クリント・イーストウッドの最新作『グラン・トリノ』は、移民問題、家族間の対話、友情と無理解、銃器と暴力の蔓延、法律や宗教の限界など、さまざまなテーマをコンパクトに織り込んだ脚本も素晴らしいが、何よりもイーストウッド本人の圧倒的な存在感を確かめるための映画でもある。そのことについては、もはや贅言を要さないだろうから、ここでは別のことに注目したい。それは、題名にもなっている車、グラン・トリノ(Gran Torino)のことだ。グラン・トリノはイーストウッド演じるウォルト・コワルスキーが働いていたフォード社の誇りである。日本製の自動車を乗り回す彼の息子やその家族にはとりわけ譲りたくない品だ。そんな風に状況が説明される。だが、僕にはその思い入れが共有できない。映画を見ながら、そもそもグラン・トリノってそんなにいい車なのか、という疑問がずっと頭にこびりついていた。
まず、僕自身も含めて、日本で育った人のほとんどは「グラン・トリノ」がフォード社の車名だということに、すぐには気づかないだろう。サンダーバード(ビーチ・ボーイズの歌でお馴染みのいわゆるT-Bird)やムスタングならまだしも、トリノはこれまで、映画やドラマなどでも、さほど脚光を浴びてこなかった。映画のなかで、モン族の不良集団が盗もうとしていた、ウォルトの所有する72年型グラン・トリノは、見るからに素敵なクラシックカーだが、それはきれいに保存されてさえいれば、別にこの車でなくてもよかった、と言えるかもしれない。事実、Wikipediaによると、トリノという中型車のシリーズは、たとえば同時期に発売されたシヴォレー・シェヴェルと較べても、さほど人気のある車ではなかったらしい。
http://www.youtube.com/watch?v=KoLMLFz2Hg8
http://en.wikipedia.org/wiki/Ford_Torino#Popularity
ヌーヴォー・ロマンの作家として有名なミシェル・ビュトールに『モビール』(1962)というアメリカ旅行記がある。横長の変形判に印刷されていて、作家の目に映った外的世界の断片的記述と、作家の意識に捉えられた対象の描写と、通過中の土地の歴史や雑多な情報が、同時進行的に表れるという、複雑な構成をもつ。『グラン・トリノ』を見て、なぜこの旅行記の話が出てくるのかと言えば、ページの左端に、作家が車で旅しながら道路上ですれ違ったり、追い抜いたりした車の種類をいちいち書き留めていて、かつて読もうとしたときに、この固有名詞の羅列がどうにも分からなかったことを思い出したからだ。よほどアメ車を趣味にしていないと、この本に出てくるMercury, Nash, Oldsmobile, Packard, Plymouth, Rambler, Studebaker, Willysといったメーカーが、そもそも現存しているかどうかさえ、言い当てることができないだろう。同時代のフランス人読者にも、どのくらい固有名詞として認識されていたのか、疑問に思う。
固有名詞は、その指示する対象を知らない者には、謎の言葉でしかない。だが、車種を熟知していなくても、これらの車の名前が、それぞれの乗り手の記憶と結びついているだろうということには思い至る。今では誰も乗らない車の名前は、誰かがそれに乗っていた時間と結びつく。忘れられた固有名詞は、忘れられた歴史と結びついているのだ。
そうした車の歴史に関して印象深いのは、ジャン=ポール・デュボワの小説『フランス的人生』の主人公の父親が、Simcaの整備工場に勤めていた、というエピソードだ。シムカは1970年代にクライスラーに吸収されてしまったフランスの自動車メーカーだが(そのクライスラーも先日ついにGMに吸収されてしまった)、現代のフランスの若者にとって、それはオオタ自動車やプリンス自動車同様、馴染みの薄い、あるいはまったく聞いたこともないメーカーになりつつある。その意味でも、シムカに勤めていたという経歴自体が、「かつてのフランス」的なのである。
そういう意味では、グラン・トリノ72年型は、「かつてのアメリカ」のアイコンなのだろう。主人公ウォルトも、まさに「かつてのアメリカ白人労働者」のカリカチュアのような、ごりごりの人種差別主義者として振る舞う。そして、ポーチで日がな缶ビールを飲む。ポーチという空間も、缶ビールというアイテムも、どちらも極めてアメリカ的だ。『キネマ旬報』の小林信彦と芝山幹郎の対談によると、ウォルトが飲むビールも、労働者階級が好む典型的な銘柄だそうだ。
だが、それだけなのだろうか。グラン・トリノが中年以上のアメリカ人のノスタルジーを掻き立てるという、それだけの理由で、イーストウッド監督作品中、アメリカで最大のヒットとなったこの映画のタイトルに選ばれたのだろうか。
本作のストーリーを詳しく語るつもりはないが、多少ぼかして言えば、ウォルトが血の繋がりのない隣人に、グラン・トリノを譲る、という結末である。ラストシーンは、この車を隣人が運転して湖のほとりを走っている場面だ。そこにイーストウッド作曲(彼はここ最近の監督作品には自らスコアを書いている)の主題歌が、珍しくイーストウッド自身の歌声で始まる。さすがに年老いて、呟くような声だが、それが何ともいえない味わいを出している名曲だ。2番からは、もっと若い歌手が歌い継ぐ。そして出てくるのが、「あなたの世界は、あなたが残してきた小さなものすべてを集めたものでしかない」(Your world is nothing more than all the tiny things you’ve left behind)という一節だ。
http://www.youtube.com/watch?v=HEXF7U5TYV8
映画を見終わった後、この歌が忘れられず、iTunesストアで購入した。そして、繰り返し聴くうちに、僕はようやく意味が分かった気がした。やはりグラン・トリノは大した車ではないと考えてもいいのだ。それは「小さなもの」でしかない。といっても、それはグラン・トリノという車に価値がないのではなく、人が人に遺せる物品は、しょせんそこに込められた気持ちに較べれば、大したものではない、ということである。逆に言えば、気持ちのこもった物なら、何を遺しても、それはあなたの世界をかたちづくるだろう。ただ財産として車を受け取るのと、広い世界へ出て行くチャンスを与えるものとして車を譲られるのとでは、同じように運転しても、その意味は違ってくる。結局は、人の思いというものをどのように測り、受け止め、表現していくか、ということが、この映画の題名が問いかけていることなのだと思う。
アメ車といえば、子供の頃、テレビドラマ『ナイト・ライダー』シリーズのKITTのモデルが、GMのポンティアック・ファイアーバード・トランザムだということを調べて以来、ずっと興味を失ったままだったが、久しぶりにアメリカ人と自動車のつきあいがどんなものであるかを考えさせられた。そのアメ車企業は、今まさに倒産の危機に瀕している。そのことも、この映画がアメリカ人の琴線に触れるタイミングをもっていたことに含まれるのかもしれない。車をめぐる孤独な人たちの物語は、同時に車のたどった寂しい歴史の物語でもある。だからきっと、主題歌は夜を駆けていく車のエンジン音を歌って終わるのだろう。It beats a lonely rhythm all night long…
http://www.youtube.com/watch?v=oc_0SK2BKUI
bird dog
↑クリックお願いします






私もグラン・トリノで書こうと思っていたのですが、先を越されました。とはいえわたしが書くと単なるイーストウッドへのラブレターになりそうなので、Bird dogさんの視点面白かったです。
実はこれを見たアメリカ人の友人も「なんでタイトルがグラン・トリノなんだろう」と言っていました。「大した車じゃないし、なんでなんだ?」「やはり大切なもののシンボルなんだろうね」などと車に全く弱い我々の間では終わっていたのですが、Bird dogさんの記事を読むとそういうことねーと腑に落ちます。
たまに書かれますよね。また楽しみにしています。
では。また面白いものがあれば教えてください。
黒カナリア
コメントありがとうございます。イーストウッドの映画は、よく分からないことだらけなのに、全体としてはやたら心を打たれてしまいます。『グラン・トリノ』については、タオはウォルトの遺志をちゃんと受け継いだのか、そもそもウォルトの遺言も結局は自己満足にすぎなかったのではないか、などなど疑問が多くて、それが今回のちょっとうがった、というか遠回りな感想の出発点になっている気がします。もし違う感想をお持ちでしたら、ぜひアップしてください! 僕も黒カナリアさんの映画評を楽しみにしていますよ。