
『天国の門』(1980年)という映画が語られなくなって久しい。というか、この映画はまともに語られることの非常に少ない映画であり、もっといえば公開される前から語られることを禁じられた映画であった。
監督はマイケル・チミノ。前作、『
ディア・ハンター』の世界的成功で一躍スターダムに伸し上がったこのイタリア移民の監督が、満を持して取り掛かった映画であった。しかし、人気があるというのは恐ろしい。監督が望む限りの制作費がつぎ込まれ、湯水のごとくお金が使われるのだが映画はいつになっても完成しない。1970年代の映画史はこういう場面を何度も経験している。『トラ・トラ・トラ』(1970年)では製作者との軋轢のため、日本側監督である黒澤明の解任にまで至った。『地獄の黙示録』(1979年)のコッポラもまた、物語同様、ジャングルからいつになったら帰れるのかと思われるほどの迷走を続けた。『天国の門』はそうした例の極まった例といえよう。
結果、この映画は完成したときには既に失敗作の烙印を押され、あたかも見ることが許されぬような扱いを受けることになってしまう。この映画が記憶されるのは、その興行成績の悲惨さにおいてである。制作費の十分の一の興行収入しか収めることができなかった史上最低の映画として長く語り伝えられることになってしまうのである。監督のチミノはそれ以後ハリウッドから干されることになり、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(1985年)で復活するまでに数年を待たなければならなかった。

だが、と私は断言したい。この映画は紛れもない傑作であり、『ディア・ハンター』をも凌ぐ、マイケル・チミノの代表作である。これほどの傑作が無視されてしまったのが今となっては信じられないと思えるほど、この作品には映画の面白さが詰め込まれている。主役はクリス・クリストファーソン。その友人にジェフ・ブリッジス。主人公と絡むフランス人娼婦にイザベル・ユペール。圧巻は放浪のガンマン役のクリストファー・ウォーケン。また、イギリスからはジョゼフ・コットンが特別出演しているのが素晴らしい。この作品が忌み嫌われたのは19世紀末のワイオミング州で実際に起きた東欧系移民の虐殺事件という、アメリカ史の恥部を扱ったからであり、映画自体の出来とは何の関係もないということが、このキャスティングを見ただけでも分かるであろう。
中でもイザベル・ユペールは素晴らしい。この頃のユペールはまだゴダールの『勝手に逃げろ/人生』(1980年)にも『パッション』(1983年)にも出演していない、いわば駆け出しの女優で、フランスではむしろお嬢さん女優として知られていた程度であった。しかし、この映画でのユペールはそうしたイメージをかなぐり捨てる演技を見せている。食卓で突然全裸になり、主人公に抱きついてくる場面。水面に反映する光が眩ゆく煌く小川の中で水浴びをする場面。ユペールはどの場面でも最高に輝いており、この映画は恐らくユペールが最も美しく撮られた映画といっても過言ではない。そして、この映画を通して、ユペールがいま我々の知る演技派女優へと変貌していく瞬間に立ち会えるだろう。彼女を見るだけでも、この映画を見る価値は十分にある。
そして、クリストファー・ウォーケン。いつもながらの影のある役柄であり、いつになっても正体のつかめない男を演じている。だが、いざその時となると全身に弾丸を浴びながらもまだふらふらと立ち上がり、決して戦うことを止めない男。こういう人物がウォーケンによって演じられるとその圧倒的な風貌と眼力ゆえにあらゆる悲劇性までをも吹き飛ばしてしまうように感じられる。この演技はこの役者の魅力が存分に味わえるという点で、『ディア・ハンター』でのそれと並んで、ウォーケンの中では出色の出来ではないかと思われる。
他方、主演のクリス・クリストファーソンは自ら望むわけではないのに、戦いの中に否応なしに巻き込まれていく男を味わい深く演じている。これほど静かな主役が70年代にいたろうか。クリストファーソンの役柄は例えばイーストウッドが演じる主人公像の対極にある。全身から怒りを爆発させ、着実に復讐を成し遂げていくのがイーストウッドの典型的タイプとすれば、クリストファーソン演じる男は「何か分からぬまま」争いの中に入っていき、「何か分からぬまま」戦いを続けざるを得ない主人公である。これは全く新しいタイプの主人公像ではないだろうか。そしてこれは1970年代の映画に慣れた観客には受け入れがたいものであった。
その意味で、この主人公は70年代と80年代を繋ぐ分岐点にいると言える。80年代になるとブルース・ウイリスにせよ、ハリソン・フォードにせよ、そこに登場する主人公たちは何と単純化された、内面のない、明るい男たちになってしまうのだろうか。彼らは自分の置かれた「訳の分からぬ」状況を解釈することはなく、ただ笑い飛ばしてしまう。90年代のトム・ハンクスに至って、その平板化した登場人物像は極限にまで達するように思われる。この「中身のない」人間の姿はそのままアメリカの姿を現しているように思われる。映画はそれ自体が望む以上に時代を映しているのかもしれない。
『ディア・ハンター』に引き続き撮影を担当するヴィルモス・ジグモントはスピルバーグの『未知の遭遇』(1977)の撮影監督として知られているが、この映画のほうがはるかに良い仕事をしている。いつ果てるともなく続く民衆たちのダンス・パーティー。これをぐるぐると回転するカメラで捉えた場面は、『暗殺の森』におけるタンゴの場面を捉えたヴィットリオ・ストラーロのカメラをも越えて、憂いを帯びた相貌を見せる。加えて、全体に茶色のフィルターをかけた濃淡色の映像によって、歴史の中に浮かび上がる悲劇を見事なまでの詩的感性で引き出すことに成功している。これほど美しく撮られた映画はヴィスコンティという稀有な例外を除けば70年代には存在しなかったのではないか。その意味でもこれは70年代に属することの出来ぬ映画なのだ。
巨額の制作費を投じて、歴史の一幕を壮大なスケールで描くという1970年代の映画手法はこの作品で終わり迎えたと言っていい。いや、実際には制作費はその後はるかに昂騰しているのだが、膨大なエキストラ、膨大な撮影日数、そして撮影自体が様々なドラマと危険を孕むという映画はもうなくなってしまったのではないだろうか。80年代以降は役者のギャラと特撮・CG技術に制作費が割かれることになるだろう。
まさに70年代映画とは、『天国の門』という一本の映画によって、その「幸福な時代」の扉を閉ざしてしまったのだった。
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おすすめ度の平均:


見てしまいました

マイケルチミノ渾身の傑作
不知火検校

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posted by cyberbloom at 14:05| パリ ☁|
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