2010年06月27日

DIMITRI FROM PARIS

世界を飛び回るフランスの人気DJ、Dimitri From Paris。7月に来日するということで情報を加筆して再アップ。今回は、70年代フィリー・ディスコ・サウンドへのオマージュを込めた「Get Down With the Philly Sound」リリースパーティとして来日(7月10日に代官山 AIR でプレイ)。

まずは彼の歴史をさかのぼって、Sacré français のPV を見てみよう。

−Vous dansez, mademoiselle?  お嬢さん、踊りませんか?
−Sacré français!  変なフランス人!
−Je ne suis pas celle que vous croyez!  私はあなたが思っているような女じゃないわ



マドモワゼルを追いかけるのは、ベレー帽にボーダーシャツの男。フレンチカジュアルの定番だ。ボーダーシャツは、セイント・ジェームスとかアニエス・ベーを思い出させるアイテム。ちょび髭のストーカー男はどうやらディミトリ本人のようだ。マドモワゼルはパリじゅうを逃げ回り、それがパリの名所巡りみたいになっている。切り絵のようなかわいいアニメーションだ。

この曲はファースト・アルバム「Sacré Bleu」に収録されているが、オリジナルのジャケットはマドモワゼル&変なフランス人がフィーチャーされたデザイン。一方、日本盤のジャケ(サクラ・ブルーと日本盤では書かれているがサクレ・ブルーが正しい)は日本のアニメ・ロボット風のデザインになっている。

ディミトリは日本フリーク、とりわけアニメのスーパーロボットのコレクターとしても名を知られている。「UFOロボ・グレンダイザー」がフランスのテレビに登場した時、ディミトリ少年はその美学、色彩、グラフィックに釘付けになった。その後、パリで偶然見つけたマジンガーZのロボットはフランスでは放映されておらず、「一体どんな話なんだ?」と想像を掻き立てられた。やはり70年代製のロボットが面白いようで、ガンダムに代表される第二世代のリアルタイプは洗練されているが、グラフィックとしてはつまらないと言う。彼の部屋には3Dのウルトラマンの絵が額に入れて飾られ、棚にはロボットと超合金があふれ、アニメソングのコレクションの充実ぶりも凄い(彼の部屋の様子は、BRUTUS・2000年9月1日号を参照、少し古いが)

もともとグラフィックに興味があり、日本のアニメのロボットを集め始めたのもそれが理由だった。下にリンクを張った Une very stylish fille (=A very stylish girl)のビデオクリップも広告のポスターに動きを与えているようなグラフィック仕立てで、グラフィック・マニアならではのセンスを感じる。まさに、Very stylish!

Cruising AttitudeSacré Bleu に続く、2003年に出た2枚目のオリジナルアルバム「クルージング・アティテュード」は相変わらずラウンジーなフレンチハウスだが、元ピチカート・ファイブの野宮真貴が「メルモちゃん」(9.Merumo)を歌い、水木一郎をフィーチャーした「マジンガーZ」のカバー曲(13. Bokura No Mazinger Z) [Black Version]も収録されている。

また2004年には自分オのヒット曲 Love Love Mode のセルフパロディとして、声優の声をサンプリングした「Neko Mimi Mode」を、アニメ「月詠」の主題歌として提供。「萌え系ラウンジ」と呼ばれているらしい(笑)。超オシャレなフランス的なセンスと、どっぷりジャポネな萌えのセンスが同居する稀有なキャラだ。

★PV from Youtube
Dimitri From Paris / Une very stylish fille
Dimitri From Paris / Bokura Mazinger Z

★ALBUMS
Sacré Bleu
Cruising Attitude

「月詠-MOON PHASE-」BEST COLLECTION

★Dimitri From Paris 公式サイト
http://www.jvcmusic.co.jp/dimitrifromparis/


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2010年06月03日

わたし、"フランス"が好き/興味がある。

Twitter で話題になっていた SONY VAIO の COMING-OUT NOW!! 「わたし、"○○"が好き/興味がある」にキーワードを打ち込むと、音楽とともに関連する言葉の嵐が巻き起こる。私も「フランス」と打ち込んでみた。COMING-OUT でも何でもないけど。

http://coming-out.sony.jp/?s_tc=jp_ad_vaio006_I_01_0001#/play?id=iaHXk4CTBiSW2ba6Rh4_9Q

世界史で習ったピピンとかメロヴィング朝とか、目に入ったタームを140字で説明してみたりするのも楽しい。このグラフィックの嵐に対抗するには相当な動体視力が必要だが。



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2010年05月23日

ジャン=リュック・ゴダール、最新インタビュー

挑発的で親密なインタビューのためにゴダールは私たちをスイスの自宅に招いてくれた。ロール Rolle にようこそ。ロールは世界の中心という場所ではない。ジュネーブから40キロ離れ、レマン湖に面した少々陰鬱な街に過ぎない。しかし税金逃れをしたい億万長者にとっての楽園でもある。私たちをジュネーブ駅で拾ってくれた愛想のいいタクシー運転手は、ほとんど税金を払っていない人々の地理を知り尽くしている。「あの丘のふもとの家はミヒャエル・シュマッハー(レーサー)の家です。そこにはピーター・ユスティノフ(作家)が住んでいて、向こうにはフィル・コリンズ(ミュージシャン)…」

「じゃ、ゴダールは?」と尋ねると運転手は答えた。「あるとき一人の日本人が私の車に乗り込んできました。そしてわたしにゴダールさんはどこに住んでいるのかと尋ねました。私は知っていると言い、彼をそこへ連れていきました。彼はちょっと待っていてくださいと言って、ゴダールの家の写真を3枚撮りました。そして駅に戻りました。ゴダールさんは日本にまで知れ渡っているんですよ」。

フランスに住民票があるので、ゴダールはそこで税金を払っている。彼はスイスで生活しているが、彼はそこで生まれたからだ。そこにあるいくつかの風景なしではいられないと言っている。いつも彼とのインタビューではそうなのだが、背景がパノラミックなのだ。4時間のあいだ、6つのスクリーンと彼が引用するVHSやDVDが詰まった棚のある仕事場のすぐ隣の、ちょっと雑然としているが、とても機能的なオフィスでインタビューは行われた。そこで私たちは歴史や、政治や、ギリシャや、知的所有権や、もちろん映画について話した。さらにはもっとプライベートな事柄、例えば健康とか死について。



インタビュア:なぜ、’Film Socialisme’ というタイトルなんですか。
ゴダール:私は前もってタイトルを決めます。タイトルが私が撮る映画の指標になります。映画のどんなアイデアにも先んじてまずタイトルがあります。それは音楽のラ(A)のようなものです。わたしはタイトル(titre)のリストをまるごと持っています。ちょうど貴族の称号(titres de noblesse)や有価証券(titres de banque)のように。今はむしろ有価証券ですね。私は「Socialisme」というタイトルで撮り始めました。撮影が進むに連れてそれは満足できるものではないように思えてきました。映画はコミュニスムやキャピタリスムと呼ばれてよいものでした。ところがある面白い偶然が起こりました。私がプレゼン用の小冊子を哲学者のジャン=ポール・キュルニエに送り、彼がそれを読んだときのことでした。それには制作会社の Vega Film の名前がついていて(※つまり Vega Film Socialisme と書かれてた) 、彼は映画のタイトルを Film Socialisme と勘違いしたのでした。彼は10枚以上もある長い手紙で、それがどれだけ彼の気に入ったかを書いてよこしました。私は彼が正しいに違いないと思い、映画のタイトルをそれに決めました。

インタビュア:地中海やホメロスのクルージングのアイデアはどこから来たのですか?
ゴダール:最初私はセルビアで起こるような別の歴史のことを考えていました。しかしうまくいきませんでした。そのとき私にガレージの中の家族というアイデアが浮かびました。マルタン一家です。しかしそれはロングショットでは持ちませんでした。ロングショットで撮れていたら、人々は登場人物になっていただろうし、そこで起こっていることも物語になったことでしょうから。対話や心理によって作られるフランス映画のような、ひとりの母親と彼女の子供たちの物語です。

インタビュア:その家族のメンバーは、普通のフィクションの人物たちとほとんど同じで、あなたの映画らしくありませんでした。
ゴダール:おそらくそうでしょう。しかしながら全くそうというわけではありません。彼らは登場人物になる前にシーンが中断します。彼らはむしろ彫像です。話す彫像です。人が彫像について話すときに、それは昔のものだと言います。そして人が昔というとき、旅に出かけ、地中海に船で乗り出します。クルージングのアイデアはそこから来ています。私は今世紀始めの論客レオン・ドーデの、『シェークスピアの旅』という本を読みました。彼はその本の中で若いシェークスピアの地中海の船旅の行程を追っています。シェークスピア自身はそれについて何も書いていませんが。

インタビュア:例えばアドピ法(La loi Hadopi)、つまりは違法ダウンロードの問題、イメージの所有権についてはどうですか。
ゴダール:私はもちろんアドピ法に反対です。知的所有権など存在しません。私は相続にも反対です。つまりアーティストの子供が彼らの親の作品の著作権の恩恵をうけることです。子供が成人するまではいいと思いますが、ラヴェルの子供たちが「ボレロ」の権利にタッチするのは当然のことではないと思います。

インタビュア:あなたの映画からイメージを拝借するアーティストに見返りを要求しないのですか。
ゴダール:もちろんしません。さらにそうしたあげくにネット上で公開する人々もいるでしょうが、一般的には良くないことです。しかし私は彼らが私から何かを取っているという感情は持ちません。私はインターネットを使っていませんが、連れのアンヌ=マリーは使っています。しかし二匹の猫のイメージ(※予告編にも一瞬出てくる)のように、私の映画にもインターネットから取ったものがあります。

インタビュア:あなたの映画は FilmoTV を介してネット上で見れます。映画館での上映と同時に。
ゴダール:それは私のアイデアではありません。予告編を作ったとき、私はそれを Youtube に流すことを提案しました。ネット配信は配給会社のアイデアです。彼らは映画にお金を出しているので、わたしは彼らの要求どおりにしました。もしそれが私の決定だったら、そんな形で劇場公開しなかったでしょう。映画を撮るのに4年かかりました。製作に関しては異例です。私はそれを Battaggia、Arragno、Grivas と一緒に4人で撮りました。それぞれが独自に始めてイメージを集めました。グリヴァスはひとりでエジプトに出かけ、何時間分ものフィルムを持ち帰りました。私たちは多くの時間を費やしました。私は映画の配給に関しては映画を作るのにかかった時間と同じ分だけ収益を得たいと思っています。

インタビュア:映画の最後から2番目の引用に、「法が不当なものであれば、正義は法に先立つ」というのがありました。
ゴダール:これは著作権に関することです。すべてのDVDは違法コピーを禁じるFBIの警告から始まります。しかしそのフレーズから別のことを知ることもできます。例えばローマン・ポランスキー Roman Polanski の逮捕を思い出すでしょう。

インタビュア:ポランスキーの逮捕があなたの国スイスで起こったという事実があなたには重要なのですか。
ゴダール:私はスイス人でも通るし、フランスに住民登録していて、税金も払っています。スイスには私が好きな、私にはなくてはならないいくつかの風景があります。私のルーツもここにあります。しかし政治的には多くのことにショックを受けています。ポランスキーに関して言えば、スイスはアメリカに従う必要はありませんでした。もっと議論すべきで、受け入れるべきではありませんでした。カンヌに行くすべての映画関係者はポランスキーのために動くべきす。スイスの裁判所は間違っていると主張して欲しかった。ジャファール・パナヒ Jafar Panahi を支持するためにそうしたように。イラン政府は悪い政府と言うようにスイスの政府もよくないと。

インタビュア:ギリシャの危機もあなたの映画に強く反響してますね。
ゴダール:私たちはギリシャに感謝しなければならないでしょう。ギリシャに対して借りがあるのは西洋です。哲学、民主制、悲劇。私たちは悲劇と民主制の関係を忘れがちです。ソフォクレスがなければ、ペリクレスもありません。私たちが生きているテクノロジーの世界はすべてをギリシャに負っています。論理学を考えたのは誰でしょう。アリストテレスです。これがこうで、それがそうなら、こうだ。これが論理というものです。これは強国がとりわけ矛盾を生じないように、ひとつの論理の中にとどまれるように、一日中使っている手です。ハンナ・アーレントがまさに言ったようにロジックが全体主義を生むのです。ギリシャのおかげで今みんながお金を稼げているのですから、ギリシャは巨額の著作権料を現代の世界に要求することができるでしょう。ギリシャにお金を払うことはロジックになかうでしょう。すぐに払うことです。

インタビュア:ギリシャは嘘つきと非難されています。
ゴダール:小学校で習った古い3段論法を思い出します。エパミノンダスは嘘つきだ。ところでギリシャ人はすべて嘘つきだ。したがってエパミノンダスはギリシャ人だ。人はあまり進歩していないですね。

☆Les InRocks.com に掲載されたジャン=リュック・ゴダールのインタビュー "Le droit d’auteur ? Un auteur n’a que des devoirs"(著作権だって?作家には義務しかない)を部分的に訳出してみました。ロメールに言及した箇所もあったのですが、残りは時間があったら。

"Le droit d’auteur ? Un auteur n’a que des devoirs"
Un entretien avec Jean-Luc Godard
Les InRocks.com
18 mai 2010



☆”Film socialisme”は今年のカンヌ映画祭の「ある視点 Un Certain Regard」部門に出品されたが、5月17日と18日の2日間、映画館での封切りに先駆けて、そしてカンヌ映画祭と同じ日にVOD(=Video On Demand)で配信された。
http://www.filmotv.fr/



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2010年05月17日

ユーロ危機が浮き彫りにするアリとキリギリス

新聞や雑誌に「ユーロ=欧州崩壊」という見出しが躍る今日この頃であるが、ギリシャ危機をめぐるニュースで先週最も注目されたのは、スペインの新聞が報じたサルコジ大統領のユーロ圏離脱発言だった。サルコジ仏大統領は、ギリシャ支援を協議した7日の欧州首脳会合で、欧州全体が支援に関わらなければフランスはユーロ圏から離脱すると発言し、支援合意に消極的だったメルケル独首相にプレッシャーをかけ、支援を決断させたという。

ドイツでは国民の大多数がギリシャ支援に反対していて、「ギリシャ人は無人島を売って債務返済に充てろ」とか「アクロポリス神殿も売ってしまえ」とか言う与党国会議員の発言も飛び出している。欧州最大の黒字国であるドイツは、赤字国は規律回復を通じて国際収支を調整すべきだと考えている。ドイツの黒字は血のにじむような企業努力によって国際競争力をつけた結果であり、対独赤字が累積するのを嫌がる国はドイツと同じくらいの努力をすべきで、ドイツに対して輸出を減らして内需振興に励めと言うのは本末転倒というわけだ。

しかしその議論をユーロ圏内で行うと通貨切り下げという選択肢は消えるし、ギリシャのような加盟国が経常赤字縮小のために緊縮財政を敷くことは相当な社会的コストを伴う。ドイツにしてみれば、そのコストに耐えられない国はユーロから脱退すべきで、フリーライドは許されないと。そしてドイツは欧州のメンツや利益よりも自国の利益を優先してIMFを引き込んだ。

一方、フランスのサルコジ大統領はドイツとは全く逆にEUに財政規律の緩和を求め、さらに ECB にユーロ高を容認していると公然と批判してきた。ドイツが憲法改正でさらに厳格な財政規律を課した同じ時期に、フランスは景気対策を優先して財政支出する方針を打ち出し、EU の2大国のコントラストが鮮明になった。

このようにドイツは EU の優等生として発言力も増しているわけだが、実際、世界的に失業率が増加する中、ドイツの失業者数は当初の予想を大幅に上回る320万人にとどまっている。基幹産業の受注が落ち込み、先進国の中でも特に金融危機の影響を強く受けたはずだが、失業率は前年に比べて0.5%上昇したにすぎない。フランスやスペイン、アメリカと比べるとその差は歴然としている。なぜドイツの労働市場は痛手を受けていないのか。

それは柔軟な労働時間の設定が失業率の増加に歯止めをかけているからである。ドイツには労働組合、経営協議委員会、企業のトップが合意して取り決める「労働時間口座」、そして従業員を解雇する代わりに労働時間を短縮する「時短勤務のシステム」がある。この制度を導入している企業では好況期に超過勤務をした場合、従業員は残業代を受け取らず、その分の労働時間を口座にためておく。不況で時短勤務になった際に口座に蓄えておいた労働時間を使えば、好況期とほぼ同額の給料をもらえるという仕組みになっている。たとえば「ダイムラーでは2009年のトラック部門の販売台数が09年に比べて半減したものの、この制度を利用して早くから危機に備えていたおかげで、ドイツ国内ではひとりも解雇せずにすんだ。このように好況時と不況時の労働時間を柔軟に設定する制度が整った国はあまり多くない。フランスなどは企業内に対立する労働組合が複数存在して、労働時間を変更しようとすると反対する組合が出たりして企業側が結局解雇という選択肢しか取れなくなることがある。

フランスも雇用の増大を目的に週39時間労働を35時間に短縮したが、フランスの時短はドイツのように不況時のクッションとなるような柔軟な制度ではなかった。ちょっと古い英「インデペンデント」誌の去年の12月の記事だが、35時間労働制がいかにフランス人を怠け者にしてしまったかを伝えている。こういう論調は何かギリシャの現実と重なり合うものがある。用意周到に史上最大の金融危機を乗り切ったドイツと比べると、アリとキリギリスというか、北と南というか、非常に対照的で、気質的に相容れないように見える。

昼食はゆっくりとる。家に帰る前にカフェでアペリティフを一杯ひっかける。クリスマスの買い物も週末にあわててする必要がない。35時間労働制はこのような優雅なフレンチライフを演出し、保証してきた。早朝から満員電車に乗り、夜遅くまで残業をする日本人にとっては考えられない制度だ。しかし、制定から10年以上たった現在、厳しい批判にさらされている。サルコジ大統領は、「もっと働き、もっと稼ごう」を大統領選のスローガンにしていたが、この制度を「歴史的な過ち」"historic error" としてこきおろしていた。社会党の党首として法制定を進めたリヨネル・ジョスパンさえも、「経済的な失策」"economic error" と認めざるを得なかった。この制度は雇用を生み出さなかっただけでなく、仕事の効率を下げ、国際競争にもマイナスに働いた。週35時間制は雇用の増大が目的だったが、調査機関によると、97年から02年のあいだに生み出された35万人の雇用は経済成長によるもので、時間短縮のおかげではなかった。

国家予算の面でもフランスは余暇を満喫したツケを払わされている。02年度に比べて09年度の歳入は150億ユーロも減少。労働時間短縮のせいで企業の人件費は10%もふくらみ、そのせいで法人税が減った。07年の大統領就任直後、サルコジ大統領は35時間制度の改革に着手した。残業分の人件費に対する減税措置を講じ、労使ともに残業がより経済的に見合うようにした。それでも従業員が10人以上のフランス企業の週平均の労働時間は35.6時間。従業員の10%しか38時間を越えて働くことはなかった。フランス人の1年の労働時間は1542時間。これはアメリカ人よりも250時間も少なく、イギリス人よりも111時間少ない。短い労働時間に慣れてしまったフランス人に「もっと働こう」と言っても聞き入れるはずがなく、ましてや失業率が10%に上昇した経済危機に遭遇しながら仕事を死守した人たちにとって、そういうことが魅力的に思えるはずがないだろう。

★ところでイソップ童話の「アリとキリギリス」の物語はギリシアで編纂された原話では「アリとセミ」だった(ギリシャ人はやはり気質的にはキリギリスなのだろうか)。緯度の高いヨーロッパでは、地中海沿岸を除き、セミは生息しておらず、物語が伝播する過程において、北方でも生息する「キリギリス」に置き換えられた。ちなみにフランスでは「アリとキリギリス」の物語は、原話の通り「アリとセミ」の物語。ラ・フォンテーヌの寓話集に収められており、フランスでもよく知られている物語のようだ。

France paying the price for 'historic error' of 35-hour week
Geneviève Roberts
15 December 2009




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ラベル:ユーロ ギリシャ
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2010年05月09日

GW も富山に シクロシティ&セントラム

やはり富山のバイクシェアリング・システムはパリのヴェリブそのものだった。ヴェリブの富山版を運営するのはシクロシティ社だが、それはパリで「ヴェリブ vélib 」を運営するフランス、ジェーシードゥコー JC Decaux 社の子会社だった。写真(↓)はセントラムの停留所。背後にレンタル自転車の列が見える。

centram04.JPG

パリの「ヴェリブ」など、バイクシェアリング・システムはヨーロッパを中心に普及が進んでいる。日本では社会実験としての取組みを始めた都市がいくつかあるようだが、本格的に導入されるのは富山市が初めて。利用者は事前に登録を済ませ、市内中心部15箇所にに設置された「ステーション」から自由に自転車を利用し、また任意のステーションに返却することができる。「自転車市民共同利用システム」や「大規模レンタサイクル」、「コミュニティサイクル」とも呼ばれ、環境にやさしい自転車による公共交通として、注目を集めている。

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今回はちょうど建築家の隈研吾がデザインしたセントラム(↑)が走っていた。「富山芸術環状線 ART GO ROUND」というイベントが5月21日(金)〜23日(日)に行われ、デザインはその一環らしい。停留所にもそのポスターが貼られていた。でも車体にゴチャゴチャと余計なものを描かない方が良い気がする。桜の花のデザインのようにシンプルなものは良いが。

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GW から市内電車の1系統(南富山駅前−富山駅前)を新しい電車、サントラム santram (↑)が走り始めた。既存車輌の老朽化に伴い1編成を導入。価格は約2億4500万円で、4分の3を国と県、富山市が補助した。全長約16メートル。3車体を二つの台車で支える「3連接構造」を採用。3両連結に見えるが、中間の車体には車輪がなく、その分だけ床を低くでき、高齢者や車椅子利用者にも使いやすい。

【動画】シクロシティ ステーションから自転車を利用




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2010年05月07日

ゴダールの新作 ”Film socialisme”がネットで配信!

ジャンリュック・ゴダール Jean-Luc Godard の長編新作 ”Film socialisme” が5月17日と18日の2日間、映画館での封切りに先駆けて、そしてカンヌ映画祭と同じ日にVOD(=Video On Demand)で視聴できる。

ゴダールの新作はカンヌ映画祭の「ある視点 Un Certain Regard」部門に出品されるが、それと同じ日に Filmo TV のサイトで試写会に参加できるのだ。19日の一般公開を前にである。



すでに映画祭に出品され、上映されている有名な映画監督の作品が通常の試写会とは別枠でネット上で配信されるのは初めてのこと。この企画は配給会社 Wild Bunch と2009年に設立された Wild Bunch のプラットフォームである Filmo TV の編集者たちによって進められた。ゴダールはこのやり方にすぐに興味を示した。そして新しい映画の配信方法を推し進め、インターネットよりもシネマテークに慣れている映画通の聴衆層を拡大することを狙っているという。

新作 "Film socialisme" は3章から成り、3楽章構成の交響曲のようである。それは多様なコンテクストの中でのいくつかの政治的、精神的な価値の意味について問うている。すでに4月22日に予告編が発表されているが、クイックモーションと音楽で構成され、作品とは別物である。いくつかの地上と海の風景、顔、身体が性急に動くのをとても簡潔に読みとることができる。これはWEB2.0のコミュニケーションなのだろうか。

Filmo TV では今月、ゴダールの回顧配信もやっている。「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」「軽蔑」「アルファヴィル」などのメジャーな作品を配信している。VOD は知的で映画狂の媒体としてその地位を確立するだろう。

http://www.filmotv.fr/





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2010年05月04日

新卒偏重採用のワケ

就活状況をメールしてくれる学生がいて、ようやくひとつ内々定をもらったとメールが来た(FAを狙っていたようだが、いきなりJALが経営危機に)。何だか自分のことのように嬉しかった。それほど彼女のメールからは悪戦苦闘を強いられる就活の厳しさがひしひしと伝わってきていた。

4月28日付の朝日新聞のコラムで小林慶一郎氏(経済産業研究所上席研究員)がなぜ企業の新卒偏重の採用がなぜなくならないかについて書いていた。

あるアメリカ人経済学者が、日本社会はふたつの階級(正社員と非正社員)に分断されつつあると警鐘を鳴らしている。日本で望まれるべき良い方向とは、画一的な正社員システムをもっと多様な働き方を認めるように変えること。正社員、非正社員の区別なく、広い雇用者層でワークシェアリングする。雇用の全体量を守るとともに、賃金の低下を広く浅くシェアして、不況の痛みを社会全体に公平に受け止める方向である。企業も労働分配率を上げるように努力する。これはワーク・ライフ・バランスの考え方とも一致するし、多様な価値観を実現することにもつながる。

しかし日本の現実は全く逆を向いている。企業の成長が見込めない中で、正社員の処遇や雇用条件を維持するために正社員の数を減らし、大量の非正社員を調整弁として雇用するという方向だ。経営者と正社員が多くの果実を取り、非正社員は景気が悪いときに切り捨てられる。

このような状況では新卒時のシュウカツが人生をかけた熾烈な競争になるのは当然だし、学生たちはまだ世の中のことが良くわからないうちに人生の唯一の切り札を切らされる。それにしてもなぜ日本の企業は新卒の正社員にこだわるのか。なぜ新卒時という一点だけに選択圧力が集中するのか謎だし、それが経済的な合理性にかなうとはどうしても思えない。それに対して小林氏はひとつの答えを示していた。昔は社内教育でその企業にあった人材を育てたので、新卒採用に意味があった。しかし今は社員教育にコストをかける余裕はないので企業は即戦力を雇いたいはずである。しかしそうならないのは日本の企業が「囚人のジレンマ」に陥っているからだという。相手が裏切るなら、自分も裏切らざるをえないという状況である。

つまりこういうことだ。企業が新卒採用で人材を囲い込む社会では優秀な人材は転職市場に出てこない。すると企業は「転職者よりも新卒者を雇う方が、能力があり適性にあった労働者に当たる」と思い込む。そのために新卒採用で社員を雇うことが企業にとって合理的な選択になり、中途採用はますます締め出される。つまり他の企業が新卒を囲い込む社会では自社も新卒にこだわるのが合理的な行動になる。結果的に、優秀だからこそ会社を飛び出した人材が正当に評価されなくなってしまう。逆に言えば、もし他の企業が新卒採用にこだわらないなら、自社も新卒採用にこだわらなくなる。ジレンマから解放されるのである。そういう方向に日本社会を持っていく必要があると小林氏は主張する。

そのためには企業が経済団体などを通じて就職協定を結び、学生を奪い合うのではなく、オープンで公正なルールにしたがってインターンとして雇い、適正をじっくりと見極める仕組みが作るのが良い。それに加え、企業は新卒よりも社会人経験のある人間を採用するべきで、中途採用者は他の会社や他の業界で身につけた異文化を持ってくる。それが社内の活性化にもつながる。新卒採用+終身雇用は明らかに高度経済成長時代の遺物で、これを続けている限り、ポスト産業主義社会の流れに適応できないし、新しい条件下での生産性の向上を望むべくもない。いくら正社員・非正社員の階級社会でいったん勝ち組になっても日本社会全体が沈没しては元も子もない。

最後に小林氏は「就職活動でがんばる学生のみなさんには、社会人になってからは現状のシステムを守るのではなく、雇用環境をもっと公正で柔軟なものに変える側に立って欲しい。そのためにも、就職活動に良い結果が出ることを祈る」とメッセージを残している。もちろん心から賛同したいが、小林氏自身を含めた上の世代には自浄作用は望めないということなのだろうか。それまで若い世代に押し付けるつもりなのだろうか。今の若者が発言権を持つにはさらに20年以上かかるだろう。あなたの世代がまず先鞭をつけなきゃ取り返しがつかなくなる問題でしょと言いたくなるが。

「囚人のジレンマ」は日本のいろんな局面に存在しているのだろう。誰かが動かなきゃと自分では思いながらまわりを見渡しても誰も動こうとしないので自分も動けない。ここ数日で一気に気温が上がったが、気温が上がるといきなり電車にエアコンが入る。キーンと冷えた夏の車内はスーツを着たオジサンたちには快適かもしれないが、女性たちには冷えすぎとすこぶる評判が悪い。スーツのためのエアコンのコスト。もちろんスーツだけが悪者ではないが、既得権益内の同質圧力が透けて見える象徴的なものだ。「囚人のジレンマ」と言えば聞こえが良いが、「オレも我慢しているんだから(我慢してきたんだから)オマエも我慢しろ」の果てしない我慢大会のようにも見える。

経団連のお偉いさんたちも「主体的に行動し、自己責任の観念に富んだ、創造力あふれる人材」、「他者の定めた基準に頼らず、自分自身の目標・意思に基づいて、進むべき道を自ら選択して行動する人材」を推奨するのであれば、デイビッド・ブルックスの『アメリカ新上流階級 ボボズ』でも読んで新しいスタイルが何たるかを学んだほうが良い。スティーブ・ジョブズは決してスーツでプレゼンしない。





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2010年05月02日

GPS(2) GPSとiPod

音楽において GPS の役割を果たしているのは iPod ということになるだろうか。CD が出現したとき音楽がデジタル化されたが、同時に曲の進行時間が残り時間とともにデジタル表示されるようになった。これがLPからCDに移行したとき個人的に最も違和感を覚えたことだ。iPod に至っては一曲一曲が直線の座標軸として表示される。音楽には終わりがあるのだが、聴いているときのそれぞれの瞬間はある意味、永遠を孕んでいる。例えば、音楽のクライマックスはその部分だけ聴けば経験できるものではない。それまでの音楽の展開を確実に追い、経験的な時間を積み重ねていかなければ味わえないカタルシスなのである。特にクラッシクやジャズを聞く場合はそうであろう。iPod ではクリックホイールの操作で曲の各地点を簡単に特定し、そこに飛ぶことができる。しかし、その地点に下りることは、その地点の体験を得ることにならない。そこには蓄積がないからだ。iPod で音楽を聴いて盛り上がっているとき、ディスプレイの残り何分何秒という表示が目に入って急に興ざめしてしまったという経験はないだろうか(アナログ時代をひきずったオヤジの戯言?)。

denavan01.jpg

もっとも LP 時代にはそんなことを考えることすらなかった。ステレオのまん前に座って最初から最後まで聞く必要があったから(途中から聴けないことはなかったが、面倒だし、レコードを傷つける恐れがあった)。先々月、ピンク・フロイドの「アルバムに収められた曲をバラバラに切り売りするな」という主張が裁判で認められたが、今や個人の手でひとつの曲を微分的に切り刻めるのだ。

ある人々はこのような事態に対して、街で迷い不安を感じる権利、音楽をアナログに楽しむ権利を主張するかもしれない。このような権利を確保すること、つまりリスクが計算できないものに対する寛容さが自由の空間を保証するからだ。それは人間が老いて、死にゆく存在であることと大きく関係している(「不死の機械の身体を拒否する人間」はよくある SF 的なテーマだ)。自由は計算不可能だから自由なのだし、音楽も計算不可能だから音楽なのだ。それは生活のあらゆる場面がデータ化され、解析され、リスク管理の資源としてシステムへとフィードバックされる新しい管理社会に抵抗しようという議論につながっていく。

しかし、一方であまりに拡大した自由(=選択肢の過剰)はもはや私たちに自由の感覚を与えてくれない。とりわけ情報が氾濫した現代社会に生きている立場からすると、自由は逆に忌まわしいものだ。GPS は明快な行程と最短距離を示してくれるし、iPod は何千曲もあるレパートリーを管理し、曲を適当に選んでくれさえする。私たちはこのような自由を逆に制限してくれる価値中立的な情報処理に依存し始めている。

先回のボードレールやポーの話に戻るならば、私たちはバーチャルな世界によって群集から逃れ、群集体験を失ったわけではない。相変わらず目的地に行くために雑踏や交通渋滞をかきわけなければならないし、いまだに満員電車と縁を切ることはできない。

ネットの世界の先端で生きている人間はすでにネットとリアルを区別しなくなっている。区別すると理解できないくらい感覚的に2つの世界は接合している。実際、脳は一般的に考えられているよりもはるかに柔軟性があり、高次知覚ではそもそも幻想と現実の区別などはないのだという。ネットとリアルの二分法はネットを使わない人間の思考法なのだ。彼らにとって2つの世界は並列したまま、決して交差することはない。ネットとリアルは交代するのではなく、境界領域が生まれていると言ったほうがいい。そこには2つの世界が複雑に入り組み、かみ合ったフロンティアが開けている。

1980年代に流行した都市論では、文学テクストと都市空間との対応関係がよく論じられたが、現実の都市がネット空間と接続し、そのイメージが大きく変わってしまった以上、これまでの文学的なレトリックも使い物にならないし、文字による文学的な表現そのものも映像&音声文化に浸食を受けている。その境界領域をとらえる新しい批評の視点が必要なことは言うまでもない。

GPS を導入しているタクシーにもだいぶ増えたが、それによって裏道を知り尽くしているタクシーの運ちゃんの経験的な価値が下がっただろうし、利用者からすれば運ちゃんに対する不信(近道と言いつつ遠回りしているのではないか)も多少は払拭されたことだろう。タクシーにGPS標準装備の某タクシー会社は料金の安さで知られているが、同時にドライバーの管理=監視にGPSを使っているらしい。10分以上タクシーが動かないとサボっているとみなされる。まさに自由に動き回る労働者の管理の典型的なモデルである。

オランダでは GPS によって車の走行距離をチェックし、それに比例した納税を義務付ける制度が発足した。走行距離100kmにつき、0.03ユーロ(約4円)が課税される。2018年には倍額に引き上げられる予定だ。税額は走った道路、時間帯、混雑状況によっても変わり、クリーンな車種だと税が減額される。つまりドライバーが混雑していないルートと時間帯を選ぶことにインセンティブを働かせてある。GPS 装置にかかる費用は政府から補助金が出る。この制度はオランダのドライバーにおおむね支持されているが、問題は走行記録のデータがプライバシーを侵すかもしれないということだ(つまり車でどこに行っていたかバレてしまう)。税の納付通知書に記載されるのは走行距離と課税額だけらしいが、その部分をブラックボックスにすると逆に不満も生まないだろうか。

GPS はアートにもインスピレーションを与えている。砂漠や砂浜に巨大な絵を描くジム・デネヴァン Jim Denevan というアーティストがいる。その作品はまるでナスカの地上絵か、ミステリーサークルだ。スケッチを元にGPSで距離を測りながら、トラックを走らせて巨大な絵を描く(写真↑)。その壮大なアートは飛行機に乗って空から確認するしかない。

□The Art of Jim Denevan http://www.jimdenevan.com/




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2010年04月30日

GPS Global Positioning System

私が始めて GPS について知ったのは湾岸戦争の直後だった。湾岸戦争の際、砂漠には目標物がないし、あちこちに地雷が仕掛けられていたので GPS が大活躍した。あらかじめ GPS 受信機に地雷源の位置を記憶させ、目的地を設定しておけば、真夜中だろうと砂嵐の中だろうと、正確に行軍することが可能になった。そういう技術がいまやケータイに標準装備されているわけだ。進歩の著しい情報技術が次々と戦争に応用されていく。そもそもインターネット自体が軍事技術の開発のもとで始まっている。半導体も軍事用レーダーの研究から生まれ、ディスプレーに情報を表示する現在のコンピュータのシステムや CG の発明も軍事用コンピュータの研究が基礎になっている。現在進行しているのは、軍事技術が日常化している事態と言うこともできるだろう。

イラク戦争では、91年の湾岸戦争時よりさらに進んだハイテク兵器が使われた。空爆の主体は、命中誤差が数10センチから10メートルという精密誘導弾で、投下後に軌道を修正しながら標的に近づく。この爆弾にも GPS が内蔵され、自律誘導で標的に達する方式が主流だった。湾岸戦争時には航空機から投下される爆弾の約1割が GPS 誘導弾だったが、イラク戦争では約9割まで増えたといわれている。GPS 誘導弾は、命中誤差が小さいだけでなく、天候や砂嵐等の気象条件に左右されないし、標的に接近する必要もない。撃ちっ放しが可能となり、しかも比較的安価なのである。

日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)ピンポイントでミサイルを撃ち込むのは、戦争を効率的に遂行するためである。何よりも「非人道的だ」と批判される無駄な死者を作らないためだ。民間人を殺さず、テロリストのみを殺す、効率的で、「イメージの良い」戦争の遂行。戦争をターゲットスコープからのみ見せる。憎むべき敵だけを映し出し、他の余計なものを映さない。戦争のイメージをフィルターにかけ、中立的な、あるいは魅惑的な部分だけを前景化する。

イラク戦争と並ぶ、近年の大事件といえば、アメリカで起こった911・同時多発テロである。フランスの思想家、ミシェル・ド・セルトーが911の舞台となった WTC の天辺から下界を見下ろしている。それは1980年代のことであり、そこが凄惨な同時テロの舞台になるとはセルトーとて想像もしなかっただろう(以下引用は『日常実践のポイエティーク』)。

「こうして空に飛翔するとき、ひとは見る者へと変貌するのだ。下界を一望するはるかな高みに座すのである。この飛翔によって、ひとを魔法にかけ、呪縛していた世界は、眼下にひろがるテクストに変わってしまう。こうしてひとは世界を読みうる者、太陽の眼、神のまなざしの持ち主となる。視に淫し、想に耽る欲動の昂揚。おのれが、世界を見るに一点にのみ在るということ、まさにそれが知の虚構なのである」

ボードレール全詩集〈2〉小散文詩 パリの憂鬱・人工天国他 (ちくま文庫)「そうした神をよそに、都市の日常的な営みは、下のほう、可視性がそこで途絶えてしまうところから始まる。こうした日々の営みの基本形態、それは、歩く者たちであり、かれら歩行者たちの身体は、自分たちが読めないままに書き綴っている都市というテクストの活字の太さ細さに沿って動いていく。こうして歩いている者たちは、見ることのできない空間を利用しているのである。その空間について彼らが知っていることといえば、抱き合う恋人たちが相手の身体を見ようにも見えないのと同じくらいに、ただひたすら盲目の知識があるだけだ」

都市を歩く私たちはもはや盲目ではない。GPS によって神の視点とは言わなくても、衛星の視点を手に入れている。GPS によって複雑に入り組んだ場所でも自分の行動を読むことができる。私たちは迷えなくなってしまった。どこにいても補足される。私たちは GPS によってつねに現在位置を確認するが、それは自分で自分を捕捉することである。都市はいつのまにか Yahoo! や Google の地図に還元され、私たちはそのバーチャルな虚構の世界を受け入れている(Google Earth もリアルなイメージによって都市を制圧している)。そこでのスマートなふるまいは、時間と空間を可能な限り切り詰めること。迷うことなく、デートの場所に最短経路による最短時間によって到達することである。

モルグ街の殺人・黄金虫―ポー短編集〈2〉ミステリ編 (新潮文庫)かつて都市はロマンティックな広がりを持つ空間だった。都市の魅力は何よりも迷うことだった。いきあたりばったりにさまよい歩き、目に入った興味を引く情報を拾い集めていく。都市を歩くことはその軌跡によって自分だけの地図を作ることだったと言っていい。セルトーの表現にならえば、都市の歩行者たちの身体は、彼らが読めないままに都市というテキストを書き綴っていたのである。近代都市の出現時に文学者たちも新しい経験に文学を刷り合わせようとした。19世紀の詩人、シャルル・ボードレール Charles Baudelaire も新しい詩のリズムを、何か面白いものを見つけては立ち止まり、それを拾い上げる屑屋 chiffonnier (今で言えば廃品回収・リサイクル業)の不規則な歩行のリズムになぞらえていた。

都市はバーチャルな地図のようにクリーンな空間ではない。実際は猥雑で危険でノイジーな場所である。そこには様々な欲望を持った得体の知れない人々がうごめいている。都市の経験とはそのような見知らぬ人々との出会いであり、交渉だった。ボードレールは群集の楽しみとは街で出会う様々な職種の人々に感情移入することであると言い、E・A・ポーは『群集の人』の中で群集そのものが魅惑と陶酔の対象であることを示した。
(続く)



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2010年04月25日

動物と人間の世界認識(2)

動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない (ちくま学芸文庫)先回、ハリネズミやダニの話を通して書いたように、動物たちはそれぞれの環境世界を持っている。それは私たちが見ている客観的な世界とは違って、そのごく一部を切り取ってみている。それは極めて主観的で、それぞれの動物によって違うものだ。一本の木にクモとリスが住んでいたとしても、「クモにとっての木」と「リスにとっての木」は何の関係もない。それぞれに知覚と行動の独自の系列があり、その中で自足した閉じた回路の中で生きている。動物にとって意味があるのは、ささいな動きや音であって、それが環境を構築する要素になっている。それ以外に存在しているもの、私たちが客観的に存在していると思っているものは、動物にとって存在していないに等しい。動物の世界は客観的なものではない。それは主体の動物が構築し、主体の動物にとってのみ存在する極めて主観的なものである。同じ森の中にいても全く違うものなのだ。

それでは人間はどうなのか。そもそも人間のそれは客観的と言えるのだろうか。もちろん人間にも知覚的な枠がある。私たちには紫外線や赤外線は見えないし、感じることもできない。その作用を受けているだけである。それを概念的にとらえ、それが作用している世界を頭で考えている。それは現実的な価値を持つ場合もある。日焼け止めクリームを塗って紫外線を避けたり、赤外線ヒーターを作ってそれを熱として感じることができる。目に見えない世界を構築しているわけである。しかしそれは、アゲハチョウが紫外線を感知し、それによって世界を構築しているのとは根本的に違うのである。

人間は何らかの自然の生存圏に対して器質的に適応していないし、そこに組み込まれてもいない。人間は知的活動や計画的活動をするように構造的に強制されている。人間は家や街を作ったりして、どんな自然状況にも対応できる生存の技術と手段を用いながら環境に働きかける。自然を加工したり、方向付けたりして、どんな場所でも、どんな気候のもとでも生きることができる。つまり他の動物とは全く違った可能性を生きているわけである。

人間はどんな条件のもとでも生きられるが、例えばジャングルに住む原住民が大都市で生活することには困難が生じるかもしれない。人間がどこにでも住めるのは、そこで習慣や訓練によって文化圏を作り上げるからで、特定の文化に対する依存度が高くなるほどそこから離れられなくなる。その場合、自然ではなく文化が問題になる。人間はどこでも生きられるという同じ理由で、どこでも生きられるわけではないのだ。

さらに人間は自分の生きている生存空間や文化圏だけでなく、宇宙の果てにまで思いを馳せる。人間は自分の生きている空間を、それを越える広大な世界の一部として捉えている。つまり人間は主観的に世界を所有していると言える。人間の意識は部分的にしか知覚できないが、頭の中で拡張できるものすべて、思い抱くことのできるものすべてを所有している。

よく言われるように、人間には他の動物から見ると欠けたものが多い。寒さをしのぐ毛皮はないし、ハリネズミのような外敵から身を守るよろいも、素早く逃げる脚力もない。嗅覚や視力が極度に発達しているわけでもない。何よりもダニのような瞬時に発動する精確な行動形式がない。本能的な行動であっても不確かで迷いが生じるのが人間である。また大人になるまでの成長の期間が長く、長期間の保護が必要なのも人間の特徴だ。
(続く)


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4 本は薄いが内容は濃い
3 同じ景色を見ているのか?
5 生き物の気持ちになれる
4 主体的に見て、感じて、行動して。。。
5 各生物のもつ主観世界が「環世界」であり、
全生物が「環境」を完全に把握することはできない。





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2010年04月21日

フランスには「トイレの神様」はいない

superlight さんが訳してくれた2010年1月5日の Le Figaro 掲載の「ふたたびトイレ掃除をするようになった生徒たち Les élèves japonais nettoient à nouveau leurs toilettes」の記事が意外に学生に好評だった。その一部を再引用すると、

「こうした行為(=トイレ掃除)は、軍国主義的であった戦前の日本においてよくみられたものであり、1980年代、日本経済が大繁栄した時代に失われてしまった。学校の管理は用務員や民間企業に委ねられていた。これらは時代の風潮をあらわしているのだろうか?伝統的美徳への回帰は、昨年、日本人が戦後はじめて民主主義的な政権交代を実現させ、中道左派政党の民主党に投票したときと重なる。格差の広がりやより団結した社会への郷愁にたいする反応をあらわす、政治的大転換のことである。子どもにトイレ掃除という仕事を課すことはこうした平等への強い願いをあらわしているように思われる。子をもつ親を対象とした世論調査によると、100%のひとびとがこれを好ましく思っている」

トイレ掃除が軍国主義の象徴で、それが日本のバブル期に姿を消し、そして民主党が政権を取ると同時に復活したなんて話、聞いたことがない。フィガロの東京特派員はけっこういい加減なことを書くのだが、これはひどい。

日本人にとってトイレ掃除に限らず、掃除というものは特別な意味を持つようだ。去年、街の清掃活動を行う原宿・表参道発信の非営利組織グリーンバードが去年エッフェル塔周辺で掃除活動をして話題になった。それがフランスのテレビ局TF1のサイト上で紹介されたところ、様々なコメントが寄せられた。その中で多かったのは、グリーンバードの活動に敬意を表するものの、パリに住む人たちは、清掃は行政が中心に行うサービスなので掃除のボランティアはあまり意味がないと思っているというものだった。つまり、フランス人の多くは街の清掃はある一部の人たちに割り当てられる仕事だと考えている。ボランティアで清掃をするとその人たちの仕事が奪われてしまうと考えさえする。政府が失業率を下げるために清掃の仕事を一時的に増やすという話も耳にする。そういう意味でフランスでは街の掃除は政治の問題なのだ。しかし、そういう分業は階級社会的な発想が根底にある。みんなが清掃のボランティアにいそしめる社会の方がいいに決まっている。

トイレ掃除と日本人の「平等」意識を結びつける考えは正しいのかもしれない。フィガロの記事の中には「トイレを掃除することで精神が磨かれるのです」という元中小企業の社長の発言が引用されていた。彼は自動車部品関連の会社の社長をしていたときも、社員と同じように自らの手でトイレ掃除をしていた(ただ社員にしてみればこれほど鬱陶しい社長もいないだろう)。一方、日本には新入社員に素手でトイレ掃除をさせる悪名高い会社があるようだが、それはある種人間の尊厳を剥ぎ取り、社畜にする意味があるのだろう。

それでは今どきの学生たちはトイレ掃除をどう思っているのだろうか。トイレ掃除の精神的な側面は重要だと、支持する意見が多かった。宝塚音楽学校のトイレ掃除の例を挙げる学生もいた。さらには「掃除ブーム」という動きも若い世代のあいだで起こっていて、「掃除力」という言葉も流通していたらしい。自分の部屋やトイレの掃除をすることにより、自分を磨こうというものだ。

ある学生(STさん)は「小学校の頃から、自分たちで使うものや場所は、自分たちが責任を持って掃除する、というように習ってきた私には、欧米では、生徒が学校の掃除をするというのは当たり前のことではない、ということに驚いた」と言い、去年の3月にリリースされた植村花菜の「トイレの神様」という歌を教えてくれた。小さい頃一緒に住んでいたおばあちゃんとの思い出を中心としたメッセージソングだが、多くの若者の涙腺を刺激しているようである。新入生のアンケートにも好きな曲としてこれを挙げていた学生が多かった。その中に次のようなフレーズがある。

トイレにはそれはそれは綺麗な女神様がいるんやで
だから毎日きれいにしたら女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで

毎日一生懸命にトイレ掃除をすれば自分も綺麗になれる。掃除することは、自分を磨くことにつながる。この曲に対する若い世代の共感はこのような美意識が世代を超えて確実に受け継がれていることを意味するのだろうか。それとも日本がまだ貧しかった時代を知っているお婆ちゃんから、リーマンショック後の世界へ出て行く孫へという、バブルに浮かれ踊った世代を飛び越えた共感なのだろうか。団塊世代のバブリーなお婆ちゃんは絶対そんなこと言わないだろうし(笑)、フランス人がバブリーな時代にトイレ掃除が姿を消していたと勘違いするもの理由のあることなのかもしれない。






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2010年04月18日

グラントリノ -アジアの少年に受け継がれる古き良きアメリカ-

グラン・トリノ [DVD]クリント・イーストウッド監督・主演の『グラン・トリノ』に関してはすでに bird dog さんが「グラントリノはいい車なのか」を書いてくれている。車種を通して話題を広げていく bird dog さんの博識ぶりには舌を巻くが、ちょっと別の視点でこの映画を見てみたい(ネタバレ注意!)。

イーストウッドが演じる主人公のウォルトは、実際にフォードで働いていた、典型的なフォーディズム(ford+ism)の時代の人間である。フォーディズムはオートメーション化された流れ作業に象徴されるが、一方で様々な工具を的確に使いこなす熟練工の技術に支えられていたのだろう。そこにはまだ仕事と技術に対する誇りが確実にあったのだ。しかし、彼の技術を生かせる場所はもうないし、それを受け継ぐ者もいない。

一方、ウォルトの息子はトヨタのセールスマンで、ポストフォーディズム post-fordism に典型的なサービス業に従事している。そしてトヨタと言えば、カンバン方式と呼ばれるリスク回避のための柔軟な生産体制で知られる。今回のトヨタのリコール騒動で暴露されたように、今や車は熟練した職人の手によって作られるのではない。製造業とはいえ実際には単なる組立て屋に過ぎない。ある程度完成したものを下請けから集めて仕上げをしているだけなのだ。だから細かい部品のことまで目が届かない。

ウォルトの息子たちは父親を時代錯誤の厄介者としか思っていない。父親の価値がわからないし、わかろうともしない。しかしウォルトの価値はハン族の少年、タオによって発見される。ガレージにそろった工具の使い方を教えることができたのは、全くルーツの違うアジア系移民の2世だった。2世は同化のキーになる。英語で教育を受け、英語が話せるので、異なったコミュニティーの橋渡し役になれるからだ。おしゃべりで人懐っこいタオの姉、スーの存在も重要だ。ウォルトは単に聞き分けのない頑固ジジイなわけではない。家を修理したり、庭の手入れをしたり、家のことは自分できちんとやる。それだけではなく、近所の放置された家の修理もする(タオにもそれをやらせている)。地域の建物が荒れると、治安が悪くなる。破れ窓の論理だ。ウォルトは彼なりのやり方で古いコミュニティーを守ろうとしているのだ。

グラントリノはウォルトが信じる「古き良きアメリカ」を体現しているわけだが、それは新しい今どきのアメリカとは結びつかずに、アジア的な純朴さとつながり、受け継がれたということなのだろう。タオにはちょうど父親がいなかった。ウォルトはタオの父親のような存在になるが、ウォルトはまたホスト国に同化するためのモデルでもある。ウォルトは昔ながらのコミュニティーの中にタオを招き入れ、民族ジョークや身嗜みなど、コミュニティーの中での口の利き方や立ち振る舞いを教え、仕事まで紹介してやる。自立して、不良の世界に堕ちないためにも。一方でウォルトは遠いアジアから来た、見たこともない衣装を着て、よくわからない慣習を持っている人々を、血のつながった自分の子供や孫たちよりも身近に感じる。うわべだけの関係ではなく、本音で語り合うことができることに驚く。アメリカで忘れられたコミュニティーの暖かさがアジア人のうちに再発見される。

各民族ごとにモザイク状に棲み分け、互いに憎しみあい、縄張り争いに終始するようになってからでは遅い。同化の可能性がほとんどなくなってしまう。ましてや縄張りの中の足の引っ張りあいには、勝手にやってくれって感じで警察も関心を示さない。

この映画は現在紛糾している外国人参政権との問題とも重なり合う。ネットを見ていると、「外国人参政権を与えると日本が反日勢力によってのっとられてしまう」ということらしい。今日のニュースで亀井金融大臣まで「外国人参政権付与が日本を滅ぼす」と言っていた。確かに今の中国や韓国との信頼関係のなさがそういう形で噴き上がるのもわからないではない。しかし少子化対策として外国人労働者を入れるという選択をするのならば、どうやって彼らとうまく共存できるのかという議論とからんでくる。

ネットでの外国人参政権の議論で、ブラジル系労働者が多い浜松市の元市長が、ちゃんと自覚を持ってゴミの分別に始まる市政に参加してもらうために参政権は必要だと持論を述べていた。人手が足りないときに働きに来てもらい、要らなくなったから帰ってくださいでは済まない。すでに魅力的な労働市場ではない日本はタカビーな態度はとれなくなるだろう。外国人参政権は日本に来てもらう移民の人々を迎える態度の問題なのだと。また逆に自分が外国に労働者や移民として出て行くことになったとき(これから経済規模が縮小していく日本では十分ありえることだ)、同じような排除の対象になるかもしれない。そういう想像力も欠けている気がする。

『グラントリノ』に照らし合わせれば、日本の伝統的な価値観を持った日本人が、日本的な規範を失った今の日本人に失望し、その代わりに外国からの移民が日本で生きる際の模範となり、同化を媒介する存在になるというモデルが考えられる。例えば、頑固で保守的な日本の爺さんがブラジルから来た少年と交流し、少年が爺さんから日本的な価値観を受け継ぐというストーリーに置き換えてみればいい。これだったらウヨクの人たちも納得してくれるだろうか。

ウォルトの死に様はキリストのようにかっこいい。でも彼がマシンガン撃たれて蜂の巣になる姿は日本の現実からは程遠い。ウォルトがそういうラディカルな行動ができるのも朝鮮戦争の従軍体験があるからで、そこで何人もの人間を殺しているからだ。こういう問題を解決するにはそこまで身体を張らなきゃだめなのかと、一方では絶望的になってしまうのも事実だ。


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2010年04月14日

FBNナビ(2):レポートのための人気記事リンク集

★言葉を学ぶとはどういうことか
□「フランス語を話せれば」(bird dog)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/27923622.html
□ 「アウェイで戦うために」(cyberbloom)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/19644800.html
□ 「メトロの中の日本語」(bird dog)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/23335530.html
□ 「パリのカフェ的コミュニケーション」(cyberbloom)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/29258434.html

★ フランスは今どんな感じ?
□「フランスの日本ブーム」(フランスのニュースの特集)
http://www.youtube.com/watch?v=vbjBYQXjBZE
□「フランスの漫画ブーム2008」(日本のニュースの特集)
http://www.youtube.com/watch?v=-wvS5gUiNzY
□ 「フランスのオタク文化-子供の発見」(cyberbloom)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/20389300.html
□ 「コカコーラ・レッスン」(bird dog)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/23405871.html
□ 「自転車でパリは美しくなる」(cyberbloom)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/46632579.html
□ 「フランス文化の死」(cyberbloom)
http://frenchbloom.seesaa.net/article/73039018.html
□ 「お笑い日本の実態」または「どうせ分からないフランス語」(bird dog)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/130230741.html

★2009 年度人気エントリー
□「パトリシア・プチボンがまたやってきた!」(manchot aubergine)
http://frenchbloom.seesaa.net/article/131887201.html
□ 「ヒップホップと手を組むルイ・ヴィトン」(goyaakod)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/101533978.html
□ 「フランス語版『神の雫』Les Gouttes De Dieu」(cyberbloom)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/113050474.html
□ 「フランスで弁当ブーム!」(cyberbloom)
http://frenchbloom.seesaa.net/article/140066758.html
□ 「カナダ、ケベック州のウィンターカーニバル」(sophie)
http://frenchbloom.seesaa.net/article/141536603.html
□ 「カンヌ映画祭受賞結果」(exquise)
http://frenchbloom.seesaa.net/article/120237399.html
□ 「エリック・ロメールを偲んで」(不知火検校)
http://frenchbloom.seesaa.net/article/139127142.html
□ 「WiiにOui - フランス老人ホームのレクリエーション」(キャベ男)
http://frenchbloom.seesaa.net/article/110983393.html
□ 「年末企画:2009年のベストCD」
http://frenchbloom.seesaa.net/article/136399312.html
□ 「フランス語の野球用語 - Je suis 'troisieme-but' ?」(superligt)
http://frenchbloom.seesaa.net/article/63304121.html
□ 「フランスの雑誌がレポートする日本の「草食系男子」の実態」(superlight)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/128385171.html

★まだまだ人気エントリー
□「エミール・アンリ+アピルコ+デュラレックス」(フランスの定番雑貨)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/50693854.html
□「ル・クルーゼ」(フランスの定番キッチンウエア)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/43584870.html
□「そば粉のガレット」(下宿でも作れるフランス風お好み焼き)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/107816471.html
□「TGV」(フランスの新幹線、BGMはケミカル・ブラザース)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/106352676.html
□「ミシュランVS食べログ」(ミシュランなんて時代遅れ?)
http://frenchbloom.seesaa.net/article/115107840.html
□「隣人祭り」(崩壊した共同体を甦らせる)
http://frenchbloom.seesaa.net/article/114023793.html
□「フランスの出生率2.02に上昇!」(背景には政府の徹底的な子育て支援)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/112659554.html
□「フレンチ・ブーム年表―1990年代」(新入生のみんなが生まれた頃の話)
http://frenchbloom.seesaa.net/article/106072752.html
□「Gacktがフランス語を話す」(シュールな庭と人魚の篠原涼子)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/16464432.html
□「宮崎駿インタビュー」(「千と千尋」の隠された意味とは)
http://frenchbloom.seesaa.net/article/104830141.html
□「ゴロワーズを吸ったことがあるかい?」(かつてフランスは憧れだった)
http://frenchmusic.seesaa.net/article/145835427.html
□「新しいゴシック」(ゴシック建築からゴスロリまで)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/53574489.html
□「エルメス」(意外に深い日本との関係)
http://frenchbloom.seesaa.net/article/110253929.html
□「Eye'DC」(マルセイユ発のアイウェア)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/44564324.html
□「マルタン・ラプノー」(「シャンソン」でも「フレンチ」でもない「グッドミュージック」)
http://frenchmusic.seesaa.net/article/145662712.html
□「マレーバ・ギャランテール」(元ミス・フランスが60年代のイエイエに挑戦)
http://frenchmusic.seesaa.net/article/143939244.html
□「ミッシェル・ポルナレフ」(ウォーター・ボーイズを思い出す)
http://frenchmusic.seesaa.net/article/143011491.html
□「MC Solaar」(フランスで最も有名なラッパー)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/31596592.html
□「パリ、ジュテーム」(パリを舞台にしたオムニバス映画)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/92595995.html
□「パリ、ジュテーム、私も見ました」(5分の短いラブストーリー×18)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/93743449.html
□「ぼくの伯父さんの休暇」(映画の中の夏休み)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/103484178.html
□「スパニッシュ・アパートメント」(絶対留学したくなる!)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/17915403.html
□「ぼくの好きな先生」(フランス語初習者は共感)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/105671820.html
□「WASABI」(ジャン・レノ&広末涼子)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/14377013.html
□「デトロイト・メタル・シティー」(フレンチな渋谷系青年の悲劇)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/114007488.html
□「アニメ版『巌窟王』」(原作はデュマ、映像は豪華絢爛)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/108741852.html
□「のだめカンタービレ」(10巻から舞台はパリへ)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/16743059.html
□「フランスのオタク文化」(80年代から始まったフランスの日本化)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/20389300.html
□「ルパン3世」(ルーツはフランスよりもむしろイタリア)
http://cyberbloom.seesaa.net/category/1407128-1.html
□「松井大輔へのインタビュー」(松井のオススメはモンサンミッシェル)
http://cyberbloom.seesaa.net/article/115842104.html
□「ムッシュになった男」(吉田元阪神タイガース監督のフランス奮闘記)
http://frenchbloom.seesaa.net/article/115533458.html





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2010年04月11日

春の音楽(3) CAMEL - AIR BORN

ちょっと間が開いてしまったが、春のイメージに重ね合わせて70年代半ばの名盤を紹介する「春の音楽」3回目。

Moonmadness月といえば、中秋の名月といわれるように秋を思い出すことが多いが、春の月もなかなか味わい深い。春の月は黄砂の影響でほのかに霞んで見えることがある。その情景は朧月夜と呼ばれる。西洋では月が人間を狂気に引き込むと考えられ、英語で "lunatic" とは気が狂っていることを表す。見てわかるようにラテン語の "luna" (フランス語は "lune" )が語源である。狂気といっても、冷たく冴え渡った感じの秋の月とは違って、春の月は柔らかな光で脳みそを溶かすような感じだ。

「月」というと、どんなアルバムや曲を思い出すだろうか。アルバムで真っ先に挙げられるのはピンク・フロイド Pink Floyd の『狂気 The dark side of the moon 』(1973)であろう。先月、ピンク・フロイドが、オンラインでアルバムの曲を個別に販売するなとEMIを訴えていた裁判で勝訴したというニュースが世界を駆け巡った。裁判所は契約に「アルバムの芸術性を保護する」条項が含まれていると認め、EMIはバンドの承諾なしに彼らのトラックを個別に販売できないと言い渡した。アルバムは全体を聴いてこそ意味があり、曲をバラバラに売ることは芸術性を損なうというわけだ。『狂気』はこれまで世界で4000万枚(未だにBillboard 200にチャートインしているらしい)を売ったロックの代表的なコンセプトアルバムだが、原義は「月の裏側」。このアルバムには10曲入っているが切れ目がなく曲が続き、私たちを無意識の底に引きずり込む。

現代音楽の分野では、ドビュッシー Debussy の「月の光 Claire de Lune」 が月の光のピアノの硬質な響きに変え、シェーンベルグ Schönberg の「月に憑かれたピエロ Pierrot Lunaire 」が無調の殺伐とした風景を映し出す。ロックの世界ではキング・クリムゾン King Criomson の「ムーンチャイルド Moonchild 」やジェネシス Genesis の「月影の騎士 Dancing with the moonlit knight 」あたりだろうか。前者では専属詩人のピート・シンフィールドの幻想的な詩をグレッグ・レイクが夢見るように歌い上げ、そのあとに ’illusion’ というサブタイトルの長いインプロヴィゼーションが続く。後者は騎士の姿に扮して歌うピーター・ガブリエルの姿が印象的だ。

King Crimson - Moonchild
Genesis - Dancing with the moonlit knight
Camel - Air Born

またプログレの5大バンドに次ぐ位置にある Camel というバンドが1976年に『ムーンマッドネス moonmadness 』というタイトルのアルバムを発表している。「月と狂気」が結びついたそのままのタイトルである。メルヘンチックなジャケットが印象的で、煌々と降り注ぐ月の光に少女のシルエットが溶け出しそうになっている(画像↑)。音のほうもジャケットのイメージそのもので、狂気の激しさ、荒々しさはなく、フルートや暖色系のキーボードによる独特の浮遊感に彩られている。初期のキャメルはアンディ・ラティマーの甘美なギターとピーター・バーデンスの軽快なキーボードを軸に(個人的にはダグ・ファーガソンのベースラインが好きだった)、美しいメロディを緊張感のあるテクニカルな演奏で聴かせていた。『ムーンマッドネス』の名曲といえば、月夜に舞い上がり、空中を漂うような ’Air Born’ だろうか。’lunar sea’(月の海)という凍てついた海を思わせる幻想的なインストゥルメンタルも印象的だ。
(了)




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2010年04月09日

就活化する世界(3) グーグリネス Googliness

とりわけポスト近代型能力が要求されるのは情報化、消費化された分野であるが、変化と進化の著しいコンピュータ&ネット産業がその典型であろう。しかし今やどの業種も情報化とサービス業化の波を避けられない状況にある。製造業もフォーディズムの全盛期のように、あらかじめ画一的な製品の大量生産を続けることはもはやできない。気まぐれで多様な趣向性を持つ消費者を相手にしながら、彼らの要求を生産にフィードバックさせなければならない。

ウェブ時代5つの定理 (文春文庫)ポスト近代型能力の要請は明らかにアメリカから来ていて、それがひとつのグローバルスタンダードになりつつある。その先端を行く企業の人材の集め方、働き方、仕事の評価を見れば、その具体像を知ることができるだろう。そう言われて私たちが真っ先に思い出すのは、グーグルの社員レストランやレジャーコーナーである。彼らは美味しいものを食べながら、遊びながら仕事をするのである。

「現代の労働者は自分を事業主としてセルフ・プロデュースしながら、市場で競争し、常に自分の生産力を高めていかなければならない」と1回目で書いたが、つまりは普通の労働者であっても、アントレプレナーシップが要求されるということだ。アントレプレナーシップは起業家精神と訳されるが、それは「企業や会社経営に関わるメンタリティとは限らない」一般的な態度だと梅田望夫氏が的確に指摘している。さらに梅田氏の言葉を引用すると(『ウェブ時代5つの定理』)、

アントレプレナーシップとは社会をタフにポジティブに生き抜いていくための総合的な資質なのです。優れたアントレプレナーに共通する特徴は、人生のある時期に、たいへんな集中力と気迫で、新しい知識を確実に習得している、ということです。貪欲なまでに強い意志を持って、自ら道を切り開いていく。好奇心旺盛なアントレプレナーたちは、不確実な未来にいかようにも対応できるよう、徹底して「学び続ける」意志を持っているのです。(梅田)

最も重要なことは最後の一節に書かれている。不確実な未来に対応すること、学び続けることである。これはシリコンパレーの起業家たちについて書いていることだが、グーグルの企業文化についての次のような引用もある。

Google's emphasis on innnovation and commitment to cost containment means each employee is a hands-on contributor. There’s a little in the way of coporate hierarchy and everyone wears sereral hats.

グーグルではみんなが複数の帽子をかぶっている。つまり一人の人間が複数の仕事をこなすのだ。グーグルには数人単位のチームで、アイデア捻出、サービス創造から保守まで自分の手を汚して泥臭い仕事をやるという文化がある。普通、会社の規模が拡大していくと組織が階層構造化し、どんどん自分の仕事に線引きをし、蛸壺化していく。しかしネットサービスの時代になると、「みんながいくつもの帽子をかぶって取り組むことがイノベーションにもコスト削減にも貢献する」。グーグルは売上2兆円近い大企業にもかかわらず「間接部門は極端に少なくし、一人当たりの生産性が高い状態で疾走している状態」なのだという。

「権威を嫌い、階層を嫌い、合意と納得の上で仕事をする」のがグーグルのやり方だとすれば、「権威を傘に着て威張るのが大好き、上下関係最優先、一方的に命令され、納得できずにストレスを溜める。そのため生産性が著しく低い」のが日本の組織だろうか。もちろん、シリコンバレーには、権威と上下関係の元凶である年功序列と終身雇用を前提とする人事部一括採用のシステムは存在しない。必要とする人材は仕事ベースで募集し、その仕事に最適化したチームを作る。人材はその仕事のリーダーが選ぶというのが基本だ。人事部主導で「新卒」を一括採用し、本人の意思と関係なく勝手に配属先をふりわける日本企業のシステムは完全にその対極にあるわけだ。「日本の理系の大学では教授のところにメーカーから卒業生をくださいとお願いが来る。各社にまんべんなく人材を送るために、くじ引きやジャンケンで就職先を決める。どこへ行っても日本株式会社の一部門という感じ」と梅田氏はその実態を証言している。

梅田氏の尻馬に乗ってシリコンバレーを理想化しようなどというつもりは全くない。とはいえ、経団連も「主体的に行動し、自己責任の観念に富んだ、創造力あふれる人材」を採用の基準にすることを、文科省も「人間としての実践的な力」であり、「自分で課題を見つけ、自ら考え、自ら問題を解決していく資質や能力」と定義される「生きる力」を育成することをすでに宣言しているのだ。またそういうディスクールが世間にも蔓延していることも確かである。しかしそういうものが日本のどこに実現されているのだろうか。

経団連のお偉いさんたち自身は近代型能力によって生きてきた世代で、そんな能力を要求されたことなどないはずだ。たとえ日本の若者たちがポスト近代化能力を首尾よく備えたとしても、そういう古い頭の人たちが彼らを使いこなすことができるのだろうか。そして正しく評価できるのだろうか。まさにそのせいで若者たちは会社を辞めるのだと、城繁幸なんかがしばしば指摘していることである。




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2010年04月02日

La ville est plus belle à vélo! 富山でヴェリブ発見!

これはパリの写真ではない。ここは富山なのだ。

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2007年7月15日、パリの交通渋滞と大気汚染の解決策のひとつとしてレンタル自転車システム、ヴェリブ Velib (vélo+libre)が導入された。鉄道やメトロの駅の近くなど、あちこちに自転車を据え付けたレンタル機があり、パスを使って自転車を取り外し、使ったあとは再び戻す。もちろん、どの場所に戻してもいい。1年間有効のパスを買えば、1回の使用が30分以内なら無料で何度でも使える。1回の使用が30分を超える場合は、追加料金が必要になる。最初の30分の延長は1ユーロ、次の30分は2ユーロ、以降の延長は4ユーロづつ加算される。パリ市はこのシステムは観光にも使えると考えた。確かにパリは自転車で動くのに最適な規模と言えるだろう。

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ところで、富山のユーロトラム、セントラムに乗ろうとしたら、停留所のそばにどこかで見たような自転車の列を発見。これはパリのヴェリブではないか!ちょうど自転車に乗ろうとしていた若者がいたので、ちょっと訊いてみた。若者はひもを通したパスを首にかけていて、「これを買って乗るんですよ、最初の30分はタダです」と教えてくれた。最初の30分がタダ?―ますます怪しい。パスをかざすセンサーを見たら、その横にあるボタンのパネルはパリでよく見かけるやつだった。V は Valider (決定)のことだろう。システムごとフランスから買ったのだろうか。ちょうどやってきたセントラムの車両には大きな自転車のマークがあり、「最初の30分は無料」と自転車レンタルシステムをアピールしていた。CYCLOCITY シクロシティと呼ぶらしい。

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あとで親に聞くと「自転車はフランスから取り寄せた」と地元の新聞にデカデカと載っていたらしいから、パリの自転車と同じものなのだろう(※シクロシティ社はパリ市で「ヴェリブ」を運営するフランス、ジェーシードゥコー JC Decaux 社の子会社と判明!)。パリの自転車は3万キロの走行に耐えうるように頑丈に作られている。そのため重量が22kgあり、見た目にもかなり重厚で、モーター付自転車のような外観だ。それにしても富山のフランス度の著しい高さは一体どういうことなのだ。訳がわからない。

パリのヴェリブは最初のうち情報が行き渡らず、市民を不安がらせていたようだ。まずは確実に借りられるだけ自転車の数が十分確保されているのかと。通勤に使うにしても、行ってみたら自転車がすべて出払っていたということもありえる。また自転車を戻そうとしたときに、レンタル機がいっぱいだったら自転車を戻せない(急いでいるときに限ってそういうことが起こる)。とはいえ、富山の場合はそんな心配はまだなさそうだ。うちの親の反応も「また市長が変ったことを始めた」という感じだ。とりあえずは観光客向けということなのだろう。便利な交通手段としてだけでなく、そのものに話題性がある。これでポートラム(ライトレール)とセントラムに、新しい観光資源が加わったわけだ。セントラムに先駆けて走っていたポートラムは4年連続の黒字を確保したようだ(1日の平均利用者数は4339人、500万円の黒字、3月28日付「北日本新聞」)。なかなかやるじゃない。

今度帰省するときはヴェリブの利用状況を調査してみよう。

【動画】パリを回るなら自転車がおすすめ





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2010年04月01日

セントラムに桜の模様が Cherry Blossom Car !

去年の12月23日、富山市でセントラムが運行を開始した。セントラムとは市の中心部を周回する環状線を走る路面電車の名前だ。セントラムに新たな変化があったと聞いたので、再び「にわか撮り鉄」になり、「にわか撮り小鉄」を連れて、見に行った。新しい車両が導入されたのではなく、期間限定で車体に桜の絵が描かれたのだった。

centram01.JPG

桜の花びらととにも英語が書かれている。

Spring has come.
Cherry blossoms are blooming.

バックミュージックはやはり、Cherry Blossom Girl by AIR しかないだろう。

centram02.JPG

富山の桜はつぼみが膨らみ、ちらほらと咲き始めた。下の写真は桜の名所「松川べり」。私にとっても思い出の詰まった場所である。ここは宮本輝の『蛍川』の舞台になり、映画のロケにも使われた。名作『泥の河』と一緒に読みたい作品である。 

centram03.JPG


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2010年03月31日

就活化する世界(2) ハイパーメリトクラシーとは

それに対して、今求められつつあるのは、既存の枠組みに適応するよりも、新しい価値を自ら創造し、変化に対応し、変化を生み出していく人材である。組織的、対人的には、異なる個人のあいだで柔軟にネットワークを作り、そのときどきの必要性に応じて他者を使いこなすスキルを持つことが必要になる。

多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで  日本の〈現代〉13教育社会学者、本田由紀はそれをメリトクラシーに対して、「ハイパーメリトクラシー」と呼び、前者が要求する近代型能力に対して、後者が要求する「ポスト近代型能力」を対置する。近代型能力において、努力=勉強すれば向上できる部分が相当に大きかった。受験勉強に代表されるような知識の暗記、公式や文法規則の適用、計算の習熟などの能力を伸ばすために最も必要なことは、時間をかけてしかも効率的にそれらのスキルを自分の頭に叩き込むことだった。つまり近代型能力を身につける一定のノウハウが存在し、それを的確に繰り返せばよかったのである。

しかしポスト近代型能力は努力やノウハウとはなじまない。個性や創造性、ネットワーク形成力を知識として詰め込むことはできないから。これらの柔軟で形が定まらず、しかも十人十色な能力は、身につけるためのはっきりしたマニュアルが存在しない。ポスト近代型能力は、個人の生まれつきの資質か、あるいは成長する過程での日常的、持続的な環境条件によって多くの部分が決まる。それは個人の人格や感情や身体と一体化したもので、家庭環境の及ぼす影響も大きい。

この求められる能力の変化は根拠のない話ではない。実際に、1996年に経済団体連合会が提出した「創造的な人材の育成に向けて―求められる教育改革と企業行動」の中にはっきりと書かれている。それによると、これから評価されるのは「主体的に行動し、自己責任の観念に富んだ、創造力あふれる人材」、「他者の定めた基準に頼らず、自分自身の目標・意思に基づいて、進むべき道を自ら選択して行動する」人材である。問題への対応に際しても「知識として与えられた解決策を機械的に適応するのでなく、既存の知識にとらわれない自由な発想により自力で解決する能力」が求められるのだ。教育の領域でこれに対応するのが、1996年の中教審の第1次答申に打ち出された「生きる力」である。「生きる力」もまた「人間としての実践的な力」であり、「単に過去の知識を記憶しているということではなく、初めて遭遇するような場面でも、自分で課題を見つけ、自ら考え、自ら問題を解決していく資質や能力である」と定義されている。

教育の職業的意義―若者、学校、社会をつなぐ (ちくま新書)整理してみよう。メリトクラシー=近代型能力が「基礎学力」、「標準性」、「知識量、知識操作の速度」、「共通尺度での比較可能性」、「順応性」、「協調性、同質性」という言葉で表現されるのに対し、ハイパーメリトクラシー=ポスト近代型能力は「生きる力」、「多様性、新奇性」、「意欲、創造性」、「個別性、個性」、「能動性」、「ネットワーク形成力、交渉力」によって特徴付けられる。

もちろん、近代型能力とポスト近代型能力が完全に入れ替わったわけではない。近代型能力は依然としてベースにあって、その上に新たな能力が付け加わりつつあるという形だ。もはや「ガリ勉」タイプが全く評価されない時代(佐藤俊樹)になってしまったが、表向きはスマートにふるまえる「隠れガリ勉」は全くOKだし、むしろそれが推奨されるのかもしれない。またハイパーメリトクラシーは人間の全人格にわたる様々な側面を不断の評価のまなざしにさらす。例えば、大学の授業の平常点評価を考えてみればいい。期末試験の一発勝負で成績を決めるのではなく、毎回の「授業の態度」で評価するとする。出席していたか、ちゃんと授業を聞いていたか、授業で積極的に発言したか、グループ学習の際にグループをうまくまとめていたか、など授業のあいだに言動が絶え間なく評価される。実際にそこまで細かく評価する教師はいないと思うし、「授業の態度」なんて本来数値化できないものだ。しかし、ハイパーメリトクラシーは、意欲や創造性、柔軟な対人関係能力を日々の生活において常に発揮することを求め、それを不断に評価する。それは社会が個人を裸にし、その「剥き出しの柔かい存在」(本田由紀)のすべてを動員し、活用するという、ある意味非常に過酷な状況と言える。
(続く)




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2010年03月29日

就活化する世界(1) あなたは会社のために何ができますか

トウキョウソナタ [DVD]2008年のカンヌ映画祭の「ある視点」部門で審査員賞を受賞した『トウキョウソナタ』。46歳の主人公の男がリストラに遭う。前の会社で総務課長までやっていた自分が何で他の会社で受け入れられないのか。男のプライドは傷ついている。リストラされた会社でも、新しい会社の面接でも「あなたは会社のために何ができますか」と聞かれて何も答えられない。質問の意味すらわからない。これまで与えられた仕事を淡々とこなしてきただけだからだ。アメリカ式の人事担当者は「すぐここであなたの能力を示してください」とまで言う。自分がゼロから会社のために何ができるかなんて考えたこともない。

「フランステレコムで何が起こったのか」で書いたことだが、今や労働者は与えられた仕事を従順にこなすことを求められているのではなく、潜在的な能力を持った人的なリソースとみなされている。新しい事態に対応するために、みずからの能力を開発し続けなければならない。学習は生涯続くのだ。そのための自己投資も必要になる。外資系の銀行に勤めている友人によると、今回の金融危機で多くの社員が解雇されたが、みんなそれをチャンスと捉え、大学院に入り直したり、新しい資格を取ったりして、更なるスキルアップを図るのだという。若い社員だけでなく、40代、50代の同僚さえもそういう自己投資に何百万円もかけることを厭わないようだ。つまり、何ができるかということと同時に、どれだけ潜在力を高め続けられるか、それが評価の対象になる。

このように現代の労働者は自分を事業主としてセルフ・プロデュースしながら、市場で競争し、常に自分の生産力を高めていかなければならない。その手始めが、就職活動の際に求められる「就活力」なのだろう。日本では70年代以降、大学はエリート教育の場であることをやめ、大学新卒者の大量採用によって、大学生はサラリーマン予備軍と化したが、その背後には終身雇用制度と年功序列賃金制度の確立があった。その時代の仕事はむしろ頭を空っぽにして社畜になること、組織とべったり同調することが推奨された。今は全く別の意味で大学と仕事が結びつかなくなっている。つまり、大学で何かを学んだとしても、それはある知識を詰め込み、ある技術を身につける、限定的な一段階にすぎなくなっている。それはすぐに役に立たなくなるかもしれないのだ(最初から役に立たないというケースも多いのだが)。

このような現状に対する学生の反応を紹介すると、

■「大学で学んだことは限定的な一段階である」という記事の部分に深く納得できる。机上の空論では実践的な問題解決をすることはできない。この力を磨くには、より実践的な場、例えばバイトやボランティアなどで自分から主体的に問題を見つけ、解決するというプロセスを繰り返す必要がある。これは学問と呼ばれるものとは大きく異なる。学ぶだけか、学んだことを実践でアウトプットできるか。気が利くかどうか。社交性があるか。思うに、怖いのは、就活のときからこれらの能力が見られるということだ。
(SH)

■やがて就職活動をしなければいけない身としては、記事の最後のセルフ・プロデュースの話が興味深かった。中学や高校のときと違い、大学は自由だと感じながら、何となく日々を過ごしているが、今できることがあるのではないかと少し危機感を感じた。
(YT)

ところで、近代社会は「人々を生まれや身分と切り離し、その資質や能力に応じて社会の中に再配置する社会」と定義できるだろう。近代以前、人々は自分の生まれた村からほとんど外へ出ることなく一生を送った。生まれによって人生はほぼ決定されていた。しかし近代社会では自分の資質や能力を生かして、自分の望む職業に就いたり、生まれが貧しくても学業によって成り上がることもできる。その意味でも近代社会は個人の自由と平等の実現を建前としているわけである。

その際に基準となるのが個人の成績である。それを基準にして個人を社会の中に位置づける制度をメリトクラシーと言う。「メリット」(=能力)によって人々が配置され、メリットを持つ人々によって統治されている社会だから。メリトクラシーのもとでは、何をめぐって競争しているのか、何を目指して努力すればいいのか、はっきり示されていた。受験勉強がそうであるように、共通に与えられた内容を一生懸命消化すれば、良い成績や学歴を手にすることができた。そしてそれにふさわしい社会的に地位を期待することができた。

つまりこれまで評価の対象になってきたのは、標準化された知識内容をどれだけ習得できるか、どれだけ速くこなせるかなど、いわゆる基礎学力としての能力だった。それはテストの点数や偏差値という共通の尺度によって測ることができ、個人間の比較を可能にしていたのである。それは同時に与えられた枠組に対して個人がどれくらい順応できるかを測っている。組織的、対人的な側面として、同質性の高い文化や規範を共有する集団(つまり日本の企業)に対して協調的であることが期待されていた。
(続く)




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2010年03月24日

フランスの子育てが変わった!? ― maternage intensif 

アフリカやアジアで生まれ、アメリカで理論化された maternage intensif という子育てのやり方がある。France 2 で特集していたので紹介してみたい。

eleverautrement01.jpgすべての時間を自分の子供のために捧げる。この子育てをとても有効な方法だと信じている母親が増えている。その一方で、議論も巻き起こしている。キャプシーヌは3歳半の娘を胸に抱いて母乳をやる。このやり方は家族の了解を得ている。「いつまでやるの?」「はっきり決めていないけど…」。父親は「続ければいい」と容認している。母乳のあとは栄養のバランスのために普通のご飯も食べさせる。それは栄養学的な観点からだけではない。母と子供の関係を特権化する方法なのです。それをmaternage intensif(=強い母子関係)と呼ぶ。キャプシーヌはそれをネットで知った。そのためのフォーラムもあった。「子供の欲求に答えるのが嬉しくてやっているの。その喜びを分かち合うサイトがたくさんあるわ」。小児精神科医は、「子供の欲求ではなく、親の欲求でやっているのでは」と疑念を抱く。

大きいスカーフで赤ん坊をおんぶしたまま、一日の家事をやる母親もいる。「ベッドに寝かしておくよりいい。目が覚めたらぐずらないでちゃんと起きるわ」。maternage intensif のもうひとつの側面なのだが、「この子はオムツをしたことがないの。5ヶ月の赤ちゃんでも、子供がおしっこのサインを出したら、すぐに準備することができる。子供の反応を見て、おしっこをさせる。したくなったら眉のあたりが赤くなって私をじっと見るの。自然なおしっこよ。これはしつけではなくて、母子のコミュニケーションの問題。ふたりのあいだに会話を構築するの」。

母子一体化が進む一方で、疎外感を訴える父親もいる。またリポーターはお約束のように「それは赤ちゃんの奴隷になることでは?」と尋ねる。「いいえ、赤ちゃんの欲求に答えているだけです」。「おむつ代がかからないし」と言う父親もいる。7ヶ月のヨアキムは母親と毎日一緒に寝ている。「踏んづけたりするのが怖くないですか?」。「全然」。コドド co-dodo(=一緒に寝ること)もオムツと同じように子供がいやだと言うまで待つ。「この子の姉は一人で寝れるようになるまで3年かかりました」。お父さんの中には疎外されていると感じている人たちもいる。健全じゃないと思っている父親もいる。「ベッドは親用なのにいつも必ず子供が入ってくる」と母子関係が一体化していることを心配する父親。精神科医は言う。「それは母親の強い不安に対する薬のようになっている。父親が疎外されると、夫婦関係にもよくない」。3分の1の家族がコドドをやっていて、ときどきそうするという家族も3分の1いる。精神科医によれば、赤ちゃんの発達にどのような影響があるか、それは大人になってからしかわからない。

以上がニュースの内容である。日本人からすると「なぜそれがダメなの?」っていう印象だが(元サッカー日本代表監督のジーコが6歳まで母親のおっぱいをしゃぶっていたというエピソードなんかも思い出す)、 maternage intensif とは母親が3歳を過ぎても子供を抱いて母乳をやることに象徴されるように、歳を決めて早い時期に母子関係を切り離すのではなく、子供が望むままにべったり関係を続けること。フランスは早め早めに子供の自立を促すお国柄だったので、違和感を覚えている人も多いのだろう。日本人とフランス人のカップルの友達がいるが、日本人の父親が娘を寝かしつけながらそのまま一緒に寝てしまうので、フランス人の母親が子供の自立によくないといつも怒っていたのを思い出す。小さな子供でも別室で寝かせるのが当たり前、子供は親=大人の空間に入り込ませないというのが前提の国だったのに。いろんな分野でフランス的な価値観が崩れている。

このような傾向は情報化、消費化した社会の影響があるのかもしれない。現在求められている「ポスト近代型能力」(本田由紀)は、独創性、視点の広さ、コミュニケーション能力によって特徴づけられる。その能力の開発は子供が生まれた瞬間から始まり、子供を放任しておくだけでは伸ばすことができない。子供の意欲やコミュニケーション能力を伸ばすために子供に手間をかけ、細かく気を配る必要がある。教育社会学者の本田由紀は『多元化する「能力」と日本社会』の中で親子のコミュニケーションの豊富さや信頼関係が、子供の意欲や対人能力などのメンタルなスキルに影響を与えるというデータを出しているが、その種のディスクールは最近メディアの中でも蔓延している。maternage intensif はこういう考えと結びつきやすいし、すでに結びついているのかもしれない。

ニュースに「子供の奴隷」という表現が出てきたが、maternage intensif がフランスで懸念されるのはそれが女性の自立の妨げになるかもしれないからだ。まさに本田由紀は、母親が子供の能力を引き出すことに専念せざるをえないと思うことによって、女性のライフコースの選択に大きな影響を及ぼすのではと危惧している。つまり子供をあきらめるか、仕事をあきらめるかの選択を迫られ、仕事と子育ての両立が難しくなると。



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2010年03月21日

春の音楽(2) GENESIS - THE LAMIA

ザ・ラム・ライズ・ダウン・オン・ブロードウェイ(眩惑のブロードウェイ)(DVD付)(紙ジャケット仕様)「月」の話を先に書こうと思ったが、「蛇」の話が先に仕上がってしまった。今回の曲はジェネシス Genesis の「レイミア The Lamia 」である。この曲は『幻惑のブロードウェイThe Lamb Lies Down On Broadway 』(1975)に収録されている。このアルバムでボーカルのピーター・ガブリエルと他のメンバーの軋轢の収拾がつかなくなり、彼が在籍する最後のアルバムになってしまった。メンバーの人間関係は最悪だったわけだが、傑作というものは往々にしてそういう緊張関係の中で生まれるものだ。『幻惑のブロードウェイ』はラエルという少年が主人公のコンセプトアルバムで、「レイミア」ではラエルが女性の顔をした3匹の朱色の蛇に魅惑される。美しいピアノに導かれた神秘的な曲である。

http://youtu.be/jWRrQ6GlI8o

Lamia には元ネタがあって、ギリシャ神話までさかのぼるのだが、最も知られているのはイギリスのロマン派の詩人、ジョン・キーツ John Keats が1819年に書いた物語詩である。キーツが語るところによると、ヘルメスはこの世で最も美しいニンフを探している途中で、蛇の姿のレイミアに出会う。レイミアはニンフのことを教える代わりに人間の姿に変えてもらう。レイミアはコリントの若者リシウスと結婚しようとするが、結婚式の場で賢人アポロニウスに正体を暴かれ、リシウスは悲しみのあまり死んでしまう。理性と感情のあいだの葛藤を描くキーツお得意のテーマである。

改訂版 雨月物語―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)今でも「魔性の女」という言い方がされるが、そういう女性の原型と言えるのだろう。危険だとわかっていても、たとえ身を滅ぼすことになるという確実な予感があっても、近づいてしまう。まさに理性と感情のあいだを揺れ動きながら。

日本にも同じような蛇の物話がある。上田秋成の「蛇性の淫」である。秋成によって江戸時代後期に著わされた読本の代表作『雨月物語』の中の一篇だ。蛇の化身である美女が豊雄という男につきまとうが、道成寺の僧侶に退治され、最後に三尺の大蛇の姿をさらす。

黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ (光文社古典新訳文庫)セルペンティーナ Serpentina という美しい金緑色の蛇に恋した大学生アンゼルムスが非現実の世界に足を踏み入れていくという、E.T.A.ホフマン Hoffmann によるドイツ・ロマン主義の傑作『黄金の壷』も忘れられない蛇の物語だ(ノヴァーリスの『青い花』やフーケの『水妖記―ウンディーネ』とともに)。

ところでジェネシスの「レイミア」であるが、アルバムの主人公ラエルが不思議な香りに誘われて、シャンデリアに照らされた通路を進むと、そこには霧に包まれ、薔薇色の水をたたえたプールがあった。そこには信じられないことに、女性の顔をした3匹の朱色の蛇がいた。ラエルは恐怖心を抑え、美しさに我を忘れ、服を脱いでプールの水の中にすべり込む…

Rael stands astonished doubting his sight,
Struck by beauty, gripped in fright;
Three vermilion snakes of female face,
The smallest motion, filled with grace.
Muted melodies fill the echoing hall,
But there is no sign of warning in the siren's call:
"Rael welcome, we are the Lamia of the pool.
We have been waiting for our waters to bring you cool."





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2010年03月18日

ロシアン・ドールズ Les Poupées russes

ロシアン・ドールズ スパニッシュ・アパートメント2 [DVD]「スパニッシュアパートメント」の続編「ロシアンドールズ」をようやく見た。「スパニッシュアパートメント」は授業で教材に使い、何度も繰り返し見ているので、登場人物たちと何だか顔見知りのような気がしてしまう。実際、この作品は前作の同窓会的なノリだ。

タイトルになっているロシアン・ドールズはいわゆるマトリョーシカってやつで、入れ子になっている人形のこと。ロシアン・ドールズは、これが最後の相手と思っても、その向こうに理想の相手が待っているのでは、と疑ってしまうことの象徴になっている。ひとりの相手を決めることができない。あらゆる可能性を試さずにはいられない。カバは一生、ひとり(一頭?)の相手と添い遂げるというのに(笑)。

モード雑誌の表紙を飾るスーパーモデルとも関係ができたりして、グザビエ君、ありえない。「スパアパ」でも美しい人妻と不倫していたし。とはいえ、グザビエだけでなく、マルティーヌもウェンディも恋愛に関して至って真剣だ。恋愛にはそれぞれの実存の問題がからむとは言え、傍から見ていてもあまり同情する気になれない。欲望にはきりがない。きりがないのが欲望だ。それって何だがバブリーなテーマじゃない?日本ではバブルの80年代後半くらいに「トレンディードラマ」(笑)でよく見かけたパターンのような気がする。バブルになると自分の可能性まで広がったと勘違いする。可能性のバブルと際限のない差異の戯れの中で溺れてしまうのだ。

この映画の公開は2005年。時期的にもリーマンショック以前の映画なのだが、さらにはユーロ・バブルの産物と言えるかもしれない。ユーロはリーマンショックの直前に1ユーロ=170円(=1・6ドル)をつけるが、2005年はそれに向けてまっしぐらな時期だった。セシルはグザビエと同じ経済学部出身だが、テレビのメロドラマを書いたり、モデルのゴーストライターをやったり、不本意な作家生活を送っているグザビエとは対照的に、金融資本主義の波にうまく乗り(グザビエは父親の意向に沿えばそうなるはずだった)、レズビアンの友だちを集めて羽振りの良い生活をしている。とどめには金融情報メディア、ブルームバーグ Bloomberg にも出演している姿が映し出されている。ウェンディは父親がロンドンに買っておいてくれたフラットに住んでいて、「今じゃ高くて買えないわ」と、不動産バブルをほのめかしている。当時パリでも不動産価格の高騰や家賃の上昇がよくニュースになっていた。

ユーロはリーマンショック後110円台にまで下落し、現在、ギリシャ危機の影響で120円台で低迷している。経済的な余裕があるから恋愛にこだわっていられる。理想の相手を求め続けることは普遍的な問題ではあるものの、今は恋愛すら難しい状況にある。実際、リーマンショックの予感の中で撮られたクラピッシュの最新作「PARIS」の登場人物たちはパリのすさんだ空気の中で萎縮し、臆病になり、人を愛することさえためらっている。

「スパニッシュアパートメント」で混沌としているが可能性に満ちたEUの未来を信じ、「ロシアン・ドールズ」でユーロ・バブルなメンタリティーを描き出したクラピッシュは「PARIS」で明らかに方向転換し、堅実なメッセージを発している。

「みんな不満だらけで、文句ばかり言っている。これがパリだ。」グザビエと同じくロマン・デュリスが演じるピエールのセリフが毎日続くデモの話題と重ね合わせて発せられる。「みんな自分が幸せだということをわかっていない」。パリあるいはフランスという枠の中で不満を言い、分け前をよこせと言っているわけだが、「PARIS」の中で、密航によってパリを目指すアフリカの若者が平行して描かれているように、パリもフランスもすでにグローバリゼーションの波の中にある。そういう自分たちの狭い特権的な枠の中で考えられなくなっている、とクラピッシュは言いたいのだろう。もはや分け前をとるだけとって、逃げ切る場所なんてどこにもない。身も蓋もない言い方をすれば、幸せになるためには幸せのレベルを下げろ、幸せの質を変えろということなのだ。

これは日本の世代間の話にもそっくりあてはまる話でもある。

関連エントリー「PARIS」
関連エントリー「スパニッシュ・アパートメント」




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2010年03月16日

マクドナルド・レビュー

マクドナルド化する社会★先月、日本マクドナルドホールディングスの2009年12月期連結決算が出ていたが、営業利益が前期比24%増の242億円、税引き後利益が3・4%増の128億円と、01年の上場以来の最高益を2年連続で更新。一方、構造改革のため1年以内に不採算店など計433店を閉店するという新たな方針も打ち出している。
★ブログの記事を読んでくれた学生のレポートの一部を紹介。まずは「金融危機下の外食産業(1) マクドナルドの復活」に対して。

■私はこの記事を読んで、「もう絶対ファストフードは食べない」「大学に入って一人暮らしをしたら自分で健康的な食事を自炊しよう」と『スーパーサイズ・ミー』を観て考えていた高校時代の自分を思い出した。そんな自分とは対照的に、現在の私は「先日、年末で閉店するウェンディーズで1つ970kcal.のバーガーを食べ」、「自炊など全くしていない」。
■学生寮で一人暮らしをしながら月単位で生計を維持する必要に迫られてみると、安い出費で手軽に腹を満たせるマクドナルド等のファストフードを避けて通ることはできないことを自覚させられる。そこには選択の余地はほとんど無く、「マクドナルドは不況に強いというよりは、不況が恒常化する世界(まさにグローバリゼーションの本質だ)を前提にしたビジネスを展開していると言った方がいい」という記事に照らせば、高校時代から現在への考えの変化はごく現実的で自然なものなのだと自己弁護したくなる。
■しかし、現状に埋没するのではなく、「食生活がどうあるべきで、それをどうすべきか」を考え続けることを忘れるべきではないだろう。マクドナルドを含めた現在のファストフード業界の多くが持続可能でないことは明白であり、マクドナルドが活躍する現状を肯定し続けるべきではない。私は今後世界で、持続可能かつ手軽で経済的な新しい外食モデルが登場すること(もしかすれば、「自分で」登場させること!?)が楽しみである。そのときには、「任天堂とタイアップして子供を惹きつける」、「週ごとに携帯クーポンを更新して在庫の管理・キャンペーンの強化をする」といった日本マクドナルド社のしたたかなビジネスノウハウからヒントを学ぶことはできると思う。
■いずれにしても、マクドナルドが今後の社会(21世紀で言えば残り9decades)にどのように対応・展開していくかが私自身とても気になる。もしかすると、I'm lovin' it キャンペーンに記事で書かれているような裏側があったと知らなかった私は、いつかマクドナルドにI’m amazed with it状態にさせられるかもしれない。
(HK)

ハンバーガーの教訓―消費者の欲求を考える意味 (角川oneテーマ21)★一時私もバリバリのオーガニック至上&菜食主義者になりかけたが、今はちょっとオーガニック好きくらいの感じで落ち着いた。さすがにマクドナルドは今でも食べる気がしないが、「リーマンショック後」の、あるいは「ユニクロ化する世界」において、外食産業界を餃子の王将とともにしたたかに生き抜く姿に学ぶべき部分も多いのだろう。
★新しい管理形態について書いた「マクドナルドの硬い椅子」が高い関心を呼んでいたが、これに関して、実際にマクドナルドでバイトをしている学生からの証言。

■僕もマクドナルドでバイトをしているが、確かにマクドナルドの椅子は硬い。記事に書いてある通り、客の回転率を上げるためなのであろう。マクドナルドの従業員は速さが重視される。カウンターでは客の注文を25秒以内に受けなければいけないことになっている。僕はあまり守っていないが、注文を受けるときに発する言葉にもマニュアルがあり、これを遵守しなければいけないらしい。自分がまるで機械のように働いている感じがして、嫌気がさすこともある。しかし、ハンバーガーを受け取る客の笑顔を見ると、マクドナルドのアルバイトも捨てたものじゃないと感じる。
■食料廃棄の問題もある。マクドナルドでは出来上がってから7分以上経ったポテトは捨てられる。大量のポテトで埋まったゴミ箱を見るととても心が痛む。マクドナルドが1日に出すゴミの量は非常に多い。1日に僕の1ヶ月分くらいのゴミを出しているだろう。
(SH)

ファストフードが世界を食いつくす★日本の食料自給率は40%と言われるが、世界的な指標とされている金額ベースでは65%ある。「40%」というのはカロリーベース自給率で、日本の農業を貧弱に見せようする農水省が「発明」したとも言われる。日本の農業を再興するために農水省が必要で、そのためには多くの予算をというカラクリだ。
★ところで食料廃棄にからめて言えば、日本が廃棄している食糧は年間1940万トン。これは年間5800万トンの食料輸入量の3分の1にも相当し、それを3割抑えるだけで、自給率は10%以上がる計算になるという。それに加え、日本人は必要なカロリー量の126%を摂取しているカロリーバーな国民なのだ。これも10%くらいそぎ落とせるだろう。
★もうひとつ、環境型管理の例として挙げた「モスキート音発生装置」について書いてくれた。

■ところで初耳だった「モスキート音発生装置」について調べてみた。販売会社の広告には「若者を排除することで、信頼感を与え、女性や年配の方などに安心してお店を利用していただくことができます」と書かれていて、この区別は何だろうと非常に疑問に思った。私も若者に含まれるから、コミュニケーションがどうのこうのという以前に気分が悪い。もしこの装置がどの公園やコンビニに設置されるようになれば、若者には居場所がなくなってしまう。今日居場所を失っている愛煙家の気持ちがわかるような気がした。若者も煙草の煙のように周りの人たちに迷惑をかけているのかもしれないが、やはり年齢という無差別的なふるいで区別するのは間違っていないだろうか。よく似たものに女性専用車両がある。痴漢の被害から女性を守る、確かに重要だが、一部の男性のために、性別で善悪を判断されているような気分になる。反対ではないが、一男性として少し肩身が狭い。
(KN)




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2010年03月14日

春の音楽(1) MIKE OLDFIELD "OMMADAWN"

Ommadawn春の音楽と題して、70年代半ばのプログレッシブロックの名曲を3回に分けて紹介してみたい。春の音楽というからには春の風物詩をテーマにしたり、春っぽい雰囲気の曲を選ぶわけだが、音だけでなく、イメージも豊かに膨らませるために文学作品とも絡めてみたい。

まずはマイク・オールドフィールド Mike Oldfield の「オマドーン Ommadawn 」(1975)である。

マイクの最も有名なアルバムは1枚目の「チューブラ・ベルズ Tublar Bells 」(1973)で、それはチャールズ・ブランソンのヴァージン・レーベル創業期(今は飛行機の方が有名)の記念すべきアルバムでもある。全英チャート1位を記録し、これまでイギリスで34番目に売れたアルバムでもある。確かにイギリス人の郷愁をかきたてるような音だ。さらにアルバムの導入部が本人の意図に反してホラー映画「エクソシスト」のサントラに使われ、不本意な形で彼の知名度を上げたことでも知られている。

マイク・オールドフィールドはプログレッシブ・ロックの範疇に入れられることが多いが、ひとりであらゆる楽器を演奏して、ダビングを重ねながら作品を作り上げる元祖多重録音ミュージシャンである。アメリカではニューエイジ系の先駆者として数えられているようだ。1枚目からそうなのだが、3枚目のアルバム「オマドーン」にもタイトル曲一曲(+小曲)で構成されている。CDではPart 1 Part 2 と2楽章に分かれているが、もとはLP盤のA面とB面だった。

Crisisこのアルバムはケルト音楽の強い影響下にあって、イラン・パイプ uilleann pipes というアイルランドのバグパイプも使われている。このアルバムは2枚目と同じくHergest Ridge(ハージェスト・リッジ)で録音されている。そこはマイクが住んでいたヒアフォードシャーとウェールズの境にある丘の名前で、2枚目のアルバムのタイトルにもなっている。マイクはチューブラベルズの成功のあと、人の目を避けて田舎に引きこもっていたのだった。

ジャケットにも写しだされている優しい目をした内向的な青年の隠遁生活が伝わってくるような、途切れのない数十分の音の織物だ。ワーズワースの詩を思い起こさせるような牧歌的な風景が目の前に広がる。雪解けの冷たい水が流れる小川を渡り、ケルトの薄暗い森を抜け、突然開ける平原を横切って、どんどん歩き続ける。

アコースティックな楽器の類だけでなく、エレクトリック・ギターも使われているが、音色がうまく溶け込んでいてあまりエレクトリックな感じがしない。それでいて情熱をひたすら内側に向けるマイクの心の動きを直接映し出すようにエモーショナルで、じわじわと聴く者の魂を高揚させていく。ミニマルなアフリカン・ドラムとも絶妙に絡んでいて、それらが生み出す土着的なグルーブは土の下から萌え出る春の胎動のようだ。

広大な平原でひとり佇み、強風に流されていく雲を見上げているような2枚目の「ハージェスト・リッジ Hergest Ridge 」も甲乙つけがたいアルバムである。ちなみに美しい月のジャケットは中期の作品「クライシス Crisis 」(1983)で、中身よりもジャケットが印象深い。女性ボーカルと組んだキャッチーなシングル曲「ムーンライト・シャドウ」がヨーロッパで大ヒットした。次回はその「月」をテーマにしてみたい。

Mike Oldfield - Ommadawn
Mike Oldfield - Moonlight Shadow


Ommadawn
Ommadawn
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Mike Oldfield
Virgin/Caroline (2000-07-11)
売り上げランキング: 86009
おすすめ度の平均: 5.0
5 アイリッシュ・トラッドに根ざした
優しいサウンドが魅力
5 初期最高傑作!
5 最高の非商業音楽
5 イギリス人の心に響く音楽
5 録音が古いところが
現代では少し辛いのですが...。




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2010年03月12日

動物と人間の世界認識(2)

動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない (ちくま学芸文庫)先回、ハリネズミやダニの話を通して書いたように、動物たちはそれぞれの環境を持っている。それは私たちが見ている客観的な世界とは違って、そのごく一部を切り取って見ている。それは極めて主観的で、それぞれの動物によって違うものだ。一本の木にクモとリスが住んでいたとしても、クモにとっての木とリスにとっての木は何の関係もない。それぞれに知覚と行動の独自の系列があり、その中で自足した閉じた回路の中で生きている。動物にとって意味があるのは、ささいな動きや音であって、それが環境を構築する要素になっている。それ以外に存在しているもの、私たちが客観的に存在していると思っているものは、動物にとって存在していないに等しい。動物の世界は客観的なものではない。それは主体の動物が構築し、主体の動物にとってのみ存在する極めて主観的なものである。私たちはイヌやネコの主観を無視して(他の動物よりはシンクロ度が高いかもしれないが)、私たちと同じものを見たり感じたりしていると想像的に感情移入しているわけだ。

それでは人間はどうなのか。そもそも人間のそれは客観的と言えるのだろうか。もちろん人間にも知覚的な枠がある。私たちには紫外線や赤外線は見えないし、感じることもできない。その作用を受けているだけである。それを概念的にとらえ、それが作用している世界を頭で考えている。それは現実的な価値を持つ場合もある。日焼け止めクリームを塗ったり、赤外線ヒーターを作ってそれを熱として感じることができる。目に見えない世界を構築しているわけである。しかしそれは、アゲハチョウが紫外線を感知し、それによって世界を構築しているのとは根本的に違うのである。

人間はどこまで動物か (新潮文庫)人間は何らかの自然の生存圏に対して器質的に適応していないし、そこに組み込まれてもいない。人間は知的活動や計画的活動をするように構造的に強制されている。人間はどんな自然状況にも対応できる生存の技術と手段を用いながら環境に働きかけ、自然を加工したり、方向付けたりして、どんな場所でも、どんな気候のもとでも生きることができる。つまり他の動物とは全く違った可能性を生きているわけだ。

人間はどんな条件のもとでも生きられるが、例えばジャングルに住む原住民が大都市で生活することには困難が生じるかもしれない。人間がどこにでも住めるのは、そこで習慣や訓練によって文化圏を作り上げるからで、文化依存度が高くなるほどそこから離れられなくなる。その場合、自然ではなく文化が問題になる。人間はどこでも生きられるという同じ理由で、どこでも生きられるわけではないのだ。

さらに人間は自分の生きている生存空間や文化圏だけでなく、宇宙の果てにまで思いを馳せる。人間は自分の生きている空間を、それを越える広大な世界の一部として捉え、そのように世界を解釈している。つまり人間は主観的に世界を所有している。人間の意識は部分的にしか知覚できないが、頭の中で拡張できるものすべて、思い抱くことのできるものすべてを所有している。

よく言われるように、人間には他の動物から見ると欠けたものが多い。寒さをしのぐ毛皮はないし、ハリネズミのような外敵から身を守るよろいも、素早く逃げる脚力もない。嗅覚や視力が極度に発達しているわけでもない。何よりもダニのような瞬時に発動する精確な行動形式がない。本能的な行動であっても不確かで迷いが生じるのが人間である。また大人になるまでの成長の期間が長く、長期間の保護が必要なのも人間の特徴だ。
(続く)




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