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ルネ・シェレールは故ジル・ドゥルーズやジャック・ランシエールらと並ぶパリ第8大学哲学科の名物教授であり、その著書も何冊か翻訳されている哲学者だ。だが、彼がロメールと兄弟であり、なぜ、苗字が違うのかということは余り知られていないかもしれない。映画監督ロメールの本名はモーリス・シェレールであり、エリック・ロメールというのは全くの芸名(偽名?)なのである。何故、彼が名前を隠したのかといえば、映画を作り始めた学生時代、両親には「自分は医学を学んでいる」と告げていたためだ。その後も、親には医者になったと偽り続けたのだが、エリック・ロメールという名前はどんどん有名になっていく。その有名な映画監督が自分の息子と同一人物であるとは親はいつまで経っても気がつかなかったのだという。
実際、ロメールは医者にはならなかったが、高校(リセ)の教師になり、定年まで働き続けた(途中からは大学教授として)。その点では親を安心させたのかもしれない。世界的に知られるようになっても兼業を続けていたのは親に対する配慮からか。その職業ゆえ、在職中の彼の作品は当然ながら学校がヴァカンスになる夏休みと春休みにしか撮影されなかった。しかし、そのおかげでフランスの最も美しい季節がフィルムに収められることになったのであり、そしてそれらが1970年以降のフランス映画を代表する傑作の数々となっていったのである。われわれはロメールの「兼業」に感謝しなければいけないだろう。
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二年ほど前、大阪の女子大学でのフランス語の授業で、久しぶりにロメールを観た。それは、『レネットとミラベル〜』の中の1エピソード「青い時間」だったのだが、久々に体験するロメール的世界に授業であるということを忘れ、酔い痴れてしまった。田舎で偶然出会った二人の女子学生が、「冒険」とはとても言えないような他愛もないことを経験するだけの物語なのだが、途中から虚構と現実の境界がなくなってくるところが面白い。例えば、散歩の途中に偶然出会った農家のおじさんが農業の話を延々と始めるのを、二人は黙って聞いている場面。あれは、現実にその場にいた農家の人をそのまま登場させたとしか思えない。そうでなければ信じがたい名演である。そして、ふいに吹き始める風、降り始める雨。自然のあらゆる偶然的要素がロメール映画には奇跡的に入り込んでくるのだ。
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それにしても、2000年台になってもロメールが三本も映画を撮ったということは奇跡的なことではないだろうか。『グレースと公爵』(2001)、『三重スパイ』(2004)、『至上の愛』(2006)。それも、旧態依然たるやり方ではなく、一作ごとに新しい作風によって。この衰えを知らぬ創造のパワーには恐れ入るしかない。ロメールの両親も、ここまでやれば、医者にならなかった息子を咎める気にはならないであろう。ロメールは失われても、彼の映画は失われない。「ロメール映画を観る」という喜びは常にそこにあるのだ。
不知火検校@映画とクラシックのひととき

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ラベル:エリック・ロメール Eric Rohmer
あれはいつのことだったろう?リュクサンブール公園の裏手にある大学の一教室にあなたが現れたのは。帽子をちょこんと被りリュックサックを背負いやってきたあなた。少し弱弱しい声で授業をしていましたね。わたしの仏語理解力が乏しい故に授業の半分しか理解できませんでしたが、憧れの監督が自分の作品を分析していくというスタイルに心臓の鼓動がとても速かったのを思いだします。パリの街ではあなたをよくお見かけしました。あるときはレ・アルで、又あるときはカルティエ・ラタンで遭遇しました。あなたはいつものあの格好で監督のオーラも微塵に感じさせずただただ街を歩いていましたね。私は直感的にこれがあなたとの最後の会話になると思い、思い切ってあなたに話し掛けました。ソルボンヌの裏手の通りでした。私が最後に御自身の映画製作の資金集めについて聞くと苦虫を噛み潰したような表情で、「とても苦しい!」といった旨の発言をされていたのを昨日のようにおもいだします。あなたがパリの街を彷徨う姿に触発され、私もあれから長い間パリを舐めるように歩き続けました。あてもなく、ただ石畳に靴の音を響かせるだけ。パリという大きな劇場に私が期待していたのはただ「偶然」という遊戯的な要素だけだったかもしれません。あなたの映画の主人公達も街のなかでほんの数秒の差で出会いを逃したり、会いたくない人と出会ったり、遊戯性に満ちた「偶然」に翻弄されていましたね。最後に、またいつかあなたの面影をしのびながらパリの石畳に靴音を響かせてみたいです。