2007年08月18日

中島岳志『パール判事――東京裁判批判と絶対平和主義――』(白水社)

パール判事―東京裁判批判と絶対平和主義かつて、祖国インドの独立運動に身を投じ、アジア主義者たちの庇護のもと、日本に潜伏しながら論陣を張り、最後は日本に帰化したラース・ビハーリ・ボースの生涯を論じ、さまざまの賞を得た好著『中村屋のボース』の著者が、おなじ編集者、おなじ装丁者と組んだ今回の書籍の主人公は、ボースとおなじベンガル地方でおなじ年に生まれたラーダービノード・パール。あの極東国際軍事裁判(東京裁判)にて、「全員無罪」の意見書を提出したパール判事である。
 
あとがきで、「ボースの人生を書いたときは、同じ目線の人間として、ボースを捉えようとしていた」が、今回は「その論理の鋭さと孤立を恐れない高貴な精神に圧倒され続けた。遙か上の高いところにいるパールを仰ぎ見るという感覚が、私を支配し続けた」と記す中島さんは、今回の書籍では、人間パールについてより、東京裁判におけるパールの意見書の解説と、その後の来日時――パールは、裁判終結後も3度来日している――の、パールの「世界連邦希求」と「絶対平和主義」――パールはガンディーの崇拝者でもあった――の主張ぶりについて多くをあてているが、そこには「パールのご都合主義的利用が横行する現代日本において、まずはパールの発言を体系化しておく必要がある」(あとがき)との想いもあった。パールは、厳密な国際法の解釈――11人の判事団のなかで、国際法の専門家はパールともうひとりのみであった――にしたがい、起訴自体が不可能であるとして、無罪を結論したのであり、日本軍の戦争については――そして「戦争」そのものについてを――許さざるべき蛮行として、寸毫も容認していない。そもそも戦勝国による軍事裁判を容認できないとしたのも、それを認めることが、「勝てば官軍」的発想、すなわち「是が非でも勝つべし」という「戦闘推進精神」を生み育てゝしまうという考えのゆえであった。
 
もちろん、大英帝国に長く支配されたインドの人間として、大国への批判的まなざしは、遺憾なく発揮されている。後の来日時に、平和憲法にもかかわらず、戦後は対米追従路線をとる日本と、それを主導するアメリカを難じた発言も多い。せんだって、安倍晋三現総理が、今月下旬のインド来訪のさいに、パールの遺族と面談したいと強く望んでいる旨の記事が出たが、彼には、ぜひこの本を読んで行ってほしいものである。


人間パールの側面は比較的おさえられているとはいえ、その生い立ちなど、興味深い記述も多い。1886年1月7日、ベンガル地方の陶工カーストの貧しい家に生まれたパールは、成績優秀で、いろいろなパトロンや奨学金の援助を受けながら、ついにカルカッタ(コルカタ)大学で数学の修士号を取得、1910年、会計院に就職するも、法律に興味をもち、独学で知識を身に着ける。が、そこで、数学教授に採用され、法学への道を断念するが、その後も勉強は続け、1923年に、カルカッタ大学の法学教授に就任、翌年には法学博士の学位も取得している。その後、1941年にはカルカッタ高等裁判所判事、1944年にはカルカッタ大学副総長に就いた。その在任中の1946年、極東国際軍事裁判への判事就任が要請――アメリカにたいするインド政府の強い主張によって――され、副総長を辞して、来日したのである。
 
また、この本は、箱根にある「パール下中記念館」から始まるが、平凡社の創始者にして、パール再来日に尽力した世界連邦主義者・下中彌三郎についても一章がさかれている。


東京裁判では、パール判事が判決に反対し意見書を提出、ベルナール判事(仏)とレーリンク判事(蘭)が一部に反対し意見書を提出したほか、ジャラニラ判事(比)とウェッブ裁判長(豪)自身も、意見書を提出した。ちなみに、フランス代表のアンリ・ベルナール判事の意見は、「条約違反と犯罪を同一視してはならない」というもので、裁判の根拠に疑義があったようだ。

 
さて、現在、国際法的にはいっさいの侵略戦争は違法である。そして、日本國憲法の第98条第2項は「日本國が締結した條約及び確立された國際法規は、これを誠實に遵守することを必要とする。」とあって、国際法を遵守する以上、日本は侵略活動はできない。もちろん、一方的に「侵略ぢゃないよ」と主張してもそうならぬのは云うまでもない。イラクを「支援」するというても、それが「侵略」にならんとも限らぬ。そうなれば憲法9条のみならず、98条にも違反となるのだ。敗戦の日にパール判事の本を読みながら、そんなことをぼんやりと考える。


【黒猫亭主人】


パール判事―東京裁判批判と絶対平和主義
中島 岳志
白水社 (2007/07)
売り上げランキング: 137
おすすめ度の平均: 4.5
4 インドが少し好きになりました
5 絶対平和主義
5 「東京裁判論」

rankingbanner_03.gif
↑応援クリックお願いします

FBN16.png
posted by cyberbloom at 14:31| パリ | Comment(5) | TrackBack(7) | 枕流遑々録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月18日

汝の意見には反対なれど、そを口にする権利は命を賭しても守らむ

ふらんせ  キミ、南青山って知ってるか?
じゃぽね  いくら大阪モンやからって、知ってるがな、それくらい
ふらんせ  ほな、"Zadig & Voltaire" て知っとるか?
じゃぽね  一応、これでも、仏文学史、履修しとったんや
ふらんせ  で、単位は?
じゃぽね  せやから、履修した、云うてるやろ
ふらんせ  つまり、授業には出てないと
じゃぽね  いや、出てるがな、ちょっとくらい
ふらんせ  ほな、ヴォルテールは?
じゃぽね  18世紀啓蒙主義の哲学者にして作家や
ふらんせ  ほな、ザディーグは?
じゃぽね  そら、『ザディーグ――あるいは宿命――』いうたら、ヴォルテール56歳、油の乗りきった時期の傑作小説やがな
ふらんせ  せやがなせやがな、流石はじゃぽね君や
じゃぽね  いつもやったら、なんやかやいうて、難癖つけるくせに、なんや、きょうはキビ悪いやないか
ふらんせ  それが、ちょっと、この記事みてみ
じゃぽね  「日経Woman」やな。ほゝう、南青山におフランスのブランド「ザディグ・エ・ヴォルテール」のショップがオープンしたと
ふらんせ  日本じゃ「サザビーリーグ」の取り扱いや
じゃぽね  そら、どうでもえゝ
ふらんせ  問題はこゝやこゝ
じゃぽね  「ちょっと変わった感じのブランド名は17世紀フランスの作家・哲学者ヴォルテールにちなんでいます」
ふらんせ  仏文学史取ってへんのかッ!!
じゃぽね  いや、なかなか取ってる人の方が少ないと思うで
ふらんせ  こゝもやこゝ
じゃぽね  「イラストレーターが日本女性に向けて書き下ろした本『エメとジュール、パリの恋人たち L'Amour a Paris 』」
ふらんせ  「愛がパリを持つ」ってなんやねんッ!?
じゃぽね  まあ、アクサン記号って、よう忘れられるし
ふらんせ  こっちの記事も見てぇな
じゃぽね  はゝあ、『フランス映画祭2007開催記念 ザディック エ ヴォルテール ナイトパーティ』ね
ふらんせ  こゝや、こゝ
じゃぽね  「フランスを代表するパリジェンヌ・ブランドの“Zading & Voltaire(ザディック エ ヴォルテール)”」
ふらんせ  これやったら「ザダング」や「ザダング」ッ
じゃぽね  こらまた、dingue [ダング=アホ] なこっちゃな
ふらんせ  どっちゃも署名記事なんやから、ちゃんと調べて書かんかい!!
じゃぽね  いや、たぶん、この人かて、いちおうは調べたやろ
ふらんせ  あ、それ、たぶんこゝですわ
じゃぽね  ほんまや、そのまんまやな
ふらんせ  頼むで、伊勢丹!!
じゃぽね  まあ、そないヤイヤイ云いなや
ふらんせ  責任者出てこーいッ!
じゃぽね  ところで、キミ、ヴォルテールゆうたら Traité sur la tolérance 、すなわち『寛容論』やけど?
ふらんせ  ……
じゃぽね  ……
ふらんせ  責任者出てこんでも、許したるわ
じゃぽね  なに云うとんねん、このドロガメ!
ふらんせ  ごめんちゃい



【黒猫亭主人】

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします!
メイン・ブログ-FRENCH BLOOM NET を読む
posted by cyberbloom at 09:15| パリ | Comment(0) | TrackBack(1) | 枕流遑々録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月19日

Wikipédia 仏語版による 2007 大統領選候補シリーズ(その4)

ふらんせ  いや、どうもご無沙汰で
じゃぽね  キミ、サボりすぎやで
ふらんせ  もうね、なんでこないに時間がないのかと
じゃぽね  去年と愚痴がいっしょやがな
ふらんせ  てなわけで、ようやっとロワイヤル続篇ですわ



 1983年、母親の住まいがあるヴィリエ・シュル・メール Villier-sur-Mer(北仏カルヴァドス Calvados 県)に、選挙の地盤を求める。しかしながら、当時の市長が拒否したため、ミシュリーヌ・ヴァンサン Micheline Vincent(同じカルヴァドス県のトゥルーヴィル・シュル・メール Trouville-sur-Mer の市議)のことばを信ずるならば、ロワイヤルは数キロを遠ざかり、トゥルーヴィル・シュル・メールの、社会党のジルベール・ユレル Gilbert Hurel(カルヴァドス県トゥーク Touques 市長)率いる「左翼連合」の名簿に加わることになる。選挙では敗れたため、彼女は野党の市議となった。
 1986年末、ロワイヤルはこのポストを辞す。彼女は、39回の市議会中、12回に参加、うち8回は審議に参加した。彼女は、1986年の国民議会議員選挙に公認されることを望んだが、それには、バ・ノルマンディ Bas-Normandi 地方の社会党員、殊にルイ・メグザンドー Louis Mexandeau(カルヴァドス県選出の社会党のボス。元郵政大臣)の拒否を乗り越えねばならなかった。
 1988年、二期目の叙任式の日を迎えたフランソワ・ミッテラン François Mitterrand(もちろん当時の大統領。いうまでもなく社会党)に、彼女は、次の選挙の公認候補になるにあたって、助力を得られるかどうかを尋ねた。その結果、ロワイヤルは、立候補〆切りの前日に、ジャン=ポール・ジャンの代わりに、ドゥー・セーヴル Deux-Sèvres 県の「落下傘候補」となる。農民たちに、彼らのシャビシュー(山羊乳から作る軟質チーズ)を輸出するために、彼らに英語を教えることを約するといった激しい選挙戦ののち、第二回投票の得票率50.57% で、2区(サン・メッサン・レコール Saint-Maixent-l'École)の代議士に当選する。この、歴史的に右派の地盤であった区での勝利に際して、彼女は「落下傘については、着地成功ね」とコメントしている。1992年、彼女の求めに応じて、フランソワ・ミッテランは、セゴレーヌ・ロワイヤルの選挙区であるドゥー・セーヴルのポワトゥ湿地帯 marais poitevin のコミューンに、彼の巨大大統領プロジェクトの枠内で、5千万フランの助成金を許可した。彼女の地方基盤は、これにより強固なものとなる。
 1995年には、ニオール Niort(ドゥー・セーヴル県の市)市長選の社会党公認を得るが、同じ社会党のベルナール・ベレック Bernard Bellec 前市長が引退を拒否したため、企ては失敗に終わる。
 2006年、彼女は、代議士選に立候補しないと宣言したため、社会党は、デルフィーヌ・バトー Delphine Batho(1973年生まれ。党全国書記)を後継者として公認した。
 2006年11月16日、彼女は、17万8千人の党員の60.6%の得票率を得て、2007年大統領選における社会党の公認候補に選ばれた。対抗馬はドミニク・ストロス=カーン Dominique Strauss-Kahn(1949年生まれ。元財務大臣)とロラン・ファビウス Laurent Fabius(1946年生まれ。元首相)であった。
 
 1992年4月3日から1993年3月29日まで、彼女はベレゴヴォワ Pierre Bérégovoy(1925-1993)内閣の環境大臣を務める。その大臣時代、廃棄物の処理とリサイクル、視覚・聴覚公害、水にまつわる問題に取り組んだ。彼女は、廃棄物の処理・収集にかんする革新的テクノロジーの力を借りて、廃棄物処理・リサイクルについての法律(1992年7月法)を成立させる。
 公害にかんしては、公共施設(たとえば、学校の食堂)や労働現場などにおける、交通騒音の予防を目的とした騒音にかんする法律(1992年12月基本法)を成立させた。さらに、「景観回復」にかんする法律(1993年1月法)を成立させる。これは、百の景観とその特産品をレーベル化するものであった(「救おう、わたしたちの景観、味わおう、その特産品」運動)。
(中略)
 在任中、第4子であるフロラを出産する。現職大臣の出産は、フランスでは初めてのことであった。さらに、彼女は、赤ちゃんをテレビや写真に撮らせ、メディアに載せまくった。このことは、公生活と私生活の分離にかんする論争を巻き起こしたが、それは、パートナーのフランソワ・オランドがそのようなメディア化を好まなかっただけに、一層論じられることとなった。

 1997年6月4日から2000年3月27日まで、ジョスパン内閣のもとで、クロード・アレーグル Claude Allègre(1937年生まれ。地球化学者でもある)国民教育大臣とならび、学校教育担当大臣を務める。このとき、代議士を辞職するが、2002年に復帰した。在任中、恵まれない子どもたちや学校において厳しい状態にある子どもたちの救済に携わり、教育優先地区 Zone d'éducation prioritaire (ZEP) の再開や、生徒への社会基金(学校食堂にたいするような)の創設、社会支援の時間の創設、最初の中継インターンクラス創設をおこなった。また、地方教育契約 Contrat éducatif local や中学における「発見の道筋」itinéraires de découverte のようなイニシアティヴを発揮した。



【黒猫亭主人】

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします!
french bloom net-databaseへ 
posted by cyberbloom at 22:47| パリ 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 枕流遑々録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月31日

小説バトン 黒猫亭主人編

>> Q1:今読みかけの本もしくは読もうと思っている本
☆大沢在昌『砂の狩人』上下(幻冬舎文庫)
『サン・スポ』の連載をまとめたもの。大沢作品は、取り敢へず読むことにしてゐるが、やはりハードボイルドは「文体」こそ命だ。
☆江國香織『薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木』(集英社文庫)
劇団の女優に借りた。彼女とは「江國ともだち」なのだ。江國作品は、「美味しいモノを涎が出る風に描く」文体が特徴ではないか。

>> Q2:最後に買った本(既読、未読問わず)
☆小沼丹『小沼丹全集』補巻(未知谷)
井伏鱒二の弟子、庄野潤三の友人にして、飄々たる文体が特徴の小沼丹は、もともとストーリー・テリングのうまいフィクション作家であったが、最初の奥さんを亡くしてから、完全なフィクションに興味を失なひ、「ノンフィクション・エッセー風フィクション」を書くやうになる。もちろん、「現実」と呼ばれるものほど fictif なものはないからであらう。

薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木 吾輩は猫である

>> Q3:特別な思い入れのある本、心に残っている本5冊
☆夏目漱石『吾輩は猫である』(岩波書店)
小学生のときにハマリ、文体・かなづかひ・ペンネーム等に影響をあたへた作品。
☆安部公房『密会』(新潮社)
中学生のときにハマリ、幻想風味へと引き込んだ作品。
☆井上ひさし『珍訳聖書』(新潮社)
高校生のときにハマリ、ドンデンガヘシなどのケレン味ある芝居世界へと引き込んだ作品。
☆別役実『そよそよ族の叛乱』(三一書房)
大学生のときにハマリ、「哀しげなユーモア」を醸し出す文体を考へさせた作品。
☆ロマン・ガリ『白い犬』(角川文庫)
大学院生のときにハマリ、「不機嫌の時代」てふ文学研究を思ひつかせた作品。でも、ぼくは言語学者なので、文学研究はせえへんのやけどね。


黒猫亭主人

■誰かから回ってきたわけでもない「小説バトン」。今回は黒猫亭主人さんでした。みなさんの読書生活の参考にしていただければ幸いです。


rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします!
french bloom net-databaseへ
posted by cyberbloom at 12:31| パリ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 枕流遑々録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月07日

Wikipédia 仏語版による 2007 大統領選候補シリーズ(その3)

ふらんせ   というわけで、Wikipédia 仏語版による 2007 大統領選候補シリーズ、お次はこの人、「来年から、(Palais de l'Élysée) [パレ・ド・レリゼ](エリゼ宮) は Palais Royal [パレ・ロワイヤル] とお呼び」、フランス社会党統一候補、セゴレーヌ・ロワイヤル Ségolène Royal
じゃぽね  おっと、前フリも何もなしできよったで
ふらんせ  ちなみに、この項目も「半保護」中や


 Ségolène Royal、1953 年 9 月 22 日、元砲兵大佐で、のちにシャマーニュ Chamagne 市(ヴォージュ Vosges 県)の通商代表および助役となるジャック・ロワイヤル Jacques Royal と、エレーヌ・ドゥエ Hélène Dehaye の娘として、セネガルのダカール(ウアカム Ouakam 郡のコミューヌ [もっとも小さい行政単位])に生まれる。二人は、9 年のあいだに、マリィ=オデット Marie-Odette、マリィ=ニコール Marie-Nicole、ジェラール Gérard(後に、DGSE [デー・ジェー・エス・ウー Direction générale de la Sécurité extérieure 対外安全保障 (治安) 総局。仏情報機関] に所属、グリーンピースの虹の戦士号 Rainbow Warrior 爆破事件に関与する)、マリィ=セゴレーヌ Marie-Ségolène、アントワーヌ Antoine(後に、RPR 民衆運動連合党員として活動)、ポール Paul、アンリ Henry、シジズベール Sigisbert の 5 男 3 女をもうけた。
 19 歳のとき、彼女は父親を裁判所に召喚、勝訴する。というのも、父親は、妻にたいして、離婚と、子どもたちの学費のための扶養手当支払いを拒否していたからである。
 彼女は、国立行政学院 École nationale d'administration (ENA) のパーティーで出会ったフランソワ・オランド François Hollande と、1970 年代終わり頃から事実婚関係 union libre にある。フランソワ・オランドは、当時、会計検査院 Cour des comptes の若手役人であった。彼は、1997 年から、社会党第一書記(党首)を務めている。二人のあいだには、トマ Thomas (1984 年生まれ)、クレマンス Clémence (1985 年)、ジュリアン Julien (1987 年)、フロラ Flora (1993 年) の 3 男 1 女がいる。
 初等教育と中学を、シャルム Charmes 市(ヴォージュ県)で終えたのち、1968 年、私立ノートル・ダム・デピナル Notre-Dame d'Épinal 高校(エピナル Épinal はヴォージュ県のコミューヌ)に入学する。バカロレア取得後、ナンシー第 2 大学で経済学士号を取得、次いで、1978 年、シヤンス・ポ(=Sciences Po. パリ行政学院 Institut d'études politiques de Paris の通称)で学位を取得する。さらに、国立行政学院に入学、1980 年に卒業(ヴォルテール期生の 95 番。同期生には、フランソワ・オランド、ドミニク・ド・ヴィルパン Dominique de Villepin 現首相、ルノー=ドヌデュー・ド・ヴァーブル Renaud Donnedieu de Vabres 現文化相らがいる)、パリの行政裁判所への配属を選択する。1994 年、パリ弁護士会の弁護士選抜試験をパス、同時に、国民議会 Assemblée nationale(日本の衆議院に相当)と、ドゥー・セーヴル Deux-Sèvres(フランス西部ポワトゥー・シャラント Poitou-Charentes 地方の県)県議会に議席を得、テトジャン Francis Teitgen(1952 年生まれ。元パリ弁護士会会長)の法律事務所に所属する。
 1978 年、社会党に入党、パリ第 6 区支部に所属する。行政裁判所判事を休職中に、ジャック・アタリ Jacques Attali(1943 年生まれの経済学者、作家。ミッテラン大統領の顧問として有名。欧州復興開発銀行総裁などを歴任)の眼にとまり、1982 年から 1988 年まで、大統領官邸の健康・環境・青年問題担当事務局長として、チェルノブイリ原発事故とピエール・ペルラン Pierre Pellerin(1923 年生まれ。元パリ第 5 大学医学部教授。電離放射線防護局 Service central de protection contre les rayonnements ionisants を設立、局長を務めた)によるヨーロッパにおける特別措置や、虹の戦士号爆破テロや、ポリネシアにおける核実験の影響問題にたずさわった。


ふらんせ  忙しさかい、この辺で。続きは、また来年!
じゃぽね  えー、次回はサボりですか?!
ふらんせ  ほれではみなさん、良いお年を
じゃぽね  クリスマスもすんでへんのに……

【黒猫亭主人】


rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします!
posted by kuronekoteishujin at 10:16| パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | 枕流遑々録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月24日

Wikipédia 仏語版による 2007 大統領選候補シリーズ(その2)

じゃぽね  ほな、続きやな
ふらんせ  なあ、帰ろうや
じゃぽね  なに云うてんねん、アカンがな
ふらんせ  昨日徹夜で眠たいねん
じゃぽね  四の五の云わんと、チャッチャと訳さんかい!
ふらんせ  しゃあないなあ



 ニコラ・サルコジは 1955 年生まれ、カトリックの洗礼を受けている。兄弟がふたりいて、兄のギヨーム Guillaume は 1952 年生まれ、のちに繊維会社の社長になる(一時期、MEDEF [メデフ](=Mouvement des entreprises de France 仏経団連) の副会長であった)。弟のフランソワ François は 1957 年生まれ、のちに小児科医、ついで生物学者となった。1959 年、ポール・サルコジが家を出たとき、彼の妻は、子どもたちを育てるべく、学業を再開した。彼女は、ナンテールの法律事務所で弁護士となり、ヴィラルソー事件(1970 年に起きた、ヴェクサン Vexin のヴィラルソー地所 Villarceaux をめぐる土地売買詐欺事件)で弁護人を務める。ポール・サルコジはみたび結婚し、二度目の結婚において、カロリーヌ Caroline とオリヴィエ Olivier の二児をもうけている。
 ニコラ・サルコジは、その子ども時代を、最初、パリの 17 区で、次いで、ヌイィ・シュル・セーヌ Neuilly-sur-Seine で過ごした。彼は、公立シャプタル高校 lycée public Chaptal においては、6 年生(日本の中 1 に相当)で留年、6 年を 2 回やっている。この私から公への移行は、1 学年しか続かなかった。彼は、すぐに、私立サン=ルイ・ド・モンソー高校 lycée privé Saint-Louis de Monceau の生徒となる。1973 年にバカロレア B を取得、一家はヌイィに落ち着く。
 1981 年、弁護士資格証 (CAPA) を取得。パリで、不動産問題を専門とし、11 人の弁護士を擁する「アルノー・クロード Arnaud Claude &ニコラ・サルコジ法律事務所」を共同で開設した。『カナール・アンシェネ』(週刊の風刺新聞)のサルコジ特集記事によれば、この事務所は、オー・ド・セーヌ Hauts-de-Seine 県の市(ピュトー Puteaux やルヴァロワ・ペレ Levallois-Perret )のために、借地人の追い出しに一役買ったとされる。同紙によると、サルコジの交友関係が、公共機関の顧客の獲得に役立ったのではないかとされる。しかしながら、弁護士活動は、他の活動と両立しえないため、政治活動をしている間は、この仕事をおこなっていない。したがって、彼は、それほど弁護士として働いてはいないが、この法律事務所の利益の一部を給料としてもらっている(2002年は 241,000ユーロ=3640万円)。パトリック・ドヴジャン Patrick Devedjian (サルコジを党首とする UMP の一員)は、サルコジと自分はともに弁護士で、ともにフランス国籍を望みもしなかったであろう東欧移民の息子であると云っている。
 1974年、彼は共和国民主連合 Union des démocrates pour la République (UDR) に入党、ジャック・シャバン=デルマ Jacques Chaban-Delmas (元首相)の選挙に党員として従事し、1975年には、オー・ド・セーヌ県の若き県議となる。1976年には、シャルル・パスクワ Charles Pasqua(1988-2004 にオー・ド・セーヌ県議会議長)の肝煎りで新設された共和国連合 Rassemblement pour la République (RPR)に移る。なお、パスクワについて、サルコジは、1983年に「だれでも、私が彼の分身であるということを知っている」と言明している。1976年には、ヌイィ地区の責任者となり、1977年には、ヌイィ−ピュトー区幹事、同時に、ヌイィ市議会議員に、37人中37番目の席次で選ばれた。
 パリ10大学(ナンテール)に学び(財産法の教授である エル・アサード El Assaad 弁護士によれば『まじめな生徒』であった)、公法および政治学についての学士号を取得したのち、1978年には、私法の修士号を取得。同年、パリ政治学院(Institut d'études politiques de Paris グランド・ゼコールのひとつ。通称 Sciences Po [スィヤンス・ポ])入学前に兵役に就く。1981年になって、1969年4月27日の国民投票(原文では21日になっているが、間違い。ド・ゴール政権による、上院改革および地方自治権の拡大案にかんする投票であったが、否決された)にかんするDEA([デー・ウー・アー] = Diplôme d'études approfondies 博士論文準備課程)論文で口頭試問を受ける。
 1980年には、ジャック・シラクJacques Chirac(現大統領)の立候補にかんする若手支持者会の長を務める。1981年、ジャーナリストになるべきか、長い逡巡ののち、弁護士資格証を取得しようと決意、母の後を追うことになった。そのまま、ギィ・ダネ Guy Danet 弁護士に採用される。
 1982年9月23日、ヴィコ Vico(コルス島アジャクシオの北にある、人口1000人程度の村)の薬屋さんの娘であるマリ=ドミニク・キュリオリ Marie-Dominique Culioli と結婚。ピエール(1985年生まれ)とジャン(1987年生まれ)の二児をもうける。結婚式の立会人は、シャルル・パスクワであった。
 1983年には、亡くなったアシル・プレッティ Achille Peretti のあとを襲い、28歳でヌイィ・シュル・セーヌ市長となったが、このことは、当時ヘルニアで入院していた、正式の後継者であるシャルル・パスクワに不意打ちを食らわせるものでもあった。
 1987年には、内務省において、化学および放射能問題担当の命を受け、チェルノブイリ原発事故のおりには、政府の報道担当官を務めた。のち、34歳で代議士となり、38歳で財務大臣となる。
 1984年、ヌイィ市長として、セシリア・シガネル=アルベニズ Cécilia Ciganer Albeniz と出会う。サルコジは、彼女を、テレビ司会者ジャック・マルタン Jacques Martin と結婚させるが、セシリアは1989年に離婚して、サルコジのもとに走った。困難をきわめた離婚手続きののちに、彼らは1996年に結婚。立会人は、マルタン・ブイグ Martin Bouygues(TF1や電話会社や不動産会社などを擁するブイグ・グループの総帥)とベルナール・アルノー Bernard Arnault(モエ・エ・ヘネシー=ルイ・ヴィトン・グループの総帥)であった。1997年には、ルイという息子が生まれている。
 1993年、ヌイィ幼稚園事件(幼稚園児を人質に立て籠もった犯人は射殺され、物議をかもした)の際には、シャルル・パスクワが内務大臣であったが、政府権力との交渉を求める犯人と直接交渉(「ちびっ子を渡したまえ」Donnez moi le petit noir)、ひとりのこどもを抱えて学校を出る姿が、テレビで放映された



ふらんせ  あー、しんど。というわけで、あとは、みなさんご存じのとおり
じゃぽね  いや、知らんがな
ふらんせ  それでは、またの機会に!
じゃぽね  うわー、ホンマに終わりよった

【黒猫亭主人】


rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします!
posted by cyberbloom at 23:09| パリ ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 枕流遑々録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月08日

Wikipédia 仏語版による2007大統領選候補シリーズ(その1)

じゃぽね  えらい、久しぶりやな
ふらんせ  忙しかってん
じゃぽね  みんな忙しねんから、我が儘いふたらイカン
ふらんせ  けど、物理的に時間があれへんねんからしゃあない
じゃぽね  ほな、光速に近い速度で移動したらえゝねん。時間が伸びるがな
ふらんせ  相対性理論は、べつに移動してる人自身の時間が伸びるんとちゃふ
じゃぽね  ほんで、結局、今回のネタは?
ふらんせ  フランス版 Wikipédia による2007大統領選候補シリーズ、その1や
じゃぽね  要するに、仏版ウィキペディアの記事を訳して誤魔化そっちゅふ魂胆やな。つまり、人の褌で相撲とるわけや
ふらんせ  そんな「パクリ」みたいな、ひと聞きの悪いこといふたらアカン
じゃぽね  ほな、なんやねんな
ふらんせ  人の土俵を借りるだけや
じゃぽね  訳わからんわッ!
ふらんせ  といふわけで、まづは、この人、「内務大臣やUMP党首なんてサルコの腰掛けにすぎねえ、オレが目指すのはエリゼ宮の椅子だ」――ニコラ・サルコジ!
じゃぽね  それも、「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」のくじらのパクリやな
ふらんせ  以下、Nicolas Sarkozy の記事から。なほ、この記事は、内容を巡ってもめてるらしく、「半保護中」や


 ニコラ・サルコジは通称。本名は、ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ=ボクサ Nicolas Paul Stéphane Sárközy de Nagy-Bócsa。1955年1月28日、パリ17区生まれ。フランスの政治家。UMP (Union pour un Mouvement Populaire 民衆運動連合)党首、国務大臣、内務および国土整備大臣、オ・ド・セーヌ Hauts-de-Seine 県議会議長、ヌイィ・シュル・セーヌ Neuilly-sur-Seine 市議。1983〜2002に、ヌイィ・シュル・セーヌ市長を務めた。
[…]
 父親の パル・ノジ=ボウチャ・イ・サルコジ Pál Nagy-Bócsa y Sárközy は、1928年プダペスト生まれのハンガリー人で、首都ブダペストから100km離れた Alattyán に領地と城を有するハンガリー貴族の家系。1944年のソ連赤軍占領時に、一家は国外脱出を余儀なくされる。オーストリアやドイツでの幾多の出来事ののち、父ポール・サルコジは、バーデン・バーデン(ドイツ南西部の都市)にて、フランス外人部隊のリクルーター(徴募官)に出会う。彼は、5年契約で参加し、アルジェリアのシディ・ベル・アベス Sidi-Bel-Abbès で新兵教育を受ける。しかしながら、インドシナへ出発する際に兵役不適格とされ、1948年、マルセイユにて除隊。そのおり、名前をフランス式の「ポール・サルコジ・ド・ナジ=ボクサ」Paul Sarkozy de Nagy-Bocsa と改めた。広告業者となった彼は、1949年、パリ17区の医者の娘で、当時法学部の学生であったアンドレ・マラー Andrée Mallah と出会い、結婚する。彼女の一家は、テッサロニキ(サロニカ。ギリシア北部の都市)出身のスファラディ(古くに離散した"元祖"ユダヤ人)であった。


以下、次回!
じゃぽね  え? そこで終はるんかい。中途半端やなあ

【黒猫亭主人】


rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします!
posted by kuronekoteishujin at 14:31| パリ ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 枕流遑々録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月02日

グラビアと新学期

ふらんせ  九月やなあ
じゃぽね  いや、キミ、出てくる曜日がちゃふんとちゃふか?
ふらんせ  ヴァカンスも終わりや
じゃぽね  日本の盆休みはとっくに終了しとんねん
ふらんせ  ガスパールとリザも日本に旅行して、関西だか関東だかようわからんとこに行っとったし
じゃぽね  つっこんだんなや、細かいとこは
ふらんせ  九月やなあ
じゃぽね  せやから、それがどないした
ふらんせ  セプテンバー、レインレイン
じゃぽね  いや、太田裕美歌わんでえゝから
ふらんせ  セプテンバー、シュビドゥビドゥビドゥビドゥバッバ
じゃぽね  いや、竹内まりやも歌わんでえゝから
ふらんせ  お
じゃぽね  どないした?
ふらんせ  どっちも作詞は松本隆やないか!
じゃぽね  そら、ようさん書いたはるんやから
ふらんせ  やっぱ70年代やねえ
じゃぽね  なにが云いたいねん
ふらんせ  九月やなあ
じゃぽね  ハナシ進めへんがな
ふらんせ  九月いうたら、フランスでは rentrée scolaire [ラントレ・スコレール]
じゃぽね  なんやねん、それ
ふらんせ  rentrée だけでもオッケーや
じゃぽね  はいはい、それで
ふらんせ  アンドレ・カンドレとちゃうで
じゃぽね  だれが、そないな有名人の昔の名前と間違うねん
ふらんせ  「再び這入る」すなわち「新学年」ちゅうわけや
じゃぽね  あゝ、向こうの学校は9月が新年度やからね
ふらんせ  アンドレいうたら……
じゃぽね  おいおい、新学年のハナシはどこいった?
ふらんせ  アンドレいうたらッ!
じゃぽね  オ、オスカル……?
ふらんせ  André Breton [アンドレ・ブルトン]!
じゃぽね  まーた「ブルトンだけにシュールでしょ」とかいうつまらんオチをつけよいうんやないやろな
ふらんせ  アンドレいうたらッ!
じゃぽね  なんや、まだ続くんかい
ふらんせ  アイドルに似てる
じゃぽね  似てへん似てへん
ふらんせ  アイドルいうたら
じゃぽね  どこへ行こうとしとんるんや、コイツ?
ふらんせ  グラビアッ!
じゃぽね  云うてゝ、ハズカシないんやろか
ふらんせ  もといッ!
じゃぽね  え?
ふらんせ  グラヴィアッ!
じゃぽね  カタカナ変わった!?
ふらんせ  もといッ!
じゃぽね  またかいッ
ふらんせ  グラヴュールッ!
じゃぽね  フランス語ッ!?
ふらんせ  いかにも、gravure とは元来フランス語で「版画」のこと、語源は graver [グラヴェ]、「彫る」っちゅう意味や。そこから、凹版印刷の意味になって、写真の印刷に適してるいうんで、使われてるうち、写真ページのことを「グラヴィア・ページ」いうようになって
じゃぽね  写真ページに出るアイドルのことを「グラヴィア・アイドル」いうようになったと
ふらんせ  せやから、元来は「グラヴュール・アイドル」なわけや
じゃぽね  「アイドル」はそのまゝかい
ふらんせ  略して「グラドル」
じゃぽね  英語のときとおんなしや
ふらんせ  なにしろラントレやさかいな
じゃぽね  意味わからんわ
ふらんせ  ツンデレとちゃうで
じゃぽね  もうえゝっちゅうねん!

【黒猫亭主人】


rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします!
posted by kuronekoteishujin at 08:04| パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | 枕流遑々録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月16日

ジュリーと尾崎豊

ふらんせ  てなわけで、セルジュ・ジュリー (Serge JULY) は、1973年に、ジャン=ポール・サルトル (Jean-Paul SARTRE) らと一緒に創刊して以来、ずっと関わりつづけてきた Libération [リベラスィヨン] を去ることになったわけや
じゃぽね  先週おらんかったくせに、えらい、唐突な始まりかたやな。そもそも、そのネタ、6月のんやろ
ふらんせ  ようやく語るべきときがやってきたのだ
じゃぽね  「べき」やないやろ。サルトルが関わったからには、ヒダリの新聞やったわけやな?
ふらんせ  Oui !『リベ』はずっと左派系や。もっとヒダリには、共産党系の Humanité [ユマニテ]がおり、ミギ側には、知識人御用達風味の中道左派 Le Monde [ル・モンド] がおる
じゃぽね  ところで、『リベラシオン』も『フィガロ』も定冠詞なしで呼べるのに、『モンド』云わへんのは、なんで?
ふらんせ  そんなん、「中村主水」と間違うからにきまってるやないか
じゃぽね  ……
ふらんせ  で、そのジュリー退任のきっかけになったんが、38.8%の株を保有する『リベ』の筆頭出資者 エドゥアール・ド・ロートシルド (Édouard de ROTHSCHILD) 49歳なわけや
じゃぽね  お、「ド」が付いてるね
ふらんせ  ナニッ、どつくってかッ?
じゃぽね  いや、貴族のしるしの de が付いた名前やなと云うただけやがな
ふらんせ  そーなんや、このヒト、名字のとおり、Rothschild 「赤い盾」を意味する、英語読みやと「ロスチャイルド」家の人々なんや!
じゃぽね  いや「人々」やのうて単数やろ
ふらんせ  この、欧米を股にかけるロートシルド(ロスチャイルド)一族は、5代前の マイヤー=アムセル・ロートシルト (Mayer Amschel Rothschild, 1744-1812) が、ドイツで両替商として成功、息子の時代に、ウィーン、ロンドン、ナポリ、パリに進出、各地で財をなしたわけや。詳細は、このへんで。
じゃぽね  家系図によると、二代目のジェームス・ド・ロートシルド (James de Rothschild,1792-1868) のときに、もう de が付いとんな
ふらんせ  彼は、いち早く、鉄道が伸びると目ェ付けて、財を増やしたらしで
じゃぽね  んで、このド・ロートシルドさまが、『リベ』に出資して、まあ、手に入れたと
ふらんせ  なにしろ、ヒダリというよりヒダリマエやったさかいな
じゃぽね  ウマイこと云わんでええから
ふらんせ  で、創設社長のジュリーと意見が対立、けっきょく、ジュリーが退任することになったわけや
じゃぽね  まあ、ようあるハナシと云えば、ようあるわな。金には勝たれへんっちゅうこっちゃ
ふらんせ  しかし、相手がロートシルド、フランス保守界にも顔が利く、大金持ちや。なにしろ、ニコラ・サルコジもお友だちらしいからな
じゃぽね  それより、ロートシルドって、有名なユダヤ人やろ? ユダヤ人と云えば?
続きを読む
posted by kuronekoteishujin at 18:38| パリ | Comment(2) | TrackBack(0) | 枕流遑々録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月05日

さらばシベリア鉄道

ふらんせ  大変や
じゃぽね  なんや、ジュリーが辞めんのがそないに大変なんかい
ふらんせ  ちゃうちゃう
じゃぽね  ほな、テポドン発射かいな
ふらんせ  サッカーサッカー
じゃぽね  まあ、たしかに中田の引退は大変や
ふらんせ  イタリア勝って、ドイツ負けよった
じゃぽね  なんや、そっちかいな
ふらんせ  枢軸国どうしの戦いやがな
じゃぽね  また古い云い方しよんな、日本なんかさっさと撤収しとるやないか
ふらんせ  兄たん
じゃぽね  誰が「ニイタン」や
ふらんせ  ニホンなんですぐ負けてまうのん?
じゃぽね  なんで『火垂るの墓』なっとんねん
ふらんせ  節子ォーっ!
じゃぽね  キミが「節子」やっとんたんちゃうかい
ふらんせ  ことほどさように
じゃぽね  どないした
ふらんせ  ニホンはアニメの国なわけや
じゃぽね  サッカーの話はどこいったんや?
ふらんせ  そんなニホンにあこがれて
じゃぽね  そもそも、今回、『リベラシオン』の話すんはずやったやないか
ふらんせ  そうそう、その『リベラシオン』のこの記事をごらんなされ
じゃぽね  えーと、「ロリィとジェニファー、ヴィザを持たずにマンガの国へ出奔」……
ふらんせ  パリの直ぐ南の Essonne [エソンヌ]県に住む16歳の女の子ふたりが、ニホンが死ぬほど好きで、とうとう、ニホンに向けて旅だったわけや
じゃぽね  えー、「ぜんぶ好きやねん、暮らしぶり、文化、映画、雅−Miyaviのロック、マンガ、それにウチらには、東京はパリみたいなもんやってん、ただし日本人でいっぱいの、東京やったら、なんでももっとステキやねん」……だれ、雅って?
ふらんせ  この人みたいですな
じゃぽね  うわ「俺様系」かいな
ふらんせ  大阪についてのコメントがないのんが残念な点やけどな
じゃぽね  えー、最初は飛行機で行こうと思てたんやけど、ヴィザが必要んなると考えて、シベリア鉄道でロシアから韓国に行き、そこから船でニホンに行こうとした……
ふらんせ  残念ながら、列車でもヴィザが必要やったんで、ポーランド出国の際に御用になったわけやけどな
じゃぽね  「ぜんぶ用意しとってん、着替3着、ジーンズ、コンヴァース、洗面用具、マンガ本、MP3プレーヤ、ケータイ、シリアル・バー3箱」って、肝腎のもんあれへんがな
ふらんせ  親には、「息がつまんねん、ウチ、お父ちゃんお母ちゃんにとって重荷やし、冒険したいねん」と書き置いたそうやね
じゃぽね  ほんで、最後に、「ロシアに出られへんとは知らんかってん」「めっちゃ難儀してる (On est dans le caca.) [オン・ネ・ダン・ル・カカ]」って、それはないやろ
ふらんせ  けど、ちゃんと「冒険やったわ。けど、危険もいっぱい」って、認識してるやん
じゃぽね  しかし、まあ、なんちゅうか……
ふらんせ  いや、そないにニホンに肩入れしてくれてたとはウレシイやないか、「マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」と詠んだ寺山修司に聞かせてやりたい
じゃぽね  別にニホンのために身を棄ててくれとるわけやあれへんがな、マンガと雅くんのためやろ
ふらんせ  いや、こういうニホン贔屓の若者たちをこそ、国賓待遇で入国させて、ニホンのひとびとに勇気をあたえてやらんと――
じゃぽね  まさか「国家の賓客」とかいうオチにするつもりやないやろな
ふらんせ  ……そういうキミこそ、彼女らの行動への批判ぶりを聞くに、情緒的共同体にどっぷりひたった「自己責任」派やないやろな
じゃぽね  いや、ボクは単にヴィザもってへんかった迂闊さをやね
ふらんせ  ヴィザがヴィザがって、三井住友グループの回しもんか!
じゃぽね  うわー、ベタベタや……
ふらんせ  いったいナニサマやねん?
じゃぽね  ヴィザなし sans visa だけに
ふらんせ  だけに?
じゃぽね  正体秘匿 sans visage や
ふらんせ  オマエもベタベタやないかい!

【黒猫亭主人】

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします!
french bloom net-databaseへ
posted by cyberbloom at 00:00| パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | 枕流遑々録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月06日

ロワイヤルな人

じゃぽね  フランス大統領選が近づいてまいりました
ふらんせ  なんやねんな、藪から棒に
じゃぽね  選挙日は2007年4月22日で鉄板でしょう
ふらんせ  めっちゃ先やがな
じゃぽね  フランスの次の大統領は、ズバリ誰でしょう?
ふらんせ  ひとのハナシ聞かんかい
じゃぽね  せやかて、保守中道のドミニク・ド・ヴィルパン首相 vs ニコラ・サルコジ内相の戦いは、サルコジ側の圧倒的勝利になりそうやん。ほんなら、保守中道候補はサルコで決まりやから、あとは、前回決選投票に勝ち残ってもうた極右のル・ペンがどこまでねばるかと、社会党中心の左派がどこまで伸びるかやろ。まあ、極左政党もそれなりの受け皿にはなるやろけど、云うてもごく一部の支持やろし。せやから、社会党の統一候補が誰になるかっちゅうんが問題なわけや
ふらんせ  カンニング・ペーパーを読み上げるような解説をおおきに
じゃぽね  その社会党、党首にあたる第一書記のフランソワ・オルランドを抑えて、その嫁さんで、ジョスパン社会党政権時代に大臣勤めたセゴレーヌ・ロワイヤルが人気やそうやないか
ふらんせ  そうそう、それそれ。彼女もその辺を意識しまくってか、昨年の「暴動」(émeute [エムート]) の「発祥の地」の Clichy-sous-Bois で、先月末に「小さな暴動」があったときに、さっそく、暴れる若者の親には家族手当を制限しろとか、徴兵制がなくなったのは残念やとか云うたらしい
じゃぽね  なんと過激な
ふらんせ  サルコジなんか、応援ありがとうみたいな皮肉を云うたらしいし、社会党内部でも、ドミニク・ストロス=カーン元蔵相が「『サルコジ』はひとりで充分だ」とか批判したそうな
じゃぽね  そういえば、この人、お父さん軍人やったな
ふらんせ  ここのページによると、現在、極右シンパらしで
じゃぽね  ほんまかいな
ふらんせ  それから、8人きょうだいなんやけど、兄弟のジェラールは DGSE(対外安全保障総局)におって、グリーンピースの「虹の戦士丸」爆破チームやったらしいし、姉妹のアンヌ=クリスティーヌは、国民戦線から立候補したそうやし、エレーヌは「王党派」légitimiste とか書いてある
じゃぽね  そもそも苗字が Royal(王の)やしな
ふらんせ  まあ、親やきょうだいはともかく、本人は左派共和主義者なんやろ
じゃぽね  そら、ジョスパンのコルス(コルシカ)島自治権拡大に反対して、社会党飛びだしたジャン=ピエール・シュヴェヌマンみたいなもんかいな?
ふらんせ  じっさい、ロワイヤルの発言を、シュヴェヌマンは誉めてるらしいで
じゃぽね  でも、事実婚の旦那がオルランド社会党第一書記なんやから、シュヴェヌマンみたいにはいかんわな
ふらんせ  gauche caviar [ゴーシュ・カヴィヤール] すなわち「キャヴィアの左翼」ってことばがあって、えゝしのボンや嬢ちゃんで左翼やってる連中のことを指すんやけど、社会党の重鎮連はたいていこれやから、右も左も理念的なんが多い。ちなみに、この人もエナルク(エリート校の ENA =École nationale d'administration 国立行政学院出身者)で、オルランドとはその時の同級生らしいで
じゃぽね  同級生と! ええなあ……
ふらんせ  なに羨ましがっとんねん。もっと云うと、ヴィルパンとも同級生やそうや
じゃぽね  同級生と張り合う!
ふらんせ  なんやねん
じゃぽね  いわゆるひとつの「ツンデレ」やね
ふらんせ  ちゃうわ!

【黒猫亭主人】

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします!
french bloom net-databaseへ
posted by cyberbloom at 00:00| パリ | Comment(2) | TrackBack(0) | 枕流遑々録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月09日

ラ・プレステ

じゃぽね  プレステ3が出るね
ふらんせ  フランスでも期待されてるしな
じゃぽね  ほんまかいな
ふらんせ  ほれ、この記事とかみてみいな
じゃぽね  お、La PlayStation 3 って、プレステ3は女の子かいな
ふらんせ  プレステ1の頃から女の子やけどな
じゃぽね  こら、やっぱり "Station" やからか?
ふらんせ  ちゃうがな、こういうのんは、裏にひそんでるコトバの性になるんやがな
じゃぽね  コトバの所為かいな
ふらんせ  なに、こまかいアソビしとんねん
じゃぽね  いや、ほな、これはなんで女性名詞に?
ふらんせ  そら、la console(ゲーム機)の一種やからや。ほら、この記事の中でも、Nintendo Wii かて la Wii de Nintendo と女の子になっとるやろ
じゃぽね  なるほど、ほな、ゲーム機はみな女の子かいな?
ふらんせ  せや。Gameboy ですら la Gameboy やった。まあ、Toyota の自動車が、auto/voiture の影響で la Toyota になるようなもんやな
じゃぽね  ほな、le Toyota いうたら、セクハラに……
ふらんせ  なるかいな、無理矢理時事ネタを持ってこんでえゝねん。le Toyota いうたら、le camion de Toyota、すなわちトラックのこっちゃがな
じゃぽね  すんまへん。責任取って辞任します
ふらんせ  そのネタはもうえゝっちゅうのに!

【黒猫亭主人】

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします!
french bloom net-databaseへ
posted by cyberbloom at 00:00| パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | 枕流遑々録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月25日

不思議の国のイロナちゃん

ふらんせ  キミ、久しぶりやないか、なにしとったんや?
じゃぽね  いや、もう、弥生如月と地獄の日々で
ふらんせ  地獄の沙汰も金しだい、云うやないか
じゃぽね  それやそれ、ダイガクも稼がなアカンいうことで、大騒ぎや
ふらんせ  文科省から金貰おうっちゅうキャンペーンかなんかかいな
じゃぽね  せやねん。けど、その文科省はまた財務省から金貰おうっちゅうキャンペーンをやっとるわけや
ふらんせ  つくづく金が仇の世の中やなあ
じゃぽね  どうか仇に巡り会いたい
ふらんせ  太田直次郎かよ
じゃぽね  ときに、フランスじゃ、イロナちゃんたらいう12のジャリタレの歌が大ヒットやそうやね
ふらんせ  Ilona Mitrecey [イロナ・ミトルセ] 1993年9月生まれね。ファースト・シングルは、いきなし14週連続1位。公式サイトはココ、仏語版 Wikipédia はココな。そらもう、えらい人気らしで。知り合いのフランス人も「子どもが大好きやねん」云うとったわ、フランス語で
じゃぽね  フランス語は関西弁になれへんやろ。なんや、Wikipédia やと、だんだん売り上げ落ちとんやないか、へっへっへ
ふらんせ  キミ、彼女になんか恨みでもあんのかいな。去年の2月デビューで、1年のうちにシングル4枚、ミニ・アルバム1枚やから、勢いのほどが判ろうてなもんや。まあ、第1チャンネル「TF 1」[テー・エフ・アン]のサイト見てみ、いつでもイロナちゃんのヴィデオ・クリップが出とるやろ
じゃぽね  そや、このCGのキャラな。最近は、本人の写真が出んで、このキャラで押し通しとるぞ。日本のモーニング娘。かてそこそこ大人ぶっとんのに、このキャラはどないやねん? 向こうの12歳いうたら、魔女っ子メグちゃんもびっくりの大人びぶりちゃうんかいな
ふらんせ  まあ、そういう戦略なんやろ。出す歌かて、Un monde parfait [アン・モンド・パルフェ](カンペキな世界), C'est les vacances [セ・レ・ヴァカンス](ヴァカンスがきた), Dans ma fusée [ダン・マ・フュゼ](ロケットでゆこう), Noël, que du bonheur [ノエル・ク・デュ・ボヌール](なんてステキなクリスマス)てな具合で、アリアリとお子様狙いやねんから
じゃぽね  日本では、誰に向けて売るつもりなんやろか?
ふらんせ  え、日本でも発売になんの?
じゃぽね  なんや、知らんかったんかいな。「イローナ」いうてやな、今年の七夕さんに発売予定やけど、もう売り込みも始まっとるみたいやで
ふらんせ  「イローナ」って、後から2番目の音節を長音化したらアカンやろ
じゃぽね  知らんがな、レコード会社がそない書いとんねん、本名「イローナ・ミトレシー」
ふらんせ  おい、たしかに -cey [e] の狭い e の発音は、日本語の [イ] に聞こえんこともないけど、「シー」はアカンやろ
じゃぽね  知らんがな、レコード会社がそない書いとんねん
ふらんせ  レコード会社って、レコードなんかもう売ってへんやないか
じゃぽね  そないなとこ突っ込まんでえゝねん。ほれ、日本の公式サイト
ふらんせ  なんや、この「ときめき☆アーモンドパフェ」っちゅうのんは?
じゃぽね  ファースト・シングルの名前やがな
ふらんせ  「☆」はなんやねん!
じゃぽね  かいらししよ、いうレコード会社の意図ちゃうか
ふらんせ  「アーモンドパフェ」って、フランス語の歌詞にぜんぜん関係あれへんけど、まさか「アン・モンド・パルフェ」から思いついたんやないやろなあ?
じゃぽね  鉄板で、そうでしょう
ふらんせ  人を莫迦にしとんかッ! 許さんッ! 責任者出てこーいッ!
じゃぽね  うわー、人生幸朗師匠になっとんがな……

【黒猫亭主人】

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします!
french bloom net-databaseへ
posted by cyberbloom at 00:00| パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | 枕流遑々録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月28日

鳥と飛行機

じゃぽね なんや、インフルエンザやってんて?
ふらんせ せやがな、もう、躰の節々が痛とうて痛とうて
じゃぽね 所謂「インフル這入ってる」いうやっちゃな?
ふらんせ 這入ってへんわ
じゃぽね インフルといえば、あのオリンピックの地でも流行ってるそうやないの
ふらんせ そら初耳やぞ
じゃぽね 知らんのかいな? きょうび話題やがな、「トリノ・インフルエンザ」
ふらんせ そら「鳥のインフルエンザ」、フランス語で云うたら grippe aviaire [グリップ・アヴィエール] や。ちなみに aviaire はラテン語の「鳥」avis [アウィス]からきた aviarius(鳥の)からで、フラ語の「飛行機」avion [アヴィヨン] と同語源や。さらに云うと、フラ語の「鳥」の oiseau [オワゾー] の語源は avicellus やけど、こいつは avis の後に「小さい」を示す接尾語、所謂「指小辞」の付いた形からやねん
じゃぽね 出たねー、ウンチンク
ふらんせ ウンチクや蘊蓄。「ン」一個いらん
じゃぽね せやけど、どうりで、イタリアやのうて、フランスからのフォワグラが輸入禁止になったわけや
ふらんせ じつは一大農業国たるフランスで、見本市中いちばん参加者の多い「国際農業見本市」に来たシラク大統領、かつて日本の政治家のおっちゃんたちが「カイワレ」やら「牛肉」やらを喰ってみせたように、鶏肉を食べてみせたさうやで
じゃぽね なにしろフォワグラ、日本はじめ20ヶ国も輸入禁止にしてるらしいしな
ふらんせ 中川農水大臣も視察に行ってシラクに会うたらしいけど、どうせ安心やから、とか云われたんやろ
じゃぽね フランス側は75度以上の熱にとおしたらウイルスは死ぬさかい大丈夫やと云うてるらしいけど、そないに熱くしたら味もへったくれもあらへんらしいし
ふらんせ ほゝう
じゃぽね ところで、フォワグラって、どんな鳥?
ふらんせ いや、キミ、あれフォワグラって鳥の肉やとか思てたんかいな、難儀ややっちゃなあ、ちゃうがな、foie gras 云うたら、foie は「肝臓」、gras は「脂っこい」云う意味で、要するに鵞鳥の「脂肪肝」のこっちゃ
じゃぽね ガチョーン!
ふらんせ お前はペネロペ・クルスか!
じゃぽね ハラホロヒレハレ

【黒猫亭主人】

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします!
french bloom net-databaseへ
posted by cyberbloom at 00:00| パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | 枕流遑々録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月15日

ムハンマドとスヌーピー

じゃぽね 久々やね
ふらんせ せやね
じゃぽね こない間ァがあいたんは、やっぱりナニがナニして……
ふらんせ 内輪のハナシはせんでえゝっちゅうねん!
じゃぽね ところで、ボクらが休んどる間に、ムハンマドの戯画問題が大変やったね
ふらんせ いまだに大変やで
じゃぽね ジャーナリズムは、「報道の自由」を守るべく、一斉に戯画を載っけたりして、それがまた、イスラームの反感を呼んだり、それへのカトリックの共闘を招いたり……
ふらんせ フランスは、例の laïcité に代表されるやうに、大革命以来、公権力から宗教を排除してきた歴史を持っとるさかいな。左派系新聞の「リベラシオン」なんかも、「リベラシオンの立場」てな記事を出すくらいやし。内部で論争があったみたいや。だいたい、これ読んだら、事件の発端となった戯画は、ふつうならボツになる程度のもんやったって書いてあるし
じゃぽね 「報道ステーション」で、その戯画を転載して話題になってたちゅう「チャーリー・ヘブド」たらいう新聞のことを見たけど、あれもフランスの新聞やな
ふらんせ キミキミ、英語で発音したらアカン。Charlie-Hebdo は[シャルリー・エブド]やがな。ちなみに、hebdo は hebdomadaire の略やから、「週刊シャルリー」ってイミやな
じゃぽね ふだんの倍くらい売れらしな
ふらんせ だいたい8万部のとこが16万部やさうや
じゃぽね キワモノで売っとる「東スポ/大スポ」みたいなもんかいな?
ふらんせ いや、あれは一応「風刺新聞」いうもんや。もっとも、ちょっとエゲツナすぎるいうて、今回のことは各方面から非難の対象になっとるみたいやけどね。Nouvel Ops [ヌーヴェル・オプス] に載せられてる紙面を見てもあいかわらずや
じゃぽね ムハンマドはんに「アホに愛されるのはツライ」とか云わせとるしな
ふらんせ ところで、歴史的には断絶しとんねんけど、Charlie-Hebdo いう名前は、1981年まであった風刺新聞の名前を継いだもんや。ちなみに、旧の Charlie-Hebdo は Hara-kiri [アラキリ]、つまり「腹切り」っちゅう風刺新聞が1970年に発禁処分を受けたんで、別に出してたユーモア新聞「月刊シャルリー」から名前を借りて、実質後継としたのんが最初らしい。ちなみに、月刊の Charlie は、スヌーピーの漫画載せてたんで、「チャーリー・ブラウン」にちなんでつけられた名前らしで
じゃぽね ほな、やっぱり「チャーリー・エブド」やないの
ふらんせ そこはまあ、ムハンマドも Mahomet [マオメ] になる国やさかい
じゃぽね 「マオメとは俺のことかとムハンマド云ひ」
ふらんせ そら、「ギョエテとは俺のことかとゲーテ云ひ」のパクリやな

【黒猫亭主人】

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします!
french bloom net-databaseへ/a>

×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。