2007年02月19日

Wikipédia 仏語版による 2007 大統領選候補シリーズ(その4)

ふらんせ  いや、どうもご無沙汰で
じゃぽね  キミ、サボりすぎやで
ふらんせ  もうね、なんでこないに時間がないのかと
じゃぽね  去年と愚痴がいっしょやがな
ふらんせ  てなわけで、ようやっとロワイヤル続篇ですわ



 1983年、母親の住まいがあるヴィリエ・シュル・メール Villier-sur-Mer(北仏カルヴァドス Calvados 県)に、選挙の地盤を求める。しかしながら、当時の市長が拒否したため、ミシュリーヌ・ヴァンサン Micheline Vincent(同じカルヴァドス県のトゥルーヴィル・シュル・メール Trouville-sur-Mer の市議)のことばを信ずるならば、ロワイヤルは数キロを遠ざかり、トゥルーヴィル・シュル・メールの、社会党のジルベール・ユレル Gilbert Hurel(カルヴァドス県トゥーク Touques 市長)率いる「左翼連合」の名簿に加わることになる。選挙では敗れたため、彼女は野党の市議となった。
 1986年末、ロワイヤルはこのポストを辞す。彼女は、39回の市議会中、12回に参加、うち8回は審議に参加した。彼女は、1986年の国民議会議員選挙に公認されることを望んだが、それには、バ・ノルマンディ Bas-Normandi 地方の社会党員、殊にルイ・メグザンドー Louis Mexandeau(カルヴァドス県選出の社会党のボス。元郵政大臣)の拒否を乗り越えねばならなかった。
 1988年、二期目の叙任式の日を迎えたフランソワ・ミッテラン François Mitterrand(もちろん当時の大統領。いうまでもなく社会党)に、彼女は、次の選挙の公認候補になるにあたって、助力を得られるかどうかを尋ねた。その結果、ロワイヤルは、立候補〆切りの前日に、ジャン=ポール・ジャンの代わりに、ドゥー・セーヴル Deux-Sèvres 県の「落下傘候補」となる。農民たちに、彼らのシャビシュー(山羊乳から作る軟質チーズ)を輸出するために、彼らに英語を教えることを約するといった激しい選挙戦ののち、第二回投票の得票率50.57% で、2区(サン・メッサン・レコール Saint-Maixent-l'École)の代議士に当選する。この、歴史的に右派の地盤であった区での勝利に際して、彼女は「落下傘については、着地成功ね」とコメントしている。1992年、彼女の求めに応じて、フランソワ・ミッテランは、セゴレーヌ・ロワイヤルの選挙区であるドゥー・セーヴルのポワトゥ湿地帯 marais poitevin のコミューンに、彼の巨大大統領プロジェクトの枠内で、5千万フランの助成金を許可した。彼女の地方基盤は、これにより強固なものとなる。
 1995年には、ニオール Niort(ドゥー・セーヴル県の市)市長選の社会党公認を得るが、同じ社会党のベルナール・ベレック Bernard Bellec 前市長が引退を拒否したため、企ては失敗に終わる。
 2006年、彼女は、代議士選に立候補しないと宣言したため、社会党は、デルフィーヌ・バトー Delphine Batho(1973年生まれ。党全国書記)を後継者として公認した。
 2006年11月16日、彼女は、17万8千人の党員の60.6%の得票率を得て、2007年大統領選における社会党の公認候補に選ばれた。対抗馬はドミニク・ストロス=カーン Dominique Strauss-Kahn(1949年生まれ。元財務大臣)とロラン・ファビウス Laurent Fabius(1946年生まれ。元首相)であった。
 
 1992年4月3日から1993年3月29日まで、彼女はベレゴヴォワ Pierre Bérégovoy(1925-1993)内閣の環境大臣を務める。その大臣時代、廃棄物の処理とリサイクル、視覚・聴覚公害、水にまつわる問題に取り組んだ。彼女は、廃棄物の処理・収集にかんする革新的テクノロジーの力を借りて、廃棄物処理・リサイクルについての法律(1992年7月法)を成立させる。
 公害にかんしては、公共施設(たとえば、学校の食堂)や労働現場などにおける、交通騒音の予防を目的とした騒音にかんする法律(1992年12月基本法)を成立させた。さらに、「景観回復」にかんする法律(1993年1月法)を成立させる。これは、百の景観とその特産品をレーベル化するものであった(「救おう、わたしたちの景観、味わおう、その特産品」運動)。
(中略)
 在任中、第4子であるフロラを出産する。現職大臣の出産は、フランスでは初めてのことであった。さらに、彼女は、赤ちゃんをテレビや写真に撮らせ、メディアに載せまくった。このことは、公生活と私生活の分離にかんする論争を巻き起こしたが、それは、パートナーのフランソワ・オランドがそのようなメディア化を好まなかっただけに、一層論じられることとなった。

 1997年6月4日から2000年3月27日まで、ジョスパン内閣のもとで、クロード・アレーグル Claude Allègre(1937年生まれ。地球化学者でもある)国民教育大臣とならび、学校教育担当大臣を務める。このとき、代議士を辞職するが、2002年に復帰した。在任中、恵まれない子どもたちや学校において厳しい状態にある子どもたちの救済に携わり、教育優先地区 Zone d'éducation prioritaire (ZEP) の再開や、生徒への社会基金(学校食堂にたいするような)の創設、社会支援の時間の創設、最初の中継インターンクラス創設をおこなった。また、地方教育契約 Contrat éducatif local や中学における「発見の道筋」itinéraires de découverte のようなイニシアティヴを発揮した。



【黒猫亭主人】

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします!
french bloom net-databaseへ 
posted by cyberbloom at 22:47| パリ 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 枕流遑々録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック