
ジョニー・アリデーはフランスで最も人気のある歌手のひとりである。「ロックンロールの帝王」である。還暦をとうに越えてはいるが、現在でもアルバムを出せば必ずチャート初登場一位だし、コンサートも老若男女でつねに満杯だ。しかも、60年代前半以降ほぼ半世紀に渡ってトップスターの座を守りつづけているという、とてつもない存在である。だが一方で、彼を嫌うフランス人もたくさんいる。その理由は、ロックアーティストというよりは芸能人的な音楽にたいするスタンス、マッチョな外見や態度、政治的な立場(サルコジスト)、税金逃れのための国外移住などの行為...とさまざまだ。それでもとにかく彼は、フランス最高のセレブリティのひとりであることに間違いはない。ただ、フランスおよびフランス語圏の国以外ではまったくといっていいほど無名であるが...。
彼は少なくない本数の映画に役者として出演もしてきた。古いところでは「
アイドルを探せ」(1963/ミシェル・ボワロンMichel Boisrond)などが思い出されようし、「
ゴダールの探偵」(1985)にも出ている。最近では「列車に乗った男」(2002/パトリス・ルコントPatrice Leconte)が話題になった。「ジャン=フィリップ」Jean-Philippe(2006/ロラン・テュエールLaurent Tuel)は彼の最近の主演作(日本未公開)である。
このコメディ映画で彼は「ジョニー・アリデーになれなかった男」(!)を演じている。以下、あらすじを少し紹介してみよう。ジョニー・アリデーの熱狂的なファンである中間管理職の男ファブリス(ファブリス・ルキーニFabrice Luccini)が、ある晩殴られて意識を失う。気がついてみるとそこはパラレルワールドだった。その世界は元の世界とほとんど同じだが、最大の違いは彼の生きがいであるジョニー・アリデーがいないということ。ジョニーの不在に耐えられないファブリスは、ジャン=フィリップ・スメットJean-Phillippe Smetという本名を手がかりに彼を探し回る。ついに見つかったジャン=フィリップ(演じるのは当然ジョニー自身)は、人生のある時点まではもうひとつの世界のジョニー・アリデーとまったく同じ道を歩みながら、ある運命のいたずら(詳細は言わないでおく)のせいでスター歌手になることはなく、ボーリング場経営者になっていた。その彼をジョニー・アリデーに変身させるべく、ファブリスは奮闘を始める...。

バカみたいな話だと思われる向きも多いだろうが、じつはこの映画、娯楽作品としてはけっこうよくできている。ファブリス・ルキーニのいつもながらの芸達者ぶりは言わずもがなだが、人生に疲れた初老の男を演じるアリデーの演技だって悪くない。アリデーにかんする伝記的事実(多くのフランス人にとっては常識に属する)をうまく織り交ぜたシナリオもよく練られたものだし、細部のギャグも秀逸、最後のオチも楽しい。欠点といえば、ジョニー・アリデーが――またファブリス・ルキーニが――フランスにおいてどういう存在であるのかを知らない人間からすれば、この映画のおもしろさの多くが理解しにくいと言うことだろう。
ただこの映画を、スーパースターが気軽に出演したコメディとだけ見てしまうと、どうも大事なポイントを見落としてしまうように思える。というのも、注意深く見るとこの映画は、ジャン=フィリップのジョニー・アリデー化を物語ることを通じて、現実のジョニー・アリデーの理想化、神話化を企てているようにも思われるからだ(それがアリデー自身の意向によるものなのかどうかはよくわからないが)。
アリデーには、ロック歌手にとっては明らかにマイナスイメージとなりうるふたつの弱点がある。まず彼が基本的に「他人が提供した曲を歌う歌手」であり、アーティストとしての個性が希薄であるということ。自作の曲もあるにはあるが、代表作はほぼ他人の手によるものである。(彼のアイドルであるプレスリーも作詞作曲はしなかったし、自作曲を歌うのでなければロック歌手としてはダメだ、というつもりはさらさらない。あくまでもビートルズ以降のロック界のスタンダードの話ということでご了解願いたい)。もうひとつは、彼は「ギターが全く弾けないか、弾けるにしてもさほどうまくないに違いない」こと。彼の弾き語り映像のどれを見ても、指使い(とくに左手)と曲調が合っているようには見えない。頭のてっぺんからつま先まで自信に満ちあふれているように見えるアリデーだが、なぜかギターを弾くときの両手の指だけは、自信なげな空虚感を漂わせている。私は長年彼のギター演奏能力について疑念を持ってきたが、フランスでも気になる人はたくさんいるようで、この点を問題にしている掲示板やブログをネット上でよく目にする(たとえば
これ)。

このふたつのマイナスイメージを、映画は巧妙に修正しているように見える。まず前者について。アリデーのレパートリーには、娘の誕生を題材にした「Laura」(1986)という曲があるが、この曲はじつはジャン=ジャック・ゴールドマンの作品である。ところが映画の中では、その事実は伏せられたまま、現実の世界で「Laura」が作られた頃、パラレルワールドのほうでもジャン=フィリップが息子の誕生に際し「Laurent」(!)という全く同じ内容の詩を書いていた、というエピソードが示される。要するにさりげなく、アリデーが自作派の歌手であるかのようなアピールがされているわけである(これは一種の「歴史修正主義」ではないか?)。また後者に関しては、まず、アリデーが若いころギターを習っていたという経歴がファブリスによってわざわざ語られる。さらにファブリスから「Quelque chose de Tennessee」(アリデーファンに最も愛されている曲のひとつ)のギターコード付きの歌詞を示されたジャン=フィリップが、初見で、ギターを弾きながらその歌を完璧に歌い上げるシーンがある。このときの彼の左手は、不思議なことにきちんと曲のコードに対応した動きをしている! ここでも「ギターが弾けないかもしれないロックンロールスター」というマイナスイメージが巧妙に修正されている(この場面は彼とこの曲の作者ミシェル・ベルジェの間にあった実話を元にしたものだという話もあるが)。
映画のクライマックスで、ジャン・フィリップはギターを抱えてステージに現れる。そして自分にブーイングを浴びせかけるスタジアムを埋め尽くした観客たち(彼らのお目当てはほかにいる)を、その歌声であっという間に魅了する。ここにいたって彼はついに「ジョニー・アリデー」になるわけだが、その「ジョニー・アリデー」は、現実のジョニー・アリデーを越え、むしろ現実の彼がなりたいと考える――また、彼を嫌う人たちにも愛されるような――完全無欠のロックンロールスターに変身を遂げている...。さらにひとこと付け加えておくと、歌声ひとつで自分を知らない大観衆を征服する「ジャン=フィリップ―ジョニー・アリデー」の姿に、彼が熱望したにもかかわらず実現できなかった「アメリカ征服」という夢の残像を見るのも、あながち的はずれなことではないと思われる。
ジョニー・アリデーは昨年末、2009年に予定されているツアーをもってライブ活動から引退すると発表した。ステージ上の彼の姿が見られるのもあとわずかのあいだである。
■「
ジャン=フィリップ」のDVDは仏盤/PAL方式のみ存在する。字幕は付いていない。
■ジョニー・アリデーのディスコグラフィは膨大すぎて、ベスト盤を紹介することさえ困難である。彼に興味を持たれた方には、まず最近のライブ盤DVDを視聴することをおすすめする。ゲストの多彩さ、選曲の良さ、野外コンサートの開放感を味わえる点などからいって「
100% Johnny Live à la Tour Eiffel(2000)」(仏盤/PAL方式)が一押しである。アマゾンジャパンのカタログではリージョン1となっているがこれはたぶん2の間違いだと思う(確証はないが)。
■誤解のないように申し添えておくが、私はジョニー・アリデーが好きである。
MANCHOT AUBERGINE

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posted by MANCHOT AUBERGINE at 16:31| パリ |
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