
あとがきで、「ボースの人生を書いたときは、同じ目線の人間として、ボースを捉えようとしていた」が、今回は「その論理の鋭さと孤立を恐れない高貴な精神に圧倒され続けた。遙か上の高いところにいるパールを仰ぎ見るという感覚が、私を支配し続けた」と記す中島さんは、今回の書籍では、人間パールについてより、東京裁判におけるパールの意見書の解説と、その後の来日時――パールは、裁判終結後も3度来日している――の、パールの「世界連邦希求」と「絶対平和主義」――パールはガンディーの崇拝者でもあった――の主張ぶりについて多くをあてているが、そこには「パールのご都合主義的利用が横行する現代日本において、まずはパールの発言を体系化しておく必要がある」(あとがき)との想いもあった。パールは、厳密な国際法の解釈――11人の判事団のなかで、国際法の専門家はパールともうひとりのみであった――にしたがい、起訴自体が不可能であるとして、無罪を結論したのであり、日本軍の戦争については――そして「戦争」そのものについてを――許さざるべき蛮行として、寸毫も容認していない。そもそも戦勝国による軍事裁判を容認できないとしたのも、それを認めることが、「勝てば官軍」的発想、すなわち「是が非でも勝つべし」という「戦闘推進精神」を生み育てゝしまうという考えのゆえであった。
もちろん、大英帝国に長く支配されたインドの人間として、大国への批判的まなざしは、遺憾なく発揮されている。後の来日時に、平和憲法にもかかわらず、戦後は対米追従路線をとる日本と、それを主導するアメリカを難じた発言も多い。せんだって、安倍晋三現総理が、今月下旬のインド来訪のさいに、パールの遺族と面談したいと強く望んでいる旨の記事が出たが、彼には、ぜひこの本を読んで行ってほしいものである。
人間パールの側面は比較的おさえられているとはいえ、その生い立ちなど、興味深い記述も多い。1886年1月7日、ベンガル地方の陶工カーストの貧しい家に生まれたパールは、成績優秀で、いろいろなパトロンや奨学金の援助を受けながら、ついにカルカッタ(コルカタ)大学で数学の修士号を取得、1910年、会計院に就職するも、法律に興味をもち、独学で知識を身に着ける。が、そこで、数学教授に採用され、法学への道を断念するが、その後も勉強は続け、1923年に、カルカッタ大学の法学教授に就任、翌年には法学博士の学位も取得している。その後、1941年にはカルカッタ高等裁判所判事、1944年にはカルカッタ大学副総長に就いた。その在任中の1946年、極東国際軍事裁判への判事就任が要請――アメリカにたいするインド政府の強い主張によって――され、副総長を辞して、来日したのである。
また、この本は、箱根にある「パール下中記念館」から始まるが、平凡社の創始者にして、パール再来日に尽力した世界連邦主義者・下中彌三郎についても一章がさかれている。
東京裁判では、パール判事が判決に反対し意見書を提出、ベルナール判事(仏)とレーリンク判事(蘭)が一部に反対し意見書を提出したほか、ジャラニラ判事(比)とウェッブ裁判長(豪)自身も、意見書を提出した。ちなみに、フランス代表のアンリ・ベルナール判事の意見は、「条約違反と犯罪を同一視してはならない」というもので、裁判の根拠に疑義があったようだ。
さて、現在、国際法的にはいっさいの侵略戦争は違法である。そして、日本國憲法の第98条第2項は「日本國が締結した條約及び確立された國際法規は、これを誠實に遵守することを必要とする。」とあって、国際法を遵守する以上、日本は侵略活動はできない。もちろん、一方的に「侵略ぢゃないよ」と主張してもそうならぬのは云うまでもない。イラクを「支援」するというても、それが「侵略」にならんとも限らぬ。そうなれば憲法9条のみならず、98条にも違反となるのだ。敗戦の日にパール判事の本を読みながら、そんなことをぼんやりと考える。
【黒猫亭主人】
パール判事―東京裁判批判と絶対平和主義
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中島 岳志
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