今回のオルセー美術館展のポスターには「ベルト・モリゾーの肖像」が使われている。あちこちの駅の構内でほとんど毎日のように彼女の微笑みに出くわす。最寄り駅の構内では開催日の1ヶ月以上も前から彼女の分身が何人も微笑んでいた。確かにハッとさせられる美しい肖像画である。美しいというより、「かわいい」かもしれない。駅構内の人ごみの中から突然現れる、この瞬間的な出会いは近代的な体験だ。
ベルト・モリゾーは印象派の画家で、マネの弟子でもあった。一時マネは彼女の影響を受けて印象派の様式に限りなく接近したこともある。ベルト・モリゾーという実在の女性がいて、マネはそれをモデルに描いたのだが、マネはそこに単なる肖像画以上の何かを託している。
ある意味、これは瞬間を捕らえた絵である。構図としては右側から光が差しこむ瞬間をとらえ、また当時の流行色である黒を効果的に使っている。白い光と黒い服のコントラストは、彼女のイメージ以上に強烈だ。
この時代の絵画において重要な舞台は、田園よりも、都市である。マネは「画家は自分の時代に生きて、自分の眼で見たものを描かなければならないと信じるレアリストであり、当時登場したばかりの汽車のダイナミミックな動きや、第2帝政時代のパリの華やかさに惹かれる近代主義者だった。いくらモデルがいて、描いた場所がアトリエの中だとしても、それを捉えるのは、ブールヴァールのカフェを好む典型的なパリジャン=都会人の視線でである。
都市における決定的な体験とは何だろうか。都市体験の瞬時性を最も際立たせる体験とは。
それは、群集の中から美しい女性が現れ、その中に再び消えていく瞬間ではないだろうか。街角ですれちがった通りすがりの女。美しさと同時にはかなさを具え、見失ったあとでは、もはや女性の姿ではなく、光と影の効果でしかなかったように思われるイメージだ。
この絵とイメージが重なり合うひとつのソネットがある。
耳を聾する通りがわたしのまわりでうなり声をあげていた。
背の高い痩せた女が、喪服に身をつつみ
威厳に満ちた悲しみそのもののように、通り過ぎた、
派手な手で縁飾りのついた裾をもちあげ、ゆすりながら
彫像のような脚で、すばやく、気高い様子で。
わたしは狂った男のように身をひきつらせ
嵐をはらんだ鉛色の空のような彼女の眼から、飲んだ、
魅惑する甘美さと、生命を奪う快楽とを
稲妻の一瞬…あとは闇−美しい人よ、(…)
これはマネとも親交が深かったボードレールの「通りすがりの女に」という詩である。見知らぬ女性であっても、それは十分関心の対象になる。むしろ見知らぬ女性だからこそ、激しい関心の対象になる。詩はスローモーションのようにその出会いの瞬間を捉えているが、その瞬間に彼女の情報をひとつ残らず読み取ろうと欲するために相対的に時間の流れが遅くなるのだ。誰にも憶えのある経験だろう。前のエントリーで、この時代の絵画は「神話や歴史への参照がなく、アレゴリー的表出体系からの脱却を始めた」と書いたが、この欠如は「現在の瞬間の異常な深化」によって補償されることになる。
ヴァルター・ベンヤミンはこの詩について「肉体を痙攣的に収縮させるものは、あるイメージに心の隅々まで引きさらわれてしまった男の惑乱というよりは、むしろ、うむをいわさぬある激しい欲望に孤独者がふいに襲われたとき、ショックに似ている」(「パサージュ論」)と書いている。まさに「稲妻の一瞬−あとは闇」という、出会いのあまりの衝撃に、その衝撃しか残らない痙攣的な体験だ。
ベルト・モリゾーのポスターを見るたびに、衝撃とは言わないまでも、軽いショックを覚える(さすがに回数を重ねると反応は弱くなってくるが)。黒は当時の流行色だが、ファッションもまったく古臭い感じがしない。ルネサンス以降の絵画の伝統というよりは、確実に私たちの側にある絵だ。
また私たちがショックを受けるのは生身の女性だけではない。街角に張られた広告であったり、ネットサーフィンをしていて遭遇する広告に対してもこういう体験はある。まさに「ベルト・モリゾーのポスター」の限りない反復は、全く別の経験にも私たちを誘っている。
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