2009年11月23日

オリヴィエ・アサイヤス、話題の3本

NOISE [DVD]今年の夏、全国で上映されたオリヴィエ・アサイヤス Olivier Assayas の「NOISE」がDVD化される。この作品は、2005年6月にフランスのサン=ブリュー Saint-Brieucで開催されたアート・ロック・フェスティバルのライブドキュメント映像である。とりわけ、アメリカのソニック・ユース Sonic Youth のメンバー4人が、MIRROR/DASH(サーストン・ムーア&キム・ゴードン)、TEXT OF LIGHT(リー・ラナルド&スティーヴ・シェリー)という、2人ずつ2組のユニットに分かれて参加したことが話題になった。その2組のユニットは、ソニック・ユース以上にアヴァンギャルドでフリーキーなプレイを披露。また、新作を発表したばかりのジム・オルークがエンディングで音楽と映像を提供した。アサイヤス監督は実験的なモンタージュによって、不均質だが、ロック感にあふれる映像を演出している。

アサイヤスといえば、離婚したばかりのマギー・チャンと「クリーン」(2003年)を撮ったが、それが日本で先月公開されたばかりである。「クリーン」でマギー・チャンは主人公のエミリーを熱演し、第57回カンヌ映画祭主演女優賞を受賞している。

http://www.clean-movie.net/

夏時間の庭 [DVD]もう一本、「ノイズ」とは対極的な美を描く「夏時間の庭」。印象派の画家たちが魅せられたイル・ド・フランスの美しい庭が舞台。これはすでに今年の5月に日本で公開され、来月DVDが発売される。

http://natsujikan.net/

個人的には5分×18本のオムニバス映画「パリ、ジュテーム」の中の "Quartier Des Enfants Rouges" のスタイリッシュな映像に魅せられた。アメリカから撮影のためにパリにやってきた女優を演じるマギー・ギレンホールが素敵すぎる。

http://www.youtube.com/watch?v=00jJ6IHRflg

「NOISE」のように、アサイヤスは通常の映画の枠にとどまらない活躍をしている。2008年にはモダン・ダンスの振付師、アンジェリン・プレリョチャイ Angelin Preljocaj のバレエ「エルドラドEldorado 」を撮影したが、この作品は2007年に亡くなった現代音楽家、シュトックハウゼンとの出会いによって生まれた。




cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN25.png
posted by cyberbloom at 15:28| パリ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月14日

電子ブックと書籍の未来(3) 本の未来図

kindle01.jpg電子ブックにもグーグルの罠が待ち構えている。読者は目を引く本の表紙や面白い書評の代わりに、「頻繁に引用される文章」という検索結果によって本に出会うことになるかもしれない。これまで世界中で書かれたすべてのページが競合関係に置かれることになる。1冊の本というまとまりは意味がなくなり、検索エンジンにひっかかりやすい独立したページや段落の集まりにすぎなくなる。何より頻繁に引用され、検索エンジンにひっかかることが販売戦略になる。それは本の書き方や販売方法を変えるだろう。

作家や出版社はページごと、あるいは章ごとにグーグルのランク付けを念頭において文章を書くようになる。キンドル kindle (写真↑)で売られている本の多くは最初の1章を無料サンプルになっているが、それは本の帯に書かれたキャッチコピーのような役割を果たすようになる。作家は読者が本の全体を買いたくなるように、この部分に力を注ぎ、入念に構成するようになるだろう。

これは19世紀のフランスで隆盛を極めた新聞小説を思い出させる。新聞小説は新聞の発行部数を伸ばすために案出された形式だが、それは波乱万丈の物語を連載の一回一回がちょっとした山場になるように按配し、1回分の最後には未解決の謎や未完のプロットを残し、続きを読みたくなるように構成していた。この手法は今のテレビの連続ドラマにも受け継がれているが、新聞という日刊の媒体に小説の形式が適応した例である。

しばしばコンピュータは画一化や均質化をもたらすと言われるが、それはむしろ印刷物にあてはまることだ。私たちは印刷物をその固定された構造にしたがって読んでいた。文学作品が正典となりえたのは、同じテキストの同じ読書体験が可能だと信じられたからであり、それをベースにすべての人々が文学的な遺産を共有し、文化的な統一も可能だという理想(妄想?)を抱けたからである。また印刷物は書き換えができないがゆえに、著者が決めたバージョンは神聖不可侵であり、それが書き手を読み手から遠いものにする。その関係を通して著者はモニュメンタルな姿を獲得し、読み手はその崇拝者になる。

しかし電子テクノロジーはテキストの章や段落をひとつひとつ別のものにする。印刷物のように有機的でひとつの方向に展開する全体を持たず、それぞれが完結した単位のつながりなる。電子テキストは断片的だが、潜在的な可能性を秘め、絶えまない再組織化の中に置かれることになる。新しい読者は著者に限りなく近づき、テキストを自分で操作するようになる。自分でテキストの断片を再配置し、作られたものを壊しながら、新たに結びつけるのだ。

とりとめない連想は自分が最も自由に感じられる楽しみであるが、印刷物の時代において、それは書く前の準備段階にすぎなかった。書くときには印刷物の厳密な秩序に従わなければならなかった。連想関係はテキストの源泉だが、そういう秩序関係に表れることない思考とイメージのつながり方である。それゆえ印刷物の構造では表現できず、排除されてきた。しかし電子テキストは段落や章、索引や注といった階層的な秩序の中に、多元性をひきこみ、書物をツリー構造からネットワークへと変貌させる。電子ブックは印刷物の形態を残しているが、そこでは階層的な思考と連想的な思考は共存することができるのだ。

キンドルには辞書が搭載されていて、わからない言葉があるとすぐに辞書を引けるが、可能になるのは言語的な参照だけではない。電子ブックはマルチメディア的な参照へと展開するだろう。ちょうどこのブログのような形態になっていく。小説の中に音楽が出てきたら、映画のサントラのように背後に流すことができるし、映画のシーンに言及された場合はその断片を映し出すことができる。当然、書き手もそういうものを小説の中に取り込んでいくだろう。これは自分でもやってみたいことである。文学理論では作品は参照・引用の織物であるとよく言われるが、これはマルチメディア的に現実のものになるだろう。

先回、「小説を読みながら不可解な文章に遭遇した場合は、すぐにオンライン上でその文章の意味について、世界中の読者がどのように注釈を加え、解説し、議論しているかを検索するようになるだろう」と書いた。そして参照されるのは「決して権威のある文学者や批評家ではない」と付け加えた。上意下達方式で「正統的な読み方はこれだ」と言ったってもう誰も聞いちゃいない。正しい解釈を上からおしいただくという権力関係から、議論を広く共有するような水平的な関係と、自らテキストに介入していく楽しみに移行しつつあるのだ。先回「文化的正統性のすき間に自分たちの創意や工夫をしのびこませながら、こうした教化をかわしている」というミシェル・ド・セルトーの一節を引用したが、読書の楽しみはもともとそういうもので、ただ単にそれが顕在化しなかっただけなのだ。文学者や批評家は「こういう読み方は面白いぞ」と介入していくようなプラットフォームをネット上に作るといいのかもしれない。お高くとまっていてもただスルーされてしまうだけだし、お高くとまる根拠なんてもうないのだから。

ブラックジャックによろしく (13) (モーニングKC (1488))東洋経済の8月29日号「アマゾン特集」で最も興味深かったのは、『ブラックジャックによろしく』や『海猿』の人気漫画家、佐藤秀峰氏が自分のHPで著作の有料配信を開始したという記事だった。これは最も出版社が戦慄する話だろう。それだけではない。佐藤氏と同じ機能を持ったシステムを一般に公開し、誰でも登録さえすれば、自由に自分の作品を発表できるようなマンガのためのインフラを作るつもりだという。それは多くの漫画家が参加する電子コミックを取りまとめたポータルサイトの形式で、佐藤氏のHPもそのうちのひとつにすぎなくなるという。

佐藤氏が出版社や電子書店と組んで共同開発をしなかったのは、中間業者が入ると値段が上がってしまうからだ。漫画家からすれば経費以外がすべて売り上げになるし、読者も既存のサイトよりも安く漫画を読めれば双方の利益になる。これは佐藤氏個人の選択と言うよりは、この先、漫画雑誌が立ち行かなくなって、いずれはなくなるだろうという現状認識がある。著者と読者を直接つないでしまう動きはマンガだけでなく、他のジャンルや書籍一般に関しても出てくるだろう。

□このエントリーは下記の記事を参照



電子ブックと書籍の未来(1) アマゾンのキンドル
電子ブックと書籍の未来(2) 読書の楽しみとは



cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN25.png
posted by cyberbloom at 12:56| パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月11日

『クレーヴの奥方』事件(2) Lisez, surtout lisez!

前回の動画ニュースのデモの参加者たちは Je lis la Princesse de Clève.(私はクレーブの奥方を読む)と書かれたバッジを身につけていたが、それは反サルコジ・キャンペーンのキャッチフレーズになった。下の動画にも同じバッジをつけた人々が登場して、それぞれ J’ai lu la Princesse de Clève.(クレーブの奥方を読んだわ) とか Il faut le lire tout le temps. (いつもそれを読まなくちゃいけない)とか言っている。場所は Salon du livre (毎年春に porte de Versailles で催される本の見本市)。そこでゲリラ的にバッジを配ったのだろう。



Je lis la Princesse de Clève ― この言表において「読むという行為」に重点が置かれていることに注意しよう。普段、私たちは文学作品を前にするとき、当然のようにテキストの意味内容に関心が向く。その場合、私たちはそれを誰にも邪魔されない隠れた場所で読む。自分の部屋や図書館、あるいは「群集の中の孤独」を保障してくれるカフェや電車の中で。静かな読書はテキストの意味内容に従属する行為なのだ。

しかし、「クレーブの奥方」事件では、小説の中身についてほとんど言及されることはなかった。テキストはあくまで口実にすぎず、それを読んだと宣言することや、人前で声に出して読むというパフォーマンスが前面に出ていたのである。つまり、テキストの内容を後ろに押しやって、読むという行為に特権を与えているわけだが、それは儀式的な行為である。

儀式の本質とは何か。それは沈黙を破って、声を発することである。同時に他者の視線の中に立ちはだかることでもある。動画に登場する女性が message politique と言っているように、それは何よりも政治的な行為である。話すこと、声に出すこと、メッセージを発すること。その行為が表面化するのは、私たちが何らかの困難や危機的な状況にあって、目の前が不透明で、不確かなときであり、それを乗り越えようとするときだ。それは必然的に、あるコンテクストに介入し、それを変えようとする政治的な行為につながる。『クレーヴの奥方』事件の本質はここにある。

声に出すことは危機の時代の自己表現だ。今の時代の特徴は危機が恒常化していることにある。私たちを守ってきた様々な文化的、制度的な網の目が次々とほどけ、剥き出しの状態におかれていることを日常的に実感じざるをえない。そういう時代だからこそ、他者に働きかけるベーシックなコミュニケーション能力、つまりは自身の言語能力を自覚し、声を発することでその都度それを確認するのである。

サルコジの『クレーヴの奥方』発言をめぐる討論番組もあったようだが、上の動画の突き抜け方は痛快だ。かつて文学がこんなふうに扱われたことがあっただろうか。あのポップなバッジがすべてを物語っている。マジで欲しいと思わせる。キャッチフレーズ、グラフィック、ゲリラ的な偶発性。つまりは広告的な戦略を流用している。ポップな戦術は声を発すること、話しかけることの延長線上にある。ポップとは、わかりやすさと目立つことである。ポップなものは、オーディオ・ヴィジュアル(聴く+見る)に訴え、注意をひきつける。孤独に本を読むこととは対照的に、他者のプレゼンスを前提にしている。対人的なコミュニケーション能力を刺激し、それを引き出そうとする。最後に女性がバッジにキスして口紅をつけるが、ポップなものは何よりもセクシーである。

おそらくサルコジも戦略的に『クレーブの奥方』発言をしたのだろうが、学生たちはそれをパロディ化し、アイロニカルなやり方で抵抗のシンボルとして練り上げた。仲間や賛同者たちと共有しつつ、政治的なメッセージとして投げ返したのである。共感を集めたり、連帯を促すためにはアートな政治表現が必要になってくる。インスピレーションを与えるようなカッコ良さが必要なのだ。

バッジが Salon du Livre (本の見本市)に集まった人々の共感とリアクションをもたらし、そのやり取りによって一時的であれ、その場を占拠したように、「声に出して読むという行為」(=教師と学生が参加した6時間にわたる『クレーヴの奥方』のリレー朗読)はデモと連動し、まさに「都市の占拠」という直接的な戦術とつながっていた。その場で声を出すこと、人の注意をひきつけることは、「いまとここ」のリアリティーを求める。そのリアリティーは普段研究室に閉じこもっている人たちには最も縁遠いものだったはずだ。

クレーヴ事件が生んだおびただしいパフォーマンスと、それを演出した動画の数々。動画を通して私たちは他者の行為を見ることができるし、それに呼応した行為を動画共有サイトを通して見せることができる。それは文章を書いたり、黙って読んだりすることとは本質的に異なるパフォーマティブな行為だ。ネット上も新たな占拠の対象になったのだ。おそらくブログや動画共有サイトはクレーヴ事件において大きな役割を果たしたのだろうが、それはメディアを利用することではなく、自らがメディアになることだった。
(続く)

『クレーヴの奥方』事件(1) Je lis la princesse de Cleve!





cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN25.png
posted by cyberbloom at 12:31| パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月08日

エッフェル塔の見えるレストラン Au Bon Accueil

ブリジット・フォンテーヌの記事にトラックバックをしてくださったブログ「パリ6区サンジェルマン村」に、パリのサンルイ島にあるカフェ、Les Fous de l'Ile が紹介されていた。こちらも素敵なカフェである。ブリジット・フォンテーヌも常連客で、お店でよく見かけるんだそうだ。その記事のの下に聞き覚えのあるレストランのリンクが貼ってあった。

パリ7区のシャン・ド・マルス Champs de Mars にある Au Bon Accueil である。リンク先はブログ「フランス美食村」で、以前、日本にも進出しているパティスリー、ジェラール・ミュロ Gerard Mulot の記事にリンクを貼らせていただいたことがある。

AU BON ACCUEIL(「フランス美食村」写真がキレイ!)
AU BON ACCUEIL(お店のサイト)

Au Bon Accueil はテラスからエッフェル塔が至近距離で見えるという絶好のロケーションで、シャトーブリアン(ステーキ)に添えられたマッシュポテトの絶妙な味付けが記憶に残っている。お店のサイトを見ると、昼が27ユーロ、夜が31ユーロと値段設定もリーズナブル。

Au Bon Accueil ではつねに日本人の料理人が働いている。パーティーをしたときにソプラノ歌手の友だちがそこで修行をしているふたりの若い料理人を連れてきてくれたことがあって、その場でトンカツ(a la francaise ?)を揚げてもらった覚えがある。当時ソプラノ歌手はふたりに毎日食事を作ってもらっていると言ってたが、彼女は見るからに女王様体質で、ふたりの料理人をはべらせている感じだった(笑)。かれこれ10年以上も前の話だ。

ニースにお店を構えるミシュラン1つ星のシェフ、松嶋啓介さんもブログでこのレストランを紹介している。Au Bon Accueil で働いている佐々木さんというシェフとお友達なんだそうだ。パーティーに来てくれた人だったりして。




cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN25.png
posted by cyberbloom at 14:43| パリ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月05日

電子ブックと書籍の未来(2) 読書の楽しみとは

SONY LIBRIE EBR-1000EP e-Bookリーダーキンドルで本を読んでいて、ふと別の本のことが気になり、それをダウンロードして読み始めたとする。次の本に移ったのはとっさの思いつきだが、それは元の本に書かれていた引用や参照、文中の間接的な示唆などがきっかけになったのかもしれない。いつでも利用できる書店の誕生は、本の売り上げや知識の普及にとっては良いニュースかも知れないが、それは人間が1冊の本に没頭するための集中力を奪うことになる。21世紀の最も限りある重要な資本、それが集中力なのだ。集中力は、ひとつの線に沿い、ひとつのテーマに焦点を当てる読書を求め、ひとつの物語や議論に没頭することを強いるのだ。(写真はアメリカで普及しているソニーの電子ブック「リーダー」の日本版「リブリエ」)

本のデジタル化が進めば、作家の思想や、そこに広がる別世界にどっぷり浸かるという読書の最大の喜びが失われる危険もある。雑誌や新聞と同様に本も雑誌や新聞のようにつまみ食い的に読まれるようになるかもしれない。

しかし、もともと読書というものは持続的な集中力によって直線的に進むものなのだろうか。読書の楽しみはそういう形でしか存在しなかったのだろうか。ミシェル・ド・セルトーは『日常的実践のポイエティーク』の中で次のように書いている。もちろん、これが書かれたのは80年代後半のことで、セルトーはハイパーテキストの存在など知る由もなかった。

「読むという行為はページを横切って迂回しながら漂流する。それによってテクストを変貌させつつ、その歪んだ像を生み出す眼の旅だ。何かふとした語に出会うと想像の空を駆け、瞑想の空を駆ける。軍隊さながら活字が整列している本の表面でひょいと空間をまたぐ。(…)新聞だろうが、プルーストだろうが、テクストはそれを読む者がいないと意味をなさない。テクストは読み手とともに変化していく。テクストは読み手という外部との関係を結んで初めてテクストとなり、2種類の期待が組み合わされてできあがる、共犯と策略のゲームによって初めてテクストとになる。ひとつは読みうる空間(=字義性)が組織する期待、もうひとつは作品の実現化に必要な歩み(=読むこと)が組織する期待である」

セルトーによると、作者が決めた物語や議論の道筋に従って読まなければいけない、と私たちが思っているのは、読書という行為に「主人(=作者)と奴隷(=読者)」、「生産者と消費者」という権力関係が刻印されているからだ。つまり書くことは生産的な行為であるのに対し、読むことは受動的な行為であり、単なる消費にすぎないと考えられている。読者という行為は、このような社会的な権力関係と、詩的操作(=読者によるテクストの再構築)との結節点に位置する。社会的な権力関係は、読者をエリートのほどこす教化に従わせるようにしむけ、指定された道をまっすぐ行くように命じる。しかし、読者は実際のところ、作者の言いなりになっているわけではない。読むという操作によって文化的正統性のすき間に自分たちの創意や工夫をしのびこませながら、こうした教化をかわしている。読書とは寄り道と道草だらけの珍道中なのだ。

セルトーの「ページを横切って迂回しながら漂流する」とか「何かふとした語に出会うと想像の空を駆ける」とか「ひょいと空間をまたぐ」とかいう読者の意識の動きは、キンドルの操作によって、またネットとつながることによって、可視的なものになり、さらには共有可能なものになる。読書という行為が貶められていたのは、それが孤独な隠れた行為で、痕跡や結果が残らなかったからである。直線的な読書を迂回し、押し付けがましい教化をかわしたとしても、それはせいぜい読者の想像力の中でしか起こりえなかった。

電子ブックによって、読者が本と出合う機会や論じ方も変わるだろう。読者同士が公に本の感想をコメントするブログならぬ「ブックログ booklog 」が盛んになり、グーグルは本のページごとや段落ごとにインデックスをつけ、オンライン上で交わされる会話をもとにランク付けを始めるだろう。小説を読みながら不可解な文章に遭遇した場合は、すぐにオンライン上でその文章の本当の意味について、世界中の読者(決して権威のある文学者や批評家ではない)がどのように注釈を加え、解説し、議論しているかを検索するようになるだろう。自分が今まさに読んでいる文章や段落について、いつでも世界の誰かが話し合っている恒久的かつ世界的な読書クラブの誕生することになる。もう誰も孤独ではない。読者はもはや個人的な作業ではなく、世界の見知らぬ人々との会話することができる共同的な行為となる。






cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN25.png
posted by cyberbloom at 21:33| パリ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月02日

フランス女性はみんなセクシー!?

フランス女性は太らないアメリカでは相変わらずフランス女性たちが話題に上らない日はない。ミレイユ・ジュリアーノの『フランス人女性は太らない』がベストセラーになって以来、彼女たちはアメリカ出版界で追い風を受けている。かつてジェイミー・キャット・キャランの『フランス女性は独りで眠らない』という本もあった。『フランス女性が愛、セックス、その他の心の問題について知っていること』の中で、フランスで10年生活したジャーナリストのデブラ・オリヴィエは、フランス女性たちが情熱について知っていることをアメリカ女性たちに披露した。

「私たちアメリカ女性は、あなた方みんながハイパーセクシーであるという神話を信じています」。デブラは、フランス女性たちを魅力的にしている何かはっきりとは定義できないものがあり、それは下着とか、口紅に結びついているものではなく、文化なのだと言う。

What French Women Know: About Love, Sex, and Other Matters of the Heart and Mind「フランス女性は恋愛に関する規則や縛りがない。これをしろ、これをするなというものが少ない」と現在ロサンゼルスに住んでいるデブラは説明する。「フランス女性はアメリカ女性のように、完璧に愛するか、完全に拒絶するかという選択はしない。物事は白黒つけれないものだから」

情熱に関して、フランス女性たちは感情のニュアンスとうまく付き合っている。フランスの少女たちはこの微妙な差異を「彼は私を愛している―少し、とても、情熱的に、狂ったように il m'aime, un peu, beaucoup, passionnément, à la folie 」と、花びらをちぎりながら花占いをするときに学ぶのだ。一方アメリカの少女たちは「彼は私を愛している、彼は私を愛していない」というふたつの選択に自分たちを閉じ込めている。

French Women Don't Sleep Alone: Pleasurable Secrets to Finding Loveアメリカでハウツー本がたくさん出ているおかげで、恋愛のルールは部分的にアメリカに広がった。それらは恋愛作法のマニュアルを提供していると主張している一方で、アメリカ女性たちを逆に束縛している。デブラはその矛盾を認めていて、『フランス女性が知っていること』も恋愛マニュアルの長いリストに付け加わわることになるだろう。しかしデブラは彼女の最初の意図がフランス女性のこうしたクリシェ(紋切り型)の息の根を止めることだったと断言している。以下がそのクリシェの例である。

@フランス女性はアメリカ女性とは違って戯れの恋をする―これは本当
この違いはフェミニスト運動から来ていて、フランスの運動はアメリカよりもはるかにラディカルだったと説明する。デブラはパリでディナーに招待されたとき、招いた女性の巧妙な席の配置に驚かされた。それは女、男、女というふうに交互に配置されていて、男と女が戯れるように仕向けていた。

Aフランス女性は不倫のプロ―これは誤り
デブラはランセルム(l'Inserm)という研究機関に所属するアラン・ジアミという社会学者の比較研究の成果を仕入れに行った。フランスでもアメリカでも、みんな恋のアヴァンチュールをしていることがわかったが、アメリカの方がフランスよりも愛人関係や一晩だけの関係が多い。一方フランスでは愛人関係が少ないが、その関係は長続きする傾向にある。

Bフランス女性は太らない―これは誤り
デブラはついでに『フランス人女性は太らない』のミレーユ・ジュリアーノの公準を取り入れる。フランス女性がやせているのは、楽しみながら食べるので、食べ過ぎることはないからだ。しかしそれは本当の理由ではなく、フランス女性がやせているのは、太っていることが「政治的に正しくない」からだ。アメリカでは少し偽善的で、直接的な言い方を避け、太った女性に対して“You look great” と言う。フランスでは「太りすぎたんじゃない。気をつけて」とためらわずに言う。

Cフランス女性はレアリストである―これは本当
フランス女性は、規範にとらわれずに自由に行動し、より経験に学ぶ。アメリカ女性のように「死ぬまで幸せに暮らしましたとさ」(“Happily ever after”)という考えを持たない。関係がうまくいっていないとすれば、それは世界の終わりではなく、別の人生に出会うきっかけと考える。


« Vous, les Françaises, êtes toutes sexy » et autres clichés
Par Laure Guilbault
Rue 89
27/10/2009

translated by cyberbloom





rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN25.png
ラベル:ダイエット 恋愛
posted by cyberbloom at 16:37| パリ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月28日

電子ブックと書籍の未来(1) アマゾンのキンドル

週刊 東洋経済 2009年 8/29号 [雑誌]近年、革命的なテクノロジー体験が日常的なものになった。何千曲もの音楽をスットクし、指先で呼び出せるiPodしかり、自宅のパソコンから行きたいレストランの周囲の様子を見れるグーグル・アースしかり、どんなミュージシャンのレア映像も必ず出てくるyoutubeしかりだ。アマゾンの電子書籍「キンドル Kindle 」もそのひとつに加わるのだろう。カフェでビジネス書を読んでいたときに、ふと気になっていた小説が読みたくなる。キンドルの画面を数回タップするだけで、それが数分後に画面に現れるのだ。メールで請求書が届いたときには、小説の1章を読み終えているといった具合だ。

HOW TO USE KINDLE

本のデジタル化とは単にインクがピクセルに替わったということではない。本を読み、本を書き、本を売るということが根本的に変わったのだ。また本は「1冊」の中に完結しないものになり、読書という孤独な行為は共同的、社会的なものになりつつある。かつての文学理論(例えば、間テクスト性=intertexualityとか)において観念的に問題になっていたことが、現実になりつつある。19世紀のフランス文学者は代わり映えのしない白い紙と格闘し、自身の過剰な思考と想像力を受け止めてくれない「1冊の書物」という閉じた紙媒体の限界にいらだっていた。様々な媒体=メディアの限界を接合しながら新しい現実を切り開いて聞くテクノロジーに、今度は私たちの想像力が追いついていかない(このテーマは次回に切り込む)。

具体的な話をしよう。アメリカの出版業界は歴史的な転換の時期を迎えている。それを象徴する出来事が、全米最強の書店チェーン「バーンズ&ノーブル(B&N)」がアマゾンに全米首位の地位を奪われたことだった。B&Nとアマゾンは10年以上も前からライバル関係で、アマゾンがナスダックに上場したとき、アマゾン・キラーとしてオンライン書店「B&M.com」をスタートさせた。当時はすでに巨大な購買力と価格競争力を誇るB&Nがアマゾンを葬り去ると言われたが、アマゾンの独走を止めることさえできなかった。「B&M.com」はナスダック上場を果たすも、業績は低迷し、今や親会社B&Nの完全子会社になってしまった。現在B&Nの時価総額は11億ドル、一方アマゾンは360億ドルとその差は歴然としている。

オンライン書店最大手のアマゾンがリアル書店B&Nに完勝した中で電子ブック端末が急速に普及した。アマゾンが07年11月に売り出した「キンドル」が、09年2月の「キンドル2」、同年6月の「キンドルデラックス」によってさらに成長を加速させている。アメリカでは08年のインターネット経由でダウンロードされた電子書籍コンテンツの売り上げが1億1300万ドルで、07年と比べて68%伸びた。

日本では電子ブックが全く根付かなかったが、それはモノクロ画面で、ページをめくる時間がかかるなど、技術的な問題によるものだった。それは今も変わっていない。なぜアメリカではうまく行ったのか。ひとつはコンテンツの豊富さと安さである。ベストセラー小説をすべてキンドルで読めるうえに、安い。ふたつめの理由は持ち運びやすさである。アメリカのハードカバーは重くて持ち運びに不便。ペーパーバックは紙質が悪く長期間の保存に適していない。キンドルはデラックスで重さは535グラム。その中に3500冊のコンテンツを入れることができる。さらにアメリカ独自の問題もある。新聞業界の衰退のせいで新聞の宅配が止まったり、書店の数が減ったせいで近くで本が買えない人が増えたのである。キンドルならばどんな新聞もどんな本もあっという間にダウンロードできるのだ。

キンドルと対照的な事業展開をしているのが、ソニーの「リーダー」だ。リーダーはアイコンによって操作できるようにインターフェイスを工夫している。ビジネスモデルも対極的だ。アマゾンが自社の圧倒的な顧客基盤を背景に、キンドル独自のファイルフォーマットによってコンテンツを囲い込んでいるのに対し、ソニーは米出版業界標準のEPUBに対応している。このオープン戦略によって、グーグルが味方についた。7月末、ソニーとグーグルが保有する100万冊に及ぶ著作権フリーコンテンツがソニーのリーダーで読めるようになった。コンテンツの量ではアマゾンを凌駕した。

しかし、グーグルのポリシーもオープンであり、ソニーとだけ組むわけではない。グーグルとしては自身が蓄積しているコンテンツに自由にアクセスできる環境作りをしたいわけだ。グーグルは図書館にある著作権が切れた本のデジタル化を進めてきたが、それをケータイ、電子ブックなど、すべてのデバイスによって読めるようにする。さらにはそれをダウンロード販売するような方法も探っているようだ。

もちろん電子ブックには様々な問題がある。本質的なものとして、電子ブックのコンテンツは一体だれものかということだ。紙の本ならば買った人のものだが、アマゾンの購入契約では電子書籍コンテンツの権利はソフトウエアのライセンスに準じている。内容の変更や削除を行っても、コンテンツの購入者は文句を言えない。それは利用権にすぎないわけだ。

しかし、出版社にとってデジタル化の流れは大きなチャンスになるようだ。これまで紙の本は貸し借りできたが、デジタル化はそれを制限できるし、中古本のような2次流通も阻止できる。改訂作業も低コスト。表現方法も大きく変わることになるだろう。

ところで、日本といえば一度電子ブックの普及に失敗したが、キンドルは黒船のように現れた。日本の出版業界は、「出版社」「取次」「書店」というガチガチのシステムに守られてはいるが、それにも風穴が開こうとしている。
(続く)

□「電子ブック・キンドルが目論むデジタル新秩序」in 『週刊 東洋経済 2009年 8/29号 』を参照





cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN25.png
posted by cyberbloom at 11:48| パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月25日

『クレーヴの奥方』事件(1) - Je lis la princesse de Clèves!

去年、日本でスタンダールの『赤と黒』の翻訳をめぐって論争が勃発かと思われたが、あまり盛り上がらなかった。結局、研究者の内輪の議論の枠を越えられず、外部を巻き込むに至らなかった。一方、フランスでは『クレーヴの奥方』事件が起こった。こちらは同小説に対するサルコジ大統領の侮蔑発言に対して、ニュースのタイトルになっているように抵抗の象徴(une résistante)として祭りあげられたのだった



サルコジ政権は発足とともに「大学の自由と責任法」(通称ペクレス法 la loi Pécresse)などの法律を成立させ、フランスの大学の効率化に努めている。これは伝統的な大学の独立と自由を侵害するとして当初から大学関係者や学生の反対が強かった。さらに「教員兼研究者」の地位・労働条件の決定権を学長にゆだねる政令を教育相が発布したことをきっかけに、今年の2月2日、ソルボンヌで全国の大学教員の集会が開かれ、無期限のストライキに入った。教育相のグザビエ・ダルコスは改革を1年延期すると譲歩を示したが、大学はその後マヒ状態に陥った。ダルコスは密かに7月、教育相を辞任している。

クレーヴの奥方 他2篇 (岩波文庫 赤 515-1)その一連の動きの中で新しい抵抗の象徴がかつぎだされた。それが17世紀にラファイエット夫人が書いた『クレーヴの奥方』である。具体的な行動として、街角にマイクを立てて『クレーブの奥方』の輪読会が行われた。多くの教師、研究者、学生が参加し、街頭の朗読マラソンは6時間続いた。彼らの反発は、「役所の窓口で『クレーヴの奥方』をどう思うかなんて聞くことがあるだろうか。そんなことがあれば、ちょっとした見物だ」という、サルコジ大統領がまだ大統領ではなかった2007年2月の発言にまでさかのぼる。大統領は公務員試験に出題された無用な知識の例として『クレーヴの奥方』を挙げたのだった。

もちろん『クレーヴの奥方』はサルコジがケチをつけたから脚光を浴びたのであって、その内容が再評価されたということではない。『クレーブの奥方』は抵抗の象徴どころか、17世紀のセレブな文芸サロンの産物である。しかし、思いがけない宣伝効果で、『クレーブの奥方』は書店のスターになった。売上は07年から回復の兆しを見せ、08年は06年の3倍の部数が売れた。

パリ第3大学で教えているオリビエ・ブヴレOlivier Beuvelet氏がブログで興味深いことを書いていた。それはこの事件が知の転換の局面を示すというものだ。

La Princesse De Cleves (Le livre de poche: classiques)「この事件は確実に記憶にとどめられるだろうし、社会の中での知の位置の修正をもたらすだろう。一方が知を所有し、他方が知を求めるという関係は終わり、知はすべての人々の共有物、重要な楽しみとなるだろう。それまで知が届かないとみなされていた時空で、知が共有され、アクセス可能なものになった。ボルドーでは路面電車の中で翻訳の授業が行われ、公園では公開の輪読会が行われた。パリでは歴史的なデモが行われ、大学とは別の形の講義も行われた。最初それらは抗議行動だったが、個々の中にある知識欲を満たす、喜ばしい知の循環へと向かう文化の変化が、どのような条件のもとで起こり、どんな原理を持っているかを示したのである」

ところで、日本で文学作品のあらすじをまとめた本が売れているらしい。「あらすじ集」を読む動機を考えてみると、知ったかぶりをするために、あるいは大学入試や公務員試験に合格するためだろうか。もちろん、これから文学作品を読んでみようという人がとっかかりとして利用するケースもあるだろうが、多くの場合作品そのものを楽しむよりは、別の功利的な目的のために読まれていることを意味しているのだろう。

「サルコジの発言は文化一般の話だけでなく、窓口の受付係や秘書をしている人たちへの侮蔑にもなる。そういう人たちは良い本を読むのに適していないという意味にもなるから」とニュースの中でデモの参加者が発言している。確かにもっともな意見ではあるが、公務員試験は受験者の人格のすべてを測る必要があるのだろうか。公務員試験は担当する仕事をこなすのに十分な実務能力や適性を問えばいいわけで、その人がどのような文化的な関心や蓄積があるかは別の問題だという考え方もできる。つまり公務員(国家に関わる人材)の採用試験を通して、「あるべき国民の規範」が示されているわけだ。

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)日本にも教養試験があるので、「教養のある人間」がひとつの規範になっているのだろう。教養は未だにそれなりの力を持っていて、教養はないよりはあったほうがいいと思われている。それは「読書による人格形成」というモデルに基づいていて、相変わらず読むべき本のリストアップという形を取っている。

知ったかぶりや動機のない読書を増やさないためにも、サルコジとは違う意味で試験にそういう問題を出さないほうがいいのかもしれない。しかし、そういう義務をあてにしている人々もいるのだろう。もし、公務員試験に文学の問題を外してしまうと、強制力が働かなくなり、誰も文学作品を読まなくなる。それは文学の危機であると同時に、それで食べている人たちの仕事がなくなるというわけだ。

教養なんて所詮は時代の要請による相対的なもので、その都度組み替えられてしかるべきものなのだ。竹内洋の『教養主義の没落』を読むと、教養は新興勢力の文化戦略でもあり、ひとつのイデオロギーにすぎないことがよくわかる(思考停止な大学人に対する竹内氏のいらだちも)。

文学や芸術を見栄のためや道具的に使うという行為と大学人も決して無縁ではない。それは俗物教養主義と呼ばれる。大正以降、教養=文化が新中間層の階級移動(つまり成り上がっていい暮らしをすること)や、都合の良い自己形成の道具として利用されたことはしばしば指摘される。大学の大衆化とともにその傾向はいっそう顕著になったが、学歴による立身出世のメンタリティと教養主義は表裏一体だった。それは、もっぱら無秩序な読書や高踏的な趣味の鑑賞に埋没する一方で、現実の問題に全く目を向けず、それどころかそれらを黙殺するような文化主義として現れた。
(続く)






cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 23:26| パリ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月24日

秋の音楽 Musique pour l’automne 2009

3つのエントリーに渡った9月上旬のビートルズ特集はアクセスに関しては普段通りだったが、友人や学生から反響があったのが嬉しかった。学生たちが自分のベストソングを教えてくれたりして、今の若い人たちにもビートルズが浸透していることを再認識。

KRAFTWERK - TOUR DE FRANCE



ところで、秋はスペーシーな音楽が合う。秋晴れの空はで澄み切っていてスペーシーだし、夜空には見事な月がかかっていたりして、宇宙を身近に感じる。クラフトワークはドイツのグループで、70年代にはドイツの高速道路「アウトバーン」をテーマにしたアルバムを出しているが、今の時代は自動車よりも、エコな自転車の方がいい。「ツール・ド・フランス」は夏のイベントだが、山あり谷ありのフランスの景勝地を巡る色のない映像と軽快なスピード感、そして無機的なフランス語のナレーションはとってもクール。クラフトワークの磨きがかかったテクノ・サウンドは深みのあるスペーシー感を醸し出し、秋の空気に著しくマッチする。

FLARE - CYCLING ROUND

90年代によく聴いたKen ISHI (=Flare) に Cycling Round という曲があったのを思い出した。この曲の浮遊感とグルーヴ感も絶品だ。


Tour de France Soundtracks
Tour de France Soundtracks
posted with amazlet at 09.10.23
Kraftwerk
Astralwerks (2003-08-19)
売り上げランキング: 20172
おすすめ度の平均: 5.0
5 うおっ!
5 う〜ん、すごすぎ。
5 良いともいます。
5 傑作
5 不変・普遍


井上陽水 - 「傘がない」「ゼンマイ仕掛けのカブト虫」

テクノとは全く対極的な音楽だが、最近なぜか井上陽水を聴いている。「傘がない」(「断絶」収録)が流行っていたころ、私はまだ小学生だった。「君に会いにいかなくちゃ」いけないのに「傘がない」、「君のこと意外は考えられなくなる」けど「それはいいことだろう」と歌っていて、政治の季節の終焉を告げた浅間山荘事件が起こった年に、若者の脱イデオロギーと生活重視(ガールフレンドのことなど)への転換を歌った象徴的な歌と言われている。つまり団塊世代の変わり身の早さと節操のなさってことか。

井上陽水「傘がない」(1972)

とはいえ、「君に会いにいかなくちゃ」という欲望の強度と、ストレートなリフレインが切り開く広がりには素直に感情移入できる。陽水は今もライブでこの歌を歌い続けているが、やはり若さ特有のヒリヒリ感をかもし出す72年のアルバムヴァージョンがベストだ。Tsutayaで陽水のCDを探していたら、J-Popのカテゴリーにどうしても見つからない。別に「大人の音楽」というカテゴリーがあって、そこに置いてあった。「大人の音楽」って何(笑)。基本的に青春の音楽であるロックやフォークを歌い続けること、そしてそれを聞き続けることの悲哀のようなものを感じてしまった。

1991年の共演ライブで、陽水と親交の深かった忌野清志郎がこの曲を歌っている。脂の乗り切った頃だ。「君に会いに行かなくちゃ」というリフレインが清志郎のために書かれたって感じがするくらいハマっている。ほとんど陽水の曲を食ってしまっていて、そばで陽水が呆然としているように見える。偉大なシンガーが失われたことを改めて思い知らされる一幕だ。

忌野清志郎「傘がない」(1991)

「傘がない」がグランド・ファンク・レイルロードの「ハートブレーカー」をパクったという説があることを最近知った。確かに「ハートブレーカー」をバックに「傘がない」が歌えてしまう。本人もそれを認めているという。陽水が何かの音楽番組でビートルズのある曲が自分のこの曲になったとギターを弾きながら解説していたのを思い出した。名曲をそっと人知れずズラしながら別の名曲を作り上げるのも天才のなせる業なのか。さらになぜか中国語のサイトに、「君に会いにいかなくちゃ」の「君」は実はグランド・ファンク・レイルロードのことで、陽水が伝説の来日コンサート(大雨の中で全員で「ハートブレーカー」を合唱したという)が始まるのを喫茶店で待っていたときのことがもとになっているとあった。このあまりに整合性のある話に妙に感動してしまった。

Wikiを見たら、陽水のカーリーヘアとサングラスというスタイルはミッシェル・ポルナレフの強い影響だと書かれていた(要出典の情報だが)。言われてみれば確かにそうだが、こんなところで陽水とフランスが結びつくとは思わなかった。

井上陽水「ゼンマイ仕掛けのカブト虫」(1974)

陽水は独特のシュール感を生み出す言葉のセンスが魅力だが、「ゼンマイ仕掛けのカブト虫」(「二色の独楽」収録)に勝る歌はないだろう。特にラストシーンには戦慄する。うちの子供と一緒に聴いていたら、コントローラーで動かせるプラモデルのカブト虫を、近所の友だちが「引きずり回していて壊れた」ことを思い出したらしく、「この気持ちよくわかる」とやけに感情移入していた。最後の部分で、「何で、君の眼が壊れるの?」と聞いてきたので、「実際に壊れたのは男の方なんだよ。まあ、大きくなったらいやでも経験するよ」と私(笑)。

関連エントリー「秋の音楽 2008」(by exquise)
関連エントリー「メークアップのための音楽」(by cyberbloom)




cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN25.png
posted by cyberbloom at 00:22| パリ 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月20日

Nuit Blanche 2009

去年、キャベツ頭さんが Nuit Blanche(ニュイ・ブランシュ、白夜)というイベントを紹介してくれた。2002年、パリ市助役のクリストフ・ジラールの提案により実現したパリ市主催のアート・イベントである。例年10月の最初の土曜の夜、一夜限りで開催され、今回で8回目になる。




「全ての人に芸術を」という主旨の下、街のあちらこちらにコンテンポラリー・アートのインスタレーションが出現する。去年はニューヨーク・パンクの女王と呼ばれたパティ・スミスのコンサートがサンジェルマン・デ・プレ教会の前で行われたが、今年はそういう目玉イベントは見当たらない。

「全ての人に芸術を」というのがいかにも国家主導型のフランスらしい。アートもまた再分配の対象であり、重要な社会インフラなのだ。国がちょっと馴染みのないアートと市民のあいだを取り持つコーディネイターの役割を果たし、市民もそれを楽しみながら理解しようとしている。また身近な場所が舞台になっているので、地元の再発見にもつながるようだ。動画の最後に出てくる、デコボコ・サッカーに挑戦した子供たちも楽しそうだ。

Des vidéos, des photos, à découvrir ici




cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 08:32| パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月17日

ブリジット・フォンテーヌ 「私は再び攻撃に転じる!」

France Yahoo!のトップにいきなり、ブリジット・フォンテーヌ Brigitte Fontaine の姿が。すっかりおばあちゃんになっているが(今年で何と70歳!)、ラディカルな左翼魂は健在だ。ヤフーのタイトルにも“Je repasse à l'attaque”(私は再び攻撃に転じる)とあって、ちょっと目を疑った。インタビューで、反乱 rebellion とか言って拳を振り上げている。とにかく息が詰まりそうな現状で、今起こっていること、禁止されていることに反抗するのだと。かっこいい。こういう一貫した態度には勇気付けられますね。彼女も68年の申し子なのだと改めて実感。


アルバムのタイトルは Prohibition 禁止。不法滞在 sans papier もいけないし、アルコールも飲めないし、タバコを吸える場所もなしい、デモもやりにくくなっている。そのうち空気も吸えなくなるわ。呼吸をすることは地球温暖化に寄与してしまうから(笑)。とにかく、何でもかんでも禁止しやがって、という歌のようだ。

Prohibitionブリジット・フォンテーヌといえば1969年の傑作「ラジオのように comme à la radio 」(⇒試聴)が知られているが、アート・アンサンブル・オブ・シカゴとコラボした(もちろんアレスキも)アルバムは「ブリジットIII」とともにレコードが擦り切れるくらい聴いた。80年代の後半に来日したときも見に行った。名古屋のライブハウス Electric Lady Land だったと思う。歌いながら客席に降りてきたブリジッドと握手をした。あの手の冷たい感触は今でも覚えている。ツアーのメンバーにゴング Gong のディディエ・マレルブも参加していて、彼のサックスを生で聴けたのも嬉しかった。

その後、パリでも見る機会があったが、大学の講義室のようなホールで、モンチッチ頭でボンデージのボディスーツを着て歌っていた。彼女の女性性は普通とズレていて、関節を外すような独特のユーモアのセンスがある。昔から男の私からしてもストレートに感情移入させてくれない。インタビューの映像を見ても、少女のような格好をしたおばあちゃんが拳を振り上げている姿は何だか妙にかわいらしい。とはいえ、赤を基調にしたアルバムのヴィジュアルは鮮烈だし、声がしわがれつつ凄みを増していく感じが晩年の Nico を思わせる。


Comme à la Radio
Comme à la Radio
posted with amazlet at 09.10.17
Brigitte Fontaine
Saravah (2001-10-15)
売り上げランキング: 215156
おすすめ度の平均: 5.0
4 妖しくも惹かれるとはこの事
5 歴史的名盤
5 個人的な体験
5 傑作
5 すごい





cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 20:22| パリ ☁| Comment(2) | TrackBack(1) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月15日

パリのカフェ的コミュニケーション(2) マクドナルドの硬い椅子

先回(2007年)、ギャルソンに微笑み、一声かけるという「パリのカフェ」的なコミュニケーションとは対照的に、日本には人間の介在を可能な限り排除し、消費者の欲望を即物的に満たそうとするシステムが張り巡らされていると書いた。レンタルショップ、コンビニ、ファミレス。様々な自動販売機。広い駐車場を備えた郊外型の店舗。それらには人間が介在するにしても、店員はマニュアル化された言葉使いと態度で客と接し、私たちも彼らの人格を無視するようにふるまっている。現代の利便性は、人間を介さない自動的かつマニュアル化されたシステムに媒介されることを意味し、私たちはそれらに身をゆだねていると。

一方「人間の介在を可能な限り排除する」システムも、言葉で説明するとか、説得するとか、交渉するとか、そういう人間的なコミュニケーション能力を客に期待していない。そのシステムは、人間を人間とみなさずに、快・不快に反応するだけの動物としてコントロールする。

その象徴が「マクドナルドの硬い椅子」だと言われている。椅子を硬くすることにより、客の回転率を高め、客の流れをコントロールする。椅子の硬さだけではない。冷暖房の温度、照明の明るさ、BGMのジャンルや音量、家具やインテリアの仕様や配置。これらも環境の中にさりげなく埋め込まれて同じ役割を果たしている。重要なことは、個人がその中で自由にふるまい、リラックスしている感覚を損なわずに、客をコントロールすることである。

スポーツクラブでもそういう感覚を味わったことがある。溜まる場所がなく、移動し続けることを余儀なくされるような。お風呂もサウナも広いし、ジャグジーも充実しているし、施設に不満はないが、ふとした瞬間に、何か構造的に行動をコントロールされているような気がしてくる。

そういう外的な構造や快・不快の刺激でどのくらい人間をコントロールできるかはわからないが、監視社会論の中でこういう議論をよく目にする。従来の規律訓練的な管理に対して、環境型管理と呼ばれている。

一般的に管理社会というと、人々を強制的に束縛した状態に置く社会をイメージする。その最たるものは「1984年」(村上春樹ではなく、ジョージ・オーウェル)で描かれている世界だ。しかし、新しいタイプの管理が必要になっているのは私たちが自由に行動するからだ。この管理は自由を抑圧し、否定しているのではなく、逆に自由を条件としている。私たちは多様な趣味嗜好を持った消費者として行動する。自由に動く個人の行動を補足するために、マーケティングや顧客情報の管理が必要になる。これも同じタイプの管理である。

新しい管理は何よりも監視カメラと抱き合わせになっている。「ギャルソンに一声かけ、微笑む」という人間関係の蓄積がないので、どんな人間が店に入って来るかわからないからだ。店の中に限らず、マニュアル化された社会は人間の流動性が高い (つまり誰が誰だかわからない) ので、監視カメラが欠かせない。私たちもセキュリティーの確保のためにそれが必要だと信じている。

人間的なコミュニケーションをあてにしない。言葉による説得や交渉を最初から諦め、放棄する。不快感に訴えたり、居心地の悪い造りにして排除する。最近、ある自治体が公園が荒らされるのを防ぐために、「若者たむろ防止装置」を設置して話題になった。それはモスキート音と呼ばれる17KHz以上の高い周波数音を出す音響装置で、10代から20代前半の若者にはよく聞こえ、不快感を与えるが、それ以上の大人には聞こえにくいという特徴がある。何よりもそれは「選別的」だ。この出来事は自治体が公表したので問題になったが、公表されずに何らかのアーキテクチャーに埋め込まれる可能性もあるだろう。知らないうちにある場所から排除されているということが日常的に起こっていても不思議ではない。

モスキート音装置に頼るのは警備員を雇うコストが高いからと言っていたが、問題はコミュニケーションの放棄にある。かつては言葉によって当事者のあいだで解決できたような問題も、権力やシステムにあっさり譲渡してしまう。日本でやたらと機械が喋るもの、「あーしろ、こーしろ」というアナウンス(特に電車の中)が多いのも、監視カメラを要請するのと同じ構造、つまり自ら管理を外部のシステムに任せている結果なのだ。

一方で、動物的な管理が全面化しているとも思えない。そのような管理が客の回転率を調整しているのであれば、それに抵抗することもできる。

駅前にあるドトールへよく行く。ドトールが「硬い椅子」のシステムを敷いているのは知らないが、一方で「読書や物書きによる長時間の席の独占はご遠慮ください」と、「コーヒー飲んだらトットと帰れ」みたいに書かれた小さな張り紙があちこちにある。とりあえず、言葉による説得という形を取っている。しかし、無視して何時間も居座る客も多い。空いているときは私もときどきそうする。

一律に動物的な管理が有効と言うわけではなく、人間的な部分にプレッシャーをかけてみたりと、人間と動物を組み合わせているのだろう。私のよく行くドトールには高齢者の仲良しグループが集って、何時間も居座っている。回転率を考えると個人客よりもそっちの方が問題なのではと思うが、やはりターゲットにされるのは若い個人客なのだ。流動性が高まっていく日本社会の象徴とみなされ、かつ自己管理=社会化がうまくいっていないとみなされ、しばしばバッシングの対象になる人々だ。これも若者恐怖症が根底にあるのだろう。




cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 20:34| パリ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月10日

フランス・モデルの再評価(2) フランス・テレコムの自殺騒動が語ること

フランス・モデルの最大の特徴は、必要最低限の生活に不可欠なものを国家が提供するという点にある。国家は、いざというときの備えを提供し、富を再分配し、景気が悪いときは需要を下支えする。しかし、フランスの場合、必要なものを国民に提供するのはもちろんのこと、さらに計画と規制と言う二つの役割まで担っている。

フランスは第2次世界大戦後、経済復興のためにコルベール時代のような国家計画を実施した。それが栄光の30年と呼ばれる、1945年から75年までの経済的な繁栄をもたらした。そのような成功体験のおかげで、コルベールの精神が今も生きているのである。

コルベール的な計画経済が最も機能するのは公共インフラを整備する長期計画であろう。最近、サルコジ大統領は新しい地下鉄を作る10年計画を発表した。自動運転される新しい路線は、パリの郊外を経由し、主要な空港を結ぶ環状線になるようだ。さらにTGVの鉄道網も拡大を続けている。

フランス政府が原子力発電に力を入れることを決めたのは1970年代のことだ。オイルショックと石油不足に対応するためだった。フランスは現在電力の78%を原子力でまかない、電力の純輸出国になっている。フランス電力公社(EDF)とアレバ(Areva)という世界屈指の原子力関連会社を擁するフランスは、耐ミサイル、耐震の最新世代の原子力発電所 EPR を開発し、他国も同じデザインに倣おうとしている。

管理への衝動は、フランス国家の3つ目の役割にまで及んでいる。それは規制である。フランスはルール作りのチャンピオンである。ひとりの薬剤師が持てる薬局の数(一軒)も、パリ市内を走るタクシーの台数(1万5300台)も規制で決められている。大型トラックが高速道路の走行を許される時間帯(日曜日以外の)だけでなく、店がセールをできる期間(1年に2回、期間も役所が決める)も規制で決められている。2週間自由にセール期間を選んでよいという新しいルールが出来たとき、それは革命的な出来事として迎えられたほどだ。

それでも金融部門の規制は、現在の金融危機に対処するにあたって、役立ったと言える。フランスの大手銀行は多額の損失を出しているが、業績は確実に英米の銀行を上回っている。フランスでも不動産価格が急上昇したが、それは投機的な売買のせいではなく、人口の増加や、可処分所得の増加、住宅の供給が少なかったことが原因なのだ。

もっとも、規制の効果を算定することは難しい。フランスのある高官によると、半分は融資に慎重な伝統のおかげ、半分は規制が厳しいおかげだそうだ。フランス政府は自国の銀行に国際基準よりも厳しい自己資本規制を課している。金利負担が借りての所得の3分の1を越えるローンは組まないように推奨され、返済可能な額を超える債務を借り手に負わせてはならない法的な義務がある。制度が融資を慎重にさせる仕組みになっている。

フランス・モデルのおかげで、フランス人はクレジットカードで無駄遣いをすることもなかった。需要は支えられ、不平等はそれほどひどくはない。大聖堂は修復され、花壇にはきれいに花が咲いている。これらはフランス・モデルがうまく機能していることを意味しているのだろうか。落とし穴はないのだろうか。

その答えは、成長率の低さや失業率の高さという、失望的なマクロ指標にある。それはフランス・モデルが国家に割り当てている先の3つの役割から説明できる。

医療と福祉を支えるためには雇用主に重い社会保障の負担をかけることが避けられない。そのため、フランスの企業は雇用の創出に消極的で、インターンや派遣社員を使いまわすことも多い。フランスの失業率は現在8・6%で、アメリカとほぼ並んでいる。フランスがアメリカと違うのは好景気でも8%を切らないことだ。

つまり、フランスの労働市場は二分されている。一方は十分な給料をもらっている正規雇用の市場。正規雇用者は労働組合が交渉によって作り上げた業界慣習によって保護される。もう一方は保護されていない短期雇用者の市場。仕事に全くありつけない場合もある。とくに若者は労働市場から締め出されており、25歳以下の失業率は21%という驚異的な高さだ。イスラム系の多い郊外ではその倍にまで跳ね上がる。

コルベール流の国家計画は大規模な計画の立案や実行には有効だが、現場からアイデアを取り入れたり不安定な市場の動きに対応するのには向かない。それにフランスはベンチャー企業が少なく、中小企業も成長できない。パリ証券取引所に上場している企業の多くは創業50年以上だ。

確かに国家による規制はフランス経済を金融危機から守ったのかもしれないが、裏を返せば好景気になっても経済が活性化しないことを意味する。不況時に安定している経済は、好況でも活力がなく、ダイナミズムに欠ける。弾力性のないフランス・モデルは社会の連帯を守ることはできるが、活力ある経済成長ももたらすことはないのである。


以上が「フランス・モデル」(英「エコノミスト」掲載)の後半である。このレポートを読んでいて、フランス・テレコムの自殺騒動(結局24人が自殺)を思い出した。INFO-BASEでも書いたのだが、情報通信技術が時代の主役に躍り出て以来、企業において研究開発やイノベーションが重要になったが、これは国家レベルでも逃れられないことだろう。

レポートの中に「コルベール流の国家計画は、現場からアイデアを取り入れたり不安定な市場の動きに対応するのには向かない…それにフランスはベンチャー企業が少ない」と書かれているが、今の時代のイノベーションは事前に計画できるものではない。公共インフラの整備や製造業においては、目的は最初から決まっているが、情報通信産業では目的を試行錯誤によって探すしかないし、たとえ見つかったとしても、目的は次々と刷新されていく。この変化は産業構造だけでなく、その中に編成される人間のあり方まで変えてしまった。

フランス・テレコムの事件は、正社員が制度的に保護されているせいで、逆に精神的に追い詰められてしまうこと、つまり、新しい産業構造が流動性を求めているのに、国の方が古い制度を維持しているせいで、正社員の意識がそのあいだで引き裂かれていることを示している。しかし、日本のように、それが企業に過剰な流動化の口実を与えてしまいかねないことが難しい問題である。フランスといえばバカンスだが、バカンス制度を維持できるのもそういう保護主義があるからだろう。人間が人間らしく生きること。それは若者や移民など、一部の国民さえも排除しつつ維持されている面も大きい。グローバリゼーションの観点からすれば、フランスは既得権益の砦のように見えてしまう。

関連エントリー「フランステレコムの自殺騒動」(9月25日、INFOBASE)
「フランス・モデルの再評価(1)」





cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 23:35| パリ ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月09日

フランスから見た日本

姉妹ブログ FRENCH BLOOM NET‐INFOBASE の方でフランスのメディアの記事の中から「フランスから見た日本」をテーマにしたものをピックアップしています。superlight さんに翻訳してもらって、私がときどき解説を加えるという形でやっています。「なぜ日本女性は子供を生まないのか?」から始まったこの企画は、話題の Twitter にひっぱられたりして、かつてないアクセスを呼んでいます。

そして「草食系男子」の命名者である深澤真紀さんが、「日経ビジネス associé 」に掲載されたインタビュー記事(10月8日)で、「フランスの雑誌が紹介する日本の草食系男子」(9月9日、FBN-INFOBASE)にリンクを貼ってくださいました。さすがにメジャー媒体からのアクセスは桁が違います。

□「なぜ日本女性は子供を生まないのか?」
http://cyberbloom.seesaa.net/article/127297922.html
□「なぜ日本女性は子供を生まないのか?−につっこみを入れる」
http://cyberbloom.seesaa.net/article/127820670.html
□「フランスの雑誌が紹介する日本の草食系男子」
http://cyberbloom.seesaa.net/article/128385171.html
□「ユニクロがパリに旗艦店、柳井正インタビュー」
http://cyberbloom.seesaa.net/article/128965582.html

ついでに最近アクセスが特に多かった記事をふたつ紹介します。このふみこさんがテレビに出演したこと、シャルロット・ゲーンズブール主演の「アンチキリスト」がどこかで話題に上ったことが原因のようです。

□「料理人―狐野芙実子(このふみこ)」(by mandoline)
http://frenchbloom.seesaa.net/article/104404613.html
□「カンヌ映画祭受賞結果」(by exquise)
http://frenchbloom.seesaa.net/article/120237399.html





cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 14:43| パリ ☁| Comment(2) | TrackBack(1) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月06日

フランス・モデルの再評価(1) The French Model

フランスでは地上50メートルの高い場所で景気刺激策が行われる。13世紀に立てられたゴシック大聖堂の大掃除である。職人たちがブラシを使って屋根の汚れを落とすのである。フランス政府は現在、景気対策の一環として総額260億ユーロのプロジェクトに取り組んでいるが、大聖堂の修復工事もそのひとつ。アメリカから景気刺激策をやるようにうるさく言われたが、フランス政府の対策はインフラの整備を前倒しで実施するだけであった。いかにも国家主導主義の伝統を持つフランスらしいやり方だ。

フランスは弱者には優しいが、その分、税が重く、規制も多く、保護主義色が濃い。このような国はヨーロッパでは珍しくないが、フランスは際立っている。なにしろルイ14世の財務総監を務めたコルベール Jean-Baptiste Colbertの時代から国家主導で、道路や運河や大工場が建設されていたのだから。

フランスの経済・社会モデルは漠然と「フランス・モデル The French model 」と称されている。このフランス・モデルは近年、経済成長や雇用創出も満足にできない制度として厳しい批判にさらされてきた。

批判していたのはイギリスやアメリカだけではない。フランスの大統領ニコラ・サルコジも批判者のひとりだった。サルコジ大統領はいまでこそ自由放任型の資本主義は終焉したと主張しているが、彼が大統領選で勝利できたのは、停滞するフランスモデルに代わるものとして、アングロサクソンモデルを賞賛していたからだ。今でこそ、カーラ夫人のせいで左傾化しているとさえ言われているが。

フランスは他国と同じように世界的な景気後退の大打撃を受けている。今年2月の失業率は8・6%に達していた。とはいえ、フランス経済が受けた打撃は他国に比べて弱かった。これまで何かと財政浪費で非難されてきたフランスだが、財政赤字もかなり低く抑えられている(フランス6・2%、イギリス9・8%、アメリカ13・6%)

フランス人は貯蓄に励む傾向が強く、無理な住宅ローンを組んだり、クレジットカードを使って散財したりしない。フランスでは政府が銀行を救済する状況に陥る気配すらない。
最近イギリス人やアメリカ人はフランス的な言動をするようになっており、それをフランス人は面白がっている。例えば、オバマ大統領はアメリカ国民に対して節約や貯蓄、モノつくりを奨励し、富の再配分と医療サービスの充実を訴えている。金融立国として名を馳せたイギリスはサブプライムのダメージも大きく、ブラウン首相が「自由放任主義型経済の時代は幕を閉じた」と宣言。財界人は「金融の蜃気楼」に頼るのではなく、まともな産業政策を実施するよう政府に要求している。ル・モンド紙は「かつて酷評されたフランスモデルが、危機の到来で再び脚光を集めている」と書きたてた。

確かに失業への不安は感じられる。その一方で景気がさらに悪化しても公共部門と社会福祉システムが下支えしてくれるだろうという安心感がある。公共部門で働く雇用者はフランス全体で520万人いて、就労者全体の21%にあたる。景気後退の影響をわずかに受けるだけで済む就労者と定年退職者は50%近くにまで達する。フランス・モデルは不況の衝撃を緩和する役割を果たしている。加えて、フランスには手厚い社会保障制度がある。失業手当は前職の給与の70%ももらえることもある。子供手当てなど、家庭を支援する各種手当ても充実している。フランスの医療制度は官民の双方が負担し、誰でも医療サービスが受けられる。民間の医療保険に加入できず、医療費を払えない人には、資産調査をしたうえで国家が医療費を負担する。

ラガルド財務省は、こうした安定装置が需要を下支えする効果を発揮しており、景気刺激策のひとつとみなせるという。「フランスではもともとショックへの緩衝材が備わっていたので、それを利用するだけで充分でした。私たちは雇用制度や医療・福祉制度を作り直す必要がなかったのです」



以上は、「フランス・モデルの再評価」(英『エコノミスト』掲載)の前半部の抄訳である(ちょっと補足も加えた)。それまで評価の低かったことが金融危機の際に再評価されるという論調は、日本に対してもあった。例えば、日本はバブルの崩壊の教訓を生かして、いくら欧米の金融機関に金融デリバティブを買えと言われても、金融危機の引き金になった悪魔の商品に手を出さなかった(「サムライの復讐」in『ル・モンド』紙)。つまり日本の金融鎖国的な態度(それは規制の産物にすぎなかった)によってサブプライムの直撃をまぬがれたというわけだ。その後、三菱UFJがモルガンスタンレーに出資したり、野村がリーマンの欧州・中東部門を買収したり、日本の金融機関は余裕があるかのように見えていたが。

日本とフランスの大きな違いと言えば、フランスが国家主導で社会インフラを整備してきたのに対し、日本の福祉に対する公的支出は先進国の最低の水準にとどまり、その代わりに企業が従業員の福利厚生を丸抱えしてきたことである。終身雇用、年功序列型賃金制度に支えられた日本型雇用は、経済成長が続く限りはうまく回っていたが、そのシステムが崩壊して、従業員が外に放り出されたとき、それを受け止めるセイフティネットが何も用意されていないことをさらけ出してしまった。もちろんフランス・モデルにも負の側面もある。それは次回に。

「フランス・モデルの再評価(2) フランス・テレコムの自殺騒動が語ること」


cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 22:17| パリ ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月03日

夏休みのフランス語講座F 「汚れた血」でフランス語!

誰かを好きになったとき、その気持ちを音楽に代弁させようと思ったことはないだろうか。自分の貧困なボキャブラリーに比べてはるかに音楽は雄弁だ。ただ聴かせるだけでは十分ではない。それに運命的なものを感じさせなければならない。

偶然に流れてくる音楽にも運命的なものを感じることがある。例えば街の中でふたりでいるときに、たまたまふたりともよく知っている音楽が流れてくる。一瞬にしてふたりの意識はシンクロする。音楽にはそういう力がある。

しかし、いつもうまくいくわけではない。偶然とか運命を味方につけるなんて至難の業だし、音楽ほど趣味性(好き嫌い)に左右されるものはない。男と女が音楽を通して深い共感に至ることは奇跡に近いことなのかもしれない。

映画「汚れた血 Mauvais Sang 」の主人公アレックスもそういうことを目論んでいる。この時期のフランス映画の名シーンとして名高い、アレックスがデビッド・ボウイの「モダン・ラブ」に合わせて疾走するシーンがあるが、そこに至るまでのシーンの中でのことだ。「汚れた血」は1986年の映画なので、CDもまだ普及していない(フランスは日本よりも遅かったはず)。音楽の媒体はレコードとラジオだ。

動画の40秒あたりから見てください。



Alex :J’arrive pas à choisir. Je vais mettre la radio. J’aime bien la radio. Il suffit d’allumer. On tombe toujours pile sur la musique qui nous trottait tout au fond. Tu vas voir. C’est magique. Attention! Pas de chance. Dis-moi un chiffre, Anna. Au hasard. Vite, Anna, un chiffre.
Anna :Quoi?
Alex :D’accord, trois. Un…deux…trois… Voilà. Ecoutons. Les sons vont dicter nos sentiments.

設問
@近接未来(近い未来)の文を抜き出しましょう。3つあります。
A命令法の文を抜き出しましょう。2つあります。
Bふたりのやりとりのあいだに誤解が生じています。それはどういうことでしょう。


@近接未来は aller + 不定法で表されます。
Je vais mettre la radio. ラジオをつけるよ。
Tu vas voir. 見ててごらん。
Les sons vont dicter nos sentiments. この音が僕らの気持ちを語ってくれるだろう。

A命令法は現在形の主語をとって作ります。
Dis-moi un chiffre.(→Tu me dis un chiffre.) 僕に数字を言って。
me が動詞の前にある場合、moi に換えて、ハイフンで後ろにつなげます。
Ecoutons.(→nous écoutons.) 聴こう。

☆J'arrive à choisir.=Je n'arrive pas à choisir.
arriver à 不定法:首尾よく…する
訳)結局選べなかった。
☆Il suffit d’allumer.
Il suffit de 不定法:…するだけで十分
訳)スイッチを入れるだけで十分だ
☆On tombe toujours pile sur la musique qui nous trottait tout au fond.
tomber pile sur :ちょうど偶然出会う
qui:主格の関係代名詞
trottait :trotter の半過去
訳)僕たちはいつも心の奥底にしみついた音楽に偶然出会う。
☆Pas de chance.=Je n’ai pas de chance. 
訳)ついていない。運がない。

Bアレックスは、音楽をかけようとしたが、どのレコードを選んでいいかわからず、次にラジオに賭ける。アンナに好きな数字を言わせ、その回数だけ、チューニングのコントローラーを回すつもりだ。しかし、アンナはアレックスの話を聞いていない。Quoi? (何?)って聞き返したのをtrois (3)と聞き違える。3度回したところで、チューニングが合う。

「聴こう、この曲が僕らの気持ちを語ってくれる」

たとえどんな曲がかかっても、アレックスはそれに運命を読みとるだろう。偶然を強引に味方にひきいれることで、思い入れをさらに強化しようとしている。しかし残念なことに、それはアンナには伝わっていない。あとのシーンが象徴するように、ひとりよがりな暴走でしかない。

「汚れた血」のストーリーを駆動するエンジンのひとつは、アンナという仕事仲間の女に対するアレックスの過剰な思い入れである。つまり横恋慕。若さというものはつねにはた迷惑なものであるが、そうせざるを得ないのも若さである。個人的には、夜の底にまどろむような、ちょっと重たげなアンナ(ジュリエット・ビノシュ)よりも、夜の街を長い髪とスカートの裾をなびかせて軽やかに駆けるリーズ(ジュリー・デルピー)のシルエットに魅了された。

偶然チューニングの合ったラジオ番組はリスナーからのリクエスト方式で曲をかけている。昔聴いていた深夜番組が懐かしい。今もこんな形式のラジオ番組は残っているのだろうか。

関連エントリー「音楽で観る映画『汚れた血』」


★今回をもちまして「夏休みのフランス語講座」は終了です。




汚れた血 [DVD]
汚れた血 [DVD]
posted with amazlet at 09.10.03
ショウゲート (2007-05-25)
売り上げランキング: 11484
おすすめ度の平均: 4.5
4 ネオ・ヌーヴェルヴァーグの秀作
5 ストイックな「愛の寓話」
3 飛べない白鳥たち
5 強烈な残像が心に刻まれ
5 美しい映像






cyberbloom(thanks to tatin)

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 00:25| パリ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月30日

ロック温故知新−英仏プログレ対決(3) キング・クリムゾンVSエルドン

シングル・コレクション1972-1980(SINGLE COLLECTION 1972-1980)プログレが文学と親和性があると書いたが、今回は文学と同じく時代に取り残された感のある現代思想と、プログレの関係を扱ってみる。音楽の方も現代思想の音楽的実践って感じである。

今回スポットを当てるのは、リシャール・ピナス Richard Pinhas という人物。今から40年ほどさかのぼる五月革命の1968年前後、当時高校生のピナスはブルースに興味を持ち、ブルース・コンヴェンションというグループに参加していた。グループには後にマグマ Magma (そのうち紹介!)のメンバーになる、クラウス・ブラスキーズがいた。その後、ピナスはソルボンヌ(パリ第4大学)に登録し、哲学の勉強を始める。それと平行してスキゾ Schizo というグループを結成。スキゾは72年にシングルを録音するが、自身の博士論文が忙しくなって同年に解消する。その« Le Voyageur/Torcol » (写真のアルバム「SINGLE COLLECTION 1972-1980」に収録)という45回転シングルでは、ニーチェのテクストを朗読するジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze の声を聴くことができる。68年のモノクロ映像を背景にこのレアチューンを聴けるなんて粋な演出である。



ピナスはドゥルーズの講義を受け、思想的に大きな影響を受けている。リゾスフィア組曲 Rhizosphere suite など、彼の曲のタイトルにもそれが伺える。一方、彼の博士論文の指導をしたのは『ポスト・モダンの条件』で知られるジャン=フランソワ・リオタールJean-François Lyotard で、彼の指導のもと「スキゾ分析と SF の関係」というタイトルの博士論文を書き上げている。

Stand By博士論文のタイトルからも察せられるように、SFに深い関心を抱いていたピナスは73年にロサンジェルスでノーマン・スピンラッド Norman Spinrad と初めて会う。彼にフィリップ・K ・ディック Philip K. Dick を紹介され、「マガジン・アクチュエル magazine Actuel」にディックのインタビューを掲載する。74年、ピナスはエルドン Heldon を結成。グループの名前はスピンラッドの小説『鉄の夢 The Iron Dream』に出てくる都市にちなんでつけられた。

HELDON - STAND BY

ピナスの論文の中身はわからないが(ソルボンヌの図書館に行けば読めるだろう)、ディックはまずフランスで評価されたという経緯がある。また、東浩紀が「サイバースペース」(in『情報環境論集』)の中で、ディックが小説の中で描いていた分裂症的コミュニケーションがドゥルーズ&ガタリと共鳴していることを指摘している。

1968年に端を発した政治運動の世界的行き詰まりによって、社会という大きな物語と政治的なものの力は著しく弱体化してしまう。68年のもうひとつの拠点であったカリフォルニアでSFを書いていたディックはまさにその変化の真っ只中にいた。「ディックにとっての政治的な希望は、失われた調和や全体性の回復ではなく、分散状態の主体と不気味なものに満ちたポストモダニズムの肯定、つまり分裂病的な世界の肯定として構想されていた」(東)。

1968年以後の世界では、自分が生きている世界と分裂病患者の空想の世界の違いを示す根拠が失われてしまった。それは、1968年の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか? 』に登場する擬似動物への感情移入という徹底的な表面性に現れている。不気味な存在に向けられるその感情は内面性とは無縁で、感情はつねに外に現れているもので測られる。それは、近代の主体モデルである「背後の見えない他者への参照」なしに、コミュニケーションの表面をそのまま他者として容認する感性である。それはスクリーン上の文字列やイメージを額面通り受け取るインターフェイス的主体につながっていく。日常的にPCの前にいる私たちのことである。

ところで、ピナスは www.webdeleuze.com というドゥルーズのサイトも運営していて、ドゥルーズの講義のいくつかをダウンロードできる。『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』で知られるドゥルーズであるが、21世紀に入ってからは『記号と事件』で新たな管理社会に言及していたことで再び注目されている。

そしてリシャール・ピナスが音楽の師と仰いでいたのが、超絶技巧のギタリスト(実際パガニーニでギターの練習をしていたようだ)、ロバート・フリップであり、フリップをリーダーとしたグループが、プログレの大御所、キング・クリムゾン King Crimson である(一方フリップはプログレとして扱われることを誰よりも忌み嫌っていた)。

キング・クリムゾンは『クリムゾン・キングの宮殿』で1969年に衝撃的なデビューを果たし、ビートルズの『アビイ・ロード』をチャートから引き摺り下ろした(これは事実とは異なる神話のようだ)。それ以降、フリップはバンドのメンバーを次々と交代させ、グループのカラーも時代によって大きく異なる。個人的にはファースト・アルバムや『アイランド』も捨てがたいが、1972年以降のビル・ブラッフォード Bill Bruford 、ジョン・ウェットン John Wetton 、デヴィッド・クロス David Cross 、ジェイミー・ミューア Jamy Muir らが集結した時期、アルバムで言えば、『太陽と戦慄 Lark’s tongues in aspic 』『暗黒の世界Starless and Bible Black』『レッド Red 』が一押しである。クリムゾンは1974年に解散し、1981年に再結成するが、それ以降の展開は何かコメントできるほどフォローしていない。



キング・クリムゾンは一言でいえば、「ロックがここまでやるか」ってバンドだった。上のライブ映像を見ればわかるが、どうみてもロックバンドの域を越え出ている。とりわけこの時期は「Bitches Brew」あたりのマイルス・デイビスを髣髴させるジャズ・インプロビゼーション(即興演奏)を繰り広げるのが特徴だ。超絶的なテクニックのギターとリズム陣がまるで織物を織るような正確さによって緻密な時間を積み上げ、徐々にテンションを高めていく。その先には全身の汗腺を一挙に開花させるカタルシスが待つが、それは時空を歪ませるようなヘビーメタリックなギターが先導する。

一方で、ヴァイオリンやメロトロンが醸し出すヨーロッパ的な夢幻と哀愁も忘れがたい魅力のひとつだ。『暗黒の世界』に収められた Night Watch と Trio は美しさの極みである。

King Crimson - The Night Watch Live

また専属の詩人が歌詞を書いていて、文学的な曲のタイトルと象徴的なジャケットの絵柄もいかにもプログレのバンドらしい。Lark’s tongues in aspicを『太陽と戦慄』と訳している邦題の意図もよくわからないが、『暗黒の世界』の原題 Starless and Bible Black は20世紀前半に活躍したウェールズの詩人、ディラン・トーマスの劇作品「Under Milk Wood.」の一節から引用されている。

In the Court of the Crimson KingLarks' Tongues in AspicRed

いかにも一般受けしそうにない音楽ではあるが、クリムゾンはCMと無縁だったわけではない。最も有名な曲「21世紀の精神異常者 21st century schizoid man 」がときどき思い出したようにCMに使われるし、去年はオダギリジョーをフィーチャーしたトヨタのCMに「Easy Money」が使われていた。

ところでリシャール・ピナスに話題を戻すと、彼の場合、キング・クリムゾンというよりはギタリストのロバート・フリップからの影響が大きい。エルドンのサウンドはグループによるジャズロックというよりは、ギターとシンセサイザーを使った実験性の高い音楽だった。フリップはかつてフィリッパートロニクスというオープンリールテープレコーダーを使った独自のディレイ・システムを使っていたが(最近では Windows Vista のサウンドを担当した)、ピナスのギターはフリップのギター奏法やサウンド・エフェクトの影響を受け、とりわけフリップの音楽のヘビーメタリックな質感を受け継いでいる。

実は今年はキング・クリムゾン(King Crimson)のデビュー40周年で、それを記念したスペシャル・アイテムが今月発売されることも付け加えておく。

クリムゾン・キングの宮殿 デビュー40周年記念エディション(紙ジャケット仕様)




cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 10:40| パリ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月25日

Bloom - iPhone Application by Brian Eno

bloom01.jpgブライアン・イーノはときどきブログの記事で紹介しているが、環境音楽 ambient music の創始者として知られている。環境音楽と言っても、イーノの場合は「音楽が周囲の雰囲気を積極的に定義付ける」と言う点で、単なるBGMでもないし、エリック・サティErik Satie の「家具の音楽」ともコンセプトが違う。イーノの音楽は、人の感受性を研ぎ澄ませ、人から想像力を引き出し、周囲の風景に新しい意味を与えるような音楽だ。

あまり知られていないが、Windows 95 の起動音 The Microsoft Sound はイーノの作曲によるもので、それは彼の音楽作品よりもはるかに多くの人に、はるかに頻繁に聞かれたことになる。イーノとよくコラボしている盟友、ロバート・フリップ Robert Fripp も Windows Vista のサウンドを担当している。彼らが密かにネットの世界で活躍しているとは意外だった。

そのイーノが iPhone のために Bloom というアプリケーションを制作した(すでに去年のことだが)。Bloom は私のHNやブログのタイトルに含まれている語なので、とても親近感がわく。Bloom は楽器であり、音楽作品であり、アートである。こういうセンスはアップルならではって感じがする。動画を見るとわかるが、スクリーンの上にタッチすると、単音とともにパステルカラーの水玉が現れては消えていく。単音はやがてループを成して音楽になる。音楽はアプリの自動生成にまかせることもできる。



未来感覚と癒しと美しさ。イーノの Ambient シリーズを愛聴してきたが、iPhone というモバイルに組み込まれた Bloom はその先鋭形態であることを実感できる。

apple store – apps for iphone - bloom

Harold Budd + Brian Eno - The Plateaux of Mirror (from "Ambient 2")



Ambient 2: The Plateaux of Mirror
Harold Budd & Brian Eno
Virgin UK (2008-07-08)
売り上げランキング: 10923
おすすめ度の平均: 5.0
5落ち着ける曲
5アンビエントの名盤
4初心者ですが
5イーノの最高傑作
5深く思いに沈み…




cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 21:45| パリ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月22日

世界初のエコでサステナブルなダンスクラブ

sustainable01.jpgオランダのロッテルダムのダンス・クラブ WATT はサステナビリティ sustainability (持続可能性)を考えたエコなクラブだ。エコなクラブというと、リサイクルの食器を使ったり、オーガニックのドリンクやフードを出すのかな、と安易に想像してしまうが、WATTが画期的なのは、ダンスフロアに特殊なパネルが敷いてあり、そこを誰かが歩いたり、踊ったりすると発電されるシステムが導入されていることだ(↑)。さらに外壁の原料にはペットボトルが使われているし、自転車で来た客は入場無料ときている。

WATT の目的は、クラビング clubbing とサステナビリティとビジネスをうまくブレンドすることだが、それが可能であることをすでに証明している。WATT はクラブをひとつの実験の場として、いかにクリエイティビティ creativity (創造性)とサステナビリティを結びつけるかに焦点を当てている。それもビジネス活動を通して、いかに人々の関心をひきつけるかを考える。WATTによると、サステナビリティは次の3つのキーワード、People+Planet+Profit に要約されるという。人々に地球のことを考えてもらいつつ利益がもたらされるってことだろうか。

これは「アートマネージメント」に近い方法かもしれない。それはアーティストと観客との間を仲介し、社会の中で作品の発信や受容がスムーズに行われるためのシステムを構築する仕事であるが、それはどちらかというと、美術、音楽、舞台芸術、映画などの大文字のアートを対象にしている。そういう伝統的な形式を持ったアートだけが人間のクリエイティビティのすべてではない。クラビングは音楽に関わってはいるが、人が集まる空間や、そこで踊ったり、おしゃべりしたりする行動までを含んでいるし、そういう場のあり方自体が、ひとつのアーティスティックなメッセージ=作品になりうるのだ。

またWATTはサステナビリティという環境問題を中心に据えているので「社会的企業」(Social Entrepreneurship)としての側面もある。社会的企業は、環境、医療、教育、マイノリティーの問題への取り組みをボランティアではなく、新しいビジネスモデルとして展開する。1980年代以降、レーガン政権下やサッチャー政権下で(つまりネオリベ的な政策のもとで)社会保障費が大幅に削減され、公的な助成金・補助金に大きく依存して運営されてきた英米のNPOが深刻な資金不足に陥ったが、それが契機になって考案されたモデルである。有名な社会的企業と言えば、広範囲の地球上の問題への支援を訴えることを企業価値の核にしている「ザ・ボディショップ The Body Shop 」や、雑誌の販売によってホームレスの社会的排除を食い止めようとする「ザ・ビッグ・イシュー The Big Issue 」などがある。社会的企業の重要性は何よりも、そのモデルが模倣されたり、ヒントを与えたりして、それまで市場から排除されていたり、市場への参入を考えたこともなかった個人やグループに市場の活用を促すことにある。

エコロジーとかサステナビリティとか言うと、何か自由が制限されるようなイメージを抱いてしまう。そんなことやっている場合かと。音楽やダンスなど、人間の根源的な自由や楽しみに関わることにまで、そういう息苦しさを感じてしまっては、自由の表現やクリエイティビティの感覚まで萎縮してしまう。それは空気と同じように人間になくてはならないものだ。つまり、資本主義とアートの両立に加えて、資本主義と環境の両立の問題が持ち上がり、「三立」の問題になっているということだが、クリエイティビティとサステナビリティの両立の部分を考える上で、WATTの試みは非常に興味深い。それに若者のありあまったエネルギーを電気エネルギーに変えるなんて、本当に無駄がないって感じがするじゃない(笑)。

http://www.watt-rotterdam.nl/



WATT ではライブもやっていて、プログラムを見てたら、23日にスウェーデンの Little Dragon が出演するではないか。見に行きたいなあ。Little Dragon は、Koop に参加して北欧を代表するボーカリストとして成長したユキミ・ナガノ Yukimi Nagano のプロジェクト(Koop は以前「スウェーデンの New Jazz 」で紹介)。Twice という曲を聴いてみて(↑)。ユキミのボーカルとピアノの音が秋の夜の静けさに染み入るようだ。PVの影絵の人形劇も物悲しい。


LITTLE DRAGON
LITTLE DRAGON
posted with amazlet at 09.09.22
リトル・ドラゴン
VILLAGE AGAIN (2007-08-15)
売り上げランキング: 63352





cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 16:00| パリ ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月17日

JEALOUS GUY やきもちやきの男

嫉妬。それは人間が抱く最もやっかいで、最も辛い感情のひとつだ。それはしばしばラブソングのテーマになる。嫉妬というと、どんな歌を思い出すだろうか。

恋愛論 (新潮文庫)嫉妬は恋愛感情のバロメーターにもなる。フランスの小説家、スタンダールの『恋愛論 de l'amour 』に「結晶作用 cristalisation 」という有名な言葉がある。第二の結晶作用の核心は「彼女だけが、この世でただひとり自分にたのしみを与えるだろう」とひしひし感じることにある。つまり、彼女だけが自分にとっての唯一の運命的な相手であるという確信が生まれてくる。具体的な相手に焦点が結ばれ、何らかの関係性が発生したときに嫉妬という感情も芽吹く。スタンダールは告白の瞬間を「おそろしい深淵にのぞみながら、一方の手は完全な幸福にふれている」と表現しているが、そのコントラストが著しいだけに幸福をつかみそこなった場合、世界を喪失してしまったような絶望にとらわれる。ふと彼女が自分のものではないことを思い出し、それが致命的で取り返しのつかないことに思えて、気が狂いそうになる。その感情がなぜ狂気じみるかというと、人生が一度きりで、交換がきかないという実感と強く結びついているからだ。

このところ、人間は社会的、文化的な要因よりも、多くの部分を遺伝的なプログラムに負っているという生物学的な決定論が盛り返してきている。「利己的な遺伝子」のリチャード・ドーキンスなんかは「人間は遺伝子の乗り物にすぎない」と言う。そうすると嫉妬という感情も、遺伝子が自分の利益を守るために、人間=乗り物に対して警鐘を鳴らしているということなる。彼女をとられてもいいのか、ライバルに対して攻撃的になれと。しかし、そんなふうに相対化してみても、辛いものは辛い。人間は情念にとらわれてしまったら、その上に立つことはできないのだから。

先週、ビートルズ特集で盛り上がったが、ジョン・レノンに 「ジェラス・ガイ Jealous Guy 」という曲がある。ジョンのヨーコに対する激しい嫉妬の感情をテーマにした歌である。下の動画で曲が始まる前にジョン・レノンの貴重なインタビュー映像があり、その発言は歌の内容と呼応している。



Intellectually I thought it right that owning a person is rubbish. But I love Yoko, I want to possess her completely. I don't want to stifle her. You know, that's the danger (is ) you want to possess them to death.
「頭では人を所有するなんて馬鹿げていると思ってた。だけど(今は)ヨーコを愛してて、彼女を完全に自分のものにしたいと思ってる。もちろん窒息させたくはないけどね。そこが危険なところなんだ。死ぬまで人を自分のものにしたいということの危険」(動画の28秒あたりから transcribed & translated by 黒カナリア)

「ジェラス・ガイ」は要するに「嫉妬に狂って君を傷つけてごめんね、そんなつもりはなかったんだ」という歌なのだが、インタビューからはジョンのヨーコに対する思い入れの激しさを垣間見せられる。ジョンの発言にはマッチョな匂いもするし、たぶんオリエンタリズムも入っている。ジョンは80年に凶弾に倒れる直前のインタビューでも「ヨーコより早く死にたい。ヨーコが死んだら僕は生きていけないから」と語っていた。

ジョンの嫉妬は三角関係によるものではないように聞こえる。それは必ずしも三角関係である必要がない。ジョンの場合、ヨーコに受け入れられているが、捕まえても捕まらない、完全に自分のものにしていないという実感がある。嫉妬という感情は具体的なライバルがいなくても、相手の未知の部分に向けられる。「君が僕のことをもう愛していないかもしれないと思うと不安になった」とあるように、「自分にとっての唯一の運命の女性」(小さいときはあまり会うことができず、早くに事故でなくなった母親?)に愛されないという挫折が深く刻み込まれていたのかもしれない。あるいは文化背景の違う女性に対して余計そういう感情を抱いたのかもしれない。

イマジン(紙ジャケット仕様)世界に向けてベッドインという平和を訴えるパフォーマンスまでやったふたりの関係が象徴的なのは、当時のピッピーの動きと重なり合うからである。1960年代後半から1970年代前半にかけて盛り上がったヒッピー運動は、まさに東洋という他者を理想化していた。1967年のサンフランシスコ発の「サマー・オブ・ラブ」という呼称からもわかるように、そこには「愛」という漠然とした理想が掲げられていたが、東洋は、いまだ自分たちが到達していない、愛に溢れた世界だった。そうやって東洋はいつの時代も西洋の幻想を引き受けてきたのだが、サイードを挙げるまでも無く、それは西洋が自分に欠いているものの投影でしかなかった。ベトナムの泥沼化した戦争に対する反発と自責や、ヒッピーのコミューン運動にも影響を与えたマオイズムの流行も、ほとんど一方的な東洋崇拝に油を注ぐことになった。

話が変わるが、ネットで「草食系男子」に関する記事を見つけた。宮台慎司の方程式によれば、「ギャルゲーで充分」の行く末は孤独死なんだそうだ。

「男子学生からの相談が「相手がいない」から「相手と長続きしない」に変わったのがこの数年。抽象的にいえば「現実の異性とつきあっても確かな関係が得られない」という事態で、セックスの相手がいないよりも深刻です。背景にあるのがコミュニケーションの「フラット化」です。情報ツールの発達で人間関係が流動化すると「この女(男)がダメならほかへ」といつでも代替できるようになり、自分も取り替え可能化されているのではと疑心暗鬼が生じます」

ジョン・レノンの場合をみても、嫉妬の激しさは強烈な「肉食的な」欲望と裏腹である。宮台の言う草食的な関係においては、嫉妬という感情もあまり起こらないのかもしれない。たとえ起こったとしても面倒な感情として、その関係とともに即刻切り捨てられるのだろうか。しかし嫉妬はネガティブな感情とはいえ、関係性の確かな実感でもある。人生もうおしまいだとか、絶対的に思えてしまう感情に振り回されながら、自分の欲望の強度を確かめるチャンスでもある。その欲望自体は否定される必要なんて全然ない。それは幸福感とか希望の根源なのだから。それを飼いならしつつ、うまく生き延びさせることが肝要なのだ。それに井上陽水が「君によせる愛はジェラシー」と歌うように、アンビバレンスを引き受ける大人な境地だってあるのだから。

ところで、Jealous Guy はいろんなアーティストによってカバーされているが、その代表的なものは、ロキシー・ミュージック Roxy Music によるカバー。81年にジョン・レノンの追悼のためにロキシー・ミュージックがこの曲をカバーし、全英1位になった。しかし、今聴くには恥ずかしいくらいにグラマラス。PVではブライアン・フェリーが水色のスーツにピンクのネクタイで、ポーズを決めて歌っている。ブライアン、そんなに見つめないで(笑)。

ROXY MUSIC - JEALOUS GUY

斉藤和義が Jealous Guy のカバーをしている。友だちが「これいいよ」とメールに動画をはりつけてくれたのだが、最初カバーと気がつかなかった。歌詞の方は英語でも直訳でもなく、斉藤和義が日本語でアレンジしている。ギター一本で切なくも淡々と歌われる具体的な場面は、その向こうにストリートな闇と空虚感を漂わせている。サイケに響く12弦ギターは感情のゆらめきを映し出すようで、コードの変化がとてもキレイに聞こえる。斉藤和義は相手を傷つける手前の「届かなさ」を歌っているように聞こえる。「嫉妬していることに気がついてよ」って。もちろん、ジョン&ヨーコ的な、あるいは夫婦や恋人どうしというシチュエーションとしても読める。聴き手がそれぞれ歌詞を解釈しながら、自分にとっての一貫性のあるストーリーを組み立てるわけだが、シチュエーションの違いがあっても、感情の本質を的確に掬い取っているのが優れた歌と言えるのだろう。

斉藤和義「ジェラス・ガイ」





cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 15:57| パリ ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月13日

夏休みのフランス語講座E 「ノルウェイの森」でフランス語!

アップが遅れてしまいました。NHKのニュースで流れたトラン・アン・ユン監督のインタビューです。今回も文法的にはちょっと難しいですが、聴き取りやすい部分を選びました。2分10秒あたりから始まるトラン監督の発言を聴き取ってみてください。次に意味を確認し、トラン監督と一緒に発音してみましょう。



Parce que c'était un livre qui m'avait profondément touché à cause de la peinture de la jeunesse, qu'y avait dans le livre. C’est les doutes de la jeunesse, les incertitudes, la fragilité, tout ça était magnifiquement décrit dans le livre. J'avais vraiment très envie.

parce que なぜならば
c’était un livre qui―:était は être の半過去。quiは主格の関係代名詞「それは―(な)本でした」
m’avait profondement touché:「私を深く感動させた」(touche 過去分詞<toucher 感動させる)大過去形。avoirの半過去+過去分詞で作り、英語の過去完了にあたる。m’(me)は「私を」、直接目的語。
à cause de :―のせいで、―が理由で
peinture パンチュール:絵画、描写
qu'y avait dans le livre = qu'il y avait dans le livre「本の中に描かれている」
doute ドゥト:疑念、確信のなさ
jeunesse ジュネス:青春期、若いころ
incertitude アンセルティチュド:不確かさ
fragilité フラジリテ:もろさ
était magnifiquement décrit :「すばらしく描かれている」(décrit 過去分詞<décrire 描く)半過去の受身
avait envie:<avoir envie したい

☆être の半過去
j’ étais  tu étais  il était
nous étions  vous étiez  ils étaient
☆avoir の半過去
j’avais  tu avais  il avait
nous avions  vous aviez  ils avaient

以前「ノルウェイの森の撮影を見学」という記事を書いたが、このニュースをみた限りではちょっと勘違いだったかもしれない(笑)。それでも、「ノルウェイの森」が出た当時はどんな様子だったのだろうと、1991年に出た対談集「村上春樹をめぐる冒険」を読み返してみた。笠井潔と加藤典洋と竹田青嗣の対談。当時すでに小説は300万部以上売れていて、多くの読者を獲得していたが、文壇は「これは純文学の通俗化の典型」だとか、「単なる流行現象だ」とか冷ややかな態度をとっていて、「ノルウェイの森」ほど商業的な成功と作品の評価が乖離した小説はなかったようだ。文壇の人たちはつまり、バカ売れしたことが気に食わなかったわけね(笑)。

そして対談集の中身と言えば、やはり「ノルウェイの森」を全共闘小説と捉えていて、村上作品における全共闘体験の屈折具合をこまごまと議論している。それなりに面白いが、そのころの記憶がない私にはリアリティがない。一方で60年代後半という時代背景を全く知らなくても青春期固有の問題を扱った小説として読めるし、感動もできる。今では読むさいに文壇の意見=文芸批評を参照することもあまりなく、「正統な読み」なんて意識されない。さらにはトラン監督のような違う文化圏の人間の心までも動かし、映像による新たな解釈が可能になっているわけである。そこらへんのことをまた書いてみたい。






cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 20:26| パリ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月06日

My Ever Changing Moods バブル世代のテーマソング

weller01.JPGデパートの服売場をブラブラ歩いていると、どこかで見たことのあるシルエットに目が留まった。それが誰のものか気がついたとき、すでに頭の中には、My Ever Changing Moods のイントロが流れ出していた。タケオキクチがスタイル・カウンシル Style Council とコラボTシャツを作ったらしい。衝動買いしちゃったよ。

次に馴染みの輸入モノの古着屋に寄ると、お店のお姉さんが、ブルーの色合いと襟の感じが「これしかない」と思わせるラルフ・ローレンの半袖のシャツを出してくれた。サイズもぴったりだし、さっきのTシャツにも合いそう。シャツはリサイクル、リユースで十分。古着は趣味だけでなく、実需の問題になりつつある。すでにシャツに何万も出すのがバカバカしい時代になってしまった。

ところで、ポール・ウェラー Paul Weller はバンドの絶頂期にあったパンクバンド、ジャム The Jam を解散し、ミック・タルボット Mick Talbot らとスタイル・カウンシルを結成した。「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ My Ever Changing Moods 」がヒットしたのは1984年のことだ。

My Ever Changing Moods - THE STYLE COUNCIL

スタイル・カウンシルは80年代のイギリスの顔みたいなグループだったが、当時のイギリスは製造業が衰退し、景気の良い時期ではなかった(ブレア政権下の2000年あたりから金融産業で復活するも、それがサブプライムで裏目に出てデフォルトに陥るとも言われていた)。一方日本はバブル突入前夜。まさに日本は「シャウト・トゥ・ザ・トップ(Shout to the Top)」(この曲はTVのテーマ曲やCMによく使われていた)という状態にあり、スタイル・カウンシルは本国イギリスよりも日本で高い人気を誇ることになった。時代の気分にぴったりはまっていたのだろう。一方、当時の友だちの大半は決まりきったようにユーミンかサザンのファンだった(ユーミンとサザンはミリオンセラーアーティストとして離陸を開始した頃だ)。

Shout to the Top - THE STYLE COUNCIL

Our Favourite Shopザ・スタイル・カウンシル・グレイテスト・ヒッツ

スタイル・カウンシルは、ソウル、ファンク、ボサノバ、ジャズなど様々な音楽のスタイルを取り入れたスキゾフレニックな音楽だった。それはジャムの枠に納まりきらなかったポール・ウェラーの多彩な趣味を反映していて、その確信犯的な節操のなさがカッコよかった。特にこの代表曲はムードが変わり続ける(ever changing)という彼らのスタイルを高らかに宣言しているようだ。めくるめく商品、めくるめくトレンド、いろんなものに目移りしながら軽やかに街を歩く感覚に満ちていた。

久しぶりにクローゼットの奥からベストアルバムを引っ張り出してiPodに入れたら、ここ一週間のヘビーローテーションになってしまった。しかし、バブルはとっくに吹き飛んでいて、脳天気なバブル世代も冷水をぶっかけられるような時代に突入してしまった。

「おひとり様」で知られる社会学者の上野千鶴子が対談本『ポスト消費社会のゆくえ』の中で次のように書いている。「私たち団塊世代は、自分の成長期と日本社会の成長期が歴史的に重なった世代です。それは歴史の偶然にすぎませんが、幸運だったと思います。私たちの世代は、時間が経てば事態は今よりも良くなるだろうという、身体化された根拠なき楽観をもっていました。ところが今の若者は、91年からの長きにわたる不況のもとで、思春期を過ごしてきて、時間が経てば現状よりも悪くなると感じながら大人になってきた世代です。生命体として成長するさなかに、そういう後退の感覚を身体化していきます」

こういう決定論は傲慢に聞こえるし、言われた方は救いようのない気持ちになるだろう。社会学どころか生物学的な決定論はさらに救いようがない。こう断言してしまうところが、恵まれた世代が若い世代の現状を理解するのはいかに難しいかを物語っている。バブル世代は「身体化された根拠なき楽観」を持てた最後の世代なのだろう。確かにそういうものに支えられている実感はある。しかし団塊世代のように逃げ切れる保障は全くない中途半端な世代でもある。それにバブルは所詮バブルで、コアになるような中身のある経験をしたわけでもない。

しばしば上の世代からばら撒かれる、いかにも信憑性のありそうな物語に乗ってはいけない。そんなものを間違っても内面化してはいけない。それは多くの場合、彼らの自己正当化であり、下の世代の自己責任化を促している。高度成長期には日本人として同じ時代を歩んでいるという一体感はあったかもしれないが、私の世代あたりから時代性が希薄になり、その空隙にサブカルチャーが侵入し、しばらくして今度はサイバースペースが充填された。良くも悪くも同質な時代の刻印のない世代なのだ。所詮根拠がないオプティミズムならば、どこからか調達すればいい。オプティミズムの作られた方も変わってしまったのだ。それが身体化され得ない脆弱なものだとしても、ありあわせのオプティミズムで自分の物語を支え、彼らの優勢な物語に対峙させるしかない。ブルーな自分を笑うユーモアや、自分を奮い立たせるカラ元気もときには必要だ。音楽もまたそういう役割を果たしてくれるだろう(スタイル・カウンシルがそういう音楽だというわけじゃなく、それぞれがそういう音楽を持っているという意味で)。

最後に他人のフンドシを借りて、フランスに落とそう。スタイル・カウンシルはポール・ウェラーのビジュアルにも多くを負っていたが、彼のファッションはフランスとは無縁ではない。次のキャベ男さんの一節はイギリスとフランスの微妙な関係をうまく言い表している。

「ジャケットはコートをまとったポール・ウェラーとミック・タルボット。カッコ良すぎる。インナー・スリーブではパリ8区フランソワ1世通りのカフェを前に、ほぼ同じスタイルの二人の姿を捉えた写真があるが、ジャケットの写真もこのパリ8区での撮影なのだろうか?ちなみに裏ジャケットには、ロベスピエール、ダントンと並びフランス革命において中心的役割を果たしたマラーの言葉が引用されている。それにしてもこの二人のファッション、イギリス人が意識したフレンチ・カジュアルなのかもしれないが、パンツはくるぶしの上5センチでカットされており実にイギリス的。そして、録音も当然ロンドン。写真はパリ、アルバム・タイトルをフランス語にしてもイギリス人がパリなんかでロックのレコードを録音できるはずがない」(by キャベツ頭の男)


Cafe Bleu
Cafe Bleu
posted with amazlet at 09.09.06
The Style Council
Universal (1998-06-30)
売り上げランキング: 7286
おすすめ度の平均: 5.0
5 おされ
5 音のおもちゃ箱
5 20世紀を代表する傑作
5 Cafeチック






cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 17:02| パリ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月01日

夏休みのフランス語講座D ヒップホップでフランス語!

まずは動画を再生して、何度も聴いてみましょう。( )に入る数字を聴き取ってみましょう。



C’est l’histoire d’un homme qui tombe d’un immeuble de (  ) étages. Le mec, au fur et à mesure de sa chute, il se répète sans cesse pour se rassurer : «Jusqu’ici tout va bien, jusqu’ici tout va bien, jusqu’ici tout va bien. Mais l’important, c’est pas la chute. C’est l’atterrissage. »

■C’est l’histoire d’un homme qui tombe d’un immeuble de cinquante étages.
1)( )に入るのは50=cinquante です。
2)qui は関係代名詞。先行詞(un homme)が主格(主語)の場合、関係代名詞はqui を使います。先行詞は人でもモノでも qui 。英語だと who を使うところです。
3)tomber de …から落ちる
4)文章全体を訳すと、「これは50階の建物から落ちている男の話である」

■Le mec, au fur et à mesure de sa chute, il se répète sans cesse pour se rassurer
1)mec は homme の俗語。il で le mec を受け直しています。
2)au fur et à mesure de(オ・フュール・エタ・ムジュール・ド) につれて
3)se répéter 自分に繰り返し言う、自分に繰り返し言い聞かせる
これは代名動詞と呼ばれる動詞で、行為が自分に帰ってくる動詞で、再帰代名詞 se を常に伴います。これを現在形で活用させてみましょう。主語と一緒に se も変化します。
je me répète tu te répètes il se répète
nous nous répétons vous vous répétez ils se répètent
4)pour+不定詞 するために
5)sans cesse 絶え間なく
6)se rassurer 自分を安心させる
7)文章全体を訳すと「その男は、落ちるにつれて、自分をつねに安心させるために自分に繰り返し言い聞かせている」

■Jusqu’ici tout va bien.
1)jusque+ici=jusqu'ici ここまで
2)va の不定詞は aller で、この場合は「順調である」の意味。
3)訳は「ここまではすべて順調」、読みは「ジュスキシ・トゥ・ヴァ・ビャン」

■Mais l’important, c’est pas la chute. C’est l’atterrissage.
1)l’important は形容詞に定冠詞がついたもの。形容詞に定冠詞をつけると名詞化し、「大切なこと」の意味になります。
2)c'est pas=ce n'est pas 会話ではしばしば ne が落ちます。
3)訳は「しかし大切なことは、落ちていることではない。どう着地するかだ」

50階の高さから落ちているのだから、どう着地しようと助かりようがない。とりあえず「ここまでは大丈夫」と確認するしかないのだ。これがパリの郊外に住む移民の若者の現実だと言いたいのだろうか。

マチュー・カソヴィッツの『憎しみ la haine 』は1995年の作品で、同年のカンヌ映画祭の最優秀監督賞を受賞した。1992年に、18歳のザイール出身の若者がパリの交番で殴り殺されるという事件があり、彼が『憎しみ』を撮る強い動機になった。カソヴィッツは同年に起こったアメリカのロス暴動を念頭に置いていて、アメリカでは激しい抗議が起こったが、フランスでは何も起こらなかった。映画でそれを埋め合わせたのだ、と言っている。

2005年の郊外発の暴動の際の、サルコジ大統領(当時はド・ビルパン内閣の内相)の「社会のクズ (racaille ラカーユ)」「ゴロツキ (voyou ヴォワイユ)」発言も記憶に新しい。警官に追いかけられた郊外の少年が変電所に逃げ込み、感電死した事件をきっかけに、暴動はフランス全土に広がった。バンリュー(banlieue、郊外)の若者は、高失業率のままに放置され、ホスト国からよそ者として蔑視され、常に犯罪予備軍として警察の監視下に置かれ続けている。そういう状況下で、方向性のない憎しみを鬱積させる若者をヴァンサン・カッセルは見事に演じた。

関連エントリー「憎しみ」(1)
関連エントリー「憎しみ」(2)
関連エントリー「憎しみ」(3)


フランス暴動----移民法とラップ・フランセ
陣野 俊史
河出書房新社
売り上げランキング: 304767
おすすめ度の平均: 3.5
3 ラップ・フランセのカタログ
4 リアルなフランス像が見えてくる


☆おまけの仏検式練習問題(5級レベル)
訳に合うように動詞を選びましょう。
@Yumi va (1.avoir 2.être 3.prendre) vingt ans.
[友美はもうすぐ二十歳だ]
ATu (1.as 2.es 3.vas) mal aux dents?
[歯が痛いの?]
BElles (1.font 2.prennent 3.vont) des courses.
[彼女たちは買い物をする]
CCe chemisier (1.fait 2.vient 3.va) bien avec cette jupe.
[このブラウスはこのスカートと合う]
DJe (1.fais 2.prend 3.vais) des bottes de cuir.
[私は革のブーツを買う]
★解答は後日。すぐに答えを知りたい方はこちらをクリック!ランキングに書いてあります(現在40位くらい)。




cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 09:44| パリ | Comment(1) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月22日

夏休みのフランス語講座C Gackt でフランス語!

使い古しのネタですが、かなり前に扱ったネタなので知らない読者も多いと思うので取り上げてみました。「立山酒造」という富山の日本酒メーカーのローカルCM「人魚のカケラ」です。そのCMで Gackt と篠原涼子がシュールなフランス語劇を演じています。語学が堪能なことで知られているGackt ですが、人魚に扮した篠原涼子に向かって、いつもの感じでフランス語をしゃべっています。

舞台はガウディ風のプールのある涼しげな庭。バックに流れるのはラヴェルの「クープランの墓」。最近は存在感たっぷりの篠原涼子ですが、このCMではまだ線の細さと天真爛漫な雰囲気を残しています。人魚自体はいかにも重たい感じですが。



Regarde.
Ça te plaît?
Heureuse?
Je dois partir.
Au revoir.

■Regarde.(見て)
Tu regardes.→Regarde.
現在形から主語をとって作る命令形です。-er 動詞の場合、tu の活用では語末の s も落とします。

■Ça te plait?(気に入った?)
不定詞は plaire。A plait à B. という形でよく使われ、AはBを喜ばせる=BはAを気に入るという意味になります(AとBの関係がちょっとややこしい)。te は à を介しているので間接目的語。

■Heureuse? (しあわせ?)
Tu es heureuse? ってこと。相手が女性なので形容詞は女性形になります。heureux(男性) – heureuse(女性)と変化します。youtubeのコメントのやりとりを見ると、フランス人はこれだけ聴き取りにくいようですね。
―I can't catch this one. The Japanese sub says "Are you happy?"
―Il dit "heureuse" non? C'est ca que j'entends en tout cas.(彼は…って言ってるんじゃないの?私にはそう聞こえるよ)

■Je dois partir.(行かなくちゃ)
dois はdevoir で、動詞の不定詞をつけて用いられます。英語の must にあたります。je dois tu dois il doit nous devons vous devez il doivent と変化します。主語を非人称にして、Il faut partir. とも言えます。

■Au revoir.(さようなら)

Gackt CM 別バージョン(こちらは深くつっこまないようにしよう)

☆おまけの仏検式練習問題U(5級レベル)
意味が通るように単語を並べ替え、真ん中に来る番号を答えましょう。

@Ma soeur ( )( )( ) ans. 
1)avoir 2)vingt 3)va
ANous avons ( )( )( ).  
1)chat 2)petit 3)un
B( )( )( ) cet avion.
1)faut 2)il 3) prendre.
COn ( )( )( ) restaurant.
1)ce 2)dans 3)entre
DJe ne ( )( )( ) aujourd’hui.
1)pas 2)peux 3)sortir

★解答@1A2B1C2D1




cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 13:35| パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月16日

「ノルウェイの森」のロケを見学!(3) 高度成長期の大学生

balladeimpossible01.jpg『ノルウェイの森』は主人公が大学生ということに親近感を覚える小説でもある。そのせいか、私自身68年が舞台という意識はあまりなく、小説が発表された自分の大学生時代に重ね合わせて読んでしまう。この小説はワタナベと直子がふたりでひたすら歩いているシーンが印象的だ。大学時代というのは、金はないが、時間だけは持て余すほどある。私自身もひたすらそういう無為な行動に明け暮れていた。茫洋としたモラトリアムな時間感覚。みんな勉強なんてしなかったし、そして何よりも大学で勉強することと、社会に出た先のことが結びつくという意識がほとんどなかった。みんな頭を真っ白にして企業戦士=サラリーマンになった(新人研修は人格を破壊するために行われていたとも言われる)。そこには暴力的な要求と断絶があったわけだが、それが日本の高度成長を支えていたことは言うまでもない。

それゆえに、地理の勉強をして地図を作る仕事に就こうとしている、つまり目的を持って、愚直に将来とのつながりを意識して勉強している「突撃隊」が小説の中で揶揄されている。それはワタナベの諦念の裏返しである。「ノルウェイの森」にはフランス語で La ballade de l’impossible というタイトルがつけられている。「不可能なもののバラード」。次々と死んでいく『ノルウェイの森』の登場人物たちは、変貌していく社会に一種の致命的な暴力を感じ取っていたということなのだろうか。

このようなワタナベの諦念には時代的な裏づけがある。教育社会学者の竹内洋が『教養主義の没落』の中で当時の大学を取り巻く状況について書いている。1960年代後半は日本の高等教育がエリート段階からマス段階に移行した時期である。新規就職者に占める大卒者の割合が急上昇し、大卒者の「タダのサラリーマン化」が進行する。1970年頃まで新規学卒労働市場ではどんな学部を出たかは将来の進路にとってかなり決定的で、大学が教養知や専門知を伝達する場であることは自明だった。しかし、1970年代から日本の企業は大卒の大量採用を始めた。大量採用だから大卒と言っても専門職に就くわけではないし、将来の幹部要員でもない。

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)このプロセスを人事制度から見ると、年功序列と終身雇用の制度が確立した時期にあたる、と城繁幸も指摘する(『たった1%の賃下げが99%を幸せにする』)。個人の能力や知識がそれほど要求されず、新入社員に求められるのは組織秩序に従順でまじめであること、そして20代前半であること。大学卒業証書はその保証書に過ぎなくなり、大学は卒業資格の発行所に成り下がってしまったのである。

そんな状況で大学生が「知識人とは何か」とか「学問するものの使命と責任」をとことんつきつめようとしたのが大学紛争だった。その根底には大学生がただのサラリーマン予備軍になってしまった不安とルサンチマンがあり、自分たちをサラリーマンとして強引に大衆化しようとする秩序を打ち倒そうとしたのだと、竹内洋は言う。その矛先はしばしば大学の教授たちに向かったが、彼らがお気楽に唱える教養主義は学生たちの目には一種の象徴的暴力として映ったのである。しかし、彼らの抵抗は潰える。大学紛争以後の大学生は教養知と専門知を放棄し、大学のレジャーランド化が始まる。そして大学時代は一種のモラトリアムとなる。

村上春樹はレジャーランド化した大学と親和性があったように思う。田舎者根性の丸出しの(竹内は教養主義が農村のエートスに支えられていたことを指摘する)、特権性を振りかざすだけの古い教養の代わりに、カポーティやチャンドラーを読み、ジャズやロックに精通し、趣味の良いポロシャツを着て、慣れた手つきでスパゲッティを作り、付き合っている女の子のバッグの中身が魅惑的なモノで溢れているような、新しい都会的なスノビズムをもたらした。

現在、大学の中身は変わったわけでは全くないが、企業はコスト削減を強いられる中で新入社員を教育する余裕がなくなり、即戦力を求めるようになっている。以前に比べて大学の授業の期間もはるかに長くなったし、資格を取れとか、平常点重視とか言われ、入学時から日常的な管理と競争のもとにおかれているネオリベ時代の大学生にはモラトリアム感覚はないのだろう。教師の側も成績をつけるときは基準を明確にしろと言われるが、この個人の点数化は巧妙な自己責任化の側面を持つ。つまり就職できなかったとしても、それは大学や社会が悪いのではなく、自分の点数が足りなかったのだと自覚させればよい、とでも言いたげである。

あっというまに追放されてしまうモラトリアムの楽園の中で、恋愛が純化される。実際、ワタナベと直子がやっていることは純粋とかそういう問題では全然無いのだが、発表当時、この小説は、「純粋な恋愛」とか「もっと恋をしよう」をキャッチフレーズに恋愛ブームを巻き起こした(実際何が起こったのかは知らない)。純粋な恋愛とは、暇にまかせ、社会的な制約が無い状態で、恋愛をするということなのだろう。サラリーマンはそんな暇なことをやってられないし、自由なふるまいや逸脱した行動に関していちいち言い訳をしなければならないが、大学生はそれをする必要がない。それを純粋と呼ぶのなら同時にそれはこの小説の限界でもある。

しかし、ワタナベのやっていることはひたすら中途半端である。「言葉を介さずにひたすら勝手な憶測で先回りをするワタナベは日本そのものだ(例えばアメリカに対する日本の態度)」、という田中康夫(兵庫8区から出馬!)のツッコミのあまりの的確さに笑ってしまった。ある意味、無責任かつ中途半端な優しさで彼女と関わり、ほとんどプログラムされたような彼女の自殺を傍観し、そのあとケロリとしている最低な男の話とも言える。

そういう純粋なふたりが向かう先は「北の方角」だ。村上春樹がしばしば「井戸」のメタファーで表現する意識の深みに降りていくように、深い山の奥へと分け入っていく。ネットで偶然に見つけた「ノルウェイの森」のロケ現場の写真は、小説のイメージを全く裏切らない、まるで夢で見たような光景だ。

「ノルウェイの森」のロケを見学!(1) 学生寮のサイケな光景
「ノルウェイの森」のロケを見学!(2) パリの13区







cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN17.png
posted by cyberbloom at 11:50| パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。