だったのだと思わせるか細い体に決して折れない芯の強さを全編を通じて感じさせる。
「責任」−父親がいない理由を彼女が息子に語るシーンがある。パパは責任が怖くて逃げたのよーと。この責任―が後々まで響いてくる。責任を果たさない人々が息子を求める彼女の前に立ちはだかる。ミスを認めない警察。その警察のいいなりの精神科医。息子を捨てる父親。しかし彼女は精神病院に閉じ込められても「母」であることの責任から逃げない。息子のために戦い続ける。そして彼女の息子もまたー戦っていたのである。
息子の失踪は連続少年猟奇殺人事件へとつながっていくが、静かで美しい30年代のLA郊外から、土ぼこりの舞うケンタッキーのうらぶれた農場へ、場面の切り替えも鮮やかで登場する人々全てがまたぴたりとはまった見事な演技だ。一見間が抜けた犯人の、常に笑っているしまりの悪い口元。ねばつく話し方。その鳥肌の立つような気味の悪さも本物なら、彼に利用される従弟の少年の大きな瞳の絶望と恐怖の深さ。こんなひどい警官ってあり?と思わせる憎たらしい刑事部長の造形もまた巧みだ。
この犯人や彼を追う刑事の存在が、ヒロインを支える側が正義で警官たちが悪―となりがちな単純な図式に陥らせない。
むかつく刑事部長に「女ってやつは」と感情的で非論理的、倫理的に弱いと評される女性たちの強さ。ことに精神病院で出会う、同じように警察とのトラブルで収監された女性とヒロインの交流は、男でたとえればダイハードのブルース・ウィリスと、あの黒人警官にも負けない。「女の友情もありますよ、さて感情的なのは一体どちらで?」と言いたくなる。
彼女たちに注がれる視線にイーストウッドの女性への深い敬意が感じられる。思えば最初にアカデミー賞をとった「許されざるものーUnforgiven」でも顔を傷つけられた売春婦の復讐から話が始まった。
1935年度のアカデミー賞のエピソードも挟んで、ちらりと和むシーンを配するらしさもあり、重い話ではあっても勇気ある母と子に希望が感じられる、じっくり見たい見事な一本。
□CHANGELING -trailer
黒カナリア@あんな映画こんな映画
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