大学は講義をネット配信することで自分の大学が魅力的な授業をやっていると対外的に広くアピールする宣伝効果がある。一方で、面白い講義を聴きたいという純粋な知的好奇心のために大学が存在しているとすれば、それを阻んでいた大学の偏差値や親の収入という教育格差は取り払われることになる。誰でも最先端の高等教育に簡単にアクセスできる社会を作るという方向は、学生を偏差値によって序列化したり、一定数の学生を囲い込んで授業料を取るという大学の運営モデルを壊してしまうかもしれない。またとりわけ文系学部にとっての本質的なのは図書館で、それが大学という存在に必然性を与えてきた。それがグーグルによって図書館がデジタル化され、図書館というインフラが大学の外に開かれてしまったとき、大学の文系学部にどのような存在意義が残るのかも問われるだろう。ネット上に世界中の大学が発信する多様なコンテンツが集積され、使い勝手が良くなれば、個々の大学の枠組みを超えた別の学びの形や場が準備されることになり、何からのブレークスルーが起こるかもしれない。
宮台真司がネット番組で「今の日本の大学は大学の先生たちのためにある。ネットの時代に大学に多くの教師をプールしておく理由はない」と身も蓋もないことを言っていたが、これはゲイツの発言とも共振するのかもしれない。一定のレベルの教育をするベーシックな講義はコンテンツ化しておけばいつでもどこでも聴講できる(毎年同じ板書を繰り返す退屈な講義は一掃される)。一方で面白い講義をする、学生に対して強い感染力のある教師はさらにひっぱりだこになり、価値の高いコンテンツを生むだろう。
学習内容のコンテンツ化は場所と時間にしばられないことを意味する。学生は自分で学習プログラムやカリキュラムを組み、教師はそのアドバイザーやコーディネーターのような役割を引き受けるようになるのだろう。ネット配信の拡大と平行して youtube や ustream など、映像や音声の配信を無償で行うプラットフォームが構築され、誰でもそれを簡単に使えるようになった。MIT のように大きなプロジェクトでなくても、リアルタイムで講義をネット配信するインフラは十分に整っている。また大学という虎の威を借りなくても、個人の研究内容そのものの魅力によって、自由な形でセミナーなどを主催し、仲間を集めることができる。その一方で大学は予備校、専門学校化する傾向にあって、自由な文系的な教育に向かなくなっている。授業料が高くなればなるほど、成績の公平性や透明性が求められ、教育投資に対するリターンが求められるからだ。だから自由な学問の場所は大学の外に展開する方がいいのかもしれない。
日本の大学は明治時代に西洋の技術や文化を翻訳し、日本に移入することから出発した。それらを特権的な人間が独占していて、少しずつ、もったいぶって下に流すことで権威を保っていた。このような西洋の知識を伝達・中継し、下に流す役割はもはや必要とされていない。また現在の新聞や雑誌の凋落が著しいが、大学も明らかに非フラットなトップダウン型社会の遺物で、それらと無縁ではないないはずだ。既得権益者たちは伝統ある出版文化やジャーナリズムが崩壊すると叫んでいたわけだが、今やそれらは逆に全く信用されていない。5年前のネットジャーナリズムはまだおぼつかないものだったが、同じように5年経てばビル・ゲイツが言うような新しい大学の動きが確実に起こるのかもしれない。
cyberbloom
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