2006年11月24日

Wikipédia 仏語版による 2007 大統領選候補シリーズ(その2)

じゃぽね  ほな、続きやな
ふらんせ  なあ、帰ろうや
じゃぽね  なに云うてんねん、アカンがな
ふらんせ  昨日徹夜で眠たいねん
じゃぽね  四の五の云わんと、チャッチャと訳さんかい!
ふらんせ  しゃあないなあ



 ニコラ・サルコジは 1955 年生まれ、カトリックの洗礼を受けている。兄弟がふたりいて、兄のギヨーム Guillaume は 1952 年生まれ、のちに繊維会社の社長になる(一時期、MEDEF [メデフ](=Mouvement des entreprises de France 仏経団連) の副会長であった)。弟のフランソワ François は 1957 年生まれ、のちに小児科医、ついで生物学者となった。1959 年、ポール・サルコジが家を出たとき、彼の妻は、子どもたちを育てるべく、学業を再開した。彼女は、ナンテールの法律事務所で弁護士となり、ヴィラルソー事件(1970 年に起きた、ヴェクサン Vexin のヴィラルソー地所 Villarceaux をめぐる土地売買詐欺事件)で弁護人を務める。ポール・サルコジはみたび結婚し、二度目の結婚において、カロリーヌ Caroline とオリヴィエ Olivier の二児をもうけている。
 ニコラ・サルコジは、その子ども時代を、最初、パリの 17 区で、次いで、ヌイィ・シュル・セーヌ Neuilly-sur-Seine で過ごした。彼は、公立シャプタル高校 lycée public Chaptal においては、6 年生(日本の中 1 に相当)で留年、6 年を 2 回やっている。この私から公への移行は、1 学年しか続かなかった。彼は、すぐに、私立サン=ルイ・ド・モンソー高校 lycée privé Saint-Louis de Monceau の生徒となる。1973 年にバカロレア B を取得、一家はヌイィに落ち着く。
 1981 年、弁護士資格証 (CAPA) を取得。パリで、不動産問題を専門とし、11 人の弁護士を擁する「アルノー・クロード Arnaud Claude &ニコラ・サルコジ法律事務所」を共同で開設した。『カナール・アンシェネ』(週刊の風刺新聞)のサルコジ特集記事によれば、この事務所は、オー・ド・セーヌ Hauts-de-Seine 県の市(ピュトー Puteaux やルヴァロワ・ペレ Levallois-Perret )のために、借地人の追い出しに一役買ったとされる。同紙によると、サルコジの交友関係が、公共機関の顧客の獲得に役立ったのではないかとされる。しかしながら、弁護士活動は、他の活動と両立しえないため、政治活動をしている間は、この仕事をおこなっていない。したがって、彼は、それほど弁護士として働いてはいないが、この法律事務所の利益の一部を給料としてもらっている(2002年は 241,000ユーロ=3640万円)。パトリック・ドヴジャン Patrick Devedjian (サルコジを党首とする UMP の一員)は、サルコジと自分はともに弁護士で、ともにフランス国籍を望みもしなかったであろう東欧移民の息子であると云っている。
 1974年、彼は共和国民主連合 Union des démocrates pour la République (UDR) に入党、ジャック・シャバン=デルマ Jacques Chaban-Delmas (元首相)の選挙に党員として従事し、1975年には、オー・ド・セーヌ県の若き県議となる。1976年には、シャルル・パスクワ Charles Pasqua(1988-2004 にオー・ド・セーヌ県議会議長)の肝煎りで新設された共和国連合 Rassemblement pour la République (RPR)に移る。なお、パスクワについて、サルコジは、1983年に「だれでも、私が彼の分身であるということを知っている」と言明している。1976年には、ヌイィ地区の責任者となり、1977年には、ヌイィ−ピュトー区幹事、同時に、ヌイィ市議会議員に、37人中37番目の席次で選ばれた。
 パリ10大学(ナンテール)に学び(財産法の教授である エル・アサード El Assaad 弁護士によれば『まじめな生徒』であった)、公法および政治学についての学士号を取得したのち、1978年には、私法の修士号を取得。同年、パリ政治学院(Institut d'études politiques de Paris グランド・ゼコールのひとつ。通称 Sciences Po [スィヤンス・ポ])入学前に兵役に就く。1981年になって、1969年4月27日の国民投票(原文では21日になっているが、間違い。ド・ゴール政権による、上院改革および地方自治権の拡大案にかんする投票であったが、否決された)にかんするDEA([デー・ウー・アー] = Diplôme d'études approfondies 博士論文準備課程)論文で口頭試問を受ける。
 1980年には、ジャック・シラクJacques Chirac(現大統領)の立候補にかんする若手支持者会の長を務める。1981年、ジャーナリストになるべきか、長い逡巡ののち、弁護士資格証を取得しようと決意、母の後を追うことになった。そのまま、ギィ・ダネ Guy Danet 弁護士に採用される。
 1982年9月23日、ヴィコ Vico(コルス島アジャクシオの北にある、人口1000人程度の村)の薬屋さんの娘であるマリ=ドミニク・キュリオリ Marie-Dominique Culioli と結婚。ピエール(1985年生まれ)とジャン(1987年生まれ)の二児をもうける。結婚式の立会人は、シャルル・パスクワであった。
 1983年には、亡くなったアシル・プレッティ Achille Peretti のあとを襲い、28歳でヌイィ・シュル・セーヌ市長となったが、このことは、当時ヘルニアで入院していた、正式の後継者であるシャルル・パスクワに不意打ちを食らわせるものでもあった。
 1987年には、内務省において、化学および放射能問題担当の命を受け、チェルノブイリ原発事故のおりには、政府の報道担当官を務めた。のち、34歳で代議士となり、38歳で財務大臣となる。
 1984年、ヌイィ市長として、セシリア・シガネル=アルベニズ Cécilia Ciganer Albeniz と出会う。サルコジは、彼女を、テレビ司会者ジャック・マルタン Jacques Martin と結婚させるが、セシリアは1989年に離婚して、サルコジのもとに走った。困難をきわめた離婚手続きののちに、彼らは1996年に結婚。立会人は、マルタン・ブイグ Martin Bouygues(TF1や電話会社や不動産会社などを擁するブイグ・グループの総帥)とベルナール・アルノー Bernard Arnault(モエ・エ・ヘネシー=ルイ・ヴィトン・グループの総帥)であった。1997年には、ルイという息子が生まれている。
 1993年、ヌイィ幼稚園事件(幼稚園児を人質に立て籠もった犯人は射殺され、物議をかもした)の際には、シャルル・パスクワが内務大臣であったが、政府権力との交渉を求める犯人と直接交渉(「ちびっ子を渡したまえ」Donnez moi le petit noir)、ひとりのこどもを抱えて学校を出る姿が、テレビで放映された



ふらんせ  あー、しんど。というわけで、あとは、みなさんご存じのとおり
じゃぽね  いや、知らんがな
ふらんせ  それでは、またの機会に!
じゃぽね  うわー、ホンマに終わりよった

【黒猫亭主人】


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posted by cyberbloom at 23:09| パリ ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 枕流遑々録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
11月30日夜、3時間に渡って流れた生サルコ番組です。面白すぎるのでぜひ。

http://programmes.france2.fr/a-vous-de-juger/26271193-fr.php
Posted by ま・ここっと at 2006年12月02日 03:56
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