神話の世界に生きる英雄であるためには、ある条件が必要だ。それは、自らの役割を反省しないということ。マラドーナは、自分がマラドーナというポップアイコンであることに無頓着である。だから、自分の人生に対してアイロニカルな視点がなく、いつでも自分自身を生きている。マラドーナがときにバカだと思われてしまうのは、まさにこの「他人の眼に映る自分を想像してみる」という反省意識の欠如のためだ。
クストリッツァのドキュメンタリー映画『マラドーナ』は、その点でとても面白かった。欧米の考え方に違和感を覚えながらもヨーロッパで成功した二人だが、カストロとチャベスを称賛する天真爛漫なマラドーナに対して、クストリッツァは何重にも屈折した表情を見せる。麻薬とアルコールの中毒者となり、胃を切除するほどの肥満を経験し、数々の過激発言で物議を醸してきた末に、ついにアルゼンチン代表監督となったマラドーナと、映画と音楽の両方で成功しつつも、祖国を戦乱で失い、亡命者となってパリに住むクストリッツァ。いろんな意味で似ており、かつ対照的な二人の出会い自体が、このドキュメンタリーの主題であり、マラドーナという人物を理解する助けにはほとんどならない。クストリッツァは、結局マラドーナがなぜあのような言動をするのか、理解できなかったのではないだろうか。それは、クストリッツァが、派手な作風にもかかわらず、基本的にはインテリで、アイロニーに囚われているからである。
マラドーナは違う。ライブハウスのマイクを前にして、娘を両脇に抱きかかえて、涙ながらに、その名も「神の手」という自分の半生の歌を歌えてしまうのだ。そして、離婚した妻がそれに手拍子を打ち、合唱する。それを最後列から見つめるクストリッツァは、彼自身が言うように、まるで自分の映画の登場人物を見ているような気分だっただろう。
http://www.youtube.com/watch?v=_FMkL7ulkJ8
映画のラストで、マラドーナは街角でギターを弾いて歌う二人組に出会う。じつは歌っているのは、あのマヌ・チャオなのだが、「マラドーナになりたい/何もかも乗り越えて」というその歌を聴いて、マラドーナ本人がサングラス越しに涙ぐむ場面は、この人物が心の底に抱えている孤独を垣間みた気がして、印象的だった。彼の孤独とは、マラドーナにしかなれないということ、どんな困難に直面して、どんなにみっともない状態を晒しても、自分が生きてきた以外の生き方を考えることができないということなのだ。
http://www.youtube.com/watch?v=4nCPA3-HURw
『イーリアス』の英雄たちは、自分が英雄であることを知らないわけではない。むしろ武運無双を誇り、大言壮語を並べ、にもかかわらず、敵に倒れていく。だからと言って、その英雄ぶりが地に落ちてしまうわけではない。英雄とは不敗の者ではない。最初に述べたように、英雄とは、自分が英雄であることをアイロニーなしに受け入れる者なのだ。その意味で、宗教家に似ているところがある。教祖は自分の説く教義を心底信じていることで、他人を惹きつける。マラドーナにも、そのような素質を感じる。そして、映画によると、実際にアルゼンチンにはマラドーナを神と仰ぐ「マラドーナ教」が存在し、結婚式でサッカーボールを蹴って愛を誓っているらしい。
英雄マラドーナ。監督として、どこまで伝説を作るのか。その結果も楽しみだが、たとえ敗れても、彼の英雄としての地位に揺るぎはないだろう。そんな人物が登場するのも、またワールドカップの面白さの一つである。
bird dog@すべてはうまくいかなくても

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