2009年12月04日

フランス・テレコムで何が起こったのか?(2)

フランスの雑誌 Nouvel Observateur に掲載された「フランス・テレコムの自殺の波−オンラインの苦しみVague de suicides à France Télécom − Souffrances en ligne 」の続き。



orangestresse.jpgステファヌは毎週、他の何人かの同僚と同じようにメールで配置換えの提案を受け、それに暗に答えることを強く求められている。ステファヌは43歳。「私は老い始めていることを思い知らされた」。また別の日にはマネージャーが近いうちにリストラがあるかもしれないと言い、万力で締め付けられるように感じた。ある同僚のことが彼の頭から離れない。同僚がバカンスから帰ってきたとき、彼の机には他の誰かがいて、持ち物がダンボールに入れられ、階段の踊り場に放置されているのを見つけた。ステファヌは誰も守られていないことを知っている。フランステレコムにおいて、良い社員とは黙って去っていく社員なのだ。

「精神的な打撃を与えるために、管理職ならMOTに、平社員は店舗か10-14に送ると脅される」と、ティフェーヌは証言する。10-14とは、大量飼育の鶏のように一列に並び、不満な顧客の電話を受けるプラットフォームである。非常に辛いその業務は、販売の研修も、コミュニケーションの研修も受けていない技術者にとって拷問に近い。MOTは、「mission opérationnelle temporaire (一時的作業の任務)」の頭文字であり、最大で6ヶ月間、ときには本人の立派な資格にはそぐわないポストか、することのない暇なポストに割り当てられる。かつて多忙だった上級管理職のセバスチャンもそのようにして「1日3時間」の恥ずかしくて誰にも言えないようなポストに割り当てられた。

フランステレコムの社員たちは雇用の安定と安心のために公的な仕事に就いた。民営化が達成され、今彼らがいるのは柔軟性 flexibility-flexibilité という悪夢の中だ。シャンタルは名の通った部署を経た上級管理職であり、彼女は2年前から「任務」についている。社内での面談をおよそ100回受けたが、無駄に終わった。「彼らはシステム化されたハラスメントを確立した。私たちの間で、それは年長者殺しと呼ばれている」と彼女は言う。「マネージャーは服従させるために選ばれている。彼らを見ると、私は kapos (ナチスの強制収容所の班長)のことを思い出させる。その唯一の目的は人々を解雇することだ。もう一方の鎖の端では、サンディが働いている。今は店舗にいるが、その前はコールセンターにいた。彼女もまたマネージャーの役割がここ10年で変わってしまったと言う。「今、マネージャーは私たちを助けるためにいるのではありません。逆に、私たちに悪い評価を下すために欠点ばかりを洗い出します。そのため恐ろしい雰囲気になっています」。以前は、技術の知識を分け合う「リーダー」がいたと、元社員は言う。今は、人事を支配する「マネージャー」がいる。

企業文化の変化は根本的なものであると同時に急激である。「金融の論理が組織全体を支配してしまった」と『ストレスにさらされたオレンジOrange stressé 』(写真上↑Orange はフランス・テレコムの携帯ブランド)の著者、イヴァン・デュ・ロワ Ivan du Roy は分析する。それぞれの従業員は定められた目的を持ち、常に評価され、同僚との競合関係に置かれる。販売員は多くの使用契約を取らなければならないが、マネージャーは管轄の人員を減らさなければならない。

もちろん、このような雰囲気が直接的に自殺の原因になったとは言えない。しかし、落胆の空気が支配している。オフィスでは、最先端のテーマを扱った博士論文を書いている人間がコピー取りをしたり、ポリテクニシアン(理工科学校出身のエリート)が会議でオレンジジュースを配っているのを目にする。たくさん売るためにちょっと嘘をつくという思いつきに耐えられない無愛想な技術者が販売店に配属されていたりする。RH(ressources humaines 人的資源)の部署が廃止された、51歳のサンドラには、自宅から300キロ離れた職場が提示される。みんな身をかがめ、顔には失望の色が浮かぶ。誰もあえて語らない。なぜなら、サンドラが言うように「誰がマネージャーに告げ口するかわからないから」から。

しかし、みんな目撃している。女性は泣き崩れ、男性は精神的に参ってトイレに逃げ込むか、看護婦のところに行くのを。心筋梗塞を起こす者もいるし、指をコンセントに突っ込んで死んでやると言う者もいる。神経的な発作も起こっている。ある者は抗うつ剤の影響で、会議で一貫性のない発言をする。同僚のあいだで、起こっていることに不安になっている自分を見る不安の瞬間が多々ある。欠勤も相次いでいる。それは従業員一人当たり年間で平均4週間になる。抗うつ薬を飲んで働きに来る人たちもいる。嘱託医でさえ疲れ果てている。組合によると、企業の70人の従業員のうち10人が、苦痛に耐えられずに退職してしまっている。仕事の構造的な組織化によって生み出される被害をケアするのは「カウンセリングルーム」ではないはずだと、彼らは言う。「それはアスベストのようなものだ」と彼らの一人は言う。「これ以上病気にならないためには、それを廃止すべきだ。ここで病気の原因になっているのは、人事管理のやり方だ」。

7月14日、自殺したのは、移動体通信網の専門家で、マルセイユ出身のミシェル・ドゥパリ Michel Deparis だった。自分の行動をはっきりと示すために、彼は手紙を残した。「私は、フランス・テレコムの仕事が原因で自殺する。(・・・)多くの人がこう言うだろう。仕事以外に原因があると。しかし、違う。仕事が唯一の原因なのだ」。ミシェル・ドゥパリはマラソン選手だった。歯を食いしばることには慣れていたが、何よりも困難なレースが存在するのだ。



フランスの大企業は伝統的に経営者と従業員の立場がはっきり分かれている。最近は改善してきているようだが、大企業の経営者の半分近くがエナルク(enarque=ENA出身のエリート)の官僚によって占められていた時期もあり、現場の従業員が出世して経営側に回ることがほとんどない。そのため経営者は従業員のことはあまり考えないし(日本とは逆に福利厚生は国任せ)、従業員は将来経営側に回れると思っていないので、経営に対して無関心になる。確かにちょっと前までフランスといえば、サービスや接客の態度が悪く、見るからに労働生産性が低そうだった。それゆえ中間管理職といった現場とトップとをつなぐポストが存在してないか、あっても機能していないケースが多かった。しかし、国際経済の荒波に巻きこまれたフランス企業もどんどんアメリカ化している。もちろんそのため中間管理職といった会社内の調整役も必要になるのだが、フランスはこの部分が脆弱なので従業員は孤立化する傾向が強いのだろう。一方でアメリカでは雇用が流動化していて、解雇されたとしても次の仕事を見つけやすい。それを前提にリストラが行われるが、そういう受け皿がない状態でリストラだけを行えば、社員に大きなプレッシャーがかかることは想像に難くない。しかしフランスでは雇用の流動化にアレルギーがあることは、2006年のCPEに反対するデモの盛り上がりを見てもわかる。この問題は日本と共通していて、正社員の権利が手厚く保護されているがゆえに、イヤガラセのようなことをして自発的に辞めるようにしむけるのだろう。

アメリカ式の企業運営の最も象徴的な存在がコンサルタントである。上の記事の中でマネージャーと呼ばれている人々である。理論的には企業に対して客観的な助言や戦略を提供する役割を果たすことになっているが、実際は組織活動の再編の中でも不快な業務―つまり退職勧告、部署の廃止、残された業員の新たな任務の分配―を請け負っている。リチャード・セネットによると、経営者にとってのコンサルタントの効用は、何よりも企業内に権力が行使され、重大な変化が起こっているという信号を送ることができる。一方で企業の中枢に居座る重役たちは不快な決断に対する責任を免れる。我々ではなく、コンサルがやったことだと。そしてコンサルタントは企業に入ってきたと思えば、すぐに出て行く人々で最終的には責任を負わない。これだけコンサル業が政治力を発揮しているのは、命令と責任が結びつかないからである。これが最大の柔軟性なのだろう。

新興国を含めた厳しいグローバルな競争にさらされ、いっそうのコスト削減と、技術革新と市場の変化に迅速に対応するためのフレキシブルな組織が必要になった、というのが彼らの考え方のベースになっている。何よりも人件費を削減することが最大の問題としてクローズアップされる。今更だが、企業はもはや個人を支え、人間関係をはぐくむためにあるのではない。フランス・テレコムの内情がそれを赤裸々に語っている。企業はそれ自体のために、企業が存続するためにある。アメリカからもたらされた「金融の論理」とは、従業員のことを考えるよりも、配当を要求する株主に答えることだ。つまりEPS(一株あたりの利益)を上げることが最優先される。

そして現在、人間は労働の担い手というよりも、潜在的な能力を持った人的な資本とみなされている。労働者は新しい事態に対応するために、みずから能力を開発することを怠らない。そのために自己投資を続けなければならない。外資系の銀行に勤めている友人によると、今回の金融危機で多くの社員が解雇されたが、みんなそれをチャンスと捉え、大学院に入り直したり、新しい資格を取ったりして、更なるスキルアップを図るのだという。若い社員だけでなく、40代、50代の同僚さえもそういう自己投資に何百万円もかけることを厭わないようだ。つまり、そのときどきに何ができるかという、スキルのリストアップよりも、自分がどれだけ潜在力を高め続けられるか、それが評価の対象になる。

つまり現代の労働者は自分を事業主としてセルフ・プロデュースしながら、市場で競争し、常に生産力を高めていかなければならない。その手始めが、就職活動の際に求められる「就活力」なのだろう。日本では70年代以降、大学がエリート教育の場であることをやめ、大学新卒者の大量採用によって、大学生はサラリーマン予備軍と化した。その背後には終身雇用制度と年功序列賃金制度の確立があった。その時代の仕事はそんな過大な能力を要求するものではなかったし、むしろ頭を空っぽにして社畜になることが推奨された。そして就職の際には最低限の体裁と身振りを整えるマニュアルがあった。今は全く別の意味で大学と仕事が結びつかなくなっている。つまり、大学(縦割りの学科で構成される現状では)で何かを学んだとしても、それはある知識を詰め込み、ある技術を身につける、限定的な一段階にすぎなくなっている。





cyberbloom

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posted by cyberbloom at 10:39| パリ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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