2010年01月23日

エリック・ロメールを偲んで―「映画とクラシックのひととき」番外編―

ヌーヴェルヴァーグの巨匠でフランスを代表する映画監督エリック・ロメールがこのほど亡くなった。享年89歳。大往生である。フランス映画を観ることに多くの歳月を費やした者ならば、ロメールを偲ばない訳にはいかないであろう。

エリック・ロメール コレクション 海辺のポーリーヌ [DVD]あれは2002年の5月頃だっただろうか。私はパリ第8大学哲学科の事務所の前に立っていた。隣には、背の低い、品のよさそうな老人がいた。私は尋ねた。「ルネ・シェレール教授をご存知ですか?」老人は微笑して答える。「もちろん、知っていますよ。私がルネ・シェレールです」私はいささか驚き、つまらないことを口走ってしまった。「あなたが、あのエリック・ロメールの弟なのですか?」しかし、シェレール教授は少しも嫌な顔をせず、満足そうな笑みを浮かべ、頷いてくれたのである。彼にとってもロメールは自慢の兄なのだ。私はシェレール教授のゼミ生になったが、その後、ロメールの話はしなかったように思う。

ルネ・シェレールは故ジル・ドゥルーズやジャック・ランシエールらと並ぶパリ第8大学哲学科の名物教授であり、その著書も何冊か翻訳されている哲学者だ。だが、彼がロメールと兄弟であり、なぜ、苗字が違うのかということは余り知られていないかもしれない。映画監督ロメールの本名はモーリス・シェレールであり、エリック・ロメールというのは全くの芸名(偽名?)なのである。何故、彼が名前を隠したのかといえば、映画を作り始めた学生時代、両親には「自分は医学を学んでいる」と告げていたためだ。その後も、親には医者になったと偽り続けたのだが、エリック・ロメールという名前はどんどん有名になっていく。その有名な映画監督が自分の息子と同一人物であるとは親はいつまで経っても気がつかなかったのだという。

実際、ロメールは医者にはならなかったが、高校(リセ)の教師になり、定年まで働き続けた(途中からは大学教授として)。その点では親を安心させたのかもしれない。世界的に知られるようになっても兼業を続けていたのは親に対する配慮からか。その職業ゆえ、在職中の彼の作品は当然ながら学校がヴァカンスになる夏休みと春休みにしか撮影されなかった。しかし、そのおかげでフランスの最も美しい季節がフィルムに収められることになったのであり、そしてそれらが1970年以降のフランス映画を代表する傑作の数々となっていったのである。われわれはロメールの「兼業」に感謝しなければいけないだろう。

レネットとミラベルの四つの冒険/コーヒーを飲んで (エリック・ロメール コレクション) [DVD]ロメール映画は日本にはかなり遅めに入ってきた。あくまで前衛を突き進むゴダールや、フランス映画の「伝統」に回帰し、良質の映画を提供するトリュフォーと比べて、ロメールの映画は長いあいだ分類するのが難しい類いの映画だったのだろう。彼の新作がリアルタイムで日本に輸入されたのは、『海辺のポーリーヌ』(1983)辺りからではないだろうか。このような瑞々しい感性の映画を撮る人間がフランスにはまだいたのか、ということで、俄かにロメール・ブームが日本のシネフィル達の間で巻き起こった。実際、この頃のロメールは最良の作品を生み出していたように思う。『満月の夜』(1984)、『緑の光線』(1986)、『友達の恋人』(1987)、『レネットとミラベル/四つの冒険』(1987)…。いずれもテーマなどはあってなきがごとしであり、男と女、女同士のたわいのない日常が描かれるばかりだ。しかし、その何も起きない中でのささいな出来事が、信じられないほどの驚きと悲しみと喜びを生み出すことがあるという展開。そういう映画をロメールは撮り続けたのだった。

二年ほど前、大阪の女子大学でのフランス語の授業で、久しぶりにロメールを観た。それは、『レネットとミラベル〜』の中の1エピソード「青い時間」だったのだが、久々に体験するロメール的世界に授業であるということを忘れ、酔い痴れてしまった。田舎で偶然出会った二人の女子学生が、「冒険」とはとても言えないような他愛もないことを経験するだけの物語なのだが、途中から虚構と現実の境界がなくなってくるところが面白い。例えば、散歩の途中に偶然出会った農家のおじさんが農業の話を延々と始めるのを、二人は黙って聞いている場面。あれは、現実にその場にいた農家の人をそのまま登場させたとしか思えない。そうでなければ信じがたい名演である。そして、ふいに吹き始める風、降り始める雨。自然のあらゆる偶然的要素がロメール映画には奇跡的に入り込んでくるのだ。

モード家の一夜/パスカルについての対談 (エリック・ロメール・コレクション) [DVD]ロメールが最も成熟した作品を撮っていたのは80年代後半から90年代後半までの10年間、「四季」をテーマにした作品群を撮っていた時期であろう。実際、『春のソナタ』(1989)にはロメール映画のすべての要素が凝縮されているように感じる。いまでも人気が高い『パリのランデブー』(1995)もこの頃に制作された作品だ。しかし、私がもしも一本だけロメールの作品を挙げるとしたら、『モード家の一夜』(1969)ということになろう。初期の作品ではあるが(と言ってもこの時すでにロメールは49歳なのだが)、およそ映画的緊張感というものをここまで漂わせる「恋愛映画」は滅多にない。ある謎の女との「近付きがたく、また離れがたい関係」をジャン=ルイ・トランティニャンが見事に演じている。この映画はアメリカでも高く評価されたようだ。

それにしても、2000年台になってもロメールが三本も映画を撮ったということは奇跡的なことではないだろうか。『グレースと公爵』(2001)、『三重スパイ』(2004)、『至上の愛』(2006)。それも、旧態依然たるやり方ではなく、一作ごとに新しい作風によって。この衰えを知らぬ創造のパワーには恐れ入るしかない。ロメールの両親も、ここまでやれば、医者にならなかった息子を咎める気にはならないであろう。ロメールは失われても、彼の映画は失われない。「ロメール映画を観る」という喜びは常にそこにあるのだ。





不知火検校@映画とクラシックのひととき

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posted by cyberbloom at 18:12| パリ | Comment(1) | TrackBack(0) | 映画とクラシックのひととき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ロメール映画よ、永遠なれ!
あれはいつのことだったろう?リュクサンブール公園の裏手にある大学の一教室にあなたが現れたのは。帽子をちょこんと被りリュックサックを背負いやってきたあなた。少し弱弱しい声で授業をしていましたね。わたしの仏語理解力が乏しい故に授業の半分しか理解できませんでしたが、憧れの監督が自分の作品を分析していくというスタイルに心臓の鼓動がとても速かったのを思いだします。パリの街ではあなたをよくお見かけしました。あるときはレ・アルで、又あるときはカルティエ・ラタンで遭遇しました。あなたはいつものあの格好で監督のオーラも微塵に感じさせずただただ街を歩いていましたね。私は直感的にこれがあなたとの最後の会話になると思い、思い切ってあなたに話し掛けました。ソルボンヌの裏手の通りでした。私が最後に御自身の映画製作の資金集めについて聞くと苦虫を噛み潰したような表情で、「とても苦しい!」といった旨の発言をされていたのを昨日のようにおもいだします。あなたがパリの街を彷徨う姿に触発され、私もあれから長い間パリを舐めるように歩き続けました。あてもなく、ただ石畳に靴の音を響かせるだけ。パリという大きな劇場に私が期待していたのはただ「偶然」という遊戯的な要素だけだったかもしれません。あなたの映画の主人公達も街のなかでほんの数秒の差で出会いを逃したり、会いたくない人と出会ったり、遊戯性に満ちた「偶然」に翻弄されていましたね。最後に、またいつかあなたの面影をしのびながらパリの石畳に靴音を響かせてみたいです。
Posted by 里別当 at 2010年01月23日 18:15
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