Je lis la Princesse de Clève ― この言表において「読むという行為」に重点が置かれていることに注意しよう。普段、私たちは文学作品を前にするとき、当然のようにテキストの意味内容に関心が向く。その場合、私たちはそれを誰にも邪魔されない隠れた場所で読む。自分の部屋や図書館、あるいは「群集の中の孤独」を保障してくれるカフェや電車の中で。静かな読書はテキストの意味内容に従属する行為なのだ。
しかし、「クレーブの奥方」事件では、小説の中身についてほとんど言及されることはなかった。テキストはあくまで口実にすぎず、それを読んだと宣言することや、人前で声に出して読むというパフォーマンスが前面に出ていたのである。つまり、テキストの内容を後ろに押しやって、読むという行為に特権を与えているわけだが、それは儀式的な行為である。
儀式の本質とは何か。それは沈黙を破って、声を発することである。同時に他者の視線の中に立ちはだかることでもある。動画に登場する女性が message politique と言っているように、それは何よりも政治的な行為である。話すこと、声に出すこと、メッセージを発すること。その行為が表面化するのは、私たちが何らかの困難や危機的な状況にあって、目の前が不透明で、不確かなときであり、それを乗り越えようとするときだ。それは必然的に、あるコンテクストに介入し、それを変えようとする政治的な行為につながる。『クレーヴの奥方』事件の本質はここにある。
声に出すことは危機の時代の自己表現だ。今の時代の特徴は危機が恒常化していることにある。私たちを守ってきた様々な文化的、制度的な網の目が次々とほどけ、剥き出しの状態におかれていることを日常的に実感じざるをえない。そういう時代だからこそ、他者に働きかけるベーシックなコミュニケーション能力、つまりは自身の言語能力を自覚し、声を発することでその都度それを確認するのである。
サルコジの『クレーヴの奥方』発言をめぐる討論番組もあったようだが、上の動画の突き抜け方は痛快だ。かつて文学がこんなふうに扱われたことがあっただろうか。あのポップなバッジがすべてを物語っている。マジで欲しいと思わせる。キャッチフレーズ、グラフィック、ゲリラ的な偶発性。つまりは広告的な戦略を流用している。ポップな戦術は声を発すること、話しかけることの延長線上にある。ポップとは、わかりやすさと目立つことである。ポップなものは、オーディオ・ヴィジュアル(聴く+見る)に訴え、注意をひきつける。孤独に本を読むこととは対照的に、他者のプレゼンスを前提にしている。対人的なコミュニケーション能力を刺激し、それを引き出そうとする。最後に女性がバッジにキスして口紅をつけるが、ポップなものは何よりもセクシーである。
おそらくサルコジも戦略的に『クレーブの奥方』発言をしたのだろうが、学生たちはそれをパロディ化し、アイロニカルなやり方で抵抗のシンボルとして練り上げた。仲間や賛同者たちと共有しつつ、政治的なメッセージとして投げ返したのである。共感を集めたり、連帯を促すためにはアートな政治表現が必要になってくる。インスピレーションを与えるようなカッコ良さが必要なのだ。
バッジが Salon du Livre (本の見本市)に集まった人々の共感とリアクションをもたらし、そのやり取りによって一時的であれ、その場を占拠したように、「声に出して読むという行為」(=教師と学生が参加した6時間にわたる『クレーヴの奥方』のリレー朗読)はデモと連動し、まさに「都市の占拠」という直接的な戦術とつながっていた。その場で声を出すこと、人の注意をひきつけることは、「いまとここ」のリアリティーを求める。そのリアリティーは普段研究室に閉じこもっている人たちには最も縁遠いものだったはずだ。
クレーヴ事件が生んだおびただしいパフォーマンスと、それを演出した動画の数々。動画を通して私たちは他者の行為を見ることができるし、それに呼応した行為を動画共有サイトを通して見せることができる。それは文章を書いたり、黙って読んだりすることとは本質的に異なるパフォーマティブな行為だ。ネット上も新たな占拠の対象になったのだ。おそらくブログや動画共有サイトはクレーヴ事件において大きな役割を果たしたのだろうが、それはメディアを利用することではなく、自らがメディアになることだった。
(続く)
□『クレーヴの奥方』事件(1) Je lis la princesse de Cleve!
cyberbloom

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