2010年04月25日

動物と人間の世界認識(2)

動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない (ちくま学芸文庫)先回、ハリネズミやダニの話を通して書いたように、動物たちはそれぞれの環境世界を持っている。それは私たちが見ている客観的な世界とは違って、そのごく一部を切り取ってみている。それは極めて主観的で、それぞれの動物によって違うものだ。一本の木にクモとリスが住んでいたとしても、「クモにとっての木」と「リスにとっての木」は何の関係もない。それぞれに知覚と行動の独自の系列があり、その中で自足した閉じた回路の中で生きている。動物にとって意味があるのは、ささいな動きや音であって、それが環境を構築する要素になっている。それ以外に存在しているもの、私たちが客観的に存在していると思っているものは、動物にとって存在していないに等しい。動物の世界は客観的なものではない。それは主体の動物が構築し、主体の動物にとってのみ存在する極めて主観的なものである。同じ森の中にいても全く違うものなのだ。

それでは人間はどうなのか。そもそも人間のそれは客観的と言えるのだろうか。もちろん人間にも知覚的な枠がある。私たちには紫外線や赤外線は見えないし、感じることもできない。その作用を受けているだけである。それを概念的にとらえ、それが作用している世界を頭で考えている。それは現実的な価値を持つ場合もある。日焼け止めクリームを塗って紫外線を避けたり、赤外線ヒーターを作ってそれを熱として感じることができる。目に見えない世界を構築しているわけである。しかしそれは、アゲハチョウが紫外線を感知し、それによって世界を構築しているのとは根本的に違うのである。

人間は何らかの自然の生存圏に対して器質的に適応していないし、そこに組み込まれてもいない。人間は知的活動や計画的活動をするように構造的に強制されている。人間は家や街を作ったりして、どんな自然状況にも対応できる生存の技術と手段を用いながら環境に働きかける。自然を加工したり、方向付けたりして、どんな場所でも、どんな気候のもとでも生きることができる。つまり他の動物とは全く違った可能性を生きているわけである。

人間はどんな条件のもとでも生きられるが、例えばジャングルに住む原住民が大都市で生活することには困難が生じるかもしれない。人間がどこにでも住めるのは、そこで習慣や訓練によって文化圏を作り上げるからで、特定の文化に対する依存度が高くなるほどそこから離れられなくなる。その場合、自然ではなく文化が問題になる。人間はどこでも生きられるという同じ理由で、どこでも生きられるわけではないのだ。

さらに人間は自分の生きている生存空間や文化圏だけでなく、宇宙の果てにまで思いを馳せる。人間は自分の生きている空間を、それを越える広大な世界の一部として捉えている。つまり人間は主観的に世界を所有していると言える。人間の意識は部分的にしか知覚できないが、頭の中で拡張できるものすべて、思い抱くことのできるものすべてを所有している。

よく言われるように、人間には他の動物から見ると欠けたものが多い。寒さをしのぐ毛皮はないし、ハリネズミのような外敵から身を守るよろいも、素早く逃げる脚力もない。嗅覚や視力が極度に発達しているわけでもない。何よりもダニのような瞬時に発動する精確な行動形式がない。本能的な行動であっても不確かで迷いが生じるのが人間である。また大人になるまでの成長の期間が長く、長期間の保護が必要なのも人間の特徴だ。
(続く)


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4 本は薄いが内容は濃い
3 同じ景色を見ているのか?
5 生き物の気持ちになれる
4 主体的に見て、感じて、行動して。。。
5 各生物のもつ主観世界が「環世界」であり、
全生物が「環境」を完全に把握することはできない。





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posted by cyberbloom at 16:01| パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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