とりわけ、ニール・カサールの「コラ・ジョーンズ」(Cora Jones)は、聴くたびに胸を打たれる。カサールはカントリー系のシンガーソングライターで、12歳で殺害されたウィスコンシンの少女を追悼して、この曲を作った。コラはクリスマスが大好きな女の子だったが、ある日自転車で出かけたまま帰ってこなかった。側溝で遺体が見つかるが、「新聞によると、犯人はいまだ捕まらず、行方も知れないままだ」。
プレゼントはかわいい白いリボンで包まれ
大きなツリーは輝き、犬は寝ている
だけどコラがいない今年のクリスマスはいつもと違う
なぜ彼女が一緒じゃないのか、僕には分からない
そして、最後にカサールは「きよしこの夜」のメロディーを力強いファルセットで歌って曲を締めくくる。だが、慣れ親しんだ賛美歌のメロディーは、慰めである以上に、諦めにも聞こえてしまう。なぜなら、この曲は、ある意味で、神への大きな問いに触れているからだ。このような理不尽な暴力がどうして許されるのか。クリスマスは神の子イエスの生誕を祝う日だが、イエスは本当に世界を救ってくれたのか、という鋭い問いが突き刺さってくる。
コラ・ジョーンズは、1994年9月5日に行方不明になった。地元警察と数百人のボランティアが捜索にあたった。FBIも捜査に乗り出し、5日後にコラの遺体が見つかった。ところが、先日発見したサイトによると、カサールの曲とは異なり、実際には犯人はすぐに判明したらしい。別件の強盗事件で逮捕されたデヴィッド・スパンバウアーの車を調べたところ、カーペットの繊維が、コラの遺体に付着していた繊維と一致したのだった。捜査当局は、コラは何らかの手段で彼の車に連れ込まれて刺殺されたと断定した。
このスパンバウアーは連続殺人犯で常習的レイプ犯だった。すでに数十年を監獄で過ごし、出所したばかりだったが、即座に強盗と強姦と殺人に手を染めた。まさにnatural born criminalとしか言いようのない男である。最終的に懲役403年という途方もない判決を下されるが、2002年に61歳で病死した。
僕が疑問に思うのは、なぜカサールは「犯人の行方は分からないまま」と歌ったのかということだ。「コラ・ジョーンズ」の制作年が、手元にCDがないために判然としないのだが、もし2005年のコンピレーションのために制作されたとすれば、あまりに杜撰である。もし事件の直後に作曲したとしても、わずか数ヶ月後には犯人が逮捕されているのだから、カサールは曲を発表するまでには、スパンバウアーの存在を知っていたはずだ。
もし事実を知ったうえで、このような歌詞を書いたのだとすれば、その意図は何だろうか。そこには、一人の少女の死を悼む気持ちと、クリスマスらしい感傷的な気分に訴えたい気持ちが、混在していたのかもしれない。連続殺人犯の仕業だった、では、生々しすぎて、歌の焦点がぼやけてしまう。というのも、この「コラ・ジョーンズ」が感動的なのは、子供を殺されるという誰も納得のできないこの世の不条理と、幸福感を押しつけるようなクリスマスの雰囲気との間にある緊張を捉えているからだ。
歌の力は、フィクションの力と言っていい。ニール・カセールの歌は、子供の無差別殺人に象徴される世界の理不尽さにテーマを絞ることで、クリスマスの意味を考えさせてくれる。映画では、最近「実話を基にした」ことを感動の根拠にするようなコピーが目立つが、「基づく」ということは「事実である」ということではない。観終わった後に、本当にこんなことがあったのか、という感慨に浸りがちだが、自分の感動の理由を分析するためにも、あくまでフィクションとしての出来映えを評価しなければならない。今年のクリスマスをひかえて、新たに判明した事実を前に、僕はあらためてそんなことを考えている。
http://www.trutv.com/library/crime/serial_killers/predators/david_spanbauer/8.html
bird dog@すべてはうまくいかなくても

↑クリックお願いします
