
23日に閉幕したカンヌ映画祭。ベテラン勢の作品や話題作ではなく、タイの映画がグランプリを受賞するなど、今年もサプライズがしっかり用意されていましたが、個人的にうれしいオドロキだったのがフランスの俳優マチュー・アマルリックの監督賞受賞でした。(出品された映画“Tournée”(英語のタイトルは”On Tour”)も、賞を受賞しました)。
メガホンを取るのはこれで4本目であるアマルリック。脚本も手がけた上、主人公も演じるという八面六臂の活躍です。フランス国内の作品はもとより、ボンド映画で悪役も演じるなど、インターナショナルな映画俳優としての多忙な日々の合間を縫ってこつこつ製作を続け、8年近くかけて完成にこぎ着けた本作。愛着もひとしおのようです。
アマルリックが演じるのは、昔大物として鳴らしたテレビプロデューサー、ヨアキム。仕事も家庭も何もかもうちゃってアメリカへ渡り、新趣向のバーレスク・ショーを結成、パリでもう一花咲かせようと一座を故国へ連れ帰るのですが、事態は思わぬ方向に動き出して…という物語。たっぷりしたボディのいかにもアメリカ人なバーレスクダンサーのお姐さま方と、かつての栄光から見放されたフランスの中年男である団長、それぞれの過去を背負った一団の珍道中が繰り広げられます。
この映画がユニークなのは、フランス語と英語の2つのコトバが飛び交うこと。フランス語はからっきしダメという一座の女達と団長とのやり取りは、全編英語で、フランス映画でありながら「らしく」ないムードを醸し出しています(父がル・モンド紙のワシントン特派員だった都合で子供時代をアメリカで過ごし、アメリカが「遠くにありて思うもの」でないアマルリックだからこそ上手くこなせたのかもしれません)。また、一座のメンバーはもともと本物のバーレスクダンサーで、演技経験がないのもおもしろいところ。舞台のシーンは、演技ではなく、彼女達の至芸の記録でもあるのです。
アメリカ産ショーマンシップ映画へのオマージュとも取れるこの作品、意外なことに、創造のインスピレーションとなったのは二人のフランス人の存在でした。一人は、「芸人」だったころの小説家コレット。もう一人は、自殺した映画プロデューサー、アンベール・バルザン。困難にもめげず突き進む純粋な創造の力と、払われる犠牲の大きさについて、考えるきっかけになったそうです。
さて、自作について語るアマルリックの言葉を拾ってみました。

「一座の「彼女」達は元々ソロパフォーマーで、別々にステージを見てキャスティングしたんだ。踊りが一人一人の個性を表している。音楽的だったり、政治的なトーンがあったり、羽飾りを振り回す昔ながらのスタイルだったり、ポエティックだったり、スタイルはばらばらなんだけど、違うタイプをたばねてアンサンブルにするのが狙いだったんだ。」
「舞台のシーンの撮影のために、映画に出てくる街々で実際に公演したんだ。入場無料で、見に来たお客さんには、撮影されるのを許可すると一筆いれてもらった。大入り満員だったね。「彼女」達には本物のお客さんが必要だったし、同じショーでも、カメラだけを前にするのと、観客を前にするのとでは、盛り上がりが違うんだ。経費的にも安くついたしね。」
「「彼女」達がクリエイトした本物のバーレスクダンスをフィクションである映画にもちこむことで、映画の一部がドキュメンタリーになってしまうことについては抵抗感がないわけではなかったけれど、ドキュメンタリーならではの魅力をフィクションの一部として取り入れたいという気持ちもあったんだ。「彼女」達と顔合わせする前に、物語を固めておいたのがよかった。フィクションの登場人物として「彼女」達に演技してもらうためには、キャラクターの人となりからディティールまでイメージしておかなければいけないとわかっていたからね。」
「(これまで監督した3作ではカメラの前に立たなかったけれども)今回主人公を演じようと決めたのは、撮影開始の3週間前だったんだ。最初は、映画『オール・ザット・ジャズ』のロイ・シャイダーみたいにやれるフランス人の俳優を捜していた―あの映画のキャスティングのシーンでのロイ・シャイダーは実に魅力的で、いやなヤツだった。職業俳優では思い当たらなくて、ベテラン・プロデューサーのパウロ・ブランコならいけるんじゃないかと思ったんだ(注:17才のアマルリックに映画界での初仕事、アシスタントの仕事をくれた人物で、アマルリックにとっての「映画界のパパ」)。一座の「彼女」達もプロの女優ではないし、僕自身アルノー(・デプレシャン監督)に声をかけられるまで演技経験ゼロだった。人物そのものにピンとくるものがあれば、素人でも役者にしたてあげることができるものなんだ。スクリーンテストも上々だったんだけれど、撮影までにけっこうな時間が経過してしまった。今のパウロを使うと、「最後の」巡業についての映画になってしまう。若くもなく年老いてもいない、中年男が映画には必要だった。それなら自分が演じれば自然じゃないかと思ったのさ。映画で口ひげをはやしたのはパウロへのオマージュさ。登場人物になりきるためにも訳に立ったね。」

「(ヨアキムがジョン・カサヴェテスの映画“The Killing of A Chinese Bookie”の主人公で、経営するクラブと、バーレスクショーと、ダンサー達を愛する男、コズモ・ヴィテリを彷彿とさせると指摘を受けて)撮影現場でカサヴェテスへのあこがれとどうつきあうか―これはやっかいな問題だった。カサヴェテス作品のコピーをつくるつもりはない。けれども、でもカサヴェテスのことを考えずにおれるかい?結局、ごくシンプルな解決法を見つけたんだ。この映画を”互いに惹かれ合う二つの大陸についての物語“と考えればいい、とわかったんだ。
ヨアキムは70年代のアメリカ映画の見過ぎで、それだからこそアメリカにはまっている。ダンサー達はムーランルージュのショーについて、ジョセフィン・ペーカーについて、パリについてあれこれかじっている、だからこそフランスが大好きなんだ、とね。
だから、ヨアキムという人物ははコスモ・ヴィテリになりきりたいんだ。「彼女」達に何か大事な事を伝えたい時は、コズモがやるようにマイク越しに話しかけ、胸元のシャツのボタンはとめずにいたがる。そう発想を転換することで、カサヴェテスを意識しなくともすむようになったんだ。」
トレイラーはこちらでどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=NvoE-R8u3Dkコズモ・ヴィテリとはこんな男です。
http://www.youtube.com/watch?v=GRrj60C24Y0GOYAAKOD@ファッション通信NY-PARIS

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posted by cyberbloom at 22:04| パリ ☁|
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