2009年08月16日

「ノルウェイの森」のロケを見学!(3) 高度成長期の大学生

balladeimpossible01.jpg『ノルウェイの森』は主人公が大学生ということに親近感を覚える小説でもある。そのせいか、私自身68年が舞台という意識はあまりなく、小説が発表された自分の大学生時代に重ね合わせて読んでしまう。この小説はワタナベと直子がふたりでひたすら歩いているシーンが印象的だ。大学時代というのは、金はないが、時間だけは持て余すほどある。私自身もひたすらそういう無為な行動に明け暮れていた。茫洋としたモラトリアムな時間感覚。みんな勉強なんてしなかったし、そして何よりも大学で勉強することと、社会に出た先のことが結びつくという意識がほとんどなかった。みんな頭を真っ白にして企業戦士=サラリーマンになった(新人研修は人格を破壊するために行われていたとも言われる)。そこには暴力的な要求と断絶があったわけだが、それが日本の高度成長を支えていたことは言うまでもない。

それゆえに、地理の勉強をして地図を作る仕事に就こうとしている、つまり目的を持って、愚直に将来とのつながりを意識して勉強している「突撃隊」が小説の中で揶揄されている。それはワタナベの諦念の裏返しである。「ノルウェイの森」にはフランス語で La ballade de l’impossible というタイトルがつけられている。「不可能なもののバラード」。次々と死んでいく『ノルウェイの森』の登場人物たちは、変貌していく社会に一種の致命的な暴力を感じ取っていたということなのだろうか。

このようなワタナベの諦念には時代的な裏づけがある。教育社会学者の竹内洋が『教養主義の没落』の中で当時の大学を取り巻く状況について書いている。1960年代後半は日本の高等教育がエリート段階からマス段階に移行した時期である。新規就職者に占める大卒者の割合が急上昇し、大卒者の「タダのサラリーマン化」が進行する。1970年頃まで新規学卒労働市場ではどんな学部を出たかは将来の進路にとってかなり決定的で、大学が教養知や専門知を伝達する場であることは自明だった。しかし、1970年代から日本の企業は大卒の大量採用を始めた。大量採用だから大卒と言っても専門職に就くわけではないし、将来の幹部要員でもない。

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)このプロセスを人事制度から見ると、年功序列と終身雇用の制度が確立した時期にあたる、と城繁幸も指摘する(『たった1%の賃下げが99%を幸せにする』)。個人の能力や知識がそれほど要求されず、新入社員に求められるのは組織秩序に従順でまじめであること、そして20代前半であること。大学卒業証書はその保証書に過ぎなくなり、大学は卒業資格の発行所に成り下がってしまったのである。

そんな状況で大学生が「知識人とは何か」とか「学問するものの使命と責任」をとことんつきつめようとしたのが大学紛争だった。その根底には大学生がただのサラリーマン予備軍になってしまった不安とルサンチマンがあり、自分たちをサラリーマンとして強引に大衆化しようとする秩序を打ち倒そうとしたのだと、竹内洋は言う。その矛先はしばしば大学の教授たちに向かったが、彼らがお気楽に唱える教養主義は学生たちの目には一種の象徴的暴力として映ったのである。しかし、彼らの抵抗は潰える。大学紛争以後の大学生は教養知と専門知を放棄し、大学のレジャーランド化が始まる。そして大学時代は一種のモラトリアムとなる。

村上春樹はレジャーランド化した大学と親和性があったように思う。田舎者根性の丸出しの(竹内は教養主義が農村のエートスに支えられていたことを指摘する)、特権性を振りかざすだけの古い教養の代わりに、カポーティやチャンドラーを読み、ジャズやロックに精通し、趣味の良いポロシャツを着て、慣れた手つきでスパゲッティを作り、付き合っている女の子のバッグの中身が魅惑的なモノで溢れているような、新しい都会的なスノビズムをもたらした。

現在、大学の中身は変わったわけでは全くないが、企業はコスト削減を強いられる中で新入社員を教育する余裕がなくなり、即戦力を求めるようになっている。以前に比べて大学の授業の期間もはるかに長くなったし、資格を取れとか、平常点重視とか言われ、入学時から日常的な管理と競争のもとにおかれているネオリベ時代の大学生にはモラトリアム感覚はないのだろう。教師の側も成績をつけるときは基準を明確にしろと言われるが、この個人の点数化は巧妙な自己責任化の側面を持つ。つまり就職できなかったとしても、それは大学や社会が悪いのではなく、自分の点数が足りなかったのだと自覚させればよい、とでも言いたげである。

あっというまに追放されてしまうモラトリアムの楽園の中で、恋愛が純化される。実際、ワタナベと直子がやっていることは純粋とかそういう問題では全然無いのだが、発表当時、この小説は、「純粋な恋愛」とか「もっと恋をしよう」をキャッチフレーズに恋愛ブームを巻き起こした(実際何が起こったのかは知らない)。純粋な恋愛とは、暇にまかせ、社会的な制約が無い状態で、恋愛をするということなのだろう。サラリーマンはそんな暇なことをやってられないし、自由なふるまいや逸脱した行動に関していちいち言い訳をしなければならないが、大学生はそれをする必要がない。それを純粋と呼ぶのなら同時にそれはこの小説の限界でもある。

しかし、ワタナベのやっていることはひたすら中途半端である。「言葉を介さずにひたすら勝手な憶測で先回りをするワタナベは日本そのものだ(例えばアメリカに対する日本の態度)」、という田中康夫(兵庫8区から出馬!)のツッコミのあまりの的確さに笑ってしまった。ある意味、無責任かつ中途半端な優しさで彼女と関わり、ほとんどプログラムされたような彼女の自殺を傍観し、そのあとケロリとしている最低な男の話とも言える。

そういう純粋なふたりが向かう先は「北の方角」だ。村上春樹がしばしば「井戸」のメタファーで表現する意識の深みに降りていくように、深い山の奥へと分け入っていく。ネットで偶然に見つけた「ノルウェイの森」のロケ現場の写真は、小説のイメージを全く裏切らない、まるで夢で見たような光景だ。

「ノルウェイの森」のロケを見学!(1) 学生寮のサイケな光景
「ノルウェイの森」のロケを見学!(2) パリの13区







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posted by cyberbloom at 11:50| パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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