2010年03月10日

FRENCH BLOOM MUSIC と TWITTER を始めました!

お気づきになった読者の方もいらっしゃると思いますが、音楽関連記事を専用にストックするブログ FRENCH BLOOM MUSIC を始動しました。過去記事だけでなく、最新の音楽情報も掲載していく予定です。お気に入りやブックマークにご登録お願いします。INFO-BASE にカテゴリーが増えすぎてカオス状態になっているので、映画と音楽を切り離します。映画専用サイト FRENCH BLOOM CINEMA もただいま準備中で近いうちに始めます。音楽好きのライターがそろっていますので、フランスものをはじめとして、古今東西様々なジャンルの音楽をご紹介できると思います。

□FRENCH BLOOM MUSIC http://frenchmusic.seesaa.net/

ついでに今流行の TWITTER も始めました。INFO-BASE の右サイドバーに表示されるようにしました。今日のニュース(主に FRANCE 2 )で面白かったものをピックアップしたり、日々の感慨を適当につぶやきます。興味のある方 FOLLOW お願いします。



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2010年03月09日

フランスで弁当ブーム!(2) 弁当とプレゼンテーション

Presentation Zen: Simple Ideas on Presentation Design and Delivery (Voices That Matter)先回の記事「フランスの弁当ブーム!(1)」でガー・レイノルズ Garr Reynolds が弁当に言及していることに関してIsaoさんという方からコメントをいただいた。ガー・レイノルズはプレゼンテーション、デザイン、話し方のオーソリティとして知られているが、彼の著作『プレゼンテーション Zen 』はレイノルズが新幹線で駅弁を食べるシーンから始まる。そして彼の隣で文字のぎっしり詰まったプレゼンの資料を用意しているサラリーマンを前にして次のように問うている。なぜこの弁当の精神をプレゼンに発揮しないのか。なぜコンパクトかつワクワク感に満ちた日本の伝統をモデルにしないのかと。ネットでもレイノルズの講演がアップされていて、そこでも弁当に言及されている(23分20秒)。

And the first chapter of the book, I talk about Obento. How many people eat Obentos. Sometimes Obentos are poplular ,very healthy. I sort of use that as an analogy. Obento beautifully, simply packaged. All the content is delicious and nutritious and it’s just enough. How much? Not too much. Not too little. But it’s designed beautifully but nothing goes to waste, right? It’s just all right there, and I thought “Why can’t presentations be like that?” Right, nothing superfluous, everything has a reason and beauty matters but it’s also the content, especially the content that matters.(00:23:20)

なぜ今がプレゼンなどが注目されるパフォーマティブな時代なのかというと、共有されている自明な価値(=大きな物語)がもはや存在しないからだ。みんな壁に囲まれた小さな世界に生きているので、その壁を越えることが先決になっていると言えるだろうか。まずは相手の興味を引かないことには何も始まらないのだ。また人にわざわざ割いてもらう時間は貴重であると同時に、限られた時間でそれほど多くのことを人に伝えられるわけではない。

レイノルズが奨励するプレゼンは、文字や数字を極力少なくして、質の良い画像を使い、視覚的に伝えていくというスタイルだ。確かに細かい文字や数字を目で追うよりも、写真やイラストなどで視覚的に訴える方がメッセージが伝わりやすい。情報の詳細は配布資料に載せておけば、興味を持った人々があとで確実に読んでくれる。見た目よりも、中身が大事だと反論する人もいるかもしれないが、それは正しくない。中身が良ければわかってもらえるというのはコミュニケーションのレベルを考えない傲慢な考えだ。見た目と中身を適切に結びつけることが重要なのだ。それが、’everything has a reason and beauty matters but it’s also the content, especially the content that matters.’の意味するところだろう。

ところで、料理や弁当がどうしてブログのテーマになるかというと、それはプレゼンテーションであり、パフォーマティブな行為だからだ。ひと手間をかけるだけで、その分バリエーションが生まれる世界でもある。会社や大学で行われるプレゼンは一般的に時間をかけて準備されるものだが、料理は一発勝負なのでいっそうパフォーマンス度が高い。しかも料理はいつも流動的な状況で行われる。私が問題にしているのは、ありあわせのもので作る毎日の料理のことである。まず献立をはっきり決めて、それから買い物にいくというタイプの料理ではない。しかしその場合ですら、途中で考えが変わったりして状況は流動的である。食料品店は何かと誘惑の多い場所だから。

冷蔵庫にどんなストックがあったとか、食欲はあるかとか、どんなものが食べたい気分だとか、スーパーの安売りは何かとか、どれとどれを組み合わせることができるか。ちょうどスロットマシーンの目がそろうように、流動的な条件の中でチャンスを捉える。頭の中でとっさに思いついたり、ひらめいたことはその場限りのことで形に残らないが、書き留めておくほどのことでもない。しかし情報とパターンは確実に蓄積されていく。それは潜在力として生かされるのだ。料理は有無を言わせない実践である。理屈をこねる前にとりあえず何を作るか決めて、それを形にして出さなくてはならない。お腹を空かせて殺気立っている人たちが目の前にいるのだから(笑)。

残り物をベースにして作る弁当も基本的に同じである。まさにひらめきが物を言う技芸である。それは弁当の食材や美味しさだけの問題ではない。見た目の色合いや、栄養のバランスや、弁当箱との相性まで視野に入っている。さらには、弁当を相手に渡すときの態度とか、かける言葉とか、そこまでの一連の流れを含んでの弁当なわけだ。弁当はひとつの物語を作っている。むしろ弁当は物語を引き寄せ、いろんな要素を内に折りたたむアイテムと言った方がいいかもしれない。それが弁当を広げるときのワクワク感を生むのだ。(先回、弁当をスノビズムの産物と言ったが、それが下の相撲の話題にも通じるし、マンガとの相性がいいのもそのせいだろう)

Holy Bento(マンガの中の弁当!)

レイノルズによると、印象深いプレゼンには次のような法則が見出せるという。それらは、単純明快であること、意外性のあること、具体的であること、信頼感を与えること、感情にアピールすること、物語性があること。弁当の話題ではないが、『クリエ・ジャポン 1月号』に韓国の新聞記者が書いた「日本独自の文化メイクアップ」という記事が面白かった。この記者もまた優れたプレゼンテーションには物語性があることを証明している。

COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2010年 1月号 [雑誌]韓国には古くから伝わるシルムという朝鮮相撲があるが、なぜ日本の相撲のように国境を越えてアピールしないのか、と記者は問うていた。記者は特派員として東京に住み、日本の相撲を見るようになってシルムに不満を持つようになった。シルムでは水着のようなスパッツをはき、お尻にはスポンサーのロゴまで入る。つまりシルムにはスタイリッシュではないのだ。相撲のイメージは日本相撲協会によって周到に管理されている。お尻は丸見えだが、まわしは独創的な衣装である。髷を結い、土俵入りや四股などの独特な儀式が見所のひとつであり、それによって立会いまでの緊張感を高めていく。こうした立ち振る舞いや形式美のおかげで相撲には格調高い印象がある。相撲のプレゼンテーション効果の高さに比べると、シルムは場末の芝居小屋みたいなものだと。もちろん、どちらが優れているという問題ではないが、世界的な認知度においては相撲がはるかに上である。シルムはスポーツ的要素に重点を起きすぎ、先祖代々継承されてきた豊富な知恵を生かしきれていない、と記者は結論づけていた。

最近マッコリ(韓国のどぶろく)が洗練されてきたのに、相変わらず「安い酒」というイメージから脱却できないのも同じ理由による。日本酒のようにグローバルに成功するためには何かが足らないのだ。日本の酒屋で店頭価格が10万円を越える日本酒がある一方、日本に輸出されるマッコリは500円レベル。安っぽいというレッテルを貼られても仕方がない。日本酒には銘柄それぞれにこだわりがある。何を材料に使い、どのような製造工程で作られるのか。製造過程にこめられたストーリーとパッケージを含めたイメージ作りが付加価値をつけているのだ。




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ラベル:Garr Reynolds
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2010年03月04日

「ゆれる」

ゆれる [DVD]香川照之とオダギリジョーが全く似てない兄弟を演じている『ゆれる』。ゆれているのは吊り橋だけではない。(ネタバレになるので映画を見てから読んでください)

才能ある人間は自由に移動できる。クリエイティブな人間はひとつの場所に縛られずに、移動しながら仕事をする。弟は派手なアメリカ車(フォード)に乗っていて、オルガン入りのジャズがバックに流れる導入のスタイリッシュなシーンはアメリカの郊外を思わせるが、それは弟の自由な感覚を決定的に印象付けている。一方兄は仕事と家庭に縛りつけられている。兄の仕事が、車にガソリンを供給し、車を整備する、つまり車に奉仕する仕事というのが象徴的だ。家では頑固な父親の相手をし、母親を失くしたあとは家事もやらなければならない。

弟の存在が田舎の人間の隠されていた劣等感や欲望をあぶりだしていく。それを容赦なく自覚させるのだ。危険をさけて臆病に生きていたら(つまり田舎にとどまっていたら)、何にもない人生になってしまったという、死ぬ直前の千恵子の告白が重く突き刺さる。誰も責められないような、不幸な男と女のあいだに起こった事件だが、引き金をひいてしまったのは弟だ。成功したカメラマンなんてそういるものじゃないが、不幸にもそれを弟に持ってしまった兄。クリエイティブな人間は自由にふるまい、欲しいものを簡単に手に入れる。兄のかけがえのない、ささやかな幸福を、遊び半分で奪ってしまった。裁判の場で告げられる、被害者の体内に残っていた物的証拠があまりに生々しく、残酷である。

私たちは裁判を通して事件の真相や客観的事実が暴かれると信じている。しかしそんなものは存在するのだろうか。芥川龍之介の『藪の中』のように、それぞれの立場からの視点によって現実が相対化されているだけでなく、さらには思い込みと抑えきれない感情によって、現実は容易にゆれ動き、塗り替えられる。裁判員に当たってしまったら、こういう現実を吟味させられることになるのだろう。そして裁判の過程で作られる真実とは全く別物の、映画を見る者に暗示されるだけの内的な真実がある。

都会と田舎のメンタリティーが兄と弟のあいだで入れ替わっていく過程も見物だ。不幸な事故がきっかけで、兄の心は「都会的に」すさんでいく。夢も希望もない反復の地獄からようやく解放されたのが塀の中という皮肉。一方、弟の方は忌み嫌い、捨て去ったはずの共同体に固執し始める。

「都会と田舎」は19世紀の近代小説の始まりからの主要なテーマである。都会に出て一旗揚げようとするのは近代人の典型的な行動パターンだ。小説だけでなく、「都会で夢破れる」というテーマは映画や流行歌の定番でもあった。かつては成功できなくても少なくとも挑戦することはできた。しかし現在、夢破れるどころか夢にトライすることすら難しいという閉塞感が田舎にはある。越えがたく広がる希望格差。実際、自分が田舎に帰ると、繁華街ですら若者や子供の姿が少なく、少子高齢化の状況も切実に感じられる。不況がやってきても、なすすべもなく立ち往生しているような地方の姿は、そのまま今の若い世代と重なり合う。

ゆれる-予告編

ゆれる [DVD]
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バンダイビジュアル (2007-02-23)
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おすすめ度の平均: 4.0
3 香川さんの存在感
5 素晴らしい
5 答えなんてない
4 静かな映画
4 兄ちゃんは許していない





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2010年02月25日

アンジュの新しいアルバムが発売中!

木は日曜日も働いている(直輸入盤・帯・ライナー付き)
アンジュ(Ange)
DUレーベル(ディスクユニオン)原盤
French/ Art disto (2010-02-13)
売り上げランキング: 133155

フランスのアンジュ(Ange 天使の意)といっても知らない人がほとんどだろう。70年代にデビューし、これまで600万枚のアルバムを売り、6枚のゴールドディスクを取り、3000のコンサートをこなしてきたバンドである。そのアンジュが今年バンド結成40周年を迎え、その節目の年に奇しくも40枚目のアルバムが発売された。その記念すべきアルバムのライナーノーツ=解説を書く光栄に預からせていただいた(DISK UNION さんとのコラボで、上記の「ライナー」を FRENCH BLOOM NET 名義で書きました)。フランスのロックの情報がほとんどない時代、奇特なレコード会社が3枚のアルバムを出していたが、そのライナーノーツだけがアンジュの輪郭をなぞる唯一の手がかりだった。時代は移り、今やアンジュのアルバムはアマゾンで買えるし、昔の貴重なライブ映像もyoutubeで見れるし、2ちゃんねるではアンジュのスレッドまで立っている。

DISK UNION ONLINE SHOP(プログレの在庫も豊富!)

1970年に始まった音楽の冒険の生存者は68年=団塊世代のクリスチャン・デカンだけだ。90年代半ばから彼の息子のトリスタン(キーボード)が加わり、親子2世代バンドになっている。40周年を祝うためにアンジュは「40回目の雄たけび―Ange: la 40ème rugissante」と銘打ったツアーを2009年11月から始めている。極めつけは1月31日にパリのオランピア劇場(日本で言うと武道館かな)で行われたライブで、アンジュの最初のコンサートからちょうど40年目の日にあたる。フランスでは相変わらず人気バンドのようで、チケットは10月に売り出されてすぐに完売し、追加のコンサートも予定されている。



新しいアルバムの中身だが、プログレ(Progressive Rock)というよりは、それをベースにしつつ、新しい音楽の要素を吸収した洗練されたロックになっている。そこが評価が分かれるところだろうが、アルバムは実に多彩な曲で構成されている。ビデオクリップ(↑)になっている2曲目の「Hors-la-loi 無法者」では、ハードなギターにのせて、革命家のチェ・ゲバラへの憧れを歌っている。頻繁に聞こえる Allez loups y a というリフレインは Alléluia (ハレルヤ)と音が重っていることに気がつくだろう。オーディションを模したPVだが、最後にタコ(poulpe)を投げつけられて身震いしている表情が笑える。

マッシブ・アタックを思わせるイントロで始まる@「蝶と凧 Des Papillon, Des Cerfs Volants」。タイトル通り、スペーシーな広がりと飛翔感を感じさせる。フランス語もメロディにきれいに乗っていて、思わず口ずさんでしまう曲。D「アウタルキーの旅 Voyage en Autarcie」では自給自足の国を夢見る。アウタルキーはフランス語で「オタルシー」と発音され、自給自足の経済ブロックを指すが、詞の中では一種のユートピアのように歌われている。E「孤ならず Jamais Seul」では、「昔は孤独が好きで、人と話すことをバカげたことだと思っていた。しかし今は孤独ではない。自分の心のうちを打ち明ける相手がいる」、そういう成熟した大人の境地が素直に告白される。いずれも団塊オヤジのロマン炸裂といったところだろうか。

やはり目玉はアルバムのタイトル曲でもあるB「木は日曜日も働いている Le bois travaille meme le dimanche」だろう。いかにもプログレ的な展開を見せる12分半の大作だ。超越的な存在が人間に語りかけるという形式はプログレではときどき試みられるパターンである。ここでは「私は風」と言っている存在が、Je pense, donc je souffle…(私は考える、ゆえに私は吹く)と言う。これを聞くと、ムーディ・ブールスの『夢幻』(On the threshold of a dream, 1969)の導入部なんかを思い出す。そこでもデカルトの Je pense, donc je suis.(=I think therefore I am.) が引用されているが、『夢幻』ではヒッピー・ムーブメントの文脈で自然破壊や機械化がテーマになっている。今はそれがエコロジーの文脈で再登場しているわけである。歌詞の前半は口頭弁論 Plaidoyer、後半は論告求刑 Réquisitoire となっていて、人間が法廷に立たされ、告発されるという設定なのだろう。最後に、「人間よ、おまえの種を救え。人間よ、おまえは去らなければならない。ここはもうお前の場所ではない」と宣告される。それを機に曲調が急転回する。

The Moody Blues - In The Beginning / Lovely To See You (from On The Threshold Of A Dream)
The Moody Blues - Have You Heard / The Voyage(同アルバムの白眉)
Genesis - The Musical Box
ロック温故知新−英仏プログレ対決(1) ジェネシスVSアンジュ

アンジュはデビュー当時から「フランスのジェネシス」と呼ばれてきた。しかし、アンジュはプログレの世界全体ではマージナルな存在とは言え、ジェネシスと対等に扱うべきオリジナルなグループなのだ。クリスチャンの独特の言葉使いとボーカルのスタイルには、同時代のフランスのグループと一線を画すオリジナリティーがある。それをピーター・ガブリエルに比するのもいいが、同時にドラマティックに歌い上げるシャンソン歌手の巨匠、ジャック・ブレルやレオ・フェレの系譜を見ることもできる。またアンジュがベルフォールというドイツ国境の田舎町の出身で、ジェネシスがマザーグースを引用したり、英国色を色濃く打ち出していたように、初期の彼らも民話や童話のような土着的な世界を作り上げていた。アンジュはルーツ回帰から出発したという意味でも、(フランスでしか売れない?)国産バンドという意味でも、ロマン主義的なバンドなのであった。

Ange - Sur la trace des fées(live 77)

DISK UNION のプログレ担当のYさんによると、プログレに限らずCDを購入する世代が若年層に広がらず、CDの購入層は30代半ば〜50代が中心になっているようだ。youtube や iPod(ネット配信)で音楽を聴くデジタル・ネイティブにはプログレは馴染まないのだろうか。プログレはコンセプトアルバムであることが多いので、CD全体を通して聴かないと良さがわからないかもしれない。とはいえ、アンジュは貴重なフランスの文化遺産であることには間違いはないし、フランス語の勉強になるような良質なロックを見つけるのは意外に難しい。アンジュの70年代の名盤もぜひ聴いてみて(↓)。

Au Dela Du DelireEmile Jacotey



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2010年02月23日

フランスの英語教育事情

※SEESAAブログのメンテナンスが長引き、1日半ばかりブログの閲覧ができなくなっていました。表示速度の改善が目的だったようですが、まだ動きが悪いですね。

2月14日の FRANCE 2 にフランスの英語教育事情が紹介されていた。フランスには新しい英語教育をやるための設備を買うお金が不足しているらしい。大学改革をやろうとして教師や学生に総スカンを食らい教育相を辞めたグザビエ・ダルコス Xavier Darcos がフランスの子供たちを英語&仏語のバイリンガルにすると宣言していたが、外国語教育にはお金がかかるのだ。

■コンピュータの設備が学校で非常に遅れている。(ニュースで紹介されていた)この学校では毎週木曜にいつもと違った授業が行われる。ネット中継でふたり目のラシェル先生が授業をしてくれる。NYから直接話しかけてくれるのだ。ウェブカムによるインタラクティブな授業だ。去年から実験的に行われている。会話がとても弾み、手を挙げ発言することに誰も躊躇しない。楽しみながら英語を学んでいる。最初は半信半疑だった。確かに今では反論しようのない効果的なツールだが、まだこれから学習効果を明らかにしなければいけない。まだ揺籃期の段階だが、早く進むし、楽しくやれる。何よりも生徒の注意力をひきつけることができる。
■英語だけでなく、歴史や数学などの他の科目にも使えるが、導入するにはまだ十分な予算がない。コンピュータの部屋は7つに1つの学校にしか備わっていない。郊外の大規模校ではもっとひどい。600人の小学生が2つの小学校に分かれて通う地区で、ひとつのコンピュータの部屋をシェアしている。ネットの接続は気まぐれなのに、ネット回線が60人でひとつしかない。フランス全体では100人の生徒につき12・5台のPCしかない。PC の数が EU の27国中8番目、先生たちの PC の使いこなし度に至っては24番目と遅れている。イギリスでは学校がほぼ100%デジタル回線化されている。フランスは6%のみ。
■電車は出てしまったのだから、乗り遅れるわけにはいかない。まず先生を養成することが重要だ。イル・ド・フランスでは2400万ユーロを投資し、すべての高校がネット回線につながれる。出席や成績や宿題をそれで一括管理する。親たちもそれを見ることができる。まず先生たちがそれを使いこなさなければいけないのだが、それをいやがる教師たちもいる。

ところで、去年の夏、パリ第1大学(第1、3、4がソルボンヌ大学と呼ばれる)で法律を学んでいるいまどきのフランスの若者、ヴァンサン君がうちに遊びに来た。日本の大学を見てみたいというので、仕事先の大学に連れて行った。図書館に入って彼が驚いたのは、最新の mac が並んでいて、それを学生が自由に使っていることだった。液晶なんてありえないよ。フランスの大学はとんでもなくお金がないらしい。うちの大学なんてこれだよ。傍らにうち捨てられていた古い 変色したPC を指さして言った。こういうのが数台あるだけだよ。

日本の小学校(5&6年)でも英語が導入されようとしているが、中学になる前に英語に親しんでおこうという感じらしい。しかしうまくやらないと中学に入る前に英語嫌いを生みかねないという危惧もあるようだ。

大学では相変わらず多人数クラスで教師が一方的に文法を教えたり、みんなで訳読するという形式が踏襲されているケースが多い。一方で英語を中心に語学学習のツールは飛躍的に進歩している。ネットを見ても様々な学習ツールが無料で公開されているが、語学はオープンソース的に展開できる数少ない文系のリソースと言えるかもしれない。大学においてとりわけそうなのだが、語学はこれまで文学や思想の管轄下にあった。しかし今は脳科学や認知科学の領域になりつつある。辞書をひきながらダラダラと文学書を読んでいればいい時代は終わってしまった(私はその最後の世代だろう)。もちろん文法や訳読は不要なわけではないが、言語能力の一部に過ぎない(西洋に追いつくことが目標だった富国強兵の明治時代から20世紀末あたりまで意味はあったのだろう)。とりわけ今は「聞く、話す、書く」というコミュニカティブかつパフォーマティブなアウトプット技能が要請されている。

何よりも語学はツールであり、いかに効率的に習得するかが問われている。それは伝達のツールであるから、まず自分の専門や関心があり、それを発信しようという意志があって初めて意味を持つ。だから語学はむしろ最新の技術を創出し、発信している理系の学問と親和性が高いのだろう。最近、理系の側からの語学本もよく目にする。

また語学はどんな事態にも対処できる潜在的なコミュニケーション能力を底上げするものでもある。大学が産業界からの要請に応える機関だとすれば(たぶんずっとそうだった)、現在支配的になっているポストフォーディズム的な労働形態に対応する能力でもある。ネット広告では「いかに楽をして英語を学ぶか」というコピーが花盛りであるが、いかに語学習得が継続的な努力が必要な難しいことなのかもようやく言われ始めている。




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2010年02月20日

動物と人間の世界認識(1)

動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない (ちくま学芸文庫)いろいろ本を読んでいたら、動物行動学に行き着いた。ローレンツをはるか昔に読んだ覚えがあるくらいで(村上龍が挙げていて読んだのだと思う)、この分野は全くの素人だが、日本では日高敏隆という先生が第1人者らしい(ドーキンスの『利己的な遺伝子』の翻訳もなさっている)。日高氏の『動物と人間の世界認識』という本を読んでみた。これがけっこう面白い。ところで、ネコやイヌをネタにしたブログや動画が花盛りだが、ネコ語やイヌ語というものも存在するらしい。それは動物が人間と同じように世界を認識していて、人間の欲望と同じモデルで動物の行動の意味を理解できるという考え方がベースにあるのだろう。

動物行動学の先駆的な研究家、ユクスキュルが1930年代に唱えた「環世界」という概念がある。私たちが環境と言うとき、それは私たちのまわりを取り囲むものである。従来の自然科学的な認識では、環境は客観的に存在するものであり、そこにどんな草や木や花や石があるか、全部記述することができる。そして人間が知覚するのと同じように動物の環境も存在する。しかし、ユクスキュルは印象的なダニの話を通して、それとは違った説明を試みた。それぞれの動物が固有の「環世界」を持っているという考え方である。

ダニは森や藪の茂みの枝に止まっていて、その下を哺乳類が通ると、即座に落下してその動物の皮膚にとりつく。ダニには目がなく、待ち伏せ先の木に登るときは全身の皮膚に備わった光の感覚に頼っている。哺乳類の皮膚から流れてくる酢酸の匂いをキャッチするやいなやダニは下に落ちる。酢酸の匂いが獲物の信号になる。ダニは敏感な温度感覚によって何か温かいものに落ちたことを知ると、毛の少ない場所を探し出し、血を吸う。光も匂いも温度も刺激なのだが、それが主体によって知覚されたときに初めて刺激になる。それぞれの信号を意味のある知覚信号として認知し、それに主体として反応する。ダニを取り巻く環境にはいろんなものがあるが、ダニにとっては先の3つの刺激だけが意味を持つ。ほかのものは意味を持たないのである。人間に比べれば貧相な世界だが、その貧しさがダニの行動の確実さを可能にする。ダニが生きることにとって環境の豊かさは意味がない。血を吸うに至るまでの行動の確実さの方が重要なのだとユクスキュルは考えた。

ネコはどうしてわがままか (新潮文庫)ちょうど著者はフランスに留学経験があり、フランスの動物にも言及している。フランスといえば、『昆虫記』を著した昆虫学者、ファーブル Jean-Henri Fabre の出身地である。昆虫のメスがある匂いを発してオスを遠くから誘引するという、ファーブルが100年前に書き記した性誘引物質(後に性フェロモンと呼ばれる)の話も興味深いが、ここでは日高氏がフランスに滞在中に飼っていたハリネズミの話を取り上げてみよう。

ハリネズミはヨーロッパでは極めて普通に生息している動物で、ユーラシア大陸にわたって生息し、朝鮮半島にまでいるが、日本では見かけない。確かにヨーロッパの童話なんかにハリネズミがよく登場する。英語で hedgehog (=生垣のブタ)というが家の生垣の下に生息しているからだ(フランス語では hérisson というが、hérisser=毛を逆立てるという意味の動詞から来ているのだろう)。見た目はかわいらしい生き物だが、名のとおり毛が針のように硬い。唯一鼻の上には針がなく、抵抗なく撫でることができる。ハリネズミもそこを撫でてやると喜ぶらしい。

ハリネズミの動画(確かにかわいい)

なぜ飼い犬に手をかまれるのか (PHPサイエンス・ワールド新書)ところで、パリの郊外にいくと車道でハリネズミがよく死んでいるのだそうだ。著者は最初、ハリネズミは目が悪くて遠くが見えず、道路を横切る際に車が来て轢かれてしまうのだろうと考えていたが、調べてみるとそうではなかった。

ハリネズミのケージの中にミミズの入ったボールを入れると、ハリネズミは匂いでミミズの存在に気がつき、鼻をヒクヒクさせながらあたりを歩き回る。しかしどこにいるかはわからない。ミミズが一匹ボールから枯葉の上に落ちてガサっと音を立てると、そこにまっしぐらに走ってきて、ミミズを一瞬にして食べてしまう。つまり音に反応しているのだ。匂いで近くにいることを把握できるが、最終的にどこにいるかを知らせるのは音なのだ。

枯葉のガサガサっという音には超音波が含まれている。その超音波にハリネズミは非常に敏感なようだ。ハリネズミは目が悪いので遠くが見えない。頼りになるのは音で、ミミズの姿ではない。匂いは視覚と聴覚のあいだで漠然とした世界を作っているにすぎない。

それではどうしてハリネズミは車に轢かれるのか。ハリネズミは匂いがして、小さな超音波を感知すると、それは餌の存在を意味する。しかし、地響きのような音がしたときは大きな動物が来たことを意味するので、ハリネズミはクルっと丸まって身を守る。そうするとトゲトゲの玉になるので、オオカミでも手が出せない。それではハリネズミが道路を渡るときはどうだろう。渡っている途中で地響きのような音を立てて車が走ってきたとき、ハリネズミは大きな動物が来たと思って丸まってしまう。ハリネズミが車に轢かれてしまうのはこういうわけなのだ。
(続く)




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2010年02月18日

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ!

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)何だか馴染みのある方言だと思ったら、舞台は自分の故郷からそう遠くない場所だった。田舎のからみつくような引力を振り切って、圏外に飛び出すには狂気じみたパワーがいる。東京の大学を受験するという安易な方法ではなく、女優になるとか、漫画家になるとか、そういうケモノ道を行く場合はなおさらのことだ(※ネタバレになるので、見ようと思っている人は見てから読んでね)。

究極の勘違い女、澄伽(すみか)を佐藤江梨子が演じる。見事な逆ギレぶりは逆に清々しさを感じるほどだ。地味でオタクな妹、清深(きよみ)も派手な姉に負けないくらいのパワーがある。自分の身に降りかかった最悪の不幸さえもホラー漫画でリアルに表現せざるを得ない。兄と姉の危険な関係さえも観察の対象にしてしまう、好奇心旺盛、ナチュラルボーンなアーティストなのだ。それに澄伽にとって自分の本当の価値を教えてくれたのは兄ではなく、いじめ倒していた清深だった。兄は物分かりの良い顔をしながら、家族の病理をひとりで抱え込み、延命させていだけ。「家族、家族」と言いながら、兄の気遣いは全く的外れで(死ぬ必要だって全くなかった)、それは結局家族を壊すことにしかならなかった。兄が死んで姉妹は自由になり、ようやくふたりで外に飛び出していけるのだ。

サトエリもハマリ役だが、待子(まちこ)役の永作博美の怪演も見逃せない。夫の姉妹たちとは逆に、東京に生まれ、東京で育ったが(コインロッカーに捨てられ、孤児院で育った)、結婚相談所を通して田舎に嫁いできた。そういう待子の微妙にずれた狂気をうまく演じている。ぶん殴られて畳の上をゴロゴロ転がったり、めんつゆをぶっかけられたり、処女のまま放置する夫に必死にセックスをせがんだり。それに彼女が作る人形の気持ち悪さときたら。ずっと孤独だった待子は家族を求めて田舎にやってきたわけで、彼女なりに自分の欲望を田舎の新しい家族に刷り合わせようと必死だったのだ。おせっかいながら待子のその後が非常に気にかかる。

CM監督から初めて映画を撮ったという吉田大八監督は、テンションの高いドラマの合間に、スタイリッシュに切り取られた田舎の風景をまるで洗練されたCMのようにはさみこんでいる。あの切り取り方は田舎にどっぷり浸かった人間からは出てこない。自分も田舎に帰ったときああいう風に田舎を見ようとするからだ。疎外感とノスタルジーのあいだに引き裂かれるような感情とともに。

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ!【予告編】


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2010年02月16日

マヨルカ島とショパンとデヴィッド・アレン

Chopin: 24 Preludes Op.28世界中で愛される作曲家&ピアニスト、フレデリック・ショパン Frédéric Chopin が生まれてから今年で200年。ピアノの魅力を余すところなく追求した美しい旋律は、私たちの日常生活に溶け込んでさえいる。今年は生誕200年を記念したCDが発売され、地中海に浮かぶショパンゆかりのマヨルカ島 Mallorca(ス) Majorque(仏)にはファンがひっきりなしに訪れているという。

ショパンは1810年にポーランドで生まれ、ショパンは Chopin と綴る(フランス語に特徴的な ch の音と鼻母音が含まれる)。祖国をあとにしてウィーンやパリを転々とするが、1849年に39歳の若さで亡くなるまでポーランドの地を再び踏むことはなかった。ショパンは当時のパリの社交界の人気者で、ジョルジュ・サンド George Sand との逃避行など、ドラマティックな恋愛に身を投じたことでも知られる。

サンドとの逃避先がスペインのマヨルカ島だった。島の北西部にあるバルデモーサ村の日当たりの良い斜面にショパンとサンドが暮らしたカルトゥハ修道院が立っている。二人が暮らした眺めの良い部屋は現在資料館になっている。私は10年ほど前にそこを訪れたのだが、9月の地中海のまだ強い陽光が部屋の前に生い茂った蔦の葉のあいだからキラキラと漏れていたのを思い出す。

マヨルカの冬男爵夫人でパリの社交界の花形だったサンドは、若く才能豊かな作曲家に惹かれる。ショパンもまたはっきりと自己主張する政治的な女性作家に興味を抱く。社交界はふたりのうわさで持ちきりとなり、醜聞から逃げるようにサンドの子供2人とともにマヨルカ島に向かったのだった。本来の目的は結核の療養だったが、折りしも季節は雨季でショパンの体調を悪化させることになる。しかし、ショパンはサンドの看護に支えられ、創作に励み、そのときに完成したのが「雨だれ」を含む前奏曲集である。サンドも後年マヨルカ島での体験をもとに「Un hiver à Majorque」(「マジョルカの冬」1842年)を著している。

Vladimir Horowitz plays "Raindrop"

今のマヨルカ島はどうかというと、空港に降り立ったときからスペイン語表記と同じくらいのドイツ語表記であふれていた。意外なことに、そこはドイツ人バカンス客の植民地と化していた。ドイツにはバカンスの海がないからだろう。日本人にとってのハワイのようなものなのかもしれない。マジョルカ島のマジョリティーは「不凍港」ならぬ「不凍海水浴場」を求めるドイツの南下政策の結果なのだった。

ところで私はショパン好きが高じて(上にはポリーニのショパンを挙げておいた)、はるばるマヨルカ島というマイナーな観光地まで足を運んだわけではない。パリの旅行会社(Nouvelle Frontiere だったかな)で安いチャーター便のチケットを買ったが、今にも墜落しそうなボロボロの飛行機だった。隣にあるハウスミュージックの聖地、イビサ島にも行きたかったんだけど、それは断念。

Good Morning私の永遠のヒッピーアイドルである、デヴィッド・アレン Daevid Allen というミュージシャンがいる。そのうち「英仏プログレ対決」シリーズでも書くつもりだが、アレンはまずソフト・マシーン Soft Machine というイギリスのバンドのメンバーとして活動していた。しかしビザが切れていてツアー先のフランスからイギリスに再入国できず、フランスで新たにゴング Gong というプログレ&サイケなプロジェクトを立ち上げた。1968年、フランスで五月革命が勃発した際にアレンは学生側に加担するパフォーマンスを行い、このことで警察に追われる身となった。警官にテディベアを配り、ピジンのフランス語で詩を朗読しただけなのだが、影響力のある危険人物とみなされたようだ。そのときの潜伏先がスペインのマヨルカ島のデヤ Deià(ス) Deya(英)という村だった。ショパンと同じようにパリに居られなくなって逃れてきたわけである。

アレンが1976年に出したソロアルバム「Good Morning」のジャケットの裏側に、山道を歩いているアレンの写真がある。そこには「マヨルカ島のデヤにて」と書かれていて、その牧歌的な風景とアレンのヒッピーな姿に私は一瞬にして魅了された。そしていつか必ずそこに行ってみようと心に決めたのだった。私が高校生のころである。

アルバムの曲が youtube で見つかったので紹介しておく。ユング的なタイトルだが、ミニマルなマリンバが心地よいスピリチュアルな曲である。

Daevid Allen - Wise man in your heart(from Good Morning)

それは20年後に実現した。人生なんてそういう適当な思い込みで方向が決まるものだ。同じように、ピンク・フロイド Pink Floyd にサントロペ San Tropez (仏 Saint Tropez)という曲(Meddle 収録)があって、そのお気楽な詩に何となく惹かれて、いつかサントロペに行こうと思っていた。それはマヨルカ島の数年後、21世紀に入って実現した。サントロペは地中海に面したフランスの超高級リゾート地で、フランスの芸能人も集ってくるような場所だ。そこはヨーロッパの階級社会の彼岸のような場所だった。港に巨大なクルーザーが軒を連ねていて、デッキでは金持ちの一家が、「下々の皆さん」(笑)って感じで観光客を見下ろしながらシャンパンを飲んでいた。ピンク・フロイドの曲をバックに流した下のスライドはサントロペの観光案内になっている。もうひとつ、デルフィーヌという素敵なお姉さんがサントロペの街を案内してくれる動画も。街の魅力が十分に伝わってくる。

Pink Floyd - San Tropez
Delphine Visits Saint-Tropez




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ラベル:ショパン Chopin
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2010年02月14日

『卒業』とアメリカの68年(1)

卒業(1967) 【プレミアム・ベスト・コレクション\1800】 [DVD]結婚式の真っ最中に花嫁を奪う。これほどドラマティックな出来事はないし、花婿や両親に対するこれ以上のダメージはない。言うまでもなく、ダスティン・ホフマンの出世作となった『卒業』(1967年)のことである。また音楽とラストシーンがこれほど印象深く結びついている映画もない。サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」のことである。最近、main blog で「映画の文化的、時代的な背景」がちょっとしたテーマになっているが、『卒業』もまたその時代背景を理解すると印象が一変する映画だ。私が『卒業』を見たのは高校生のころだったが(もちろんリアルタイムではない。思えば、私が初めて見た洋画はイレーン役のキャサリン・ロスが出ている「レガシー」だった)、それがアメリカの世代間の文化戦争の反映だと知る由もなかった。

すべてをぶち壊しにした自分たちの行為に酔っていられる時間はそう長くはない。ラストシーンでベンとイレーンはバスの後部座席でどうしたらいいのか途方に暮れる。そもそもベンは映画の始まりから自分が何をやりたいのかわかっていなかった。しかし、はっきりとわかっていたことは、大学を卒業して家に戻ってきたとき、両親から受け継ぐべき世界が、自分の求めるものではないということだけだった。その後、ベンははっきりと自分の進むべき道を見出す。ちょっと強引な言い方をすれば、マイクロソフトのビル・ゲイツやアップルのスティーブ・ジョブスは彼のなれの果てなのだ。

「卒業」というタイトルだが、問題になっているのは大学からの卒業である。小熊英二が『1968―若者たちの叛乱とその背景』で日本の大学の1968年を描き出しだしたように、アメリカの68年もその後のアメリカを見る上で興味深い転換点になっている。アメリカの68年は日本とは違って、その後の世界の趨勢にまで多大な影響を与えただけでなく、現在の支配的なライフスタイルの原型を作ったのだから(詳細は次回以降)。

ベンの表情は今見ても感動的だ。こういう表情を今の映画では撮ることはできない。虚飾に満ちた大人の世界をがむしゃらに突破しようという情熱。今の世の中は草食系ばかりが話題になり、そういう若者の情熱と出会わない。若者が時代を食い破るような情熱を持てない世界は衰退していくしかないのだろう。

卒業-オリジナル・サウンドトラックとはいえ、次の時代への脱皮の準備をしたのは大人たちだった。今のままではアメリカはもたないという意識から出たことだったのだろう。当時アメリカの大学は大きな変化の中にあった。ハーバード大学を例に挙げるなら、一地域のエリートのための閉じた大学から、アメリカの優秀な頭脳を集めた活気のある大学に変貌していた。1952年のハーバード大学は北東部の社会のエリート限定で、新入生はほとんどがWASPだったが、1960年にはアメリカ全土から学生を受け入れるようになっていた。ハーバードの学生は昔から優秀だったわけではなく、学力もこの時期に飛躍的にアップしたのだ。ハーバードだけでなくアメリカの有名大学が同じ時期にその門戸を血統や縁故ではなく、知能によって切磋琢磨するメリトクラットたちに大きく開いたのだった。多くの大学でユダヤ人(ダスティン・ホフマンはユダヤ系である)や女性に対する割り当て制限も撤廃され、大学の民主化も著しく進んだ。

そのような環境の中で、新しい成り上がり者たちは旧勢力にとって変わろうとした。WASP的な文化を破壊し、個人の実力を基準とした新しい気風でアメリカを塗り替えようとしたのである。いつの時代もそうだが、消えゆく運命にある既得権益層は、新興勢力を脅威として感じれば感じるほどますます意固地になる。最後のベンの行動を阻止しようと必死につかみかかる親たち。ベンはそれをかわして教会の扉を十字架でふさぐ。そしてイレーンの手を取り、彼らの目の前を軽やかに駆け抜けるのだ。1960年代の後半の若者たちの文化革命を右派は天災と言い、左派は奇跡と言ったが、それは1955年から1965年のあいだにアメリカの大学で起こったトレンド転換の必然的な帰結だった。

『卒業』ではプロテスタントのエリートたちの生活が情け容赦なく暴露されている。当時のWASPたちがどういう価値観を持ち、どういう暮らしをしていたかはデイビッド・ブルックスの『アメリカ新上流階級 ボボズ』に活写されている。豪奢なバー、モノグラム入りのゴルフシャツ、金時計、白い壁と白い家具。これらは浅はかさと偽善の象徴である。実際彼らは映画の中で人形かロボットのような印象を受ける。昔見た特撮人形劇「サンダーバード」(1965年のイギリスの作品)を思い出させる。そしてミセス・ロビンソンの姿を通して、カクテル三昧の生活に隠された絶望が暴かれる。ベンとミセス・ロビンソンの不倫関係が明るみに出るだけで、すべての仮面がはがれ、すべての虚像が脆くも崩れ去る。それらがいかに危ういバランスの上に成り立っていたかを証明するように。

ベンがイレーンを連れ去れる教会はサンタ・バーバラのプレスビテリアンの教会(長老派と呼ばれるWASP的な教会)である。花嫁を奪われる男は典型的なWASPタイプのくそ真面目なブロンドの医者。イレーヌに対する「僕たち、素晴らしいチームになれるよ」というプロポーズの言葉には、WASP文化の軽薄さと感情の冷淡さ、そして体育会系の執拗なスポーツ志向が表れている。(続く)

The Graduate - End Scene




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2010年02月08日

「エリ、エリ、レマサバクタニ」 Eli, Eli, Lema Sabachthani ?

エリ・エリ・レマ・サバクタニ 通常版 [DVD]以前から気になっていた青山真治の「エリ、エリ、レマサバクタニ」(第58回カンヌ映画祭ある視点部門出品作品)を見た。タイトルは十字架にかけられたキリストが息を引き取る前に叫んだ言葉だ。最初から既視感と今さら感が抜けなくて、30分くらいで見るのをやめようと思った。人間を自殺させるレミング・ウイルスの蔓延だって?ノイズの轟音は80年代にさんざん聴いたので今さら驚きもない(暴力温泉芸者の中原昌也が俳優として出演している)。2006年に撮る映画なのだろうかと。しかし陰気な顔をした宮崎あおいが登場したあたりから少し空気が変わった。気を取り直して続きを見た。

エリ、エリ、レマサバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)。神に見捨てられることは、最終的なセーフティーネットにさえ見捨てられるということだろうか。確かに今の時代ほど不透明な空気に満ちていて、人間の存在が根っこから見捨てられる感覚にとらわれる時代はない。レミング病が流行らなくても、すでにうつ病や自殺の時代になっている。一方で去年インフルエンザが大流行して、目に見えないウィルスの恐怖(メディアティックな伝染も含めて)を私たちは身をもって感じた。

レミング病を治すには、二人が奏でる音楽を聴くしかない。今では音楽療法が一般化していたり、「癒しの音楽」と呼ばれる音楽があったり、音楽の治療的な側面が注目されるようになっている。音楽は音を方向づけ、安定と調和を表現する。そもそも人間の文化は荒々しい自然を反復と形式の中に押し込めることで成立し、それが人間の生活に安心を与えてきた。音楽はノイズ(無秩序な音)のコントロール&オーケストレーションという意味で人間の文化の象徴だった。

しかし人間を守っていた文化=音楽が崩れ始めている。人間を保護膜のように包み、精神を安定させていた音楽が失われつつある。私たちは剥き出しの自然と宇宙に直接向き合い、それらが放つ生々しい音を聴かなければならない。本来、音(楽)を聴くことはそういう経験だったはずだ。ノイズミュージックは壊れた音楽なのではない。人間が分化する以前の、原初的な音楽なのだ。泡立ち騒めく細胞の音、生命が飛躍する瞬間の絶叫のような。

最近新聞で読んだのだが、ウィルスの侵入が従来考えられていた以上に、生物の進化に大きな影響を与えてきた可能性があるらしい。人間のDNAにもウィルスの遺伝子が組み込まれていて、人類の生命に根本的な変化をもたらしてきた。人類のDNAを書き換えるのがウィルスだとすれば、新しい音楽に対する感受性を呼び込むのもまたウィルスなのかもしれない。

不治の病を治す音楽を設定することは、音楽に絶対性を持たせることになる。キリストの死に全人類の贖罪の絶対的な瞬間を求めるように。しかしそういう絶対的な瞬間を失った代わりに、それを埋め合わせるために、私たちはそれぞれ音楽を聴いている。相対化された音楽を孤独に消費している。それは楽園を追放された人間の宿命なのだ。ノイズミュージックもまた趣味性の高い音楽で、感情移入できる人間はむしろ少数派だろう。音楽を共有することは難しく、音楽を介した共感はそう簡単に起こることではない。ましてや万人が陶酔できるような絶対的な音楽なんて不可能に近い。それでも人間はそれを夢見ずにはいられない。

長髪の浅野忠信が近未来のキリストを演じる。広い青空の下の黄色い平原でノイズギターをひきまくる。ノイズによって罪を贖うキリストだ。十字架のように屹立する縦長のスピーカー。目隠しをした黒衣の宮崎あおい。このシーンを見せてもらっただけで十分だ。監督もこれを撮りたかったのだろう。何かピンク・フロイドの「ライブ・アット・ポンペイ」を思わせる神々しさがあった。

「エリ、エリ、レマサバクタニ」公式サイト 




cyberbloom@サイバーリテラシー(200本目記念エントリー)

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2010年02月02日

フランスで弁当ブーム! 

リーマンショックに端を発した今回の金融危機で高級レストラン以上に打撃を受けているのがフランスの街角のビストロだ。2008年の上半期だけで3000以上のビストロが経営破綻した。破綻の数としては過去最多で、その後も件数は増えている。金融機関の貸し渋りだけでなく、材料費の高騰も追い討ちをかけている。フランス人のランチにかける金額も大幅に減り、定番の食後のエスプレッソを削る人も目に見えて増えているという。



フランス人は昼休みを2時間たっぷりとり、ビストロで優雅にランチを食べると言われたものだが、ここ数年、企業がグローバル化の影響を受けたり、金融危機に見舞われたりして、そんなことは許されなくなった。古き良きビストロの倒産は残念だが、グローバル化や金融危機はフランスの外食産業を時代に合った形に変える契機になっているようだ。フランス人が子羊のシチューの代わりに口にするようになったひとつが、マクドナルドだ。フランスにあるマクドナルドは1134店舗。マクドナルドはフランスの食文化に近づこうと、2003年から店舗のインテリアを大幅に変え、メニューにサラダやヨーグルト、一口サイズのスナックを取り入れてきた。2008年にはマクドナルドのフランスでの売り上げが大幅に伸び、過去最高の33億ユーロ(4150億円)を記録したが、その後も店舗を増やす計画を立てている。

マクドナルドの盛況とパラレルに、サンドイッチ・ブームも起こっている。サンドイッチ自体は昔からあるが、03年から08年のあいだにサンドイッチ市場は規模にして28%も拡大。バゲットで作る伝統的なものから、イギリス風の食パンで作る三角形のサンドイッチまでバリエーションは豊かになり、ランチはオフィスで席についたままサンドイッチを食べるという光景も珍しくはない。

mespetitsbento01.jpgさらに新たな庶民の味方が加わった。それは日本生まれの「弁当」である。一昨年あたりからフランスで弁当が流行っていて、雑誌のELLEなんかも弁当特集をやっているという噂はボチボチ耳にしていた。弁当はすでにマンガを通して知られていたようだ。学園マンガでは早弁シーンが定番ですからね。リーマンショック後の不景気で会社員の昼食時間が削られ、さらに昼食代を削るために、節約しつつ早く食べられるということ弁当が普及したようだ。bento もすでにフランス語として定着している。「弁当箱」も注目の対象になっていて、その洗練された機能美が賞賛されている。フランス人の友だちができたら、小じゃれた弁当箱をプレゼントするのもいいかもしれない。

弁当はまさに日本のイメージにぴったりなのだろう。弁当は一種のスノビズムであり、個人の創造性が発揮される盆栽のような小宇宙なのだ。重要なイベントにはおかずを豪華にして、漆器の弁当箱を使うとか、弁当なら栄養のバランスやダイエットやアレルギーにも配慮できるとか、弁当の利点が多面的に紹介されている。とはいえ、弁当は何よりも節約のアイテムであることを忘れてはいけない。弁当が評価されるのは不況が恒常化した時代との親和性にある。弁当のおかずには前の日の残り物や冷蔵庫の余り物をうまく使うべきで、その点にこそ創造力が発揮されるべきなのだ。下に紹介した Bento Blog にはJ'ai plein de restes dans mon congélateur c'est parfait pour un bento ! (私の冷凍庫は残り物がいっぱいで、弁当作りに完璧!)と書かれていて、弁当の本質をきちんと捉えている。

Mes p'tits bento par Audray(フランスのオドレーさんによる弁当ブログ)

上の動画ではフランスの弁当事情が紹介されている。おにぎりも流行のようで、おにぎりの型も売っているようですね。動画で弁当料理教室をしているシェフは「アンチ残り物派」で「弁当は残り物で作るのではない。私は弁当のためにわざわざ買い物をしてフルコース仕立てにする」と言っている。これは日本のやり方とも一致すると言っているが、なんでデザートがマカロンなわけ?そこまで言うなら、使い捨て紙パックではなく弁当箱にいれなきゃ。

ちなみに私が得意な弁当は雉丼弁当。ときどき子供に作ってやります。雉丼と言っても使うのは鶏肉で、ご飯の上に海苔を敷き、鶏肉の照り焼きとダシ巻き卵を載せ、絹サヤを添える。白、黒、茶、黄、緑と、色どりもきれい。タレの染みたご飯も美味しい。「かんたんフレンチレシピ」のmandolineさんに「フレンチ弁当レシピ」をお願いしてみようかな。試食会もついでに(笑)。

フランスで弁当ブーム Boom du Bento en France



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2010年01月30日

「トウキョウソナタ」

トウキョウソナタ [DVD]2008年のカンヌ映画祭の「ある視点」部門で審査員賞を受賞した『トウキョウソナタ』を見た。キャッチコピーから、もっと淡々とした感じの映画かと思っていたら、シャレになっていないシーンも多く、かなり深い部分をえぐってくるような衝撃を感じた。しかし直視すべき映画である。派遣村の報道などでしばしば垣間見られる底の抜けた東京の現実。そして完全に破綻した世代間のコミュニケーション。

リストラにあった夫(香川照之)は46歳。微妙な年齢だし、微妙な世代だ。50代、60代と違って「昭和的価値観」で目と耳を閉ざしたまま逃げ切ることもできない。自分自身それに疑念を抱いているから、まるっきり張りぼてなのだ。子供に対して怒鳴ったり、殴ったり、旧態依然とした権威を振りかざすが、説教の内容は「おまえが言うな」って感じで、そのまま自分に返ってくる。むしろ子供たちが見ていてかわいそうだ。子供たちは今までよりもいっそう早熟にならざるをえないのだろう。なぜなら親たちの価値観ときたらまるで全く使いものにならず、逆に有害ですらあるからだ。人生の方向付けにアドバイスできるどころか、子供たちからは親たちの思考停止ぶりやバカさ加減がはっきりと見えている。だから早くから自分で自立と自活の道を模索しなければならない。

次の世代に何も伝えられない。生きる指針として伝えるものが何もない。これが最も深刻な事態なのだろう。下の世代からは「あんたたちはバブルで浮かれて、バブルの余力で生き残っているだけじゃないか」というふうにしか見えない。「父親の権威」なんて羽振りの良かった時期の、年功序列と終身雇用に裏打ちされた「男性正社員」という身分によって担保されていたにすぎない。それだって自分で考え抜いて選択したものではなく、時流に流されてきたにすぎない。それに代わるものがないから。オルタナティブについて考えてこなかったから、その虚像の上塗りを繰り返すしかない。。子供がアメリカの軍隊に志願しても、なぜそれがダメなのか説得力のあることが言えない。家族がセーフティネットになるか、泥舟になるかは、日ごろから話し合っていかに価値観を詰めておくってことだろうか。最後の砦である家族のあいだでコンセンサスがとれていないことは今の時代にあっては限りなくリスキーなことなのだ。私自身の、あるいは同世代の周囲の家族を見ていてもそれを実感させられる。

トウキョウソナタ(竹書房文庫た1-1)もうひとつ会社という組織の変化がある。前の会社で総務課長をやっていた自分が何で他の会社で受け入れられないのか。主人公の男は傷ついている。リストラされた会社でも、新しい会社の面接でも「あなたは会社のために何ができますか」と聞かれて何も答えられない。質問の意味すらわからない。新しいアメリカ式の人事は「すぐここであなたの能力を示してください」とまで言う。日本のサラリーマンの能力は、ある会社のある部署で培われるローカルな能力なので応用が利かないとしばしば指摘される。男は苦し紛れに「人間関係を円滑にできます」と言うが、そんなものは何の役にも立たない。「フランステレコムで何が起こったのか」で書いたことだが、今や労働者は与えられた仕事を従順にこなすことを求められているのではなく、潜在的な能力を持った人的な資本とみなされ、常にみずからの能力を開発しなければならないのだ。

小泉今日子はいい感じで歳をとっている。私と同い年だったと思うが、彼女が16歳でデビューしたときあまりにかわいくてファーストアルバムを予約してしまったほどだ。彼女と、リストラにあった夫と一緒に心中してしまったもうひとりの主婦とは、どこが違ったのだろうか。とにかく現状を受け入れようと開き直ったことだろうか。コミュニケーションが取れたわけでも、価値観を刷り合わせたわけでもない。その作業はこれからだ。ドビュッシーのピアノソナタが家族の再生を奏でる。

「トウキョウソナタ」公式サイト




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2010年01月28日

日本の子育てはフランスに追いつけるか(2)

ちょうど19日にフランス国立統計経済研究所(INSEE)が、2009年度のフランスの出生率(正確には「合計特殊出生率」、女性1人が生涯に産む子供の数)を1.99(暫定値)と発表した。08年の2.005から下落し、2年ぶりに2.00を割ったが、それほど大きな変化ではない。フランスの人口は1月1日現在6466万7000人で、前年同期比で34万6000人増加した。

先回の重要な論点は、もともとフランス人の女性は働いていたのではなく、1960年代まではフランスでも「サラリーマンの夫と専業主婦の妻」というのが標準家庭だったということ。そして70年代以降、働く女性に優しい法律を策定することで、そのようなライフスタイルがここ30-40年のあいだで一気に変わったのだった。

それでは佐々木常夫さんの「日本の子育てはフランスに追いつけるか」の続きを。

「働くのは夫」という共通意識は日本企業を長時間労働に追い込んでいる一因でもある。それは「家で夫は何もしない」という前提だから、会社にすべてを預け、男の人生=会社になってしまう。この役割分担は明治の富国強兵の時代から始まり、高度経済成長の時代にはそれなりの幸せを生み出したのだろう。男たちは家のことが気になっていたのだろうが、会社が帰らせてくれない。しかし家で妻の訳のわからない話を聞いたり、気が重くなる子供の教育に関わるよりは、会社にダラダラいるほうが心地よいし、楽なのだ。

日本にフランス式が根付かないもうひとつの理由は、自己責任や自助努力という考えが日本に蔓延しているからだ。このアメリカ式の考え方が日本にも浸透して、親の経済力では大学に行けないとか、自分の稼ぎでは子供を育てられないという人が現実にいるのに、それを自己責任という理由で切り捨ててしまう。

佐々木さんの出身地の秋田県では07年に子育て新法の導入が議論されたという。4%の県民税に0・4%を上乗せして、年間25億円を集め、県独自の子育て支援に使おうという自治体初の試みとして注目を集めた。その内容は、保育料の半額助成、3人目以降の子供には奨学金を貸与することだった。事前の県民へのアンケートで、この策が秋田県の発展につながると70%が回答したが、一方で新税を負担したくないという回答が70%に上った。そしてこの計画は結局流れてしまう。つまり現実の生活や目先の損得が、長い目でみれば正しいであろう政策や理想を打ち壊したわけである。

やはり日本ではフランスのような少子化対策は無理なのだろうか。政治家はもちろんのこと、知識人やメディアも一緒に信念を持って根気よくアピールことだと佐々木さんは述べている。

佐々木さんは現在、東レ経営研究所社長という立場だが、ご長男が自閉症で、かつお連れ合いがうつ病でご苦労なさったようである。朝5時に起きて家族全員の弁当を作るには、10時に寝る必要があり、当然、残業などやってられない。それで上司と何度もぶつかった。しかしそれを通して佐々木さんは働く女性の立場を理解・実感し、一方で自分が責任を持って家のことをやらないとこの家はダメになると思ったのだそうだ。会社に依存する男性たちを一方的に批判するのではなく、彼らはそういう立場になったことがないから知らないだけなのだと擁護する。

佐々木さんは『東洋経済』の次の号で日本企業の残業について書いている。もちろん誰も表立っては言わないが、正社員は残業手当や休日手当てを増やしたいから、進んで残業をやる。つまりわざとダラダラと仕事をして残業まで持ち込み、効率や生産性を落としているのだと喝破している。そういう男性社員は「家に帰ってもすることがない」と言う。つまり家庭にコミットするつもりもなければ、仕事以外の人生もない。それが多くの男性社員の人生観、生活態度なのだと。

『東洋経済』(1月9日号)にリチャード・カッツ(FTやNTに寄稿する知日派ジャーナリスト)が「子供手当論争から日本の病巣が見える」という興味深い記事を書いていた。そこで「日本の社会保障の衰退は日本の社会保障制度が国民全体を対象としていないことが理由だ」と述べている。つまり、社会保障制度が職業や会社の規模、婚姻などによって分割されているからだ。政府が社会保障を企業に丸投げしてきたせいで、どの組織に所属するかで給付される額や受けられるサービスがバラバラで、不公平なものになる。子育てに関しても、余裕のある大企業は子育て支援をするかもしれないが、中小企業はそれどころではなかったりする。相変わらず制度的に主婦が優遇され、働く女性がバカを見たりする。日本全体が潤っているうちはいいが、「貧すれば鈍する」の状況だとそれが顕在化して、自分と立場の違う人間に対する不満と不信が募り、社会的な連帯感が損なわれるとカッツは指摘する。

さらに問題なのは世代間の不信である。佐々木さんが挙げていた「秋田の子育て支援案」が流れてしまった例も、その側面が大きいのだろう。自分の子供や孫にはお金をやっても、他人の子供や孫のためには税金を払いたくないのだ。民主党が打ち出す「子供手当」に対する支持がそれほど大きくない(60%から徐々に下がっている)のはそういう連帯感の欠如が根本にあるのだろう。今や日本では高齢者を抱える世帯の方が、子供のいる世帯よりも多く、過去20年で子供のいる世帯が半減している事実がある。逆に言えば「子育てが自分の問題ではない世帯」がそれだけ増えたということでもある。同じように年金保険料を支払わない若者が増えている。それは高齢者を利するだけで、自分たちには見返りがないと思いが根底にある。

リチャード・カッツはこのような分断状態、あるいは分断から生まれる利己主義は、現在の制度や指導者の言動によって生まれたものだという。国の指導者はそのような国民の姿勢を変えるような状況を作りださなければならないと、佐々木さんと同じようなことを言っている。そのひとつがフランスでもやっている「所得制限なしの子供手当て」(所得制限をつけると富裕層は手当を慈善とみなすだろう)のような国民全体を対象にするような社会政策なのだという。市民不在の日本と言われるが、自民党と官僚に好き放題されていたことにようやく気が付いたところで、まだまだ道のりは遠い。




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2010年01月21日

日本の子育てはフランスに追いつけるか(1)

『東洋経済』12月12日号の「日本の子育てはフランスに追いつけるか」で佐々木常夫さんが、フランスと日本を比較しながら、日本の子育ての行方を論じていた。その内容を紹介してみたい。

1975年の出生率はフランスが1.96、日本が1.91とほぼ同水準だった。その後、日本は下降の一途をたどり、2005年は1.26まで下げた。一方、フランスは93年まで日本と同様に低下したが、1.65で下げ止まり、08年には2.00を越えるまで回復。今やパリの郊外で暮らす家族は子供3人は当たり前という状況にある。

何がここまでフランスを変えたのか、佐々木さんは3つの要因を挙げている。

@政府の積極的な所得配分政策によって人々の所得格差が小さく、低所得の人でも安心して子育てができること。
A職場での男女格差が小さく、仕事か子育てかの選択を迫られる女性が少ないこと。
B週35時間制により、労働時間が短く、男女とも育児や家事に参加できる。

これに対して「もともとフランス人は働かないからだ」という反論がある。しかしそれは事実とは異なり、彼らの父親世代は週50時間働いていた。1世代で労働時間が大きく減少したわけだ。また現在のフランスの女性は約80%が働いているが、これに対する「もともとフランス人の女性は働いていた」という反論も当たっていない。60年代まではサラリーマンの夫と専業主婦の妻というのが標準家庭だった。つまりフランスは日本と同じようなライフスタイルだったのが、この30年から40年くらいで急激に変化したのだ。

フランスは70年代に働く女性に優しい法律を次々に策定することで、その変化を促した。例えば、親権の平等化、嫡子・非嫡子の平等化、男女平等賃金法、人工中絶の合法化、妊娠を理由に採用を拒否することを禁止する法律、育児休業法などが挙げられる。

法定育児休暇は何と3年。子供が3歳になるまで、フルタイムから全休業まで、いくつかの働きが選択できる。毎月、約6・7万円を上限とする休業手当、しかも手当ての大半には所得制限がない。子供は3歳から保育学校に行けるが、無料。税制のバックアップも大きく、世帯の収入は家族の人数で割って計算するので、子供が多ければ多いほど課税される所得が減る。

現在、日本では少子化対策が急務と言われているが、佐々木さんは、フランスと同じことを日本でやっても無理だろうと悲観的だ。理由は2つある。

ひとつは日本人の持つ家族観に起因している。日本の標準世帯はいまだ働く夫と専業主婦というパターンで、「稼ぐのは夫、家事育児は妻」。所得税の計算でも配偶者控除があり、専業主婦は税金面でも有利。おまけに会社は配偶者手当をつける。そういう家族観は日本の企業に蔓延している。子供ができると育てる責任はつねに女性サイドにあるという常識が待っている。日本の女性は子供を生むときに母親として生きるか職業人として生きるかの選択を迫られる。その結果、約70%の女性が職場から去っていく。つまり、女性が働くインセンティブが働いていないということだ。
(続く)




ワークライフバランスとは…「仕事と生活の調和」と訳され、「国民一人ひとりがやりがいや充実感を持ちながら働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる」ことを指す。




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2010年01月17日

PARIS クラピッシュとボードレールのパリ

PARIS-パリ- (通常版) [DVD]街ですれ違う他人の人生に感情移入する。それは19世紀の詩人、シャルル・ボードレール以来のテーマだが、このセドリック・クラピッシュの新作にはそのボードレールがしばしば引用される。彼は何よりも都市の遊歩者であり、群集の中の詩人だった。彼は散文詩「群集」の中で次のように書いている。

「孤独で沈思する散歩者は、この万人との合体から特異な陶酔を味わう。群集とたやすく結婚する者は、箱のように心を閉ざしたエゴイストや軟体動物のように監禁された怠け者には永遠に与えられないであろう、熱狂的な快楽を知っている。彼はその時々の状況が提供するあらゆる職業、あらゆる喜び、あらゆる悲惨をわがものにする」

「万人との合体」とはこの散文詩の前半に書かれているように、「思うままに自分自身であり、また他者でありうる」こと、「好きなときに個々の人格に入り込む」ことである。重い心臓病を抱え、家から出られないピエール(ロマン・デュリス)は窓の外を眺めながら、同じことを試みている。私たちもこの映画の中で同時進行する複数の物語に対して、感情移入したり、距離をとって批判的に見たりする。

ファブリス・ルッキーニが扮する歴史学の教授が、お金のために一般向けのテレビ番組でパリの歴史案内を務めることになる。その第1回目もボードレールの引用から始まる。自分を気に入ってくれている老教授に対して、「歴史の細部にこだわり、どうでもいいことをクドクドいいやがって」と悪態をつく。「マニアックで、偏執的で、哀れなやつだ、ああいうケチな野郎にはなりたくない」と批判するが、自分のスタンスにも自信がなくて鬱状態になっている。もちろん時代の変化に目と耳を閉ざす大学人よりも、危機感の中でもがき続ける彼の方がはるかに好感が持てる。いつも軽妙洒脱って感じのルッキーニだが(以前、ホテル・リッツのバーで映画の中と同じ身振りで女性を口説いているのを目撃したことがある)、この映画ではひたすら弱気である。自分から相談に行きながら、精神科医に食ってかかるも、その前で泣き出す始末。

melanielaurent01.bmpおまけに美しい女子学生に一目惚れして、ケータイでストーカーのようにボードレールの詩を引用したメールを送りつけ、ドン引きされる。フランスでも詩はすでに世代間ディスコミュニケーションの媒体にすぎなくなったようだ。女子学生役は「イングロリアス・バスターズ」でタランティーノに見出されたメラニー・ロラン。確かに魅力的だ。

時代遅れの詩を引用する一方で、こういうメールも送る。

suis a la fac avec toi t es bel j te kif tro grav

つまり、Je suis à la fac avec toi. Tu es belle. Je te kiffe trop gravement ということなのだが(kiffer=aimerの若者言葉)、フランスのオジさんもこういうメール(=texto)を書けるんだね。もちろん若作りしているわけだけど。とりあえずエッチまでこぎつけたはいいが、さらなるドツボにはまる。若い女性にウケをねらって涙ぐましい努力を重ねるが、若くてカッコいい恋人を見せつけられたり、サディスティックにふりまわされる姿が悲しい。オジさんは身の程を知らないと(自戒をこめて)。

男と女のあいだがうまくいかない。女性に対する偏見が壁になり、過去に受けた傷がトラウマになっている。恋愛の街、パリにも時代の変化が大きく影を落としている。このパリはすでにボードレールのパリでも、「アメリ」のパリでもない。まさにリーマンショックに見舞われたグローバル経済の時代のパリなのだ。映画の中で雇用状況にも言及される。「若者がつねに犠牲になり、社会運動は死んでしまい、パリは金持ちのための街になりつつある」と。みんな萎縮して、臆病になっている。その中でかすかな希望の光を手探りで探している。

ボードレールは19世紀のパリの貧しい人々を描きはしたが、それは特権者の一方的な表象にすぎなかった。私たちもまたボードレールの高踏的な態度に共感していたにすぎない。彼によって描かれた者たちはうめき声のような言葉を発するだけで、決して表現者となることはなかった。しかし「パリ」の登場人物たちは手ごたえのある確かな言葉で語り、日本にいる私たちですらそれに共感し、同じ感情を共有できるのだ。

エリック・サティの「グノシェンヌ」がメランコリックな「パリ」を演出しているが、Wax Trailer の Seize the day も映画の印象を決定付ける忘れられない曲である。メランコリックな女性ボーカルをフィーチャーしたエレクトロ・ヒップホップで、ラストシーンにも流れる。Wax Tailor こと Jean-Christophe Le Saoût はフランスのみならずヨーロッパ各国で絶大な人気とカリスマ性を誇るヒップホップ・DJ&プロデューサー。

Seize the day
I don't mind whatever happens
I don't care whatever happens

Wax Tailor feat. Charlotte Savary - Seize the day
Paris by Cedric Klapisch - trailer


PARIS-パリ- (通常版) [DVD]
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4 心に残る映画だった
5 本音のパリジャン達
4 クラビッシュ版 『生きる』





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2010年01月14日

オランダのワークシェアリング 働くことと幸福の関係

最近、就活中の学生と話す機会が多いが、やはり就職状況は厳しいようだ。よりによって何で就活がこんな不況時にあたってしまったのか、何で相変わらず採用が新卒に限定されるのか(つまりチャンスは1回切り)、不条理に感じているようだ。後者に関して言えば、それは終身雇用と年功序列の形骸のようなものだ。その根本がとっくに崩れているというのに。



上の動画はテレビで特集されていたオランダのワークシェアリングである。ワークシェアリングのベースには「同一労働同一賃金」があるが、ILOでは、それを最も重要な原則の一つとしてILO憲章の前文に挙げており、基本的人権のひとつとさえ考えている。

もちろん、オランダと日本では国の置かれた状況が違う。国の規模も違うし、日本は産業立国なのでワークシェアリングが技術力の低下を伴う恐れがあると指摘されたりする。そんなやり方で「責任」が取れるのかという声も上がりそうだ。それでも日本でもすでに3人に1人は非正規雇用になっている。また日本の労働生産性の低さは先進国で最低である。だから国際競争力に勝つためにさらなる流動化を、という議論になったりするが、一方では天下りや渡り、あるいは企業に居座る高齢のお偉いさんに象徴されるように、ほとんど働かずに高額な給料をもらっている人々もいるわけだ。

動画にあるようにオランダではパートタイムの方が人は集中的に働き、効率が上がっていると言う。経営側にとっては最終的に払う人件費が変わらなければ、むしろ雇用問題への取り組みをアピールするためにワークシェアリングを選択するモチベーションは十分にあるだろう(年金と保険の負担の問題はあるが)。むしろワークシェアリングの抵抗勢力は正社員の既得権益を守ろうとする一部の労働組合かもしれない。

オランダのケースはヨーロッパ的な合理性の徹底と言える。それを国と国民が一緒になって実行できたことが驚きですらある。さらにそれが新しい幸福のあり方の発見につながっていることも忘れてはいけない。ヨーロッパにこういう国が存在することを知っておくだけでも無駄ではないだろう。




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2010年01月13日

かもめ食堂

かもめ食堂 [DVD]フィンランドで「かもめ食堂」を開く日本人女性(小林聡美)が主人公。フィンランドと言えば、ムーミンの舞台になった美しい森と湖がトレードマーク。北欧の夏の淡い光も印象的で、それが映画に決定的なトーンを与えている。

小林聡美も、片桐はいりも、もたいまさこも全然好きな女優じゃないし、彼女たちのノリにも正直あまり馴染めない(昔やっていた「やっぱり猫が好き」というTVドラマを思い出す)。キャスティングからある程度展開と雰囲気が想像できたが、意外に面白かった。まるでみんなが何とはなしに「かもめ食堂」が気になり、引き寄せられていくように。

客はそのうち来るだろう、とりあえず迎え入れておけばそのうち何とかなるだろう。そんな主人公の軽やかな自信とオプティミズムが食堂というゆるい関係の場を支え、男っ気のない女性のあいだの淡々としたやりとりが続く。草食系の日本オタクのフィンランドの若者は出てくるが、日本人男性は全く出てこない。それが日本の男性社会をネガとしてあぶりだしているように見える。そのしがらみがない場所では、日本人女性はこういうナチュラルな空気と関係を作れるんだという驚き。それに日本人女性の洗練、清潔感、趣味の良さといったものが、北欧の空気に違和感なくなじんで映る。

それぞれ勝手な思い入れや偶然によって、フィンランドにやって来るのだが、人間関係はそういうものが折り合って、刷り合わさって出来ていく。外国との関係を取り結ぶときも、その国に対する勝手な思い入れから手探りで始まる。ガッチャマンとかムーミンとか、一見取るに足らないことも重要な結び目になる。最初、日本人とフィンランド人が並んでいる姿に違和感を感じたが、荻上直子監督の言語と文化の超え方にはそれなりの説得力があった。やはり食は重要な媒介だ。

「かもめ食堂」-trailer





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2010年01月07日

セントラムに乗ってみた

12月23日、富山市でセントラムが運行を開始した。セントラムとは市の中心部を周回する環状線を走る路面電車の通称だ。一周3・4キロの所要時間は約20分。路面電車としては初めての上下分離方式を採用し、軌道整備や車両購入は富山市、運行は富山地方鉄道が担当した。環状線は以前存在したが、路面電車の衰退にともない昭和49年に廃止されていた。

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30日に私も、にわか鉄ちゃんに変身して、小鉄を連れてセントラムに乗ってみた。車体には大きなDEBUT(デビュー:仏語)の文字が。沿線には三脚付のカメラを構えたマニア風の人たちの姿もがチラホラ見える。車内は子連れの家族でにぎわっていて、とりあえず話題の電車に乗ってみようという感じだった。

31日に正月の買い物にデパートに出かけた際にもセントラムに乗ってみた。そのときはガラガラだった。その日は大雪警報が出ていて、朝から雪が降りしきっていた。やはり雪が降るとみんな自家用車を使うのだろうか。確かに足元が悪くなると、ドアツードアで動きたくなる。雪景色の中を走るセントラムの姿は、「ここはストラスブールか」(笑)と見まがうほどで、カメラに収めたかったのだが、その日はデジカメを持っていくのを忘れてしまった。

富山市は路面電車によって街を活性化させている地方都市のモデルになっている。かつての赤字ローカル線あとに次世代路面電車、LRT(Light Rail Transit)をすでに導入していて、他県の地方自治体の視察も絶えない。とにかく車体のデザインがカッコいい。どこにでもあるような地方都市の風景を突き抜けるようなデザインだ。美しいデザインが見慣れた風景と組み合わさることでモンタージュのような異化作用もある。ローカルなものがグローバルに突き抜ける。地方都市の方が首都よりもヨーロッパに近いのだと思わせてくれる。

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富山市が参考にしたのが、フランス東部の町、ストラスブールだ。ストラスブールのユーロトラム構想には、電車は街の景観の一部であるというコンセプトがベースにある。停留所から軌道敷までが街のデザインになっている。オム・ド・フェール Homme de fer 広場の停留所を覆う大きなガラスのリングが象徴するストラスブールの衝撃的な変貌は、世界中の都市のアーバンデザインに影響を与えた。フランスではその後、モンペリエ、リヨン、オルレアンでも路面電車が開通し、その有効性が証明されることになる。つまりデザイン性によって街が変わり、市民の意識が変わるということなのだ。

田舎は車がないと生活できない。刷り込まれたようにうちの親なんかもそう言うが、モータリゼーションによって車がないと生活できないように仕向けられたにすぎない。アメリカでは自動車会社が鉄道会社を買収して、鉄道を潰した。そうやってクルマしか使えない社会に改造していった。モータリゼーションとは車しか使えないように、社会やライフスタイルを変えていくことだ。日本の地方都市の郊外化にもこの力学が強く働いている。

ヨーロッパやアメリカでは自動車中心のライフスタイルが郊外化を促進し、中心街が廃れ、環境や治安を悪化させた。多くの地方都市は自動車を運転できる人のための街でしかない。自動車を持たない人には極めて住みにくい。つまりそれは市民としての最低の権利であるシビルミニマム civil minimum を満たしていないことになる。自動車の利用を前提とした地方都市の姿は、社会的に見て非効率で、サステナブルではない。環境や高齢化に対応できていないからだ。高齢化に対応するためにも、行政サービスを効率化するためにも地方都市は構造をコンパクトにする必要がある。

社会の構成員のすべてが自動車を使いたいわけではないし、使えるわけではない。多様な好みや立場に対する多様な選択肢が必要なのだ。また街を利用するのはそこに住む人々でだけではない。観光やビジネスで街を訪れる人々もいる。住人とって不便ということは外来の人々にとっても不便な街ということだ。外から来る人々のことを考えることは観光の振興にもなり、街の魅力を高めることにもつながる。

centram03.JPG

ストラスブールでは「トラムか地下鉄か」を選択する市長選挙があり、市民が自らの意志としてトラムを選択したという決定的な出発点がある。そういう市民の一般意志が政治に反映され、市民は決定されたことに関しては協力する。日本にいるとそういう明快な政治の手続きが奇跡のように思えてしまうが、日本では路面電車が導入されるとしても、それはあくまで行政主導である。先見性のある首長や企業を持てるか否かにかかっている。一般的にシビルミニマムという概念にも馴染みはないだろう。

車を運転する近親者や街で耳にした声を聞くと、相変わらず路面電車を自動車の障害物と考えている人も多いようだ。早速、セントラムと自動車の接触事故も起こっていた。しかし、こうして富山市は貴重な公共の財産を得たわけで、路面電車に対する様々な考え方をローカルメディアや広報で提示していくしかないのだろう。自動車に乗りたいという欲望は終わらないだろうが、ちゃんとした理屈があれば人は動くのである。富山市が市民とのコンセンサスをどうやって取っているのか、市民に対する広報活動はどうなっているのか、そのうちFBNでも取材・調査をしてみたいところである。

動画でセントラム




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2010年01月05日

勝間和代『目立つ力』を読んでみた

目立つ力 (小学館101新書 49)勝間和代は2009年に最も注目を集めた人物のひとりと言えるだろう。管直人副総理に「リフレ政策」を提言し、「がんばらなくていい」と主張する香山リカとの論争も話題になった。勝間を目標にひたすら自分を磨く熱烈なファンは「カツマー」と呼ばれ、2009年度流行語大賞の候補にも挙げられた。外資系で働く友人は、これまで勝間のような働く女性のモデルがなかったと言っていたが、彼女の功績は自身の成功体験を徹底的にマニュアル化したことなのだろう。

去年10月に出たカツマ本のひとつ、『目立つ力』を読んでみた(2009年の1冊に挙げようと思っていたが間に合わなかった)。要は「ブログのススメ」である。ブログは単なる日記を書くツールではない。ブログを書くことはそのまま思考することにつながり、ブログを作るプロセスそのものが自分との対話になる。そのプロセスがブログを通して自分にも、他者にもわかるように可視化される。ブログは思考の公開訓練場というわけだ。

また人とつながるためには自分を開示して自分のことを理解してもらうことが必要だ。そうやって「応援団を集め、自分営業(=自分の売り込み)のコストを徹底的に下げる」のだ。注意しなければならないのは、コストを下げるというからには、応援団をダシに使うという意味でもある。応援団は仲間ではなく上下関係を示唆しており、成功者を支える存在でしかない。そして応援団は「もしかしたら次は私が成功者に…」と可能性を信じている人たちだ。ネオリベラリズムは意図的にであれ、結果的にであれ、いつもこの「可能性という餌」を巧みに使って、搾取する。当然のことながらみんなが成功できるわけではない。成功者はいつも少数なのだ。ある意味、情報の「ネズミ講」と言えるかもしれない。

確かに「目立つこと」は重要である。黙っていたら、無視されてしまうシビアな時代に私たちが生きていることは間違いない。声に出すこと、手を挙げること、メッセージを発すること。自分の能力を開示しなければ、それがあるのか自分でも確認できないし、他人にわかってもらえない。一方で「目立つ作法」は日本人の最も苦手な、最も教えられてこなかったことでもある。勝間は「目立つことは目的ではなく、手段」というが、最終目的は経済的な成功ということなのだろうか。しかし、この本には何をすればいいのか具体的なことは書いていない。「あなたにもひとつくらい得意なことがあるでしょう」「コンテンツはあなた次第」というが、これが素人には最大の問題なのだ。

勝間はブログやツイッターをもてはやすが、それらのツールを生かせるのは彼女が外資系金融で、あるいはネットの黎明期にいち早く培ったキャリアがあるからだ。ブログやツイッターそのものに力があるわけではない。勝間の言っていることは、コンテンツなんてどうにでもなる。試行錯誤に耐えられるような地力、潜在力をつけろ、ということなのかもしれない。忘れていけないのは、ブログやツイッターはあくまで潜在力を具体化、顕在化させるためのツールだということだ。またブログにおいて「続けること」は何よりも重要な指標だが、ブログを続けられる確信は自分の潜在力に対する手応え以外何からも得られない。

潜在力をつけることは気の利いたブログのテーマを見つけることより、はるかに難しい。それは途方もない努力を要することだ。ブログを続けることは、日常生活のすべてをネタにしながら、日々リテラシーを鍛え、潜在力を高めることだ。ブログを薦める「目立つ力」のベースにあるメッセージは、「他者のプレゼンスを前提にし、対人的なコミュニケーション能力に基礎を置け」ということだ。それは勝間が活躍してきた金融の世界を支配するイデオロギーであり、厳しいリストラを促すコンサルタントの論理だ。そしてコミュニケーション能力とは、予期せぬ事態にピンポイントで対処できる、つまりその都度顕在化する臨機応変な力であり、潜在力のことなのだ。就職戦線は今年も厳しいようだが、就職が厳しくなり、賃金が削られる一方で、現代の労働にはこのような潜在力がますます要求されるようになっている。いくら香山リカが「がんばらなくていい」(所詮本人はがんばらなくても何とかなる恵まれた人間なのだ)と言ったって、勝間がもてはやされてしまう理由はここにある。




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2009年12月15日

『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』

ハイデガーとハバーマスと携帯電話 (ポスト・モダンブックス)世界中でモバイル化が進んでいる。日本はすでに飽和状態だ。ケータイはどんどん便利になり、もはやケータイなしの生活なんてありえない。モバイル化は英語で、mobilization というが、同時に「動員」という意味もあわせ持つ。モバイル化されているのは電話ではなく、人間なのだ。繁華街ではケータイのキャンペーン campagne(=宣伝活動)が華々しく行われているが、キャンペーンには「軍事行動」という意味もある。インターネットはもともと軍事目的で始められたし、今やケータイに標準装備のGPSは、湾岸戦争のとき、砂漠のど真ん中でも自分の位置がわかるようにと開発された。世界のモバイル化は平和利用というよりは、軍事技術の日常化という様相を呈している。

さらにケータイは支配だけでなく、抵抗のイメージさえも取り込んでいる。『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』の著者は、ガソリン税を上げた政府に抗議するためにケータイで連絡を取り合ってガソリン配送施設を封鎖したイギリスのトラック運転手の例を挙げている。私は真っ先に「黒を着ろ、エサドに行け」というチェーンメールのことを思い出す。それは黒い服を着たフィリピンの群集をエサド通りに集結させ、エストラーダ政権を倒した。ケータイは便利なだけでなく、変化し続ける時代の気分を的確に表すモノなのだ。自分は新しい時代の人間だと実感したいなら、ケータイこそが手に取るべきものだ。

単に便利なものが発明されたということではない。私たちはもはやケータイなしには生きられない。モバイルは私たちの生き方や文化に深く入りこんでいる。モバイル化されているのは人間の方だというのは、そういう意味だ。ケータイのCMを見ていると、コミュニケーションという言葉が全世界の人々とつながり合えるようなイメージをふりまき、それは薔薇色の未来を保証するかのようだ。しかし、コミュニケーションって何だろう。一体、ケータイを使って私たちは何をしているのだろう、と著者は問いかける。

まず勘違いしてしまうのは、コミュニケーションが拡大しているのはケータイの方で、人間ではないということだ。ケータイは互換性が進み、違う機種でもスムーズにつながる。通信速度が速くなり、サクサクと動く。人間といえば、規格(人格)がバラバラでかみ合わないし、飲み込みも遅い。さらに人間関係を深めるには時間がかかる。

だからケータイを使ったコミュニケーションが最もうまくいくのは、人間を相手にしているときではなく、ひとりでネットにつないでいるときだ。国民の半分がケータイをもっているとか、どこかの国で加入者が50%増えたとか、宣伝される驚くべき数字とは裏腹に、コミュニケーションとは孤独な行為なのだ。その場合のコミュニケーションとは、言葉を限り切り詰めたメッセージのやりとりによって行われる。またケータイに向かって欲しいものをオーダー(命令=注文)し、それが瞬く間に手元に届けられることである。ケータイのコミュニケーションの理想は、インテリジェントでインタラクティブな最速の応答だ。しかし、インタラクティブといっても、それはバーチャルなもので、応答してくるのはシステムにすぎない。

スターバックスまであと3分に迫ったところで、ケータイでスタバのメニューを呼び出して、カフェラテのSサイズをクリックする。これで注文も支払いも済む。あとは取りに行くだけ。ハイデガー&ハーバーマス(ふたりともドイツ人)はこのようなモデルをコミュニケーションとは考えない。例えば、ハバーマスによると、コミュニケーションをとるのは、自分の欲望を「満たす」ためではなく、相手に自分の目的や欲望を「知らせる」ことである。もちろん知らせることで、批判されたり、様々なリアクションが想定される。さらにリアクションに対して自己弁護することもありえる。このようなコミュニケーションは外堀からゆっくり埋めていって、核心へと近づいていく。ケータイが無視し、切り詰めようとするコミュニケーションの過程や積み重ねを逆に重視するのである。

しかし、すべてのケースにおいてそんな悠長なことをやっていられない。現代社会では人間関係が複雑で、かつ処理すべき情報が多いからだ。本当に人間的なコミュニケーションを持とうすれば途方もない時間が必要になる。それゆえ、人間の取り決めの多くは、真のコミュニケーションよりも、「システム」によって行われる。ハバーマスによると、システムの代行の仕組みは、コミュニケーション・メディアの形を取って現れ、言葉による説明はできるだけ切り詰め、対話の代わりをする規則や金銭(通貨)や地位の交換(官僚機構や権力)によって済ませられる。健全な社会ではそれが地ならしをすることで、真のコミュニケーションのお膳立てをする。それはある程度までシステムにゆだねる合理的なことだ。しかし、システムが自己増殖して、人間の共感を担保するスローなコミュニケーションが必要な領域までも覆いつくす危険性がある。ハバーマスの言う「生活世界のシステムによる包摂、植民地化」という事態である。

今やシステムの最大の担い手がケータイということだ。しかし、この著作にはユーザーの視点がなく、個人がそれをどう使いこなしているのかということあまり考慮していない。ケータイを使うことは孤独な行為と言っているが、メールのやりとりに関してもそう言えるのだろうか。例えば、大澤真幸があとがきで、若者たちがケータイに求めているのは近接性の感覚だと書いている。単に近いのではなく、「遠く隔たったものの間の近さの感覚」である。それも本来入り込めないはずの内面に直接入り込むような近さである。これは若くない私にも実感できることだ。また大澤によると、「街中で、電車の中で、そして授業中に、終始、送受信されている短いメールにおいては、肝心なのは何が伝えられているかではなくて、単に伝え合っているという事実である」。これは商売や政治につながる戦略的なものではなく、純粋に相手とつながっていることを楽しむ使い方と言える。






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2009年12月07日

ミレーヌ・ファルメール Mylene Farmer - C'est dans l'air !

フレンチ・ポップス界の人気歌姫、ミレーヌ・ファルメール Mylene Farmer の最新ライヴ・アルバムがちょうど今日リリースされた。2009年6月にフランスで行なった壮大なスケールのステージの模様を収めたCD2枚組作品で、タイトルは‘No. 5 on Tour’。彼女はどのくらい人気があるのか。会場を埋め尽くす観客の熱狂を見ればそれを実感できるだろう。

MYLENE FARMER - C'EST DANS L'AIR

ミレーヌ・ファルメールの名前はときどき耳にしていた。80年代に似たような名前の歌手がいたなあと思っていたら、同一人物だと最近知ったのだった。ゴシックな要素が入っていたり、フランスのマドンナって感じのビデオクリップを見ても、80年代のときの印象とはかけ離れていたし、そんな昔から活躍していたような年齢には見えなかったから。1961年生まれというから、すでに熟女の域だ(マドンナだってそんな歳か)。もちろん、年齢なんて問題ではない。最近の方がアクが抜けて何だかラブリーな印象すら受ける。

ミレーヌ・ファルメールはカナダのケベック生まれ。フランス語圏だけでなく、ロシアや東欧でも人気が高く、売れたアルバムの総数は2500万枚を超えている。しかし、名誉な賞の授賞式にも出なかったりと、メディアの露出度は少なく、主としてコンサートとビデオクリップによって彼女の音楽の世界を作り上げている。1991年に狂信的なファンが彼女に会おうとして、レコード会社の受付係を銃殺した事件が起こり、それが彼女をメディアから遠ざけることになったようだ。それでもライブアルバムの音源となったコンサートの直後に France 2(6月14日)にインタビュー出演しており、彼女の魅力的な仕草を垣間見ることができる。

Mylène Farmer 2009 06 14 Interview dans JT de France 2

曲のタイトルが、 ’Dessine-moi un mouton’ や ’Beyond my control’などと文学作品を暗示していたり、ビデオクリップもどれも凝っていてクオリティが高い。VCはセクシャリティを強調したものも多いが、アルバム「Avant que l'ombre...」(影が迫り来る前に)からの5本目のビデオクリップ、「Peut-etre toi」(あなたかも)は日本の「プロダクションI.G.」とのコラボによるアニメ作品だ。その制作には監督の楠美直子や作画監督の黄瀬和哉など『イノセンス』(押井守監督『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』の続編)のスタッフが集結することになった。

Mylène Farmer - Peut-Être Toi

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2009年12月05日

アメリカのフランスに対するイメージが著しく改善 29%から62%へ

12月3日付の「ル・モンド」紙 'L'image de la France aux Etats-Unis progresse considérablement' によると、アメリカのフランスに対するイメージが著しく改善したようだ。10月と11月に行われた2000人対する調査の結果、62%のアメリカ人がフランスに対して好意的だった。2003年の調査では29%だったが、その年は、フランスがイラク戦争に関してアメリカを厳しく批判していた時期である。その後、2005年46%、2007年48%と上昇していた。また民主党支持者(71%)の方が共和党支持者(53%)よりも、フランスに対して好意的という結果も出た。

chirac02.jpgアメリカ人はフランスに対して抱いていたわだかまりを忘れてしまったのだろう。2003年においてフランスはアメリカに極端に反感を持たれたが、それはイラクに関する対立から生まれたものだった。「クリアストーム事件」で株を落としてしまったのドヴィルパン首相(当時はシラク政権下、写真)も国連の演説でイラク開戦に反対を表明したときはカッコよかったし、アメリカ人がフランス産のワインをヒステリックに割っていた光景もつい最近のことのように思えるが、その後のイラク戦争の泥沼化は、どうみてもフランス側に理がある。アメリカ人はフランス人の視点を評価することを学んだのかもしれない。もちろん、フランスが正義を通したとかいうキレイ事では全然ない。イラク戦争はフセインが外貨準備をドルからユーロに切り替えようとしたことが原因とも言われている。今もくすぶり続け、誰が最初に抜けるかチャンスを伺っているようにも見える「ドル離れ=ドル危機」の流れの中の出来事とも言えるのだろう(そういえば、ドル円は先週末84円台をつけたあと、今週末90円台まで一挙に戻した)。

アメリカにおけるサルコジ大統領のイメージも世論の建て直しに一役買っている。アメリカでのサルコジ大統領のイメージはすこぶる良く、アメリカと一緒にやっていこうという彼の意志が浸透している。思い出せば、サルコジ大統領は大統領就任直後、真っ先にアメリカに飛び、演説のなかで「アメリカを愛している」とまで言った。当然の巡り会わせとして、フランスのオバマ大統領の人気はヨーロッパのどの国よりも高いのである。




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2009年12月04日

フランス・テレコムで何が起こったのか?(2)

フランスの雑誌 Nouvel Observateur に掲載された「フランス・テレコムの自殺の波−オンラインの苦しみVague de suicides à France Télécom − Souffrances en ligne 」の続き。



orangestresse.jpgステファヌは毎週、他の何人かの同僚と同じようにメールで配置換えの提案を受け、それに暗に答えることを強く求められている。ステファヌは43歳。「私は老い始めていることを思い知らされた」。また別の日にはマネージャーが近いうちにリストラがあるかもしれないと言い、万力で締め付けられるように感じた。ある同僚のことが彼の頭から離れない。同僚がバカンスから帰ってきたとき、彼の机には他の誰かがいて、持ち物がダンボールに入れられ、階段の踊り場に放置されているのを見つけた。ステファヌは誰も守られていないことを知っている。フランステレコムにおいて、良い社員とは黙って去っていく社員なのだ。

「精神的な打撃を与えるために、管理職ならMOTに、平社員は店舗か10-14に送ると脅される」と、ティフェーヌは証言する。10-14とは、大量飼育の鶏のように一列に並び、不満な顧客の電話を受けるプラットフォームである。非常に辛いその業務は、販売の研修も、コミュニケーションの研修も受けていない技術者にとって拷問に近い。MOTは、「mission opérationnelle temporaire (一時的作業の任務)」の頭文字であり、最大で6ヶ月間、ときには本人の立派な資格にはそぐわないポストか、することのない暇なポストに割り当てられる。かつて多忙だった上級管理職のセバスチャンもそのようにして「1日3時間」の恥ずかしくて誰にも言えないようなポストに割り当てられた。

フランステレコムの社員たちは雇用の安定と安心のために公的な仕事に就いた。民営化が達成され、今彼らがいるのは柔軟性 flexibility-flexibilité という悪夢の中だ。シャンタルは名の通った部署を経た上級管理職であり、彼女は2年前から「任務」についている。社内での面談をおよそ100回受けたが、無駄に終わった。「彼らはシステム化されたハラスメントを確立した。私たちの間で、それは年長者殺しと呼ばれている」と彼女は言う。「マネージャーは服従させるために選ばれている。彼らを見ると、私は kapos (ナチスの強制収容所の班長)のことを思い出させる。その唯一の目的は人々を解雇することだ。もう一方の鎖の端では、サンディが働いている。今は店舗にいるが、その前はコールセンターにいた。彼女もまたマネージャーの役割がここ10年で変わってしまったと言う。「今、マネージャーは私たちを助けるためにいるのではありません。逆に、私たちに悪い評価を下すために欠点ばかりを洗い出します。そのため恐ろしい雰囲気になっています」。以前は、技術の知識を分け合う「リーダー」がいたと、元社員は言う。今は、人事を支配する「マネージャー」がいる。

企業文化の変化は根本的なものであると同時に急激である。「金融の論理が組織全体を支配してしまった」と『ストレスにさらされたオレンジOrange stressé 』(写真上↑Orange はフランス・テレコムの携帯ブランド)の著者、イヴァン・デュ・ロワ Ivan du Roy は分析する。それぞれの従業員は定められた目的を持ち、常に評価され、同僚との競合関係に置かれる。販売員は多くの使用契約を取らなければならないが、マネージャーは管轄の人員を減らさなければならない。

もちろん、このような雰囲気が直接的に自殺の原因になったとは言えない。しかし、落胆の空気が支配している。オフィスでは、最先端のテーマを扱った博士論文を書いている人間がコピー取りをしたり、ポリテクニシアン(理工科学校出身のエリート)が会議でオレンジジュースを配っているのを目にする。たくさん売るためにちょっと嘘をつくという思いつきに耐えられない無愛想な技術者が販売店に配属されていたりする。RH(ressources humaines 人的資源)の部署が廃止された、51歳のサンドラには、自宅から300キロ離れた職場が提示される。みんな身をかがめ、顔には失望の色が浮かぶ。誰もあえて語らない。なぜなら、サンドラが言うように「誰がマネージャーに告げ口するかわからないから」から。

しかし、みんな目撃している。女性は泣き崩れ、男性は精神的に参ってトイレに逃げ込むか、看護婦のところに行くのを。心筋梗塞を起こす者もいるし、指をコンセントに突っ込んで死んでやると言う者もいる。神経的な発作も起こっている。ある者は抗うつ剤の影響で、会議で一貫性のない発言をする。同僚のあいだで、起こっていることに不安になっている自分を見る不安の瞬間が多々ある。欠勤も相次いでいる。それは従業員一人当たり年間で平均4週間になる。抗うつ薬を飲んで働きに来る人たちもいる。嘱託医でさえ疲れ果てている。組合によると、企業の70人の従業員のうち10人が、苦痛に耐えられずに退職してしまっている。仕事の構造的な組織化によって生み出される被害をケアするのは「カウンセリングルーム」ではないはずだと、彼らは言う。「それはアスベストのようなものだ」と彼らの一人は言う。「これ以上病気にならないためには、それを廃止すべきだ。ここで病気の原因になっているのは、人事管理のやり方だ」。

7月14日、自殺したのは、移動体通信網の専門家で、マルセイユ出身のミシェル・ドゥパリ Michel Deparis だった。自分の行動をはっきりと示すために、彼は手紙を残した。「私は、フランス・テレコムの仕事が原因で自殺する。(・・・)多くの人がこう言うだろう。仕事以外に原因があると。しかし、違う。仕事が唯一の原因なのだ」。ミシェル・ドゥパリはマラソン選手だった。歯を食いしばることには慣れていたが、何よりも困難なレースが存在するのだ。



フランスの大企業は伝統的に経営者と従業員の立場がはっきり分かれている。最近は改善してきているようだが、大企業の経営者の半分近くがエナルク(enarque=ENA出身のエリート)の官僚によって占められていた時期もあり、現場の従業員が出世して経営側に回ることがほとんどない。そのため経営者は従業員のことはあまり考えないし(日本とは逆に福利厚生は国任せ)、従業員は将来経営側に回れると思っていないので、経営に対して無関心になる。確かにちょっと前までフランスといえば、サービスや接客の態度が悪く、見るからに労働生産性が低そうだった。それゆえ中間管理職といった現場とトップとをつなぐポストが存在してないか、あっても機能していないケースが多かった。しかし、国際経済の荒波に巻きこまれたフランス企業もどんどんアメリカ化している。もちろんそのため中間管理職といった会社内の調整役も必要になるのだが、フランスはこの部分が脆弱なので従業員は孤立化する傾向が強いのだろう。一方でアメリカでは雇用が流動化していて、解雇されたとしても次の仕事を見つけやすい。それを前提にリストラが行われるが、そういう受け皿がない状態でリストラだけを行えば、社員に大きなプレッシャーがかかることは想像に難くない。しかしフランスでは雇用の流動化にアレルギーがあることは、2006年のCPEに反対するデモの盛り上がりを見てもわかる。この問題は日本と共通していて、正社員の権利が手厚く保護されているがゆえに、イヤガラセのようなことをして自発的に辞めるようにしむけるのだろう。

アメリカ式の企業運営の最も象徴的な存在がコンサルタントである。上の記事の中でマネージャーと呼ばれている人々である。理論的には企業に対して客観的な助言や戦略を提供する役割を果たすことになっているが、実際は組織活動の再編の中でも不快な業務―つまり退職勧告、部署の廃止、残された業員の新たな任務の分配―を請け負っている。リチャード・セネットによると、経営者にとってのコンサルタントの効用は、何よりも企業内に権力が行使され、重大な変化が起こっているという信号を送ることができる。一方で企業の中枢に居座る重役たちは不快な決断に対する責任を免れる。我々ではなく、コンサルがやったことだと。そしてコンサルタントは企業に入ってきたと思えば、すぐに出て行く人々で最終的には責任を負わない。これだけコンサル業が政治力を発揮しているのは、命令と責任が結びつかないからである。これが最大の柔軟性なのだろう。

新興国を含めた厳しいグローバルな競争にさらされ、いっそうのコスト削減と、技術革新と市場の変化に迅速に対応するためのフレキシブルな組織が必要になった、というのが彼らの考え方のベースになっている。何よりも人件費を削減することが最大の問題としてクローズアップされる。今更だが、企業はもはや個人を支え、人間関係をはぐくむためにあるのではない。フランス・テレコムの内情がそれを赤裸々に語っている。企業はそれ自体のために、企業が存続するためにある。アメリカからもたらされた「金融の論理」とは、従業員のことを考えるよりも、配当を要求する株主に答えることだ。つまりEPS(一株あたりの利益)を上げることが最優先される。

そして現在、人間は労働の担い手というよりも、潜在的な能力を持った人的な資本とみなされている。労働者は新しい事態に対応するために、みずから能力を開発することを怠らない。そのために自己投資を続けなければならない。外資系の銀行に勤めている友人によると、今回の金融危機で多くの社員が解雇されたが、みんなそれをチャンスと捉え、大学院に入り直したり、新しい資格を取ったりして、更なるスキルアップを図るのだという。若い社員だけでなく、40代、50代の同僚さえもそういう自己投資に何百万円もかけることを厭わないようだ。つまり、そのときどきに何ができるかという、スキルのリストアップよりも、自分がどれだけ潜在力を高め続けられるか、それが評価の対象になる。

つまり現代の労働者は自分を事業主としてセルフ・プロデュースしながら、市場で競争し、常に生産力を高めていかなければならない。その手始めが、就職活動の際に求められる「就活力」なのだろう。日本では70年代以降、大学がエリート教育の場であることをやめ、大学新卒者の大量採用によって、大学生はサラリーマン予備軍と化した。その背後には終身雇用制度と年功序列賃金制度の確立があった。その時代の仕事はそんな過大な能力を要求するものではなかったし、むしろ頭を空っぽにして社畜になることが推奨された。そして就職の際には最低限の体裁と身振りを整えるマニュアルがあった。今は全く別の意味で大学と仕事が結びつかなくなっている。つまり、大学(縦割りの学科で構成される現状では)で何かを学んだとしても、それはある知識を詰め込み、ある技術を身につける、限定的な一段階にすぎなくなっている。





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2009年12月01日

皇帝ペンギン

皇帝ペンギン -La Marche de l'empereur-来年の正月の目玉映画のひとつとしてジャック・ペランの「オーシャンズ」が公開される。「WATARIDORI」で様々な渡り鳥の生態を記録したペラン監督が、世界中の海とそこに暮らす生命体を革新的な映像美で描いた海洋ドキュメンタリーだ。ハンドウイルカの大群、ザドウクジラの捕食、5万匹に及ぶクモガニの交尾、ウミガメの孵化など、自然界で起きる奇跡的なシーンの数々。日本版ナレーションを宮沢りえが担当したことも話題になっている。

フランスは自然界を舞台にしたドキュメンタリーの秀作を多く生み出しているが、リュック・ジャケ監督の「皇帝ペンギン La Marche de l'empereur 」もそのひとつに数えられるだろう。こちらは南極に住む皇帝ペンギンの産卵と育児を追った作品であるが、それは自然界で最も過酷な子育てとも言われる。

しかしそういう過酷な自然の中にあってもペンギンは何をすべきか知っている。やるべきことがプログラミングされているからだ。ペンギンたちは気の遠くなるような距離を歩き続け、極寒の吹雪の中で何日も立ち尽くし、その営みを何代にもわたって続けるのである。

分化し、専門化した本能は、それぞれの状況において何をすべきか、絶対的な確かさをもって指令を下す。分化した動物は生存目的と関係のない対象を知ることはない。人間のように対象を対象として捉えずに、行動系列の一部として把握する。動物にとって生態的に限定された環境で生きることは当然のことで、それに完全に対応した器質と本能を持っているので、不確実さや迷いが生じることもない。知覚は何らかの行動に結びつき、根拠のない行動、つまり知覚からの指令のない行動は存在しない。知覚と行動が完全に調和した円環の中を生きている。

ペンギンの生の営みに驚異と畏怖を感じるのは、ペンギンが自然の中に完全に組み込まれているからだ。またそのように人間が自然=ペンギンを対象化し、さらに表象しようとするのは、人間が自然と乖離し、自然から疎外されているからでもある。私たちの弱さの本質はそこにあるのだ。宇宙の果てについて思い巡らすのも、将来のことを考えて不安になるのも、人間だけなのだ。

ペンギンにはひとつの決まった仕事が待っている。しかし私たちは何をすべきか知らないし、自分の任務は何ひとつ決まっていない。これから仕事を探そうとしている若い人には羨ましいことだろう。ペンギンの姿を見ていると意外にも人間の労働について考えさせられる。人間は良くも悪くも可能性の生き物なのだ。動物はすべてがプログラムされているから可能性がない。

近代以前、生まれてから死ぬまで自分の生まれた村から出ることなく一生を終えた時代の人間は、ペンギンに近い存在だったのかもしれない。近代化とは人間をそういう反復と習慣に塗りこめられた動物的な環境から解放することだったが、人間を絡めとっていた(一方では安心と安定を与えていた)あらゆる文化的な網の目は次々とほどけ、よりどころのない世界に放り出されてしまった。私たちの周囲で渦巻く知覚=情報は、私たちの人生をますます不確実で、迷いに満ちたものにしている。

それでも歩くペンギンのコケティッシュな姿を見ると頬がゆるむし、柔かい毛に覆われたペンギンの赤ちゃんの愛らしさには癒される思いがする。不況の時代には動物や赤ちゃんのCMがうけるという話を聞いたことがある。過酷な状況に置かれたとき、人間は盲目的で絶対的な、本能のような感情に身を任せたくなるのだろう。それは現実逃避ではなく、過酷な状況を過酷だと思わないプログラミングへの志向性なのだ。個人的には、両足の上に卵を載せて温めていたお父さんペンギンが、卵を落として割ってしまったときの表情に言いようのない切なさを感じてしまったが、これも人間の勝手な感情移入に過ぎないのだろう。

LA MARCHE DE L'EMPEREUR - trailer
□フランスのエレクトロな歌姫、エミリー・シモンがサントラを担当



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2009年11月28日

フランス・テレコムで何が起こったのか?(1)

下に訳出した記事はフランスの雑誌 Nouvel Observateur に掲載された「フランス・テレコムの自殺の波−オンラインの苦しみ Vague de suicides à France Télécom − Souffrances en ligne 」である。フランス・テレコムで相次いだ自殺(1年半のあいだに25人)は、今年フランスで起こった重大ニュースのひとつであることは間違いない。9月17日掲載のちょっと古い記事だが、アメリカ流の金融の論理のもとでリストラが進行するフランス・テレコム社内の重苦しい空気をリアルにリポートしている。フランス・テレコムで起こったことは、日本でとっくに起こっていることなのだろう。日本ではひとつの企業から何人の自殺者と数えられることはなく、年間3万人という自殺者のなかにひとくくりにされている。

抄訳に簡単な解説をつけて3回に分けての掲載予定だが、まずは第1回。



不安な経済/漂流する個人―新しい資本主義の労働・消費文化私たちの人生はどんな糸によって支えられているのだろうか。セバスチャンにとって、それは家族の写真だ。妻の優しい視線。娘たちの微笑み。彼はその写真を見て、会社の窓の外から飛び降りることを思いとどまり、自分の家に帰る。そこでは、彼はお払い箱にされようとしている厄介者でもないし、お荷物でもない。彼は家で会社の出来事を忘れようとするが、それはその後彼の日常的な運命となる。不安で、方向を見失い、無言の暴力がはびこり、みんなが悲しい顔をして、ストレスによって衰弱した同僚の数を数えながら恐怖におびえている。

フランス・テレコムの不安は、新年度の始まりを襲った新型インフルエンザに次ぐ、ふたつ目の伝染病だった。トロワではひとりの男が腹にナイフを突き立てた。それは彼のポストがなくなったと知らされたときだった。マルセイユ、ブザンソン、ラニヨン、パリで同じ事件が起こった。何人かの男たちは首を吊り、睡眠薬を飲んだ。若い女性は虚空に身を投げた。2008年の2月以来、23人が自殺で亡くなった。伝染することが恐れられている。首脳陣は問題を個人の精神的な脆さのせいにしたあと、国から強い圧力を受け、ようやく重い腰を上げた。

セバスチャンはそれでも、25年前にフランス・テレコムに入社したときの誇らしい気持ちを思い出す。技師の免状をポケットに入れ、素晴らしいキャリアが前途にあり、あらゆるネットワークが構築されようとしていた。彼は多いときで200人の部下を率いていた。技術的な問題に挑み、移動体通信網の構築に参加した。上級管理職だった彼は、いつの日か自分が陰のような存在になるとは思ってもみなかった。彼は全てが一変した瞬間をとてもよく覚えている。それは2006年のこと、管理職向けのセミナーだった。「会社側はいかにして私たちの仲間を緊張状態に置くかを説明しようとしていた。50歳付近が膨れ上がった従業員の年齢構成を示したピラミッドを私たちに見せつけることから始めた」と彼は思い出す。「司会者は言った、『問題がどこにあるかわかりますか?問題、それはあなた方です』」その日集められたおよそ百人の管理職は、その発言に驚いた。熱意のある人間は次のような方法に従うという条件で何とか切り抜けようとするだろう。「あなた方は、自分のチームのメンバーに、できるだけ早く会社を去るように働きかけるべきです。彼らに転職を勧めてください。例えば、家でホームステイを受け入れるとか、ダイビング・クラブを営むように。彼らをスケジュール的に追い詰めるか、彼らがミスを犯す現場を押さえるためにメールと通話を監視することをためらわないでください」。セバスチャンは思い出す、「私たちはあまりにも気分が悪くて、互いに顔を見ようともしなかった」。

自分が最初に追い出されようとしているひとりであることをセバスチャンははっきりと理解した。年齢と地位、そして給与が問題なのである。民間企業の首脳部にとって、方程式は単純である。情報通信の市場は非常に競争が激しい。株主は(フランス・テレコムは国が筆頭株主で27%を保有)配当を要求する。給与の全体を減らすことでコストを下げ、利益を出さなければならない。「私たちはもう、利用者のために働いているのではない。今や顧客を満足させるために闘っているのだ。私たちは全員、この要求に応じなければならない」、グループの最高経営責任者、ディディエ・ロンバールの右腕の一人、ルイ=ピエール・ヴェーヌは説明する。「私たちのうちの1万人は転職して満足している。他の者たちについては、それが困難なのでまだ私たちと一緒にいる。競合他社とは逆に、私たちは誰も解雇しなかったことを今一度申し上げておく」。2006年から2008年までに22000人分のポスト削減につながった「ネクスト計画」のあと、組合はそれでも、新たな人員削減計画があるのではないかと疑っている。ルイ=ピエール・ヴェーヌはそのことを激しく否定する。





現代の労働は際限のないフレキシビリティを特徴としている。ある仕事から別の仕事に移る柔軟性、ひとつのポストで様々な仕事を引き受ける柔軟性。そこで求められている能力は、不安定な状況に慣れ、一時的な変動に適応し、不慮の事態にすばやく反応し、任務を可能な限り遂行することだ。

技術革新のスピードが速く、先端の技術を学んでも、それがすぐに時代遅れになってしまう。同じように、一生使いまわせるような知識の体系などないのだろう。それゆえに、労働者が評価されるためには、そのときに身につけた技術やインプットした知識ではなく、一般的な学習能力を披露しなければならない。スキルとは、すでに習得されたものの活用能力ではなく、新しい状況に常に適応し、新しい何かをつねに習得できる「潜在能力」として再定義されてしまった。

現代の資本主義社会では学ぶことに終わりはない。学びは学校だけでなく、生産活動のあらゆる段階に存在する。労働は再教育の連続であり、人は教育に生涯つきまとわれることになる。生涯教育が行われる原因は、先に述べたようなフレキシビリティだが、それに加え、生産サイクルにおいて知識と情報の役割が増大したこともある。

リチャード・セネットはフレキシブルな組織が個人に及ぼす影響を次のように述べている(「不安な経済/漂流する個人―新しい資本主義の労働・消費文化」を参照)。

―組織がもはや長期的な枠組みを提供しないとすれば、個人は自らの人生を即興で紡ぎだすか、一貫した自己感覚抜きの状態に甘んじなければならない。
―新たに台頭した社会秩序は一芸に秀でるという職人的な理想に否定的な影響を及ぼした。現代の文化は職人芸に変わって過去の業績より潜在能力を高く評価する。
―いかに過去と決別するか。職場では地位を自分のものとして所有している人間はひとりも存在しない。過去のどんな業績も地位の保証にならない。

まさにフランス・テレコムの社員が置かれた状況とぴったりあてはまる。しかし人間は人生の一貫した物語を必要としているし、一芸や特殊なことに秀でていることに誇りを感じる。また過去の経験は自分を作り上げるかけがえのないものだ。この新しい組織の理想は明らかに人間を傷つけている。




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