
1903年(明治36年)生まれの彼女が、先に留学していた夫に合流すべく渡欧したのは1922年(大正11年)のことで、まだ19歳という若さでした。嫁ぐまで靴のひもを結ぶのも人にやってもらっていた(!)というお嬢育ちの彼女が、夫と二人だけのパリ暮らしをやっていけるのかと思いきや、この花の都に到着すると間もなく「毛虫が蝶になるようにしてなんとも面白い巴里女(パリジェンヌ)に孵化した」というのです。
夫が外へ出ている間はホテルの中にいるだけ(一人きりで外出したのはたった一回だけだったと言います)だったにもかかわらず、彼女はパリでの生活を心の底から満喫し、(滞在中父親である鴎外の死を知らされたときは別として)日本を恋しがることもほとんどありませんでした。百貨店で買い求めたつるしの洋服を嬉々として着こなし、夜な夜なオペラや芝居を見に出かけ、街中のレストランでおいしいものを食べ歩く毎日を楽しみました。ことのほか食いしん坊の彼女にとっては、レストランで味わうビフテキや牡蠣はもちろんのこと、ホテルで出されるカフェとパンという簡素な朝食でさえ、「胸が一杯になるほど楽しいもの」でした。
ソルボンヌ大学近くの安ホテルに下宿した二人を取り囲むのは、若いツバメを連れた婆さんや商売女たち、若い恋人のいるフランス語の先生などどこかいかがわしい人々ばかり。そしていくらぼんやりとした性格の彼女でも、つまらないことで議論したり、浮気っぽかったり、少しのお金でも出すのを惜しみ「貰うものはスリッパ片方でも喜ぶ」(!)くらいケチだったりする、パリジャンたちの様々な側面がわかってくるのですが、それに幻滅するどころか、彼らの自由で、粋で、人生を謳歌する姿に共鳴して「パリが自分のほんとうの国であり、自分のほんとうのいる場所である」と感じるまでになるのです。
滞在を終えて1923年に帰国した彼女が、1987年に84歳の生涯を終えるまで「自分のほんとうの国」に戻ることは二度とありませんでした。しかし、約一年半のパリでの生活はその後彼女の人生に大きな影響を与えたのは間違いありません。彼女がパリでの思い出を『記憶の繪』と題して文章にまとめたのは実に60歳を過ぎてのことですが、40年以上も前の出来事がまるで昨日あったことのように鮮明に語られています。またお金は持っていなくとも、「貴族」的な精神をもち、上等な生活をする術を披露した「贅沢貧乏」など、彼女の珠玉の文章そこここに、パリで培われた感性が花開いています。
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