
2005年秋の内相時代に起こった暴動では、クズ racaille やゴロツキ voyou 発言をするなど、強硬姿勢をとったサルコジ大統領だが、今回は少年2人の遺族をエリゼ宮に招いて弔意を伝える予定と声明を出し、鎮静化に懸命のようだ。2005年秋の暴動も、窃盗容疑で警官に追われていた移民の若者2人が禁止標識のある変電所に逃げ込み、感電死したのがきっかけだったが、そのときは非常事態宣言にまで発展した。そしてカソヴィッツが「憎しみ」を撮ったきっかけになったのが、1992年にパリの交番で18歳のザイール出身の若者が殴り殺されるという事件だった。
つまりはバンリューの若者たちを社会参加させるための政策が後手に回り、彼らはもっぱら警察の監視の対象、つまりは犯罪予備軍としてクローズアップされる。そして時にはこうした警察の「やりすぎ」が起こる。
□フランスで2夜連続暴動、警察官70人以上負傷
(11月27日、AFP)
□パリ近郊での暴動、警官120人が負傷 政府は対策強化へ
(11月28日、AFP)
(注:このあとは映画を見てから読んでください)
現代の憎しみはメディアコミュニケーションという回路を抜きにして語ることはできない。「憎しみ」はとりわけメディア報道のコラージュが効果的に使われている。ニュースは複数の出来事のあいだに関連性を作り出し、整合的で一貫性のある物語に纏め上げようとする。そしてディスクールの向こう側に真実があるかのように偽装する。バンリューのイメージもそうやって作られている。
パリ=中心−バンリュー=郊外という対立によってすべての価値が再配置され、またバンリューの真実がバンリューに関する各ニュースの背後に作り出される。実際はそれぞれ異質な出来事が存在しているだけで、それらの起源も相互の関連性も様々で、それぞれの出来事のあいだには断絶と矛盾があるはずである。しかし、ニュースはそういう側面にほとんど注意を払わない。
ニュースはテレビを通してバンリューに関する知を行き渡らせるが、バンリューの住人たちは言葉を奪われたままである。彼らには語りとしての生、経験としての生があるにもかかわらず、それを表現する手段が与えられていない。
メディアと関わるヴィンツの行動を分析してみよう。ヴィンツは警官の拳銃を拾い、それを隠し持っている。TVは警官に暴行を受けたアブデルの危篤状態とともに、暴動の際に警官が拳銃を一丁紛失したことを報じている。彼の住んでいる一帯でもそのうわさで持ちきりである。
ヴィンツはその拳銃を所有していることに興奮している。ヴィンツを復讐へと駆り立てているのは、自分だけがこの秘密を知っているという使命的な感情である。あたかも自分が主人公のスペクタクルが用意されているかのように思っている。しかし、復讐の動機は極めて曖昧である。警察の暴力で瀕死の重傷を負った仲間、アブデルのためだと言っているが、その男とは会ったこともない。その仲間意識の由来は同じバンリューの住人ということだけである。それが高じて、まさに憎しみの共同体が、メンバー全員が仲間のために武器をとって蜂起するような共同体が夢想される。それは警察への憎悪や敵対によって反照的に生まれ、強化されるものである。しかし、それが生まれえたとしても、その偶発的な連帯は脆弱で、組織としてコントロールされることは難しいだろう。そして現実はヴィンツが思っているほどドラマティックではない。
それでもヴィンツは拳銃を拾ったのだ。拳銃のフォルムが弾丸をひとつの方向に撃ち出すように、ヴィンツの憎しみに方向と表現を与える。拳銃はすでにひとつのメディアである。ヴィンツは拳銃を持って初めて憎しみを自覚した。依然として対象は曖昧であるが、胸のうちで混沌としていたもの、埋め合わせをしたいと思っていたものを自覚することができた。しかし、「昨夜の暴動は警察との戦争だった」とか「警察に復習してやる」と言っても、サイードとユベールはヴィンツの言うことを端から相手にしていない。戦争などという共同体の衝突ではなく、よくある小競り合いだと思っている。外からバンリューとしていっしょくたにされているが、バンリュー内部の利害関係も単純ではなく、外の世界との関わり方も様々である。
レ・アールのモザイク状のTVスクリーンに突如として、アブデルの顔が映り、彼の死亡が伝えられる。映画の中で最も衝撃的なシーンであり、ヴィンツの感情が最も高揚する瞬間である。しかし、彼の想像の共同体を可能にしているのは、TVというメディアである。彼はメディアを通して自分の状況を知るのであり、自分自身で情報を収集し、客観的に分析しているわけではない。自分がうわさの拳銃の持ち主であることや、アブデルの死を知ったのもTVを通してである。それは単純で受動的な回路である。
ヴィンツは例えばハッカーのようにメディアを撹乱したり、操作したりしない。武器は最初から奪われている。そこにも搾取がある。ヴィンツは拳銃を拾ったが、それは偶然に拾っただけなのだ。暴力は彼らの専売特許のように見えながら、実は彼らを取り囲み、監視している者たち、つまり装甲車を伴い、完全武装している者たちに独占されている。
またヴィンツはいつも偶然にTVを目にしている。彼はいつもTVの前にいて恒常的にその影響下にあるわけではない。断片的にしか見ていない。知人の家でTVに映った暴動のシーンを見て、無邪気に喜んだり、自分が映らなかったことを悔やんだりしている。しかし、おそらく普段からTVのニュースなど見ていないし、ホスト社会のニュースの言うことなど、端から信用していないはずである。普段は全く無関心だったニュースが激しい情動に駆り立てる装置に転じ、彼の行動に決定的な動機を与える。
ヴィンツのTVの見方は、一方的なTVの側からの意味づけやコンテクストの押し付けを無視して、自分の憎しみのストーリーためにそれらを組み替え、再構成している。メディアを信用しつつ、信用しないというアンビヴァレントな態度がベースにある。メディアに乗りながら、メディアの意図をずらし、自分のために流用する。
このようなメディアを通した想像力は差別される側にも差別する側にも同様に働く。TVを通して(例えば、サルコジのクズ発言に共鳴して)バンリューの若者に対して差別意識を燃やす人間もいるだろう。1回目のエントリーで、ヴィンツの攻撃性は自分自身に向けられ、自分を無視し、蔑む人間たちと同じ欲望を共有していると書いたが、これもメディアを通して可能になる回路だ。
もちろん私たちもこのようなメディアを介した憎しみの燃え上がらせ方を知っている。また私たちはニュースを通して、会ったこともない、全く知らない人間に対して、怒りや憎しみを燃やす。それは断片的な情報やニュースが造ったコンテクストに基づいたものにすぎないにもかかわらずである。それが世論や社会的正義として大きな影響力を持つことがよくある。
関連エントリー
□「憎しみ LA HAINE (1)」
□「憎しみ LA HAINE (2)」
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