2010年03月27日

『未来の食卓』または未来に食卓はあるのかという話

僕は日本で献血ができない。それは「1980年から2004年までの間に通算6ヶ月以上フランスに滞在歴がある」(日本赤十字社による定義)からだ。つまり、変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(狂牛病との関連が疑われる病気)の原因物質を血液が含んでいるかもしれない危険人物ということである。

未来の食卓 [DVD]このような予防措置は当然必要だし、僕の血液が危険ではないと、僕自身も言い切れない。しかし、僕はそのような危険を賭して、フランスに留学したのではなかった。そこに問題がある。いつの間にか、巻き込まれてしまった。だからといって、僕が無辜の被害者だというわけでもない。というのは、狂牛病の場合で言えば、肉骨粉を飼料にして安くあげようとする社会のシステムの恩恵を十分に蒙って、貧乏学生の身分でもたまには肉を買って食べていたからである。

環境汚染もまた同様である。映画『未来の食卓』を観て、その思いを強くした。このドキュメンタリー映画の原題は”Nos enfants nous accuseront”、直訳すれば「私たちの子供たちはいずれ私たちを告発するだろう」。南フランスの農村地帯では、小児がん患者が増加の一方をたどっている。それは明らかに農薬と化学肥料の直接・間接摂取の影響だ、とモンペリエ大学の医学博士は証言する。除草剤と殺虫剤を散布すれば、少人数で大規模な農地の管理が可能になり、それだけ収穫と収入を増やすことができる。だが、土壌は汚染され、やがては不毛の地となるだろう。

http://www.uplink.co.jp/shokutaku/
http://www.nosenfantsnousaccuseront-lefilm.com/

恐ろしい映像を見た。30年間、有機栽培(フランス語では有機栽培の農作物や製品をひっくるめてビオbioと呼ぶ)を続けてきた葡萄畑と、農薬散布を続けてきた葡萄畑が、ちょうど隣り合わせている。春先、ビオの畑は畝の間に雑草がびっしり生えているが、農薬散布の畑は、まるで墓標のように葡萄の苗木が並んでいるだけで、草一本生えていない。土を掘り返すと、ビオの畑の方は、土塊は湿気をたっぷり含みながらもばらけず、中にはミミズが数匹這い回っている。農薬散布の方は、煉瓦を重ねたように粘土質の階層状に分離してしまう。もちろん生物は皆無だ。どちらがまともか、一目瞭然である。だが、僕たちが口にするフランスワインの大半は、この煉瓦状の土から育った葡萄で作られていると思ってよい(ちなみに、「AB (agriculture bio)」というビオの認定マークを受けるには最低3年間の無農薬栽培が必要)。

こうした現状に危機感を抱き、南仏のバルジャック村では、村長のイニシアティブで学校給食の完全ビオ化を実行した。農薬を使い続ける家庭もあるなか、その意義をめぐって村では議論が巻き起こる。健康が大事なのは分かるが、ビオは作るのに手間がかかり、買う側としても値段が高い。しかし、村の映画館で開催された討論会で、村長は言い放つ。「すぐに金の心配をするな、まずは自分の良心に問いかけろ」。実際、ビオ給食は赤字予算なのだ。それでも、これは必要なことなのだから、他の予算を削ってでもやらなければならない、と村長は確信している。

良心の問題は、労働現場にも影響する。給食をビオにしてから、調理人の意識が変わった。かつては殺虫剤まみれの缶詰を使っていたが、今では自分が責任をもてる食材を子供たちに提供している。そのことが、調理人にとっても誇りとなる。学校の片隅には畑が作られ、子供たちはビオを食べるだけでなく、野菜の栽培と収穫を通して、ビオのサイクルに自ら関わることを教えられる。教師も、子供たちの前で、消費社会の矛盾をはっきりと口にすることができる。

僕はと言えば、まさに殺虫剤まみれの缶詰を3年間もフランスの大学の学生食堂で食べた人間であり、今さらながらぞっとした。しかも、それが自分の子供に間接汚染を惹き起こすかもしれないということになれば、まさに僕は次世代への犯罪に加担したことになる。知らなかった、では済まされない。と言うよりも、まさにそんなことも知らずに、生産と消費のからくりも知ろうとせずに、汚染された食品を摂取し続けたことが罪状となるのだ。それは逃れようのない罪と言うべきだろう。僕は子供たちに告発されるのを待つしかない。

映画の冒頭、ユネスコの会議でアメリカの科学者が警告する。「近代が始まって以来、子供の健康が初めて親のそれに劣るであろう」と。医療技術の発達が乳幼児の死亡率や疾病率を下げてきたとすれば、環境汚染が今度は子供たちをゆっくりと殺していくことになる。「そんなことがあってはならない(That should not be.)」と科学者は付け加えた。本当にそうだ。野菜が虫に食われる方が、人間が薬品に蝕まれるより、どれだけ平和な光景かわからない。『未来の食卓』とは、一見希望に満ちた邦題だが、この映画の原題が伝えているのは、むしろ「未来に食卓と呼べるものがあるのか」という危機感である。これからどんなものが食べられるのか、というよりも、安全に食べられるものが何かあるのか、という問いに、僕たちは直面しているのである。




bird dog

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posted by cyberbloom at 09:27| パリ ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | すべてはうまくいかなくても | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
難しいのですよね。確か、サハラ砂漠より微生物がいない土壌と揶揄されたブルゴーニュが土質改良に目覚めたのは、90年代初頭だったと記憶していますが、政府の補助金欲しさにビオに転換した某農作物原料関係者の話も枚挙にいとまがなく、ビオとつけるだけで高く売れるからとはっきり公言した生産者にも会ったことがあります。農大国フランスであってさえ、現在の国内で流通しているジャガ芋はすでにその七割がイスラエル産ですし、映画「いのちの食べ方」ではないけれど、肥大化する世界の胃袋を満たすに、生産サイドはひたすらベルトコンベア式の生産性を加速度的に求められている現実があって。逆に今の日本のように、価格的にも収量もとうてい流通不可能なはずの「有機」「特定生産者ラベル」が溢れ、それを謳い文句にしている市場のラインも怖いし。日本では一皿千円かかる「安心安全」がどこまで流通しうるのか、実際に難しい話です。
Posted by 愛読者 at 2010年03月28日 01:18
愛読者さん、コメントありがとうございます。
おっしゃるとおりだと思います。これもbird dogさんの言い方を借りれば、グローバルな食料の流通やその危機にも「いつの間にか巻き込まれ」てしまうわけですね。未来の子供たちの食料を確保するために、農薬を、遺伝子組み換え作物をというロジックも説得力を持ってしまいます。そのメカニズムをミクロに見ていく必要があります。
Posted by cyberbloom at 2010年04月06日 08:56
教えてください。このフィルムの原語を手に入れるにはどうしたらいいですか?
Posted by 三橋雅子 at 2010年05月25日 11:12
三橋さん、コメントありがとうございます。ネット上にそういうものがないか調べてみましたが、見つかりませんでした。公式サイトがあるのでそこに相談なさってみると良いのではないでしょうか。
Posted by cyberbloom at 2010年05月25日 20:32
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