原作とアニメ版の大きな違いは、物語を構成する視点だけでなく、キリスト教という原作の骨子が外されていることである。罪を犯した者たちは神の裁きから逃れられない。ダンテス=モンテクリスト伯は神に匹敵する全能の力をもって、彼を陥れた男たちを追い詰めるのである。いくら酷い目にあったとは言え、ダンテスに復讐が許されるのは神の代役を務めているからだ。そしてダンテスが寛容さを示すとき、それは神の赦しに重なり合う。しかし、前田監督がインタビューで答えているように、「現代人の感覚的に、全てキリスト教的概念でドラマを構築しても、単なるロジックでしかないだろうし、ひとつの宗教に偏って作るというのは、今的でない」だろう。だから「巌窟王」では「人の感情がキャラの全ての行動軸となるように」描かれている。ところで、アニメ版「巌窟王」はテレビ朝日で毎週火曜の深夜に全24話のシリーズとして放送されていた。毎回冒頭で前回のあらすじが仰々しいフランス語のナレーション(字幕付)で語られ、また毎回の終わり方も絶妙で、見る者を欲求の不満の宙吊り状態にする(もっともDVDではこれを味わえないが)。実はこの「シリーズ=連載」という方法もまた原作と深い関係がある。
イギリスから半世紀遅れた1830年代にようやくフランスでも産業革命が進展する。それと平行して新聞や雑誌といったジャーナリズムも整備されつつあった。時の新聞王、エミール・ド・ジラルダンは新聞の発行部数を伸ばすために新聞小説を連載することを考案。ジラルダンは新聞の購読料を下げるために、その埋め合わせとして紙面の広告を増やしたが、広告を出してくれるスポンサーを獲得するために、何よりも発行部数を増やさなければならなかった(広告とメディアの結びつきはここに端を発し、今のGoogle へと進化している)。新聞小説は、多くの読者をあてにする多くのスポンサーを引き寄せる切り札のコンテンツだったのである。
「モンテクリスト伯」も新聞小説として「デバ」紙に1844年8月28日から1845年1月15日まで掲載。デュマのもうひとつの大作「三銃士」も新聞小説として成功している。デュマは新聞小説によって新聞の発行部数を倍増させ、巨額の富を手にすることになるが、それを自らの豪邸「モンテクリスト城」の建設につぎ込むのである。
波乱万丈の物語の連載の毎回毎回がちょっとした山場になるように按配し、毎回の最後には未解決の謎や未完のプロットを残し、続きを読みたくなるように構成する。まさに今のテレビの連続ドラマの手法はここに起源がある。そしてアニメ版「巌窟王」もそれを踏襲しているというわけだ。
原作「モンテクリスト伯」(岩波文庫では1巻)に「船乗りシンドバッド」というエピソードがある。フランツがモンテクリスト伯と出合う前に、モンテクリスト島に上陸し、不思議な館に迷い込む。そこに館の主である波乗りシンドバッドという人物(それが伯爵であることが暗示されている)が現れ、彼はフランツにハシッシュを勧める。ラリったフランツの眼にはただでさえ摩訶不思議な造りの館や、供されたオリエンタルな食べ物がいっそう非現実的なものに見える。もちろん原作ではドラッグによる酩酊状態は言葉によって説明され、表現されている。おそらくこのエピソードはアニメ版ではアルベールやフランツがシャンゼリゼにある伯爵の館に招待されたシーンに対応するのだろう。アニメ版でパリは実際のロケーションハンティングをもとに3Dcgiという技術によって未来都市として再現されているが(2Dテクスチャリングを使ったキャラクターの服飾のデザインも印象的だ)、ここに前田真宏の真骨頂が示されている。このシーンの目が眩む豪華絢爛な映像は圧巻である。なぜかシャンゼリゼの館の地下には黄金の宮殿があり、外には広大な海が広がっている。まさにハシッシュによってもたらされる幻覚がCGによって再現されているかのようである。
19世紀のフランスではハシッシュが流行し、多くの作家や詩人がドラッグの想像力を拡張させる働きに関心を持った。ボートレールの「人工天国」がその代表的な作品である。このシーンもその影響下で構想されたものだろう。そして19世紀のハシッシュの役割を今はCGが担っているわけだ。ある意味、いくら言葉を尽くしても、この衝撃に匹敵する効果を作り出すことはできない。これを見せつけられると、原作はアニメの先鋭的な技術を披露するための口実にすぎないのではと思えてくるほどだ。この映像の洪水、過剰な光と色彩は、そういう価値の転倒にまで確実に達している。
実はこのような話を今期の「フランス文学史」の講義でしたのだが、ぜひ小説「モンテ・クリスト伯」(岩波文庫)、原作に比較的忠実なドパルデュー主演の「モンテ・クリスト伯」、それとアニメ版「巌窟王」を比べて楽しんでみていただきたい。ドパルデューは「レ・ミゼラブル」の長編TVドラマ(DVDはダイジェスト版)でジャン・バルジャンも演じていて、国民俳優として文学大作をすべて制覇しようという野望を抱いているようにも見える。シリアスで青臭いアニメ版を見たあとで映画版を見ると、笑えるというか、緊張感がないというか、良くも悪くも俳優のキャラに依存している。アレクサンドル・デュマに関しては「人と思想 アレクサンドル・デュマ」(辻昶&稲垣直樹著)を参照。文学マシーンのようなデュマの生涯とその時代背景が現代の中に捉え直されており、著者の語り口も軽快。文学が生き残っていくには、既成の権威の中でお高くとまっているよりも、様々な捉え直しの中で新たな価値を見つけていくことが肝要だろう。
□「巌窟王」公式サイト http://www.gankutsuou.com/
■関連エントリー:小説「モンテクリスト伯」VSアニメ「巌窟王」(1)
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フランスは高校での第2外国語と,社会人になってからはナンシーに,1カ月だけ研修出張していたことがあります.
夜中のアニメ「巌窟王」,あの衝撃的なフランス語のナレーションを偶然に見かけて以来,毎週見ていました.
当時の読売新聞(だったか)の番組評に
「毎週主人公がこれでもかとどんどん不幸になっていく展開,ある意味男子にとっての昼メロとも位置づけられるか・・・」といった趣旨の文章を見た記憶があります.それはつまり新聞小説的な性格に由来するのかと思い当りました.
当時,アナスイがデザインした衣装にいたく感激していましたが,なるほど確かにハシッシュ的表現・・・納得です.
ついついうれしくなって書いてしまいました.失礼いたしました.