
映画”Before Sunrise”(邦題『恋人たちの距離』はどうもしっくりこなくていけない。原題のままではだめだったのでしょうか)の二人におこったようなことは所詮フィクション、映画だからこそのエピソード、とばかり思っていましたが、全く同じとまでいかなくとも、それほど遠からずなセレンディピティを経験しているひともいるのですね。最新エッセイで、デビッド・セダリスは、20代前半の若者として体験したことを告白しています。
ルーツであるギリシャを訪問した後、デビッドは親兄妹達と別れ、一人イタリアに渡りローマへ遊びにいきます。まだ定職についていなくて財布に余裕がある訳でなし、イタリア語はからっきしワカラナイけど、ギリシャへ戻る船がでるまでまだ何日もあるしなんとかなるでしょ、というお気楽なヨーロッパ一人旅。
ローマへは英語がわかる親切なイタリア人の助けをかりて何とかたどりついたけど、船が出る港町への帰りの列車の切符を求めるときは、そうは問屋がおろさなかった。単語とボディランゲージでなんとか買った切符を手に指定された客車へ行くと、なんとそこは「座席なし、洗面所はもちろん水道もなし」の最低ランクの客車。イタリアを放浪中の世界各国の若人がパンパンに詰め込まれ、フランス語・ドイツ語から聞いたことのないヨーロッパのどこかの言語まで、英語以外のいろんな響きの囁きが渦巻いています。
若いデビッド君を憂鬱にさせたのは、切符売り場の職員とのコミュニケーション失敗によるショックではなく、詰め込まれた同乗者へのコンプレックスでした。周りにいるのは適度にくたびれた、旅なれたバックパッカーばかり。家族旅行の延長で、ちょっと足を伸ばしてみましたみたいな呑気なのは自分だけのよう。客車の中は人いきれでむっとし、いっこうに目的地につく気配はなく、車窓を見ても単調な景色が流れていくだけ。立ちっぱなしにも疲れた同乗者の間で腰をおろす場所の取り合いがさりげなく始まり、引け目たっぷりの弱気なデビッド君、いつのまにやら隅っこに追いやられてしまった。
しかし、そこにいたのです。心ときめかせるその人が。「彼」(セダリスはカミングアウトしています)は、レバノンからやってきた、優しげな瞳が印象的な留学生で大学生活をスタートするべく、とある街へ向かっているところでした。しかもありがたいことに、「彼」は英語が上手く操れたのです。黙っている時間が長過ぎて気分も舌もすっかり固まってしまっていたデビッド君と「彼」は、おしゃべりに夢中になります。取りとめのない内容だけど、とにかくさえずれることがうれしい!あっという間に距離が縮まっていき、友情というほど大げさな物でなく、ロマンスと呼べるほど深遠なものでもない、なんとも言い難い親密な空気に二人は包まれます。「恋」とよべるほどの親密さに。
近くにいた同乗者が移動したおかげで、二人はドアで遮断された狭いスペースへ追いやられます。何もしなくても触れてしまいそうなほど側にいる「彼」に、キスしたい衝動にデビッド君はかられます。「彼」のほうも、口にはしないけれど、あきらかに「待っている」状態。しかし、シャイな性格がたたってか、あまりの展開にとまどったのか、今一歩が踏み出せず、時間ばかりが過ぎていきます。
やがて、「彼」の目的地が近づきます。「もしよければ、僕のところでしばらくすごさない?」「彼」は言います。これまたシャイな「彼」が勇気をふるって口にした、字面以上の思いが込められた精一杯の申し出。このままアメリカに戻っても、決まった仕事があるでなし、アルバイト先の建築現場で一輪車を転がすだけ。静かな大学町で、「彼」と過ごすイタリアでの日々はどんなにすばらしいだろう!心が動かされないといったらウソになります。でも、イエスといえなかった。
目的地に到着し、「彼」は幾つものスーツケースとともに列車を降りると、「ほんとうにいいの?」といいたげにデビッド君の目を見ます。それっきり、「彼」と会うことはありませんでした。
「レバノン」というコトバを耳にするたびに(特にこの国を巡る難しい情勢についてのニュースを聞かされるたびに)、思いが千々に乱れるようになったセダリスですが、出会いから4半世紀が過ぎた今、こうも語っています。
「当時の写真を見返すことがあったのだが、映っている自分をみてびっくりしてしまった。なんてカワイイんだろう。繋がり眉毛に豊かな黒髪、ロバを曵いて山道を行くのがぴったりくるような、素朴で無邪気な瞳の若者だったあの頃の僕は、ある意味人生のピークにいた。」あのとき瞼にやきつけた「彼」の姿は天使のように魅力的だったけれど、こうやってみるとこちらもまんざらでもなかったんだな。二人が惹かれ合ったのは、必然だったんだ、と。
何を言うんだ、おセンチなおじさんのノスタルジアかいと思う方もいるかもしれません。が、これは率直な感想だと思うんです。時の流れにのっかって生きるものとして、誰もが「あの時」の自分から変わらざるを得ないし、「あの時」の自分が何者でどんな風に他人の目に映っていたのかなんて、わからないんです。
彼が遭遇したような旅先での「出会い」を経験したとしても、それがもう一度あるなんて思っちゃいけないと、セダリスは言います。来年、また同じ季節に同じタイプの車両の切符を買って乗りこめば、別の「素敵な彼(彼女)」に巡り会える、なんて大間違いだよ、と。「出会い」は、あのタイミングで、あの空間に、あの時のあなたがいて、初めて成立したものなのだから。
セダリスほど万感の思いを込めてうなずくわけではありませんが、決して捨て置けないご意見だと思います。人は日々変わりゆき、とどまることがない。今の自分を代わり映えしないヒトだと思い込み、日々のルーティーンに閉じ込めてしまってはいませんか。たっぷりお休みを取れるひともそうでないひとも、ドアを開けて違う場所へ行ってみましょう。あなたをいつも通りではない空間に置いてあげることはけっして悪いことではないと思います。夢のような出会いは保証できませんが、偶然が起こすいたずらも、一歩外へでなければ、けっして期待できないのですから。ちなみにセダリスは、十数年後、イタリアの時とは真逆の、悪夢のような同行者とニューヨークまで列車の旅をした後、今のパートナーとつきあい始めるようになりました。家に戻って自己嫌悪でうんざりしている時に、ふっと彼のことを思い出してピンときたと。そう、動かなければ何も始まらないんです。
背中を押してくれる一曲をどうぞ。□セダリスのエッセイ"Guy Walks Into A Bar Counter"は
The New Yorker の2009年4月20日号に掲載
GOYAAKOD@ファション通信NY-PARIS

↑クリックお願いします
posted by cyberbloom at 14:43| パリ ☁|
Comment(0)
|
TrackBack(0)
|
ファッション通信 NY-PARIS
|

|