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マリー・アントワネットのサブカル化はすでに日本で起こっている。誰もが知っている1970年代のカルト・マンガ「ベルサイユの薔薇」である。池田理代子の原作は、1974年に宝塚歌劇団によってミュージカルになり、この女性だけの歌劇団の最も大きな成功となった。宝塚歌劇団は「ベルサイユの薔薇」を2000回も上演し、これまでに400万人以上の日本女性たちが喝采を送った。
一方、映画「マリー・アントワネット」は悲劇の王妃の物語よりも、ドレスや靴やお菓子などのモノにスポットを当て、それを匂い立つ生モノのように映し出した。紙の上の線によって描かれるマンガの記号的な世界とは対照的である。欲望の形も大きく異なっている。それは悲劇の物語の主人公にロマンティックに同一化するのではない。あくまでモノの「かわいさ」への共感であり、最終的にはそれを手に入れ、身につけることにつながっていく。
映画のようにキルスティン・ダンストが代表してマリー・アントワネットになり、それをみんなが鑑賞するという形式は、特権者が代表するという近代のシステムである。そのシステムの中では物語という表象を通して背後にある理念を理解することが重要だった。しかし、姫系ファションにおいては誰もが即物的にマリー・アントワネットになる。共和主義者たちはマリーを打倒すべき象徴としてギロチンにかけたが、マリーになりたいと望むすべての女性をアントワネット化するほうがずっとラディカルだ。それを可能にしたのが個人の欲望をピンポイントで満たしてくれる日本の洗練された消費主義である。
ソフィア・コッポラは、18世紀のフランスの宮廷と80年代の英国のポップチューンを組み合わせているが、それらのあいだには何の関係もない。ストーリーの展開の代わりにコラージュのようにモノを並べ立てる。それだけではシーンが動かないので、80年代のポップチューンを使って時間軸を作り、リズムを与える。私たちの注意はスクリーンの背後にあるものに向かわない。ただモノが全面化し、つねにモノの現前につなぎとめられている。ピンクやサックスの色に、魅惑的なフォルムやラインに、想像の中で感じる素材の質感、匂いや味に。画面の中で自足してしまうから、映画ではなく、ビデオクリップにしか見えないのだ。そういう映画から姫系ファッションはさらにモノだけを純粋に切り出している。
このファションは男性へのアピールでもないし、「ただかわいいからとしか言いようがない」と先の彼女も言っていたが、姫系ファッションの豪奢さは、外部の人間には理解しにくいものだろう。そのあいだには絶対的な壁がある。東宏紀の言葉を借りれば、それは小さな物語ということになる。小説や映画やアニメやゲームといった物語コンテンツは社会全体で共有可能なリアリティーを表現する媒体として機能しておらず、ただ消費者の感情や感覚を的確に刺激する「小さな物語」として、個別に消費されている。姫系ファッションの「かわいい」は彼女たちの感覚をピンポイントで射止めているのであり、オタクの「萌え」やケータイ小説の「泣ける」と、同じように理解できるのだろう。
ちょっと古い記事だが、今年の2月、アメリカの「タイム誌」に姫系ファッションのことが紹介されていた。タイトルは「落ち目の経済の中で着飾るお姫様たち」。その一部を適当に訳出してみた。このシーンの概観を知るには良い記事だ。
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「お父さんが私に言ったわ。一体どうしてしまったんだ?って」ワタナベ・マユカは笑いながら言った。彼女は17歳の高校生で、大きなリボンと3つのピンクの薔薇のついたヘアバンドをしている。彼女の友だちの、タカハシミキは18歳。彼女のファションはシンデレラからインスピレーションを受けている。「みんなわたしのことを見るわ。ときどき指さしたりする。一度電車で、小さな子供が私を見て、ほら、妖精がいるよ!と叫んだわ。ちょっとびっくりしたけど、気にしなかった。だって私は着たいものを着ているだけだから」。
茨城県の北にある日立から来ている21歳のウェートレス、ナガミネ・サナエは友だちと一緒にジーザス・ディアマンテへの巡礼に行くために電車に2時間乗らなければならない。ジーザス・ディアマンテは姫系ファションをプロモートする先端のブランドのひとつで、フリルのついたパステルカラーのドレスと巻き毛のヘアスタイルで知られている。パートタイムの仕事で稼いだお金で、少女たちはジーザス・ディアマンテのお店に向かう。「私はJDのデザインが好き。私をパワーアップしてくれるから」

イマダ・サトシ(どこかの大学の先生)は姫系ファッションは満足のいかない日常生活に対する反応だという。女の子たちはヴァーチャルと現実世界のボーダーを取り去っているのだと。彼女たちは別の自己表現の形を望み、もっと意味のある生き方を探している。命運の尽きたヨーロッパの貴族のファションを通して生きる意味を探すことは、ビジネスによって動いている現代の日本文化に対する抗議のひとつの形なのかもしれない。
しかし、それは確実にジーザス・ディアマンテをしこたま儲けさせている。現在、会社は4つの店を経営し、2007年の半期で14億円を稼ぎ出している。ドレスは1着5万から6万円で、コートに至っては15万円に跳ね上がる。平均的な客はまるでお姫様のように1ヶ月に10万円使う。中には40万円使う客もいる。客の大半は10代から20代半ばまでだが、30代、40代の客もいる。
カスタマー・ロイヤルティー(「○○を買うなら××」と決めている顧客が持つ心理的状態)は、カルト化しているファション・ムーブメントにおいて簡単に手に入る。会社は販売員に店舗とウェブ上のモデルになることを求め、その結果、販売員にファンがつくことになった。販売員の中で最も人気があるのはミゾエ・ケイコ、24歳。新宿店の従業員で陶製の人形のような完璧なルックスだ。「みんな私のことをプリンセス・ケイコと呼ぶわ。そう呼ばれるのは好きじゃないし、どうしていいかわからないけど、みんなそういうふうに見てくれるなら、私は自分の役割を果たさなきゃと思うの」。彼女は「小悪魔ageha」のレギュラー・モデルでもあり、ときどきテレビにも出演する。「毎日私は女の子であることをとても楽しんでいるわ。私は偶然プリンセスになった普通の女の子にすぎないけど、世界は私の思い通り。私は最もラッキーな女の子」。そう言う彼女はフリルのついたピンクのドレスを着て、パーフェクトなカーリーヘアに大きな花のアクセサリーをつけている。「私はいつもプリンセス・ファションを楽しみたいし、歳をとってもピンクを着るわ」
「小さな女の子はみんなプリンセスが好き。どんな女の子も一度はプリンセスの真似をしたし、ピンクやフリルが好きだったことがあります」。ジーザス・ディアマンテのデザイナーのチノミ・ユリは言う。「買ってもらったフリルのついたドレスを着たとき、私はとても幸せでした。それを着れるのは特別な機会だけでしたが、その興奮を覚えている大人たちはきっといます。私は彼女たちに私たちのファションを着ることでそれを思い出して欲しいのです」
プリンセス・ハウスの社長、ホソミ・タカコは彼女の顧客たちに「天蓋つきのベッドでハンサムな王子様のキスで目覚めることはすべての女の子の夢です」と付け加えるが、彼女の顧客たちは18世紀のヨーロッパの宮廷を真似て彼らの生活空間を作り変えたがっている。
経済が沈滞した日本において、花嫁に貴族の生活を提供できる王子様は絶滅危惧種である。しかし、マリー・アントワネットの取り巻きのように、姫系の女の子たちはあたかもバブル経済の中に生きているように消費を続けている。
Princesses Preen in a Pauper Economy
By Michiko Toyama Tuesday, Feb. 03, 2009
Time World
By Michiko Toyama Tuesday, Feb. 03, 2009
Time World
「命運の尽きたヨーロッパの貴族のファションを通して生きる意味を探すことは、ビジネスによって動いている現代の日本文化に対する抗議のひとつの形なのかもしれない」と、誰かが姫系ファッションを評しているが、どこかで雨宮カリンが自分のファッション(雨宮の場合はゴスロリ)はオジサンたちをひかせるための、オジサンたちから身を守るための戦闘服と言っていた。確かに姫系ファッションは日本のビジネスと日本的組織を体現するオジサンたちとは最も相容れない、「水と油」的なものである。彼らはオタク系文化にはそれなりに馴染みがあるだろうし、ケータイ小説も小説の一種として理解するかもしれないが、姫系ファッションには完全に跳ね返されるだろう。
□「マリー・アントワネット」あるいは「小悪魔AGEHA」(1)
cyberbloom

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姫系とかagehaなんかアントワネットとは違ってただの下品な人にしか見えないです
ロリータの方が品がある気がします
最近話したロリータ系の学生さんも同じことを言ってました。おっしゃりたいことはよくわかります。