2011年04月05日

フランス産業界の半分が日本に依存

日本列島からの部品供給が途絶えたことの影響は、当面は限定的だといえるが4月末にはより深刻になる可能性がある。

エリック・ベッソン産業相は、月曜日、日本製の部品調達が困難に直面していることについての討論会の後、安心を装いながらも警戒感を隠さなかった。「注視することが必要で慌てることはない」と議論をまとめ、実質的にせよ独占的にせよ日本製で占められている部品の長いリストを披露した。ハードディスク、デジカメ用センサー、トランジスタ、パソコン用バッテリーなど。「世界の電化製品市場のうち20%が日本によって占められており、すくなくとも30の部門で日本製が70%となっている」とベッソン産業相は述べた。

精密機械などの財をその国土で生産している日本であるが、産業界全体に及ぼす影響がどの程度であるか、依然として不明である。目にみえるかたちの物質的損害のほかに、地震の揺れや電力供給のストップで、それらが高性能の機械設備にどれほどの影響を与えたのか見分けるのも時間がかかるだろう。道路、港湾、電気、電信インフラへの被害も未知数である。しかし、安心すべきことは、リチウムイオン電池の70%が日本製であるからといって、日本製品の100%がストップしたわけではないということである。ただしその一方で、実際の比率がどうであるかは不明である。これに対しフランス政府は、インターネットサイトを開設して、企業が互いに情報を確認できる仕組みを整備している。

さしあたっては、供給の断絶を嘆く必要はない。製品の多くは地震前に日本を出港しており、懸念すべきは4月末のことである。実際のところすべては日本列島の状況の進展具合にかかっている。これについては観念するほかなく、フランスの産業界全体になんらかのかたちでかかわってくる。

まず最初に電子産業、自動車、さらには通信、国防、航空、化学、小型家電などである。ルノーやプジョーシトロエン、タレス、エス・ティー・マイクロエレクトロニクス、エアバス、サジェム、セブなどである。「たった一つでも供給が断絶するとそれがつぎつぎに連鎖していってしまう」とベッソン産業相はいう。たとえば、プジョーシトロエンはディーゼルエンジンの部品が一つ欠落しているために、ヨーロッパでの生産を遅らせることになってしまった。「けれども、企業の大半はべつの供給先も確保しており、中国や台湾での部品調達も視野に入れている」と産業連合会(GFI)のピエール・ガタズ会長はいう。

エリック・ベッソン産業相は、困難に直面するであろう企業への支援対策として3つの方針を打ちだしている。下請け仲介業者の活用、銀行に企業支援を願うこと、従業員の一時解雇を認めることなどである。「この危機で、電子産業における日本の優位とそれにフランスが依存していることがあきらかになった。さらにはフランスの最先端技術のより適切なルート構築への再考をうながす」とピエール・ガタズは述べている。


La moitié de l'industrie française dépend du Japon
Par Elsa Bembaron
Le Figaro 29/03/2011



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2011年02月17日

隷属への道?

きょうたまたま youtube を観ているときに発見した動画です。なにかと毀誉褒貶の激しい F.A ハイエクの著作、『隷属への道』を元にした漫画版です。もともと『隷属への道』は、「ナチズム批判」さらには「ナチズム」と「社会主義」がおなじ病巣を有しているのではないかと指摘した著作です。



が・・・。そういったテーマはさておき、ぼくがこの動画をみて思ったのは、ところどころで世界情勢&日本国内情勢を暗示するかのような記述があること。ハイエクの思惑通りに自分の記述がどの国に対しても絶対的&実際的に進まないだろうことは、ハイエク自身が潜在的に(?)認めているだろうので、ハイエクの意図に反して自由に鑑賞してみました。この動画は、18のアフォリズム=段階に区分けして「隷属への道」が完了する様を描いていますが、おのおののアフォリズム=段階で、いま国内外で起きている情勢を暗示してるやんと、感慨に耽りました。たとえば、A「終戦の兆しが見えた頃(註=政権交代としてみると)平和と生産の議論が生まれる」&B『議員は「理想郷」を約束する』〜E「議員は強行することを嫌った」をみてると、いまの日本政治状況が、グギッ!と思われるような流れになってます。さらにDのなかにある、「市民にも不満がある」に続いて、「暫定計画は、市民にとっては妥協できるものではない。農民が好むものは、工員の嫌うところである」なんかは、TPP 問題に密接に絡むやんと。またべつに、とくにB『議員は「理想郷」を約束する』〜D「市民にも不満がある」に注目すると、日常品の価格高騰に苦しむいまのアラブ諸国での民主化運動が、今後どう発展するのかということについても無視できません。さらには、中国がオリンピックのフィギュアスケート選手派遣で年齢を詐称したのではないかという疑惑があるニュースに接するとなおのこと、Pの「(…)もちろん、娯楽もスポーツも入念に統制され、厳格に国家が管理する」という言葉がなんだかぼくの脳内に響いてきます。

まぁともかく、世界が無秩序になってバラバラになることは避けて欲しいものです。




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2011年02月04日

日本がアジアの頂点に ―"Le Matin" より

アジアカップは日本代表が4度目の優勝を飾った。決勝でオーストラリアを下した末、2007年度優勝のイラクから王者の座を引き継いだ。

日本代表が延長戦の末、オーストラリアを最小僅差の1−0で下し、アジアカップを手に入れた。GKシュワルツァーを前にしてフリーとなった李忠成がゴール隅に見事なボレーを叩き込み(110分)、オーストラリアをねじふせた。1992、2000、2004年につづいて4度目の栄冠であり、「日出る国」が優勝回数でも単独トップに立った。カタールで開催されたこの大会は、残念ながらおおくの観客を動員することはなく、ヨーロッパではほとんど話題に上らなかった。とはいえ全体的にみれば、ゲームのレヴェルはまずまずのものだった。

大会方式

アジアカップは4年おきに開催され、ユーロとおなじ方式である(我々にとって馴染みのある方式で、直近ではスイスとオーストリアで共同開催され、スペインが優勝)。16のチームが参加し、4つのチームが4つのグループに分けられる。各グループ上位2チームが準々決勝に進出し、そこからはノックアウト方式のトーナメントとなる。優勝候補の――日本、韓国、オーストラリアは順当に4強まで勝ち進んだが、予想外のチームも勝ち残った――ウズベキスタンである。

この中央アジアのチームは、組み合わせに恵まれてこのステージまで勝ち上がることができた。グループリーグで対戦したのはカタール、クウェート、中国で、「白い狼たち(註:ウズベキスタン代表の愛称)」は力を温存し、しっかりとチャンスをものにしてグループリーグトップで準々決勝に進出した。準々決勝では、またもやセカンドグループと目されるヨルダンを破ったが、準決勝ではとうとうオーストラリアの軍門に下り(0−6)、3位決定戦では韓国にも敗れた(2−3)。けれども、FIFAランキング108位に位置するこのチームは結果を残念に思う必要はまったくない。というのも、その戦いぶりはまったくの快挙だったからだ。「旧大陸(ヨーロッパ)」において、キプロス(89位)、アゼルバイジャン(97位)、アイスランド(113位)がおなじような偉業をなしとげ、センセーションを巻き起こすことなどほとんど想像もできないのだ。

オーストラリアがオセアニア連盟を脱退

アジアカップ中、よく疑問とされてきたのが、オセアニア地域のオーストラリアがどうして大会に参加しているのかということであったが、これはオーストラリアサッカー協会がオセアニアサッカー連盟を脱退して、2006年1月1日にアジアサッカー連盟に加盟したことを踏まえておく必要がある。彼らがこの選択を選んだのは、「サッカールー(註:オーストラリア代表の愛称)たち」が何度もワールドカップの壁に阻まれてきたからであり、オセアニア地域を制しただけでは直接ワールドカップに出場できないからである。オーストラリアの移籍は、それ以外のオセアニアのチームにとってまったく無視できないものであり、というのも、20年ものあいだ地域に君臨していたオーストラリアがいなくなることで、彼らにもあらたな展望が開けてくるからだ。実際、ニュージーランドはアジア地域5位のバーレーンとのプレーオフを制して、2010年南アフリカ・ワールドカップに出場することができた。

安心を与えられなかったカタール

次回のアジアカップ開催国はオーストラリアである。カンガルーの国では、まちがいなく今回のカタール大会以上の国民的熱狂を期待できるだろう。中東の首長国(カタール)は、2020年のワールドカップ・ホスト国になったことについて、国際世論を安心させる必要があったが、それは主催者側にとっては少々、悩みの種となった。中国とウズベキスタンとの一戦には22000人収容のスタジアムに3529人しか観客が集まらなかったし、開幕戦では、ホスト国のカタールが試合終了間際に2点のリードを奪われると、観客はいっせいにスタジアムをあとにしたという。

(訳者註:今回の記事はスイスの新聞『Le Matin』が出典。アジアのサッカーをヨーロッパがどのようにみているのかがうかがい知れるし(記事中のウズベキスタンの話題について、ちょっとした皮肉も混じっているのかな?)、最近のアジアサッカー界の情勢をコンパクトにまとめてあるので訳してみました)



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2010年10月23日

護衛艦「ひえい」に乗船

先週末、自衛隊の護衛艦「ひえい」が堺市大浜埠頭に入港、一般公開されるとのことで日曜日に見学してきました。(写真左、右舷側より撮影、写真右、後部甲板の哨戒ヘリ) 

senkan01.jpgsenkan02.jpg

なお、護衛艦に乗るのは久しぶりだったのですが、いつもながら興味をもったのは、実利一点張りで設計されたその居住性…(ミサイルや魚雷発射装置は一度見てしまうと、なんでだかあまり関心が向かなくなります…)。見学者の移動の列を止めると迷惑なので、艦内の写真は撮れませんでしたが、まぁ狭い狭い。階段なんてほとんどなく上層下層への移動ははしごじみたタラップのみ(時化のときだと転げ落ちるかもしれんぞ…)、通路=廊下にいたっては広くなったり狭くなったり(大柄の人だと半身にならないと通れないくらい狭いところもありました)と、『月月火水木金金』じゃありませんが、海の男の艦隊勤務ってはまったく大変なのがわかります。また、艦橋に入ることもできました。電車の運転室、飛行機のコックピット、管制塔などの「計器類」にフェチってしまい、車を選ぶときも計器類の配置具合を評価のポイントにしている身としては、ぷるぷる感動しました。「両舷微速前進」、「両舷全速前進」などと表示してあるところのシフトレバーを動かしたくて動かしたくてたまりませんでした。

なお、ぼくはプラモデル作りが趣味でして(船、城、箱庭限定。また作るのが好きなだけで、所有欲はほとんどありません。部屋に置くところもなくなってきているので、興味のある方はもらってください…)、それで家に帰ってからさっそくいくつか引っぱりだしてきました。(写真左、速射砲と艦橋、写真右、プラモ)

senkan03.jpgsenkan05.JPG

「ひえい」は作ったことがないので、その代わりにほぼ同サイズ&排水量である旧日本海軍の軽巡洋艦「阿武隈(長さ150m、排水量5,000t)」を一番手前に、そのすぐ奥に戦艦「武蔵(長さ263m、排水量69,100t 大和を並べるつもりだったのですが見つからなかったので、姉妹艦の武蔵を置きました)」,一番奥に空母「赤城(長さ240m、排水量38,200t)」を並べてみましたが、まあしかし、日本一有名な戦艦大和なんてのはとんでもなくデカかったんだとわかりますね。なお、艦尾に海軍旗が掲げられていて、写真では見えにくいかもしれませんが赤城の後部に4本のアンテナが垂直方向に立っていますが、これはいずれも巡行時=平時のもの。この旗が艦橋近くのマストに掲げられたり、アンテナが水平状態になったときが戦時をあらわします。旗やアンテナはつねに写真のような状態にあってほしいものですね。





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2010年09月03日

日本政府が死刑執行刑場を公開する Le Japon montre ses salles d'exécutions

先進国のなかでは珍しく死刑制度を維持している日本が、はじめて死刑が執行される刑場をメディアに公開した。先月、死刑執行のサインをした千葉景子法務大臣は、死刑制度についての国民的議論が交わされるようにと、絞首刑が処せられる部屋へのメディアの立ち入りを許可することとしていた。

見学は東京拘置所においておこなわれた。窓のないガラスのはまった部屋の床には、踏み板の目印となる赤いテープで四角く囲まれたスペースがあり、手錠をかけられ目隠しをされた死刑囚の足元でその踏み板が開くという仕組みになっている。踏み板は、隣接する部屋の壁にとりつけられた3つのうちの1つのボタンによって開く仕組みとなっており、このボタンを押す3人の刑務官にはどれが作動するのかは知らされていない。NHKや民法メディアの映像によると仏壇の用意された教誨室があり、死刑囚は執行前にここでお祈りをすることができる。

アメリカと日本は、ヨーロッパ諸国や各種人権保護団体によって非難されている死刑制度を維持している唯一の先進民主主義国家である。とくに非難を浴びている点は、死刑囚が刑執行の直前までそのことを知らされないことと、家族は刑が執行されたあとでしかその事実を知らされないことである。現在107人の囚人が死刑囚として服役している。

アムネスティー・インターナショナルは、拘留中ほとんど孤立させられている状態のせいで、死刑囚のうちの何人かは発狂してしまうと述べている。政府当局は国民に支持されているという理由で死刑存続を主張している。2009年9月に政権の座につくまでは、民主党はこの問題について「国民的議論を促したい」と公約していた。弁護士であり個人的に死刑制度に反対する千葉大臣は、この7月に2人の死刑囚の刑執行に立ちあった。「あらためて死刑について広く議論することが必要だと感じた」と大臣は述べた。

(訳者註:先進国にもかかわらず日本がいまだに死刑を存続させている、といった具合に暗に非難するトーンで書かれていますが、死刑廃止がその加入条件ともなっているEUのリーダー格としての自負がフランス側にはあるのかもしれませんね。





ところで、死刑存続の賛否についてのぼく個人の意見ですが、ずいぶん以前から存続or廃止のどっちがいいのだろうかとことあるごとに考えてきましたが、いまだに結論はでていません。死刑が存続したほうがいいという理由は、まず遺族感情を考慮して。世界とくらべても圧倒的に殺人事件の発生率が少ない日本にあって、「過失」などによらず家族を奪われるというのは相当な心痛をもたらすものと思います。さらに死刑が適用されるのは実質上凶悪な殺人事件に対してのみである以上、日本において死刑を望む声が多いのには納得できる部分があります。その一方で、死刑制度へのぼくの疑問点ですが、まずは死刑判決が冤罪であった場合どうするのかということ。実際に袴田事件などがその疑いにかけられていますが、もしも冤罪である死刑囚の命を奪ってしまえば、罪のない人の命とその無実を証明する機会も奪ってしまうことにもなります。そして、冤罪事件というのは実際にはそれほど多くはないかもしれませんが、死刑囚が手紙などで遺族に謝罪し、結果として死刑囚と遺族が心情的に和解するケースがけっこうあるようです。こうした場合にかぎれば、ぼくもふくめて日本人の多くの人たちが主張する「遺族感情」という死刑存続を望む理由そのものが解消されることになってしまいます。さらにここまでは、死刑囚と遺族という個人レヴェルの問題に焦点を絞りましたが、死刑制度は「犯罪抑止力」として「機能する」あるいは「機能しない」などといったような、どちらかというと社会学的な議論もからんできます。こうなってくるともう、専門的に研究でもしないと判断のしようがないところにまで立ちいることになってしまいます。いずれにしても、死刑制を廃止しているヨーロッパ諸国でも、国民の大多数が死刑廃止を支持しているというわけでなく、この問題は一筋縄ではいかないデリケートかつ重大な問題であるということがわかりますね。命の重みというのがほんとうに実感できます…)



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2010年06月15日

日本がライオンたちを屈服させる

カメルーンを下した日本には幸先のよい出だしとなった。不屈のライオン(註:カメルーン代表の愛称)にとっては予選突破が困難になってしまった。

日曜日のセルビア戦に勝利して頭角を現したガーナは、他のアフリカ代表チームが勝利を積み重ねていく道の最初の一歩となった。ところが不屈のライオンたちは、ブラックスターズ(註:ガーナ代表の愛称)のたどった道を見つけることができず、迷子になってしまった。面白みに欠けた日本との初戦は彼らにとって致命的であった。39分に本田が決めたこの試合唯一の得点は、ルグエンのチームの悪い癖を露呈している。右サイドから松井の仕掛けた左足からのクロスボールがあがると、右サイドバックで起用されたムビアがゴール前に吸収され、背後にフリーで本田を残してしまった。CSKAモスクワでプレーする本田にとって、キーパーのハミドゥを出し抜くには願ってもないボールだった。

わざわざ自分たちで苦労したかったのでなければ、もっとうまく取りかかることもできただろう。グループEでもっとも与しやすいとみられた日本に敗退し、カメルーンは今後の展開について難しい状況に陥ってしまった。ルグエンの選手たちにとってすべてが終わったわけではないが、大転換を図るためにはいくつもの修正が必要となる。それもすぐにだ。日本戦においては、守備陣から攻撃陣にいたるまでどのラインも満足いく結果を残せなかった。中盤はディフェンスラインと前線をつなぐという仕事がほとんどできず、ラインを二分した印象を与えてしまった。前線のエトオをはじめとした攻撃陣は競り合いに勝つことができず、ポジション取りもよくなかった。コレクティビティ(註:集団としてのまとまり)に乏しく、全体的な総括としては今後の見通しは暗い。

一歩ずつ進む

日本は、自分たちはエキストラとして南アフリカに来たわけではないと宣言していた。ベスト4進出を公言している岡田監督は「日出づる国」において非難の嵐にさらされていた。ところがこの代表監督はおなじく選手たちに自身の思いを伝えていた。ディフェンス面において厳格、真面目、熱心であり、ピッチでしっかり役割をこなした日本の選手たちは、今後の南アフリカでの大航海にむけて興味深い戦略的統率力を見せた。おそらく準決勝でその姿を見ることはないだろうが、グループEにおいて厄介な存在になることも間違いないだろう。

(訳者後記:自国は優勝した実績があるせいからなのか、フランスのメディアからちょっと「上から目線」で見られてしまってますが、それはさておき、きのうの勝利はほんとうに嬉しかったですね。予選リーグ突破がより現実味を帯びたものになってきましたし、地球の反対側で戦っている選手たちに最後まで熱いエールを送りつづけたいところです)





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2010年06月01日

5月の音楽 Atlantic Starr “Love Me Down”

Brilliance風薫る5月、といいますが毎日がこの言葉通りかといえばそうではなく、年々ひどくなる乱高下の空模様に翻弄され、朝からなんだかモヤモヤとすることも多かったりします。そんなとき、気分を変えるのに役立ったのが、80年代ブラコンのいいところがつまったこの1曲。

今でもさほど古さを感じさせない軽快なリズム隊にのってしなやかに切り込む、ちょっと凛々しく適度に乾いたシャロン・ブライアントの声が爽快です。朝の地下鉄や動き出したオフィス街に意外なほどしっくりきます。あくまで個人の感想ですが。

Atlantic Starrというと、日本でも歌謡曲なみにヒットした ”Always”に代表される健全バラード路線の人たち、とのみ記憶されている方が圧倒的に多いかと思います。が、初代女性ボーカリストのシャロンがいたころは、なかなかに小粋な音を創っていたのです。
 
女性ヴォーカルが、過剰にタフだったり、センシュアルだったり、ビッチだったり、コケティッシュであることを求められていなかった当時が、ちょっと懐かしい。

こちらで聴く事ができます。
http://www.youtube.com/watch?v=XzK-XEcpaS0




GOYAAKOD@ファッション通信NY-PARIS

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2010年05月28日

ハローキティーの対照的な運命

ここ10年、国内ではうまくいっていないが、サンリオの有名キャラクターは世界的名声を謳歌している。

キティーは36歳の誕生日をむかえた。お菓子から婚約指輪をはじめとしたダイヤの装飾品など、あらゆる分野に商品化された「キティーちゃん」という日本のキャラクターは―そのボーイフレンドであるクールな性格の「ディア・ダニエル」にとってはどこ吹く風であるが―、最高と最悪の時を味わった。もはや年の衰えを無視できなくなったキティーは1974年にサンリオという会社が生みだしたキャラクターであるが、先日そのサンリオは10年連続して日本での売上げが減少しつつも取引高は6億5000万ユーロに達したと発表した。

キティは10年前から様変わりした。その関連商品は子どものみならず大人も対象としている。さらに真の「世界を股にかける人」となったが、これは人口問題に悩む日本にとって必要なことである。「海外での売上げは日本国内での売上げを越えています。もはや、日本のというよりは世界的なキャラクターになっているのです」と、CLSA社のアナリストであるナイジェル・マストンは指摘する。サンリオは成長をあてこんで、中東やインド、ロシアなどへの進出を目論んでいる。

ファンが株主になる
ところが国内においては、キティは過去の栄光の上にあぐらをかいている。キティは「リロ&スティッチ」といった新しいキャラクターに水をあけられるようになってしまった。株式市場では、サンリオの創業者・社長である辻 信太郎が社の資産運用に失敗してしまったのを期に、アナリストたちの恐怖の的となっている。「辻 信太郎は自らをウォーレン・バフェット(訳注:アメリカの著名な投資家)とみなしていた。彼は最高値のときに株を買い、最安値のときに売ってしまうのです」と、あるアナリストは皮肉っている。

2002年、東京でITバブルがはじけたときにサンリオは倒産寸前までいってしまった。いまや機関投資家からは見向きもされなったが、その銘柄は小口株式保有者(たいていはサンリオのファンである)にかこまれて輝きを取りもどし、またその彼らがグループの筆頭株主となった。

キティーは、任天堂のマリオやセガのソニック、ポケモンといった現代日本ポップカルチャーが生みだしたキャラクターたちの系譜の草分けである。

商社の丸紅は、ここ10年間での日本文化の輸出は3倍になったと見積もった。これは180億ドルにものぼり、その一方で工業製品の輸出は20%の伸びにとどまっている。日本は依然としてアメリカと並び、そのポップカルチャーが世界的影響力をもつ唯一の国でありつづける。


Les destins contrastés de Hello Kitty
Par régis arnaud
24/05/2010
Le Figaro



ガラパゴス化する日本 (講談社現代新書)訳者付記:いま『ガラパゴス化する日本』(吉川尚宏 講談社現代新書)という本を読んでいる最中なのですが、当記事とこの本をあわせて読むと、いまの日本の産業構造の一端が垣間見えるように思います(「ガラパゴス化」ってのはwikipediaの項目にもなっていて、それによると「生物の世界でいうガラパゴス諸島における現象のように、技術やサービスなどが日本市場で独自の進化を遂げて世界標準から掛け離れてしまう現象のことである」とあります)。いま現在の日本はアニメ、キャラクターグッズといったソフトコンテンツ産業は海外市場にも進出し順調に成長を遂げているようですが、その一方で『ガラパゴス化する日本』にあるように携帯電話や地デジなどいくつかの分野において「自閉」してしまっていることが問題視されています。また同書でも指摘されているように、最近の日本人の若い人たちの間では「ガラパコス化=海外離れ」が目立つようになったといわれますが、大学生のみなさん、国内で自足するのではなく、キティちゃんに負けずにどんどん海外にも目を向けて視野を広げてくださいね…。




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2010年05月18日

ギリシャ危機って?

このところメディアで騒がれている「ギリシャ問題」。これが複雑でよくわからないとの声をよく聞きますので、きょうのエントリーではできるだけわかりやすく解説してみたいと思います。

*「ギリシャ危機」を短くまとめてみると?
→ギリシャが財政破綻を起こし&国の借金が返せなくなり、これが世界経済に悪い影響を与えかねないという問題です。

*では、そもそもギリシャが財政破綻をした理由は?
→3つほど挙げられています。
@手厚すぎる社会保障制度…たとえばEUで1番の経済大国であるドイツでさえ年金支給開始年齢が63歳であるのに、ギリシャは58歳から。
A多すぎる公務員…公務員をはじめ、その他公的機関に勤める人々が全労働人口のうち1/3〜1/4を占め、さらにその地位が優遇されている。
B常態化する脱税…脱税が常態化しており、本来期待されている税収の1/3が脱税によって失われているといわれています。

さらに付け加えると、「頻発するストライキ」というのも挙げられるかと思います。これはTVなどでご覧になられた方も多いかと思いますが、↑のような状況で国が財政破綻しているのなら、国民がとるべき合理的選択は「粛々と労働&納税すること」になるはずなのですが(ストにより経済がマヒ→よりいっそうの国内の混乱→生活水準のさらなる悪化→さらなるストライキ、と悪循環になっています…)、まぁこのへんはお国事情も絡みますから難しいところですね…。

*国の借金が返せないと、具体的にどのようなことになるのか。
→国内と国外の2つの側面からみてみましょう。借金を返せなかった場合、まずギリシャ国内においてはその後しばらくかなり厳しい経済状況に追いこまれることが予想されます。というのも、借金を返せなかった国への信用はガタ落ちになりますから、だれもギリシャの国債を買わなくなる、つまりギリシャは「経済対策」のために国債を発行するという選択肢も奪われてしまうことになります(借金はできる状態→借金すらできない状態)。ただでさえ財政難なのに、税収その他の実収入のみでやりくりをせねばならなくなり、ギリシャにとって状況はますます厳しくなるでしょう。
 また国外的な影響ですが、ギリシャの人たちには申し訳ないものの、国際社会はむしろこちらを懸念しています。具体例に即していうと、この危険なギリシャの国債を、おもに他のヨーロッパの銀行が保有しているといわれていて、もしもギリシャがデフォルト(債務不履行)してしまえば、これら銀行がもつ国債が紙屑になってしまいます。これに端を発して、EU圏に信用不安が広まり&ユーロの信認が下落すれば、瞬く間に国際経済にも悪影響を与えるでしょう。まさしく、アメリカ発サブプライムショックならぬEU発のギリシャショックを引きおこしてしまうといったところでしょうか。

*以上のような問題にたいして、どういう対応策がとられているのか?
→このようにギリシャの財政破綻はたんにギリシャ一国のみですまされる問題ではないため、EU諸国では対策に乗りだしています。具体的には、先日、1100億ユーロ(13兆円)をギリシャに融資することを発表し、また世界の通貨の安定を図る国際通貨基金(IMF)も300億ユーロ(3,5兆円)を用意することになりました。ギリシャはこの4,5月に、一部国債の償還期限を迎える&ギリシャ単独では支払いができない状態になっていましたが、これにより当面の危機は回避されることになりました。

*以上のような問題にたいして、どういう対応策がとられているのか?
→このようにギリシャの財政破綻はたんにギリシャ一国のみですまされる問題ではないため、EU諸国では対策に乗りだしています。具体的には、先日、1100億ユーロ(13兆円)をギリシャに融資することを発表し、また世界の通貨の安定を図る国際通貨基金(IMF)も300億ユーロ(3,5兆円)を用意することになりました。ギリシャはこの4,5月に、一部国債の償還期限を迎える&ギリシャ単独では支払いができない状態になっていましたが、これにより当面の危機は回避されることになりました。

*では、事態は解決の方向に進みそうなのか? 今後の展望は?
→残念ながら問題は山積みです。今後注目すべき展望としては、EU発の世界同時不況を回避することができるか、さらには単一通貨としてのユーロを維持していくことができるかといったところでしょうか。以下項目別に問題点を整理しておきましょう。

@ギリシャは本当に立ち直れるのか?…他のEU諸国の支援もあり、当面の最悪のシナリオであるデフォルトは回避できました。さらに財政健全化に向けて、日本の消費税にあたる付加価値税のアップ、公務員の年収の3割カット、年金も大幅に支給を減らすなどのアナウンスを行っています。ところが、さきほども触れたストライキなど、国内では政府への反発が強まっており、順調に財政健全化が進むかどうかは不透明なところがあります。もしも財政改革が進まなければ、EU&IMFはいずれギリシャを見限るでしょうし、その場合、ギリシャはいよいよ窮地に追いこまれるでしょう。そしてもちろん世界経済へもかなりの悪影響を及ぼすでしょう。今後のギリシャの財政改革に注目が集まります。

AEU内の不協和音…ギリシャ危機をめぐって、EU内に不協和音が広がっています。たとえばこちらの記事などもご参照ください。ここではドイツとギリシャの対立が触れられていますが、ドイツとおなじようにほかのEUの支援国からすると、自分たちも財政的に厳しいままなんとか規律を守ろうと努力しつつ支援を行っているのに、当のギリシャで改革が進まないとすれば、支援国の納税者たちが反発するのは当然でしょう。このように、ユーロはヨーロッパ統合の象徴として導入された制度なのにも関わらず、皮肉なことに、互いに反目しあう原因にもなりかねないという弱点を露呈してしまいました。つまり、EU諸国は通貨統合をして経済体制を強化しようともくろんだものの、その通貨の信認を脅かす国がでてくれば、「なかば自国にも関わる問題」として支援をせざるをえないという現実に直面することになってしまったのです。
またさらに、ここにいたってはギリシャ側からしてもユーロ圏に属することのデメリットを意識しているかもしれません。極端なことをいえばたとえば、もしもユーロ圏に属していなければ、国内のインフレリスクを覚悟のうえで、ばしばし紙幣を刷って借金を帳消しにしてしまうといったある種の金融政策(?。もちろん、国内経済は混乱するし政府の信用も失われますので、せいぜい一回限りの「禁じ手」扱いとなるでしょうが…))をとることができますが、通貨発行権はヨーロッパ中央銀行(ECB)にあるので、ともかく通貨発行や金利操作などで危機に対応するという手段がないことのデメリットをギリシャ側としては感じているかもしれません。

B破綻危機に瀕しているのはギリシャだけではない…さらに、EU圏で財政破綻の危機が懸念されているのはギリシャだけではありません。ポルトガル、イタリア、アイルランド、スペインはギリシャと同様に財政状態が不安視されており(これら5カ国の頭文字をとって、Piigsと名づけられています)、もしかりに連鎖破綻でも起きればEU圏はもとより世界経済が大混乱に陥る可能性が大きくなってしまいます。こうした懸念も踏まえ、EUでは7,500億ユーロ(90兆円)とかなりの規模の緊急支援措置を打ちだしていますが、こちらの記事を読むと、ギリシャ、スペイン、ポルトガルなどが財政再建に向けて動きだすことによって、今度は「欧州経済の成長が遅れるとの見方が投資家の間で強まる」など、今後しばらくユーロは構造的な不安定要因に悩まされつづけることになることが予想されます。

とだいたい以上です。




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2010年04月15日

「政権交代の失敗」 le figaro fr.より

鳩山由紀夫と彼の率いる民主党は、長らく政権にあった自民党を打ち破ることに成功した。けれども半年たったいまとなっては、責任放棄と分裂が目立つばかりである。

新政権ハネムーン(註:新政権が発足してからしばらくの間、メディアなどが政府批判を控えること。日本ではだいたい100日間といわれています)は、民主党にとって長くは続かなかった。去年の9月、1955年以来政権の座にあった自民党を総選挙で打ち破った民主党は歴史を作りあげた。半年がたち、培われた期待は失望にかわった。7月の参院選は、民主党にとって政権を安定させるためにぜひとも勝たねばならないが、見通しは暗い。読売新聞の調査では、次回の選挙で民主党に投票するという有権者は25%にとどまった。

この新与党は、「利益誘導型(註:自民党のこれまでの政治スタンス)」の国家運営をしないと公約していた。そして、2つの改革がこれにもとづいて実行に移された。高校授業料無償化と子ども手当てである。しかし残念ながら、日本政治はすぐさま旧態依然としたその悪癖に出くわすことになった。政権与党の前例にならい、断絶を未然に防ぐための馬鹿げた争いによって政府は分裂してしまっている。

破局をもたらす女

経済面では、(国内)消費による景気刺激策を推奨していたが、次第にそれを諦め、輸出による経済成長の重要性を正式に認めるようになっている。5年前にもちあがった郵政民営化をふたたび取りあげるなど、後戻りさえしている。社会政策については、半年前のマニフェストでは意気揚々であったのにいまは尻すぼみしている。夫婦別姓の法案も可決されないだろう。外国人地方参政権についてもおなじである。一部で期待する向きもあった、すくなくとも4人の閣僚が廃止を求めている死刑制度についての議論も、結局うやむやになるだろう。外交においては、もう何ヶ月も在日米軍基地の移設問題ばかりが話題になっている。幸いなことに、民衆の興味をひくようなスキャンダルもある。中井内閣府特命担当大臣(防災担当)が議員宿舎にホステスを招きいれていたのである。

与党は経験不足のツケを払わされている。大臣で責任をまっとうしたのは2人だけである。しかしこうした迷走には責任者がいる。鳩山由紀夫総理大臣である。新しい論争のたびにカメラの前で怯え、内閣において決断ができないという無能さを露呈している。「人々は総理の人柄にたいへん好意的です。残念なのは、行政の長が朝は右寄りになり、午後になると左に寄り、夜になるとまた右寄りになることです。みんなはもう彼を信用していません」と、ヴェテラン議員である渡部恒三氏はいう。

過去20年間に13人が総理を務めた日本は、政権交代でもってある一定の安定性を取りもどせると考えていた。そして実際はその逆であった。政界はよりいっそう解体されつつある。何人かの自民党の古参のリーダーたちは党を出て新党を結成した。その党名は知性のなさを際立たせている。「みんなの党」「たちあがれ日本」などである。与党の内部ではすでに、ポスト鳩山の動きも出ている。「近い友人に語ったところによると、史上最悪の逃げ回ってばかりの悪宰相という記憶を残さないために、鳩山氏は1年で難局を乗り切りたいとのことだ」と歳川隆雄氏が語る。こうした混乱がどのようなものになるか、だれも予想できない。


Parti démocrate japonais : l'échec de l'alternance
Par Régis Arnaud
14/04/2010
Le Figaro fr.


(訳者付記:
なお、先日ある本で、こんな記述に出くわしました…。
「友愛精神を売物の鳩山さんも、このジレンマに立たされたのでは苦しかったろう。然し一国の総理としてモスクワに出掛ける前に、この問題についての所信を国民は聞きたかったろうと思う。こういう種類の所信の表明は、ほんとの勇気と決断がいるということを承知の上の期待は当て外れか。今からでもおそくはない。引退前にでも云ってもらいたいものだ。これこそほんとの立派な引退の花道になるのだが」(p207)

プリンシプルのない日本 (新潮文庫)「モスクワ」云々を抜きにすれば、現総理の鳩山由紀夫さんへの批判記事かと見紛うばかりですが、実際にこの文章が書かれたのは1956年のこと(文章中の「鳩山さん」とは現総理の祖父にあたる鳩山一朗さんのことです)。本のタイトルは『プリンシプルのない日本』、作者は「戦後の日本を陰で支えた男」というキャッチフレーズで有名な白洲次郎さんです。

この描写に出くわしたとき、ぼくは「なんだかねぇ」と苦笑いしましたが、まぁ決断が苦手、論争では結論の曖昧さを好む日本人気質の悪い部分は、脈々と受け継がれるものなんでしょうかねぇ…。

なお、当書の説明文に「他力本願の乞食根性を捨てよ」「イエス・マンを反省せよ」「八方美人が多すぎる」など、日本人の本質をズバリと突く痛快な叱責は、現代人の耳をも心地良く打つ」とありますが、実際とてもおもしろい本でした。ついでながら『プリンシプルのない日本』をご推薦させていただいておきます…)




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2010年02月05日

ファイナルファンタジー

トヨタがずっこけ、今後の日本経済はどうなるものやと気をもんでいる最中、さきほどたまたまこんな動画をみつけました。

http://www.youtube.com/watch?v=zHlE48D3moA

人気ゲーム『ファイナルファンタジー』(以下、FFと略)の実写版パロディです。詳しいことはわからないのですが、どうもイタリア人らしきグループが作成し、それが英語版としてyou tubeにアップされた模様です。FFをご存知の方なら、けっこう笑える&微笑ましい動画だと思います(個人的には「コンフュ」状態になったキャラが味方に攻撃する場面が笑えました)。

ところでまぁ、びっくりするのがこの動画へのアクセス回数です。おおよそ160万回を超えており、FFって世界中でこんなに注目度を集めるコンテンツやったんやとぶったまげました。これだけに限らず、ぱらぱらリンク先を調べてみると海外発信のFF関連の動画でアクセス数が100万回以上なのがザラにあり、これを考慮に入れれば国境を吹きとばして世界中で潜在的に「FFコミュニティー」なるものが形成されてるんだなぁと妙に感心しました。日本人の方でも国産ゲームのFFなんか知らんという人がたくさんいると思いますが、そのおなじ日本人でFFをプレイした人は知らず知らずのうちに、世界中のFFファンとおなじ空間を共有することになり、こういうところにもグローバル化の一側面を見出すことができますね。

なお、FFはシリーズ10作目からはキャラクターにボイスが入るようになっていて、もしかするとフランスで発売されるFF10はボイスがフランス語になっているのかなと思いきや…。

http://www.youtube.com/watch?v=G9zrjkrz8-o

調べてみると、こんなふうにボイスは英語で字幕部分のみフランス語になってました。もしもフランス語ボイス版があれば、聞き取り教材としてオススメしたかったのですが…。





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2010年01月26日

ちょっとしたカルチャーショック

TAXi2 スペシャル・エディション [DVD]先日、授業中に映画鑑賞をしていたときのこと。ちょっと古い映画であるものの毎年学生さんの評判がいいので『TAXi 2』をよくとりあげているのですが、観劇中ふとあることに気がついてカルチャーショックじみたものを感じました。この映画では案外エゲツない描写がちりばめられてるんだなぁ、と。

まずその一つ目ですが、冒頭付近で主人公のダニエルが恋人のリリーの実家を初訪問する場面からはじまります。リリーの父親というのがフランス軍の幹部で、公私混同もはなはだしく普段から話す口調がやたらと軍人っぽくて、とっつきにくいところがある。ところが、飄々とした&物怖じしない性格のダニエルはエスプリの利いたやりとりで対応し、この父親と意気投合することに成功します。

そして、ぼくが気になったのはその直後で、リリーの父親がアルジェリア戦争での武勲を誇らしげに語る場面。この自慢話をリリーと母親はさんざっぱら聞かされているらしく、気もそぞろに聞き流している一方で、恋人の父親に配慮をしているのか、ダニエルはふんふんとそれなりに真剣に聞いている。ここで、「あ」と気がついたことがありました。

というのも、ダニエルはフランス旧植民地国の移民という設定であり、で、この(アルジェリアからの?)移民であるダニエルに対し、フランス軍の幹部がアルジェリア戦争の武勲を語るというのは、ある種のブラックジョークになるなぁ、と…。

このことに気がついてみると、さらにほかのところでもおなじようなブラックジョークではないかと思われるエピソードがみつかります。それは物語終盤で、ダニエルたちが日本のテロリストヤクザ集団を追いかけてマルセイユからパリに移動するときのエピソード。時間に余裕のないダニエルたちは、リリーの父親の操縦する軍用機をつかい、愛車もろともパラシュートをつかってパリに到着します。これって、アルジェリア戦争時、アルジェリア独立に反対する現地の進駐軍がクーデターを起こしてパリにパラシュート部隊をぶちこもうとし、フランス国民を恐怖のどん底に陥れたことを踏まえているんじゃないのかなぁ…。

このように外国映画ってのは、その国のことを知識としてある程度知っていたとしても、やはりその国民でないとすぐには気がつかないエピソードがかなりあると思います。みなさんのなかにも、ぼくとおなじように、外国映画で何気ないエピソードだと思っていたのが、あとになってそれになんらかの意味やメッセイジが含まれていると気がついたケースはありますか?



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2009年12月17日

リフレって何?(2) リフレとデフレ

これで、リフレ政策の大枠はご理解いただけたかと思いますが、その一方で「???…」と謎で頭がいっぱいになられた方もいると思います。代表的なのが、「こんなことしてなんになるの?」でしょう。経済の実体はお金のやりとりでなく、モノやサービスのやりとりが本質だとさきほど述べたことがたしかなら、どれだけ名目成長率を上げても意味がありません。それを政策として意図的にやるのですから、ぱっと見には理解に苦しむところがあります。くわえて、リフレ政策というのはインフレ政策といいかえてもよく、インフレといえば第一次大戦後のドイツ経済や、日本のオイルショック後の狂乱物価の例などを挙げてもわかるように、あまり響きのいいことばではありません。実体の裏打ちもなく、物価だけ変動するなどそこに住む国民にとって迷惑なだけでしかありません。

ところが、現実を見渡せば、世界のかなりの多くの国がこの政策をとっています(たとえばお隣の韓国)。これはどういうことでしょうか? 結論からいうと、リフレ政策の目的は中央銀行が意図的にお金の価値をさげることといってもいいかと思います。さらに踏みこめば(ここが大事になるかと思いますが)、不況に見舞われている国々では、政府や中央銀行がなにもしなければ、国民はどんどん財布のヒモをかたくして、できるだけモノを買わないようになります。するとさらに経済全体が冷えこむ。そこで、中央銀行が意図的にお金の価値を落として(インフレを起こす)、国民を消費に向かわせる。これがリフレ政策の中心にある考えかたになるでしょう。

この記事を読むと、まるで中国だけでなく韓国もぐんぐん成長しているかにみえます。ところがこれは記事にははっきり明記されていませんが、間違いなく名目成長率であり、最後まで記事を読めばわかるようにしっかりインフレ率が数%アップしています(それどころか韓国経済の実体は…この動画をご覧ください)。

そしてこのリフレ政策にはもちろん好ましい側面と危なっかしい側面があります。そちらを整理しておきましょう。

勝間さんの主張を綿密に調べたわけではないのですが、ともかく彼女の主張は現在の日本をデフレ状態から脱却させたいという狙いがあると思います。

デフレというのはインフレの正反対で、すくなくとも結果的にお金の価値がどんどんあがっていく現象を指します。現在の日本がまさにそうなのですが、このところモノの値段がどんどんさがってきています。このこと自体は悪いことでないようにみえるのですが、このことがお金の価値を高めることにつながってしまいます。どういうことかというと、たとえばいま手元に100万円の資金があり、これをつかって100万円の車を買おうと考えているとします。ところが、この車が来年には80万円になると予想されています。このとき合理的な人であればどうするでしょうか。緊急の必要性に駆られているのでもなければ、来年買って、20万を手元に残すことにするでしょう。「デフレ=お金の価値があがる」というのはこういうことで、モノを買うことよりお金を手元に残したがる傾向になってしまうということです。これでますますモノが売れなくなり、デフレスパイラルとなってしまいます。

リフレの好ましい側面ですが、以上のようにいまの日本のような「お金の価値があがっている=国民がお金を手元に残したがる」状態にある国においては、中央銀行によって意図的に市場でのお金の量を増やし、適正レベルでその価値を下げることに成功すると、好ましいかたちで国民を消費に向かわせる要因になるということです(中央銀行が100万円刷ればそのまま100万円分物価が上昇するという単純な話でないのがむつかしいところなんですが、それはさておき)。そしてこのときはデフレのときと逆の効果、つまりお金はもっているだけでは損をするということになります。現在の車の価格が100万円、来年200万円になるとすれば、手持ちが100万円以下の場合でもなんとか工面して今年中に買っておこうと思うはずです。

このようにリフレ(インフレ)というのは「物価狂乱」ということばを連想するなど悪いイメージがつきまといますが、お金の価値がさがっていくという効果を通じて、消費を刺激するといった意味では、不況下においてはありうる対症療法のひとつにもなります。

ついで、危なっかしい側面をみていきます。中央銀行のこうした政策が思わぬ負の副産物を生みだしかねないという点を押さえておきましょう。リフレ政策を実施するにあたって、中央銀行はインフレターゲットを設定します。これは中央銀行が目標とする物価上昇率のことで、たいていは1~3%程度といわれます。

そしてまず第一の負の側面ですが、リフレ政策によりハイパーインフレが起こってしまうかもしれないことが挙げられます。たとえば想定外の円安、国債の暴落などの要因により、目標値として定めた以上の物価高騰をまねきかねないということです。

つぎに、バブルを引きおこしかねないという側面です。お金の流通量のアップ=お金の価値の低下→金余りの状態となります。もしもこのお金が望ましい消費や投資に向けられるのならいいのですが、そうではなく株や不動産の取得に向けられた場合、バブルを誘発してしまう可能性が高くなります。現にこちらの記事をみていただければわかるように、実質的な経済成長がないにもかかわらず、韓国では不動産価格が高騰するという状況になっています。

そのほか、そもそも人口が減少傾向にある日本において、「デフレ」はそれ単体で悪と決めつけられるわけでなく(むしろ人口がどんどんどんどん減っていくのに、GDPが下落しないのだとすれば驚異的です)、日本においてデフレ脱却の手段としてのリフレ政策は、その有効性云々を議論する以前にこうした点も考慮に入れる必要があるでしょう。




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2009年12月16日

リフレって何?(1) 名目成長率と実質成長率

先日、経済評論家の勝間和代さんが管直人副総理に「リフレ政策」なるものを提言しました。ところで、そもそもリフレってなんなのかよくわからないという人が多いと思います。そこでわかりやすく紹介してみたいと思います。

リフレ政策を理解するにあたって、まず押さえておきたいのは名目成長率と実質成長率の区別をしておくことです。いずれも国などの一年の成長率をお金で表したものであることに変わりありません。違いはといえば物価を考慮しているかどうかです。物価変動を考慮に入れないで、たんにお金の増減だけに注目するのが名目成長率。物価変動も考慮に入れて、再調整したのが実質成長率となります。具体的には、まず車しか生産していないある国を想定してみます。

A年度  車100台×100万円=1億円
B年度  車110台×110万円=1億2100万円

この国の名目成長率は21%(2100万円)となり、実質成長率は10%(1000万円)となります。実質成長率の計算方法ですが、

@1億2100万円(名目成長)から、10%(10万円)の物価上昇分を考慮に入れ差し引く。つまり

1億2100万円(名目成長)−(10万円(物価上昇率)×110台)=1億1000万円(実質成長)

つまり車一台あたり10万円だけ「見せかけ」が混じりこんでいますから、これを控除する方法です。こうやって実質成長率を10%ととらえることもできます。

A以下のとらえかただともっとシンプルに、前年度の物価水準をもとに計算することもできます。

100万円(A年度の物価水準)×110台(B年度の生産高)=1億1000万円(実質成長)

というとらえかたです(以前、地域通貨の記事で経済の実体は金のやりとりでなく、実際のモノやサービスのやりとりを指すと指摘しましたが、これとからみます。上記モデルの国は1年間であらたに10台の車を生産する力(厳密にいうと売れるかどうかという需要サイドの問題もありますが、ここではあえて無視しておきます)が生まれたということになります。この10台分のあらたな上乗せが実質成長率というわけです)。

以上をまとめると、たんなる金の増減にだけ焦点をしぼったのが名目成長率。実際のモノやサービスのやりとりをある一定の基準点(物価水準)のもとであらわすのが実質成長率といっていいかと思います。

そして、ここのところを押さえておくだけで、リフレ政策がどのようなものかの大筋がわかってくると思います。リフレ政策とは「中央銀行が物価上昇率に一定の目標を定めることであり」、さきの例でいうと

a年度  車100台×100万円=1億円
b年度  車100台×110万円(10%の物価上昇)=1億1000万円

a年度にこの国の中央銀行が1000万円あらたにお金を発行し、車しか産業がないこの国において車1台が100万円だったのを、b年度には110万円にアップさせるというのもリフレ政策となります。この国の実質成長率は0%です。モノやサービスのやりとりに増減がないからです。しかし、中央銀行が1000万円お金を追加したために見かけ上、つまり名目成長率が10%アップしたということになります。(…続く)




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2009年08月28日

沈みゆく日本(だと?)――いったんマニフェストと距離をおいて選挙を眺めてみる

Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2009年 9/2号 [雑誌]今週末30日にいよいよ総選挙の投票がおこなわれることになり、ぼくも各党のマニフェストを眺めながらどこの政党に入れるべきかと吟味中…、であるのはたしかなのですが、このマニフェストとやらにいいたいことがあります。まず政党間で、「あんたの党の政策には財源の裏打ちがない。国民にどう説明するんだ!」などと非難合戦をしていますが、与野党を問わず、そもそも各党政策の財源の問題は一般国民になどまったくわかるわけがないということです。もっといえば、たとえば使える国家予算のうち、

自民党:子育て教育10%、年金制度5%、…、
民主党:…、
公明党:…、

とでもやってくれないものかと。もちろん予算投入量だけで価値をはかれない政策決定の問題もあるのでしょうが、こうすれば、すくなくともどの政党がどの政策課題にどれだけのお金をつぎ込むつもりなのかはわかるようになるはずです(たとえば国民受けする政策への予算注入が他党に比べてすくない場合に、「我が党はこれこれこういう政策でカヴァーするつもりだ」とアピールでもしてくれるようになったほうが、国民にとってはありがたいんじゃないかな)。

と、各党の政策主張をほんまに信じてええもんかいなと、マニフェスト制度にフラストレーションを感じているさなか、そもそもいったい外国人は今回の選挙をどうみているのか、なにか違った視点でもあるかなと思い、きのう『ニューズウィーク』(日本版2009年9月2日号)を購入してみました。見出しは「沈みゆく日本—成長戦略なき 空っぽのマニフェスト ビジョンなき政権選択で アジアの大国の座を 守り抜けるのか」とあります。

「沈みゆく日本」などとあるので、どれほどボロクソに日本のことを書いているのかと気になりましたが、タイトルに比して論調は控えめで真新しい主張があるわけでもなく、むしろ国際社会(経済)における日本の現状を分析するといった感がありました(記事タイトルは「針路 成長戦略なき中堅国家ニッポン」「政治 小泉はいかに自民党を殺したか」「視点 やっと訪れたチェンジの季節」「経済 日本よ、キリギリスになれ」)。総選挙直前の号でこういった記事を掲載するというのは、もうすでに選挙の大勢が判明しているのを前提に(?)して、これから日本が直面することになる問題を炙りだすことが目的なのかもしれませんね。

そしてこれらの記事を読んでみて、なるほど「成長戦略なき 空っぽのマニフェスト」というのはいいところをついているんじゃないかと感じられました。上記の記事の内容をおおまかに整理してみると、

1. アジア経済と日本
→急成長を遂げるアジア世界と日本はどのように付き合うべきか

2.外需に頼ってきた日本経済構造の今後の行方
→対応策として、「日本国内の内需拡大」と「アジア域内需要を当てこむ『準内需』開拓」。おなじくこの問題と関連した「少子化対策」など

と列挙してみれば、なるほど最も重要な論点のひとつとなるはずなのにもかかわらず、これらをテーマとした論争はあまりなされていないように思われます。たとえば、ヤフーのこちらのサイトをみてみると、日本の経済外交についてはなにも触れられていません。もちろんこの種の議論がまったくなされていないわけでなく、たとえば「マニフェスト総括「成長戦略」景気拡大2つの道」(読売新聞)のような主張もありますが、結局のところ「…経済力だけが頼りの大国だった日本が世界で勢いを盛り返すには、経済を新たな成長軌道に乗せる必要がある。なのに自民党にせよ民主党にせよ、党幹部たちはこの点についてあまり語ろうとしない」(p19)のはたしかだと思います。これはどの政党のマニフェストにたいしてもいえることですが、マニフェストをみているだけでは各政策がどのように日本経済全体に波及、影響しあうのか、もっといえば「国際社会における日本」という、より具体的な現実に根ざした枠組みのなかでどうするつもりなのかがいまいちはっきりしません。

結局のところ、冒頭で「各党政策の財源の問題は国民になどまったくわかるはずがない」と書きましたが、それはさておき/それ以前に、ある程度の理念(=先行き=見通し)でも用意しておいてもらわないとマニフェストのほとんどが総花的なデタラメにしか感じられず、読めば読むほどそれを受けて結論をだそうとすればするほど、恐ろしい一票を投じてしまうのではないかと不安に苛まれてくるという始末です。この意味では、とある政策が失敗しようが成功しようが(ポシャろうが)、それは結果判断にしか過ぎなくなります。

とはいえ、救い(?)を求めてみるなら、今回の選挙は「新しい」ということでしょうか。長い間、日本人は政権交代がかかった選挙なんてやったことがなく、たとえば自民党は「どうせ自分が勝つんだから…」そして野党は「どうせ負けるんだから…」という考えに慣れてしまい、ぼくら国民もそれに付き合ってきたので、その枠組みの中で自分の立ち位置を決める選挙しかしてこなかったわけです。そのため、自分の入れた政党が立派な政治をしようがポシャろうが、大勢において変わりはないだろうという安心感(?)がありました。ところが今回の選挙はある程度有権者に「責任をかぶせる」、というか選挙民の立場からすると、自分の支持した政党が成功をおさめれば「はは、おれの考えは正しかったのだ」とちょっぴり嬉しくなるでしょうし、ズッコけたりすれば少なくとも内心忸怩たる思いを感じるはずです。結局、不安は不安として残りますが(たぶん投票用紙に書く直前まで、どの政党&候補者に入れるか迷うだろうな…)、こうした「見返り」という意味では今回の選挙は面白いものになるのではないかと思います。

またおなじ意味で、政権交代がかかった選挙なんてはじめてだから、なんだか焦点がぼやけたマニフェストしか出せなかったのかもしれませんが、各政党のみなさん、次回(?!)からはよろしくお願いします…(たとえは悪いかもしれませんが、いい加減なことを書いている「競馬」雑誌なんて絶対売れませんよ…)。次回の選挙でも外国の雑誌に「沈みゆく」なんて書かれませんように。





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2009年08月03日

外国語と数

イントロ

今回のテーマは「数詞」についてです。ことばは現実世界を切りとる「色眼鏡」であるといわれますが、「数詞」を眺めてみるとこのことを目に見えやすいかたちでうかがい知ることができます。数そのものは人類普遍の共通概念であるものの(1はひたすら1でしかないという意味で)、その具体的な表記法は言語ごとに異なっており、しかもなかなかユニークなものもたくさんあります。こうした違いを眺めてみると、ある言語がどのように数をとらえ、どのように現実世界に反映させているかがよくわかります。
 
前置きはこれくらいにして、では具体的にみていきましょう。

足したり引いたりかけたり

数年前、東京都の石原知事が「フランス語は数も数えられないことばだ」といった旨の発言をして物議を醸したことがありました。常識的に考えてみただけで、世界有数の先進国の言語が数を数えられない仕組みになっていることなどありえないので(むしろ数を数えられないのにTGVを作ったのだとしたら、「フランス国民=超能力集団」になるんとちゃうか…)、発言にたいしてまともに取りあう必要はないと思いますが、日本人からみるとなかなかユニークな数の数え方をするのはたしかです。

10 :dix / 20 :vingt / 30 :trente / 40 :quarante / 50 :cinquante / 60 :soixante

ここまではいいとして、

70 : soixante-dix(60+10) / 80 :quatre-vingts(4×20) / 90 : quatre-vingt-dix(4×20+10)

と、70から99までは1から60までの数字を組み合わせて表現します。今年はじめてフランス語を履修した大学一年生のひとたちはまだ70以上の大きな数字を習っていないかもしれませんが、フランス語はこのようなちょっとびっくりする数のとらえかたをします。

ただこれはなにもフランス語だけの現象ではなく(くわしくはこちらhttp://www.sf.airnet.ne.jp/~ts/language/numberj.htmlのページをご覧になってください)世界の言語を見渡してみるといろんな表現法があるのがわかります。

たとえば
*バスク語
→「2×20+10」で「50 (berrogei ta hamar)」

*デンマーク語
→「2,5×20」で「50( halvtreds)」、「3,5×20」で「70 (halvfjerds)」

*ブルトン語
→「0,5×100」で「50 (hanter kant)」

*アイヌ語
→「(-10)+3×20」で「50ワンペ・エレ・ホッネプ」

とおなじ「50」にしてもこれだけ数のとらえかたに違いがあるのですね。

また勘のいいひとは気がついたでしょうが、「20」という数がところどころに登場しています。これはどうも世界各地の言語でみられる事例で、モノを数えるとき「20」がキーナンバー、つまり「20」を足したり引いたりかけたりして、いろんな数を表す言語がたくさんあります。

その理由ですが、説明としてつかわれるのは、人間の手足の指が全部で20本になるので、これがキーナンバーになったという説(全部の言語をしらみつぶしで調査した研究成果があるわけではないので、もちろん断定はできませんが)。昔のひとびとは、筆記用具や電卓を持ち歩きませんから、おそらくモノを数えるときなどに指をつかい、そのため「20」が身体感覚をともなったひとまとまりの数になったという考え方です。たとえば「40」という数字なら「人間2人分の指」といったところでしょうか。

そしてその歴史はともかくとして、興味深いのはある一定の数のまとまりを、自分たちの都合のいいようにまとめあげているという点です。考えようによってはこうした数の分析的な表現には便利な側面があります。具体的にいうと、ある程度大きな数のイメージをつかむときに使い勝手がいいという点です。たとえば、目の前に100人くらいの人間がいたとして、これを一見して(一括して)すぐにその数を把握するのはむつかしいと思います。しかし、20人くらいならすぐに選別できますし、これを基準にしてポンポンポンと20きざみで計算すればけっこう手軽に100人前後という数字をはじきだせると思います。また、100人の人間をいま頭に思い浮かべろといわれてもなかなかイメージが湧きませんが、だいたい野球チーム10個分くらいといわれると、ぼくはなんだかリアルさをともなってその数をイメージできます。

実際、フランス語では正規の表現とはべつに「20 (vingt)」を倍数の単位としてつかう用法がありますし、その他、フランス語で「1100 (mille cent)」のかわりに「onze cents(11×100)」といういい方を許容していますが、これは英語でも「one thousand one hundred」のかわりに「eleven hundred」といえますし、こうしてみてくると日本語のように数の概念と表現が一対一対応のように張り付いてしまっているのは、どこか窮屈というか面白みにかけてくるような気がするなぁ…。

うちには一頭の子どもがいます

話はそれますが…。中国語との関連は無視できないものの日本語と数といえば、モノの数え方に特徴があります。

→うどん一玉、本一冊、車一台、紙一枚、新聞一部、靴一足、箪笥一棹、花一輪、花弁一片、騎馬一騎、飛行機一機、船一艘、雫一滴、家一軒、拳銃一丁、詩一編、地球一個、砂一粒…。

数えあげればきりがないものの、発音に注意していくつかピックアップすると、

→「ひと玉」「いっ冊」「いち台」

そもそも「一」の発音自体が一定していない。こんなややこしい言語をぼくもいつの間に覚えたのやら…。





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2009年04月17日

『エンデの遺言』『エンデの警鐘』――地域通貨って「(1)地域通貨とは」

これまでに考えてきたことを整理しますと、

* 現代の貨幣は、モノ(=ヒト)とモノ(=ヒト)のやりとりを円滑にするという本来的な役割が十分に機能を発揮せず、「よりお金を増やす」ために選好されるといったように自己目的化している。
* 現代経済にとって当たり前すぎてあえて根源から意識されることのない利子が、大多数の人々の生活を圧迫している側面もある。

以上のように、貨幣というヒトとヒトとを円滑につなぐ人類最大とさえいえる発明品が、時代を経て主従関係が逆転し、もてるヒトももたざるヒトも「お金の奴隷」となってしまったことを、「不況」と「利子」というキーワードをつうじて考えてきました。

そして、今回紹介する地域通貨はこうした問題に対処するための1つの試みとなります。ところで、じつのところ地域通貨には明確な定義が存在せず、またその実施形態も多種多様なので、いまいち全容がつかみにくいところがあります。そこで、きょうのエントリーではまず「(1)地域通貨とは」というタイトルでもって、Q&A方式によってこの通貨の輪郭をつかんでみたいと思います。ついで、次回のエントリーを「(2)地域通貨の具体例」とし、実際の地域通貨にどのようなものがあるか紹介してみたいと思います。最後を「(3)地域通貨の問題点」とし、そのメリットが大きく注目されながら、残念ながらまだまだ広く浸透するにいたっていない地域通貨の問題点を探ってみたいと思います。

ではさっそく、地域通貨がどのようなものかみていきましょう。

⇒☆続きを読む
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2009年03月27日

『エンデの遺言』『エンデの警鐘』――利子っていったい…

エンデの遺言―「根源からお金を問うこと」まずはこの引用からご覧ください。現在の経済不況に悩む人たちの度肝を抜いてしまうような指摘だと思います。

「たいていの人は、借金しなければ利子を支払う必要はないと信じています。しかし、私たちの支払うすべての物価に利子部分が含まれているのです。(…)例えば、いまのドイツでなら、1戸あたり18,000から25,000マルクの利子を支払っています。年収が56,000マルクあるとすると、その30%も利子として負担していることになるのです」(『エンデの遺言』p.66 強調は引用者)

これは1990年代末のドイツを直接的な話題としていますが、現在でも状況はそれほど変わってないことでしょう(むしろ悪化してるのかな?)(註1)。この記述をはじめてみた10年前のぼくも、おそらく驚いたことと思いますが、たぶん「へえ、社会ってこうなってるんだ」くらいの印象しかもたなかったのでしょう。ところが、現在の不況下において読み返してみれば、ちょっと見逃せない指摘です。つまり、今日日本人のほとんどは「借金まみれ」の生活をしているのですね。このことを別角度からみると、つまりかりに利子がなくなれば大多数の人々の実質所得がアップしてしまうことになるのです(註1)。

話を分かりやすくするためにモデルを単純化してみますが、ある社会において

個人の平均年収→400万円
個人の平均的所有資産→1000万円
個人年収のうち利子支払い分→30%×400万円=120万円
銀行の預金金利→1%
可処分所得→収入の75%

(※極力いま現在の日本の状況に近似させてみました。銀行の預金金利はもっと低いけど…。また「可処分所得」ってのは収入のうち財・サーヴィスの購入にあてる分です)

エンデの警鐘「地域通貨の希望と銀行の未来」かなり単純化したモデルでの説明となりますが、もしも利子を撤廃した場合、平均的日本人は支払利子30%分、だいたい120万円を「借金の支払い」でなく、自分のために使えるようになるというわけですね。こうしてみると日本人のほとんどは「借金まみれ」の生活をしていることがわかります。もちろん別の側面から利子の恩恵を受けているのはたしかです。上のモデルだと1000万円×1%=10万円。と10万円分の所得もあるのですが、それを軽く凌駕する支払いをしなければならないのです。

まったく、「利子恐るべし!」ってかんじです。一般庶民が利子を身近に感じることがあるとすれば、貯金をするときか、家や車を買うために銀行からお金を借りるときぐらいでしょう。ところが、利子の奴ときたら、するすると日常品の価格にまでひっそり入りこんでさえいて、庶民の生活を圧迫します。

またこのことを別角度からみることも大事です。つまり、ではこの30%の恩恵を受けているのはだれかということです。支払う人がいるなら受けとる人もいるはずです。

答えはもちろんお金持ちです。より正確にいえば資産家や投資家であり、うえのモデルで説明すると支払利子よりも受取利子が多い人たちにです。たとえば、先ほどのモデルをつかいほかの条件は固定したままで、資産だけが異なる人物を想定しましょう。Aは1億円の資産もっていてこれをすべて銀行に預けているとしましょう。この場合、Aは1億円×1%=100万円ですから、受取利子と支払利子は、まぁ、ほぼおなじです。ところがBは10億円もっているとします。この場合、Bは1000万円の利子を受けとることになります。Bにとっては利子様様ですね。もちろん金持ちほど出費も多くなり、実際にはより多くの「支払利子(消費額がアップするほど支払利子もアップするので)」が発生しますが、とにかく、大多数の庶民は普段から「利子」を払いつづけ、ごく一部のお金持ちがこれを受けとっていることになります。

こうしたことを知れば、とある政治家の構造改革のせいで日本に「格差社会」が生まれたというのは正確ではなく、せいぜい「加速」させた程度ということがわかります。利子を前提にした社会にはそもそもシステム上、「格差社会」が内在しています。一方で、資産家=金持ちはなにもしなくてもお金を預ければどんどんお金が貯まります。そのなかにはMoney WorkならぬMoney Gameで、庶民の感覚では理解できない投機的なお金のやりとりで、数字が変動するのに一喜一憂してる人々もいます。他方で、大多数の庶民(=利子による儲けより損が多い人々)は働いて働いて苦労して家のローンのために利子を払い、さらに日常品を買う際にもそういったお金持ちのために利子を支払い続けます。まったくなんて世の中だってかんじですね。

モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 (岩波少年少女の本 37)ただ、以上もって「利子制度が、私たちの生活を追い立て圧迫する諸悪の根源だった!」といえば、それは間違いではありませんし、もう少し控えめに「結局利益を得るのは巨額の富をもつ投資家や資産家だけじゃないか!」というのならそのとおりですが、だからといって、利子を撤廃すればすべての問題にケリがつくかといえば、事はそう簡単ではありません。ここがむつかしいところです。つまり利子をなくせば大多数の人々は救われるのかといえば(とある信念の持ち主で、そう主張する人もいるでしょうか…)、ぼくは微妙だと考えています。

その理由ですが、たしかに利子率を撤廃すれば、現代人のほとんどは30%の「借金生活」から解放されます。現代人が生きているだけでなにか切迫した気持ちになってしまうというのは、潜在的にはこの「利子」のせいもあるんじゃないかなと個人的に思っているのですが、とにかく生きているだけで「負債」を負ってしまう社会からは解放されます。

ただ、その社会に住んでいると、しだいにモノがなくなっていくことを実感することになると思います。食べるモノ、着るモノには事欠かない社会になるかもしれませんが、たとえば車のような、莫大な資本を必要とする企業がつくる製品を所有する人々は確実に減ると思います。

その理由を説明しますと、利子率のない社会では大企業がなくなってしまうからです。大企業がなくなるって、いいことじゃないか(「普段からボロ儲けしやがって。いい気味だ」とかなんとか…)という人もいるかもしれませんが、べつの言葉で置きかえると、多額の資金が必要となるプロジェクトはほとんどなされなくなるはずです。

その根拠としては、お金を貸す人々が激減するだろうからです。友人、知人にならともかく、見ず知らずの人に「利子もなく」お金を貸すなんてことなんて、まずしなくなるでしょう。余裕のある金持ちならともかく、貧乏人ならなおさらです。というのも、その社会ではお金を貸す行為自体に「損」が内在しています。つまり人に貸すお金があるなら、そのお金をつかって英会話学校に通うなりして自分のスキルを磨いたほうが、将来より多くの収入をえられる可能性が高くなるからです。このように利子のない世界では、お金というのはそれこそ「タダでは貸さない!」つまり自分のためだけに使うほうが得という性質をもつようになり、この意味で、現代社会において種々様々なモノを提供してくれている大企業が発生しにくくなってしまうのです(註2)。

もちろんこの社会においても自分に身近な人たちには、家族愛や友情、義理などから、お金を貸すこともあるでしょう(これは、私たちも普段から実践していますよね?)。けれども、見ず知らずの他人に貸すとするなら、むしろ「施し」に近いものとなります。「(自分の利益=成長を省みず)見ず知らずの他人が成長するのを助けてあげる」というわけですね。もちろん、もしも「他人の成長」が「社会全体ひいては自分の利益」に合致するようなものであれば、人々はこの社会でも他人にお金を貸すこともあるでしょうが、いずれにしても借りるほうからすれば現在よりも「資金調達」がかなりむつかしくなるはずです。このように、利子率のない社会では、一方で人々は日々「借金」に追われることはなくなるでしょうが、他方でなにかの事業をしようにもなかなか資金が集まらないということになってしまいます。つまり皮肉なことに、現代の私たちは「借金生活」を代償として「モノにあふれた豊かな社会」に住むことができているというわけですね。

つまるところ、一般庶民にとって利子は「諸悪の根源!」でも「ないと困ってしまう…」となんとも罪作りな必要悪であることがわかりますが、じゃあ、この問題をすこしでも改善する道はないのだろうか。ここで登場するのが「地域通貨」です。いろいろな制約があり、万能薬とまではいえないのですが、すくなくとも「人と人との出会い」がむつかしくなった現在の不況下にある私たちにとって、一考に価するアイディアになると思います。

これについては次回に。


註1:「この利子30%ってなんのこっちゃ?」ついで「なんでこんなにあんねん?」という疑問がでてくると思いますが、ぼくもそうでした。ということで、なぜそのようになるかを考えてみました。

最初の疑問についてですが、「借金しなければ利子を支払う必要はないと信じています。しかし、私たちの支払うすべての物価に利子部分が含まれているのです」ということは、住宅ローンなどはこの文脈によれば「利子分」には含まれないことがわかります。ということはモノやサーヴィスを受けるときの対価、つまり「生活必需品」や「ぜいたく品&サーヴィス」を消費したときに支払う対価に「利子分」が含まれているということでしょう。つまり、モノを買うときに利子を支払っているということです。

ついで、「モノを買うときにまで利子を払っているとして、それが数%ならならまだしも、30%てどういうことや」と第二の疑問が出てくるわけですが、これを理解するために以下のようなモデルを考えてみました。結論からいえば、利子のある世界ではモノのやりとりのたびに利子分が累積され、そのため現代ではそれが30%になっているのではないでしょうか。

ある社会の銀行利息率が年率10%で固定されていて、さらにどの企業も銀行からの借り入れで事業を開始するとします。おなじくこの社会における企業はいずれも良心的で、生産費用(人件費とか)と利息分だけを製品価格に反映するとします。また企業は「利息分10%」とほぼおなじ程度成長しているとします(「自然利子率(社会の成長)」と「名目金利(銀行の利息)」の問題になるのでしょうが、以上の記述がややこしいと思う人は、要は企業が自然=社会の成長にしたがっていてそれ以上の損も得もしていないモデルだと考えてください…)。

この場合各企業は損をしたいのでもなければ、製品価格に利息分をモロ上乗せします。まずA社は銀行から利息10%で10,000円を借り、材料(価格10,000円)を仕入れます。これがたとえば自動車業界をモデルに以下のように続いていくとすると…

A*孫孫孫受け自動車部品製造業者:原価10,000円 →販売価格11,000円
(A社の支払う利子1000円)
B*孫孫受け自動車部品製造業者 :原価11,000円 →販売価格12,100円
                           (B社の支払う利子1,100円)
C*孫受け自動車部品製造業者  :原価12,100円 →販売価格13,310円
(C社の支払う利子1,210円)
D*自動車メーカー       :原価13,310円 →販売価格14,641円
                           (D社の支払う利子1,331円)

となります。この場合、消費者は販売価格のうち4,641円(約30%)を利子分として支払うことになるのが分かると思います。(内容を分かりやすくするために利子率を10%にしたので、たった4回の取引で利子が膨張してますが、現実社会ではより低い利率で、よりたくさんの取引で「30%」になっているはずです)。


註2:「大規模なプロジェクトは、国家プロジェクトとして国に任せればいい。そのための国家じゃないか!」という人もいるかもしれませんが、「ソヴィエト連邦」など似たようなことを実践していた国家の多くはすでに崩壊してしまったことを忘れてはならないと思います。当書においてエンデは「マルクスの最大の誤りは資本主義を変えようとしなかったことです。マルクスがしようとしたのは資本主義を国家に委託することでした」(p40)と述べています。ぼく個人の意見では、人間が「性善説的」であれば共産主義はパラダイスだと思いますが、実際はなぁ…。みなさん、そもそも「国」を信用できます?


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2009年03月15日

最近見たもの考えたもの――@「不況っていったい…」

エンデの遺言―「根源からお金を問うこと」先日、ブログの管理人さんから「おもしろい動画がある」と紹介してもらったところ、その内容というのが『エンデの遺言』『エンデの警鐘』を扱ったものでした。エンデというのは「モモ」「はてしない物語」で有名なドイツの児童文学者のことです。

この両書をぼくは10年ほど前に読んでいました。で、「ああ、あの内容か。読んだことあるな」と思いつつ、いちおう動画を視聴してみるとめちゃくちゃ内容が面白い(読み返してみると、本もこれまた面白い)。二重の意味で、内容の面白さ&自分の読書体験の至らなさ、にびっくりしました。この本の面白さに気づかなかったのは、当時のぼくが「不況」の意味合いをよく理解していなかったか(いちおう大学で経済を勉強していました)、あるいは「不況」の意味するところを身にしみて感じていなかったからかもしれません。

ともかく両書は(あるいは「くだんの動画」。この動画はもともとNHKで放送されていたものをネット上にアップしたもので、そして両書はこの番組放送後に本のかたちにしてまとめられたものです)、現在の金融危機発の「不況」の根本原因を説明しているともいえるし、かなり内容が濃いと思います。

「お金=貨幣」がいったいどういうものであるのか。さらには、人類の発明した「お金=貨幣」というものには、どういうデメリットが内在しているのかを解き明かしています。ぼくなどに「すごくエライ人だった!」と誉めそやされて、草葉の陰でエンデがどう思うのかわかりませんが、「あたりまえ=お金」のことを疑ってかかっていたエンデにはほんとに恐縮します…。

そこで、きょうから「@不況とは」「A利子率とは」「B地域通貨の可能性」と、これらはすべて「お金=貨幣」にまつわるテーマとなりますが、本書を読んでぼくなりに感じたことを3回にわけて紹介していきたいと思います。

きょうはその一回目、「不況」についてです。

現在はたいへんな不況に見舞われていますが、そもそも不況とはどういうものでしょうか? 実際に目にするものといえば、企業活動の停滞、失業者の増大、先行き不安、株価暴落による資産損失といったものがあげられます。いままさにそんな状況ですね。ところが、その背後にはどういうカラクリがあるのかといえば、ずばり「お金によるコミュニケーションの不全」がすべてを貫いているといえます。

よくよく考えてみると、去年の秋頃から全世界的に景気が後退局面に入り、たとえば日本では、2008年10月〜12月の間に経済成長率が年率換算で10%程度減少したらしいのですが、なにが10%減ることになったのでしょうか? 

この間、ヒトやモノが10%減るかといえばぜんぜんそんなことはありません。経済の原動力であるヒトやモノが、不況に際して減少するなんてことありえません。さらに、生産者的サイドから見れば、モノはあることはあるし、それを加工してあらたな富を築くことのできるヒトもいる。消費者サイドからみれば、不況に際してもモノやサービスをできることなら享受したいと考えているはずです。つまり不況下においても、両サイドとも経済活動を望んでさえいます。

モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 (岩波少年少女の本 37)そしてさきほどの疑問に戻りますが、10%減るのは、このヒトとヒト(=ヒトとモノ)の出会う機会だといえます。あるいはこうした出会いをつなぐお金のシステムになにか10%分だけ不具合が生じているともいえます。一方にモノやサービスを提供したいと思い、他方にそれを望んでいるヒトがいるのに、その出会いがなかなか思うようにいかないのが不況だといえるでしょう。

ここでさらに話を進めて、不況下における「お金=貨幣」について考えてみましょう。ここにおいて、現代貨幣制度の倒錯した側面があらわれています。結論からいえば、ヒトがお金をコントロールするどころか、ヒトはお金の奴隷に成り下がっていることがわかります(註1)。

このことを理解するのには、貨幣の機能に焦点をあてて説明してみるのがいいでしょう。
貨幣の機能とは大きくわけて三つあり、

@ 値の尺度
A モノやサービスの交換の媒介物
B 価値の保存

です。そもそも貨幣は、人間の営みにおいて最大の発見ともいえます。物々交換を前提にした社会では、モノやサービスのやり取りが制限されるため(自分が欲しいものを提供してくれる&自分の渡せるものを望んでくれるヒトに出会わないといけないからです)、経済活動がそれほど盛んにはなりません。ところがこうした三つの機能をもつ、貨幣の登場によって、モノやサービスのやりとりを活発に行うことのできる素地が整いました。

ところで、これらの機能はいずれも貨幣の本質を構成するものですが、そのうちのAに注目してください。ぼくらが普段目にするお金というのは「現金」、そしてこの現金をみていると、あんなモノを買ったりこんなモノが欲しいとか、またこのお金を働いていっぱい稼ぎたいものだとか、そのAの機能に意識が集中すると思います。ところが実際には、データによると2005年時点で、世界中に出回っているお金(マネーサプライ。現金のほかに預貯金、国債などがあります)1,400兆円のうち、現金はたった70兆円。つまり、おもに交換につかわれることに重きをおかれた現金は全体のたった5%にしかすぎないのです。もちろん現在の不況下においても、このパーセンテイジはそれほど変わりがないはずです。このことを知ったら、貨幣の誕生に立ち会った原始人はさぞ驚くことでしょう。そして、この数字の意味するところですが、人類は総体としてみれば「守銭奴」であり、つまりお金を「つかう」ためでなく「貯めるため」もっといえば「増やすため」に持ちたがる傾向にあることがよくわかります。

つまるところ、現代の貨幣とは、ヒトとヒトとのコミュニケーションを促す「Aモノやサービスの交換の媒介物」としての役割が十分機能しておらず、すべての富の源泉として(ある意味これは「錯覚」ともいえるのだが…)、その「B価値の保存」の機能に人々の意識が集中している状態にあるといえるでしょう。

今回はだいたい以上となります。 


註1*根本的には、「利子」の存在がこうした問題を引きおこす原因になるかと思いますが、この話は次回ということで。利子があるからこそ、銀行などを通じて企業にお金が集中し、企業がモノを生産することによって、結果的に人々はこれだけ豊かなモノ社会を享受できるようになったのはたしかで、これは利子のいい側面です。ただ、悪い側面もありまして、次回この問題に触れます。


【動画】「おかねの革命〜エンデの遺言」シリーズ 〜根源からお金を問う〜


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2009年03月13日

『‘ムッシュ’になった男』

“ムッシュ”になった男―吉田義男パリの1500日のっけからですが、まずは引用から。

「当たり前なんですけど、彼は球を速く投げたほうが速くアウトにできるんじゃないかといってるんです」
「野球もよう知らんくせして、ようそんなこといいよるな」
と吉田はいった。
「すいません。これがフランス人なんです。この国では、自分の意見を言えない者はバカ者だというふうに教育されてますんで、めんどくさいんです。ぼくもこっちにきたばかりの頃は、論理がきちんとしていないとテコでも動かないんで、面食らったもんでした。でも納得すればはやいですから、慣れるまでなんとか辛抱してください」
「ええか、球いうのは人間の走るスピードより何倍も速いんや。トスを速くしなくてもダブルプレーには十分な時間がある。それを、あせってセカンドに強い球を投げたら、タイミングだってとりにくいし、エラーをする確率が高くなるやろ。セカンドも走ってくるんやから。それで柔らかくトスせなあかんのや」
選手は大きくうなずき、笑顔をみせるとすぐにショートの位置に戻っていった。(同書、p60)

このくだりを読んだ瞬間、なんだかとても新鮮な気持ちになりました。ぼくもいちおうは「フランス文化」を学ぶほうの立場にあるので、どちらかというとフランスの文化や流儀はどうなっとるのかとか、そんなことが気になりがちです。ところが、いまWBCの話題でもちきり(?)の日本といえば野球の強豪国。野球は「日本の文化」といってもいいでしょうが、『‘ムッシュ’になった男』はそんな野球伝道師吉田義男のパリ1500日滞在期がドキュメンタリータッチで描かれています。

吉田義男さんがフランスに野球を教えにいったことがあるのは有名ですが、実際はどんな様子だったのかはほとんど伝えられていませんでした。ぼくも吉田さんは阪神の監督を辞めたあと、フランス政府(野球連盟とか)の要請とか、日本野球界による野球普及活動で、フランスに渡っていたのかと思っていましたが、さにあらず。なかば観光のつもりでパリ在住日本人の知人の要請でフランスに渡り、その後、現地の野球関係者と接触するうちにあれよあれよという間にフランスで野球を教えることになり、しかも滞在当初はまとまった給料が出たわけでもなく、ほとんど手弁当状態だったのだとか。まずは、パリのクラブチームのコーチを務めるところからフランスでのキャリアをスタートさせ、その後、順調に実績を残しつつナショナルチームの監督に就任したのだそうです。

ところで、この本はいろんな角度からみることができますね(1990年ころが舞台なので、現在状況は変わってるでしょうが)。フランスの野球事情――フランス国内最強クラブチームの選手で、山なりのボールでしかキャッチボールできないのがいるらしい…――、ヨーロッパの野球事情――先日、WBCでオランダがドミニカを下し、1次ラウンドを突破しましたが、ムッシュ吉田もオランダには散々痛い目にあっていたようです――、冒頭の引用で紹介したようなムッシュ吉田の直面した文化衝突(?)などなど。

ちなみに、ぼくの一番印象に残ったくだりが、

「これがヴァンセンヌの森ですねん」

登場人物のほとんどが関西人なんですが、関西弁とフランスのマッチングはなかなか素敵です…。


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2009年02月27日

単数と複数

ニホンジンにとって単数複数の概念自体はなくもないけど、これが文法的に重要な価値をもっているかといえば、それは希薄だといえるでしょう。たとえば「わたしは犬が好きです」という表現を英&仏語に変換すると

・I like dogs(英&米語)
・J’aime les chiens(仏語)

日語では犬は単数であるか複数であるかは、ほとんど重要な価値をもちません。「犬が好き」といえば「犬」が好きだということで、それだけのことです。ところが、ニホンジンからみれば、なんでこんなもんがついとるのかと不思議になってしまいますが、英&仏語ではわざわざ複数形をあらわすsがついている。これ、なんぞや?
 
どうも欧米人というのは、とある事物・名詞にたいして特定化、不特定化、ひとつか、それ以上か、という概念整理を暗黙裡におこなっているようです。つまり、日語の「犬が好き」という表現は、「犬」を一個の「集合」概念としてとらえて、ある意味では「犬という動物種が好き」といった感じになっているように思います。ところがI like dogs&J’aime les chiensというとき、犬をいったん複数化することによって1匹2匹3匹…n匹と具体的なイメージを与え、そしてこれらの「集合」としてのdogs& chiensを想起しているようです。強引に日語化すると「あの犬もこの犬も、犬はみんな好き」といった感じなんだろうか。

ちなみに、すくなくともフランス語では定冠詞がつくので、以上のような「複数の犬集合」という考え方でいいんだろうと思います。ただ英語では無冠詞になるのは、なんでなんだろうか。そもそもtheはthatに由来するそうですが、I like the dogsとなると限定的側面が強すぎて、たとえば「(だれかの飼っている)あの数匹の犬が好き」って感じになるのかな。

また、みなさんはポーランドのザメンホフが開発したエスペラント語というのをご存知でしょうか。ヨーロッパの言語を参照しつつ、人称による動詞活用や名詞の性など、文法的にややこしいものをとっぱらった、だれでも手軽に学べる人工言語のことですが、これにも名詞の単数と複数の区別はあるそうです。ザメンホフが、日本語には文法的にこの区別がないと知ったら、いったいどうしただろうか。

さらに、ぼくの高校時代、英語の先生が不可算名詞の説明するときに「チーズは数えられないでしょ。たとえば犬は1匹2匹と数えられるけど、チーズはそうじゃないですよね。だから不可算になる。だから不定冠詞のaや複数形のsがつかないんだ」みたいなニュアンスで教えてくれましたが、ぼくはかなり不信感をもちました。製品一個一個としては数えられるし、そもそも実際上チーズは一個に固まって存在しているのではなく、大なり小なりそれこそ食べこぼしのゴミくずのようになったチーズでさえ、やる気があるなら数えられるはずなのになぁと。その後、チーズというかcheeseは一個のまとまった製品などを考慮に入れれば可算名詞となり、たとえばI bought two cheesesといえることを知り、自分の考えはどうも間違ってなさそうだと推論。さらにその後、名詞の可算と不可算は客観的事実というより、話者(≒言語体系)の心象に依存するというという説明をみて、目から鱗がぽろぽろ落ちるように納得。つまるところ、英米人が「I love cheese.」というときの「cheese」は、日本語でいう「わたしはチーズが好き」というときに日本人のとらえる「チーズ」の数の数え方とおなじような心的状況をもっているのかなぁと。





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2009年02月14日

外国語と数

ある本でこんなエピソードが紹介されていました。留学先のアメリカで、周囲から秀才として一目置かれている中国人数学者(もちろん英語も堪能)が友人たちを前にして「じつは、計算をするときは中国語で考えないとうまくいかないんだ」と告白したそうです。計算というのは足し算引き算程度でもけっこう脳をつかうので、そのぶんある程度外国語に堪能であっても、「母国語」でもって計算処理をしてしまいがちなのだとか。当サイトを訪れる方のなかには、外国語に堪能な方もおおくおられると思いますが、みなさんはどうでしょうか?

さて、きょうから数回にわたって「外国語と数」というテーマで、日本語と外国語の「数」のとらえかたの違いを紹介したいと思います。ぼくもフランス語や英語を勉強してきて、国&言語によって「数」のとらえかたが全然違うもんだなぁと感じてきましたが――いい替えれば、いろんな現実世界の分類法があるんだなぁ、と――これからこういったエピソードを紹介していきたいと思います。

* 建物の階数
日本人にとって2階建ての建物というは…、当たり前ながら2階建ての建物のことですが、これが英&仏語では、

・the second floor—2番目の階(米語)
・the first floor—1番目の階(英語)
・le premier etage—1番目の階(仏語)

米語は日本語とおなじ。ところが英語&仏語では日&米でいう「2」階を「1」階ととらえている。ぼくは言語学者ではないので語源などの知識で説明できませんが、仏語の場合、Il est a l’etage「彼は2階にいる」という表現があり、さらにetageを仏仏辞典で調べてみると「建物の床と床の間の空間」とあるので、etageという単語は、複数階でもって作られた建物の存在&地面から離れた床と床の間にある空間の存在とを暗示していて、rez-de-chaussee(地上階=車道とおなじ目線の階)から数えてひとつ目の階をしてle premier etageといってるんじゃないかな。etageに関して仏人にとってみれば、どーんと複数階をもつ建物があってこれが地面から離れていくまず「1」番目の空間が「2」階になってるんじゃないかな。

ただ、米語&英語の場合はどうなのかな。floorには「床」って意味があるし、そもそも「建物の床と床の間の空間」というのなら英語ではstoryって単語があり、しかもこれでもたとえば「彼の事務所は2階にある」というのが表せて、で、この場合His office is on the second story… このあたり、いったいどうなっとるのだろうか。

さらに米語で「1階」が「2階」になった変化の経緯をぼくは知りませんが(「アメリカ人」のことだから、ground floorのgroundのような一般名詞を排除して、一番目、二番目…n番目の「床」というように序数詞だけですっきり表せるようにしたんじゃないかなぁ…)、ただ、米語ではこのほかにも「本家英語」の「数」を変えている例があります。

たとえば、billionという語は米語で「10億」そして古英語で「1兆」(米語→million100万×1000倍、英→million100万の2乗)、trillionは米語で「1兆」そして古英語で「100京」(米語→billion10億×1000倍、英→millionの3乗)。計算がうっとうしいのでほとんどの方が読み飛ばしたと思いますが、おもに英系移民の国である米式では、million=100万に「000(つまり1000倍)」をくわえてかたちで、billion&trillionをあらわそうとしました。すくなくともこの処理のほうが現実的です。イギリスでこの米式の意味がつかわれるようになったのは、さほど昔の話ではないらしいのですが、まぁ使い勝手がいいからでしょう。とにかく、よほど特殊なケースでなければ近世、中世において兆や京なんて桁をつかう機会なんかまずなかったと思います。漢字圏の「無量大数」みたいに宗教的言説でつかわれてたんじゃないかな。

いちおう以上を図示化してみると、

(米式)
1,000,000→100万(million)
1,000,000,000→10億(billion)
1,000,000,000,000→1兆(trillion)

(古英式)
1,000,000→100万(million)
1,000,000,000,000→1兆(billion)
1,000,000,000,000,000,000,→100京(trillion)

ところで、仏語でもbillion→1兆。trillion→100京。さらに、辞書で確認してみるとbillionは古くは「10億」だったのだとか…。もうなにがなんだか。

最後となりますが、ヨーロッパの他言語でも、さきにあげた英&仏式で階数を表示するらしく、これってヨーロッパ言語に共通した建物の階数のとらえかたなのかなぁ…。



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2009年01月07日

『人類が消えた世界』

本書を紹介するにあたって、まずこの動画をご覧ください。

人類が消えた世界ある日、人間が理由はともかく忽然と消えてしまったら地球の未来はどうなるだろうか。

たとえば自分たちの住む家は風雨にさらされ、蔦などの雑草に覆われ、シロアリに侵食されつつ崩壊。動画にもあるように、人間のつくった構造物は500年〜数千年後には、ほぼ跡形もないほど倒壊するといわれています。そのあとは「野生?(この時点で野生と呼べるのかな?)動物」の生活圏の一部をなすことになります。ただ人間の足跡が跡形もなく消え去るかといえばそうでもなく、たとえばタイヤなどの樹脂製品は自然分解=腐敗しにくいため、地球上に本来の目的を失ったまま存在しつづけます…。

とにかく、とても面白い本でした。タイトルが暗示している&以上紹介したように、当書は、たしかに人類が消え去った後の未来世界を予測している近未来SFノンフィクションとしても読めます。けれどもそれは全体のなかの一部にすぎません。その扱っている話題は多岐にわたります。最新の科学的知見に配慮しつつ、人類の誕生とそれに影響を与えたであろう地球生態系とをめぐる仮説。さらにその人類の誕生が今度は地球の生態系にいかなる影響を与えてきたのか。人類と切っても切り離せないその「発明物」(たとえば上記の樹脂製品であるタイヤやプラスチックなど)は人類がいなくなったときに自然界でどのように振舞うか。とどめの一撃として、当書巻頭でそのテーマを暗示するために用意された、地球環境そのものを支えている太陽が50億年後に膨張して地球を飲み込んでしまうイラスト。著者のA・ワイズマンのスタンスはあくまで&良くも悪くも傍観者的立場であり、人類にとって起こりうる&起こりえたであろう現実をいやが応でも徹底的に吟味し、そして人間的優しさに満ち溢れた視線でもって当書をしたためています。そしてそのぶん、巷に出回っているどの「地球と人間を考える書物」よりも説得力のある力作として仕上がっています。

ちなみに、いま現在の時点で人類がいなくなったら、地球の今後がどのようになるかが当書のオリジナルHPに掲載されていますが、これを抜粋しておきましょう:

2日後:ニューヨークの地下鉄網が水没。
7日後:原子炉が冷却システムのダウンにより溶解。
1年後:通りの舗道が凍結&氷融により侵食を受ける。
2~4年後:雑草が通りを覆いだす。
4年後:人口の構造物が凍結&氷融により崩れはじめる。
5年後:ニューヨークの大部分が焼失。
20年後:数多の河川や沼地がマンハッタンに形成。
100年後:ほぼすべての民家の屋根が崩壊し、建造物の荒廃を加速する。
500年後:旧ニューヨーク市街を密林が覆う。
5000年後:核弾頭の腐食により、放射性プルトニウム239が大気に放出。
15,000年後:石造物の崩壊。
10万年後:2酸化炭素排出量が産業革命以前に戻る。
1000万年後:銅像などが人間の痕跡をとどめている。
10億年後:人類のみたこともない生物の誕生・
50億年後:太陽の膨張により地球をふくむ内惑星が焼失。

人類にとって、いろんな視点を提供する本じゃないかなぁ。




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2008年12月12日

ザ・コーポレーション

ザ・コーポレーション [DVD]世界同時不況、金融危機、株安、雇用不安、格差社会と最近のニュースを見聞きしていると、やっぱり人類はいつまでたっても安定した幸せを手にすることはできないんだなぁとしみじみ実感してしまいますね。原始時代から比べればはるかに富も知識も有しているはずなのに——たとえば原始人に、いま現在の世界全体の食料備蓄量をみせつけたらぶったまげるんじゃないかな。邪馬台国の農民が、現代日本の一反当りの米の収穫量を知ったなら、農作業があほらしくなって鍬を投げだすかも——、現代社会はひとたび不況となれば大混乱にみまわれてしまいます。

とまぁ、不況は資本主義社会にとって必要悪ともいえるので(不況・好況は「個人・企業・政府」という3つの経済主体間の相互作用を通じて起こるもので、「悪名高き=慢性的プチ不況?を引きおこす」計画経済制度を採用するのでもなければ、景気循環を制御することはかなりむつかしい)、ある程度しかたないものかもしれませんが、ただ現代社会を見渡してみるとどうも釈然としない気分になりませんか? つまり、たとえば不況になった以上、現在のように企業がある程度の雇用削減などの対策をするのは当然だといえます。これをとやかくいうつもりはありません。けれどもそれを差し引いたところで最近企業の振る舞いについて、どうも納得できないニュースが目立つようになってきているように思われます。食品偽装、環境汚染、粉飾決算、社員の不当解雇等々。逐一、具体例は挙げませんが、ここ100年ほどの間に人類に爆発的な富をもたらしてきた企業は、それと同時に世界全体にとてつもない影響力をもつようになり、さらに同時にその不正行為が全世界的に悪影響を与える存在となっています。

では、企業とは現代人にとっていったいなんなのか? その問いに真っ向から取り組んでいるのが、きょう紹介する映画『The Corporation』です。

まずこの映画の特色といえるのは、企業=Corporationそのものにまっすぐ焦点をあわせていることです。従来のこの手のドキュメンタリー映画では、結局批判の矛先が企業の「経営者」に向けられがちですが、『The Corporation』では企業=Corporationを営利法人→法人→ヒトとみなし、このヒトとしての企業=Corporationがそもそもどういう性格をもっているのかについて、さまざまな立場のひとたちの意見を交えながら綿密に検証しています。

この映画ではThe Corporationにたいして精神分析を行い、以下のようにその人格を定義しています。

1)他人への思いやりがない
2)人間関係を維持できない
3)他人への配慮に無関心
4)利益のために嘘を続ける
5)罪の意識がない
6)社会規範や法に従えない

もしこれがほんものの人間だったら、ぜったい友達になりたくありませんね。たとえばThe Corporationと友人関係を結んだとしましょう。The Corporationとうまく利益を共有できている場合、関係は良好です。ところがうまくいかなくなると、すぐさまポイです。そしてここが注意すべき点かもしれませんが、経営者にとってもそれはおなじことです。つまり経営者とはThe Corporationの取り巻きみたいなものでしょうが、彼らとて経営に失敗して利益をだせなくなれば、The Corporationからポイされてしまいます。企業問題等においてとかく非難されがちな経営陣にしたところで(政府から経済支援をえるために、プライヴェートジェットで陳情におもむくあほみたいな企業経営者たちは救いようがありませんが)、つねにThe Corporationからポイされるのではないかと戦々恐々としているという意味で、かならずしもThe Corporationの同胞=親友というわけではないのですね。

あるいは、いま現在の不況のさなかにおいて、The Corporationの非情さが露骨にあらわれているといえるかもしれませんね。The Corporationというヒトは、ぼくら一介の労働者であろうが経営者であろうが政治家であろうが、利益を生みだせなくなった人類にたいして冷たい態度をとりはじめ、いまぼくら人間を悩ませているといってもいいんじゃないでしょうか。

まったく、人類はやっかいなヒトを抱えこんでしまいましたね…。


ザ・コーポレーション [DVD]
アップリンク (2006-06-23)
売り上げランキング: 5836
おすすめ度の平均: 4.0
3 興味深い映画だった
3 解決策など見当たらない問題です
3 企業活動の光と影
3 知らず知らず広告に踊らされる私たち。
4 本を読んでもいいけれど、
内容は十分目を覚まさせるもの。




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2007年11月19日

フランスの野球用語&プチ野球解説

2007.11.19baseball.jpgさてさて、前回のエントリーで紹介したとおり、きょうはフランス語の野球用語の紹介となります。まずは日仏野球用語の対応表を示し、それにコメントをつけるというかたちで以下説明していきましょう。

*ポジション
Lanceur:投手
Receveur:捕手
Premier but:一塁手
Deuxième but:二塁手
Troisième but:三塁手
Arrêt-court:遊撃手
Voltigeur de gauche:左翼手
Voltigeur de centre:中堅手
Voltigeur de droite:右翼手

→実際のところこれ以外の呼称もあるようですが(Voltigeur de gauche→Champ gauche 、ウィキペディアによるとフランス語の野球のポジションはこのようになっていました。ちなみにVoltigeurというのは単語自体知らなかったので辞書で調べてみると「曲芸師」「警察のオートバイ部隊」とあり、外野を縦横無尽に走り回る姿からこの命名となったんでしょうかね? 

またArret-courtってのは英語のShort-stopからそのまま直訳したのでしょうが、ところでなぜこのポジションがShort-stop&遊撃手という名なのかご存じですか?野球ができた当初、内野の一塁手〜三塁手はそれぞれ対応するベースに張りつくように守っていて、つまり一塁手&三塁手はいまとほぼおなじ位置、そして二塁手はセカンドベースの周辺を守っていました。ところがおなじ内野のShort-stop&遊撃手ってのは特定の位置を受けもたず、状況に応じてファースト方向やサード方向に寄ったりと守備位置を切り替え、しかもバッターからみてピッチャーとほかの内野手の中間に位置することがおおかったそうです。そのためShort-stopという呼称が与えられたそうです。

日本で「遊撃手」という呼び名が発明されたのが19世紀末といわれてますが、おそらく日本でもそのころまで、Short-stop&遊撃手はさきに説明したような役割を期待されたポジションだったんでしょうね。大リーグでも日本のプロ野球でも現在Short-stop&遊撃手は一番守備能力の高い選手が守る花形ポジションですが、あらためて意識すると日本語の「遊撃手」っていうのはネーミングもなかなかかっこいいですよね。


*球種
la rapide:速球
la fourchette:フォークボール
la balle fronde:スプリットフィンガー
la courbe:カーブ
la glissante:スライダー
le changement de vitesse:チェンジアップ
la balle papillon:ナックル

→実際の球筋から判断してだいたい妥当な命名だと思いますが、まず意味不明なのがla balle fronde&スプリットフィンガー。英語名ではSplit-fingered fastballといい、人差し指と中指を速球のときより少し広げて握り、高速で微妙に落下する球種です。「高速フォーク」といったほうが直感的に理解できるかもしれませんね。で、なぜこれがフランス語ではfrondeボールなのか? fronde=投石機の石の弾道がこれに近いんだろうか? 

そしてベタなのが、le changement de vitesse&チェンジアップ。日本では比較的新しい球種なので、古い野球ファンでチェンジアップがよくわからないというひとがいますが、これはボールを鷲づかみにして速球とおなじフォームで投げる球種です。この握りのおかげで速球よりも2~30q/hほど球速が落ちるため、ピッチャーの投球フォームをみて速球がくると思ったバッターはタイミングを狂わされます。で、le changement de vitesseというのはこの内容をモロ説明しているわけですが、なんだか冗長でまどろっこしい。シャンジュマン・ドゥ・ヴィテッスって・・・。

秀逸なのがla balle papillon&ナックルボール。ナックルってのは極力ボールに回転をかけないようにしながら投げる球種のことで、回転がないぶん空気抵抗&風の影響を受けて投げた本人でさえどう変化するかわかりません。ふらふら〜っと揺れる挙動不審なボールです。これをして「papillon=蝶々」ボールというんですから、なんとも優雅ですね。

baseball2007.11.19b.jpg(ちなみに、このナックルボールってのは様々なフランスのインターネットサイトで紹介されているのですが(たとえばここhttp://www.ffbsc.org/imgs/docu/BB.swfでも)、これってフランスで野球が浸透しきってないことの証になるんじゃないかなと思うのですが、どうなのかな・・・? というのもナックルボールは投げる側も打つ側も予測不能なぶん「魔球」扱いの球種といわれているのですが、コントロールが難しい&ある程度の球速がないとただのスローボールと大差ない(以上つまり習得がかなり難しい)、さらに球速が遅いためランナーに盗塁されやすいなどの理由から、たとえば日本では小中高校の段階ではこのボールを投げることすら禁ずる指導者がほとんどで、実際日米のプロ野球選手でもナックルボールを自在に操る投手は歴史的にみてもごくわずかです。そんな実用性のない技術を大々的に紹介しているのを目にすると、フランスは野球ではまだまだおのぼりさんだなという気がしますね・・・。

さらにフランスの野球地域リーグの試合画像をみると、キャッチャーがミットに右手をそえてピッチャーのボールをキャッチしてました。ボールの衝撃を抑えるためにやっているのでしょうが、少なくとも日本ではファウルチップなどで右指を突き指する危険性があるし動きも鈍くなるので、右腕は体の後ろにそえて(ワンバウンドしたはねる暴投を押さえるとき以外は)片手でキャッチするように指導されます(メジャーリーグのキャッチャーもほとんどそうなので、たぶんアメリカでもおなじように指導されているのでしょう)。それを思えば、危なっかしいというかなんというか、フランスの野球はまだまだ基本的なことを吸収すべき黎明期にあるといわざるをえませんね・・・。




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posted by superlight at 22:38| パリ 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | SUPER LIGHT REVIEW | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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