ロケの準備が始まり、周囲があわただしくなってきた。ロケ現場と思われる棟の裏側に回ると、エキストラで出演している教え子のK君に会うことができた。K君は役得で、トラン監督(トラン・アン・ユンのトランが姓)の息子さんにも会ったようで、フランス語で、Quel âge? って聞いたら、Huit ans と答えてくれたと嬉しそうだった(写真はK君が写メで送ってくれた監督直筆のサイン)。やがてリハーサルが始まったが、それはちょっと小説のイメージとはかけ離れたシーンだった。○○が立ち込める中、ギュワーンとファズギターが鳴り響き、○○がサイケなロックを○○している中で、寮生が○○をしているという、何とも形容しがたい、それこそ「サイケな」シーンで、それを背景にワタナベや永沢が語り合っているというもの(詳細は書けないのでご勘弁を)。
時代をスタイリッシュに彩って、象徴的に描き出す。トラン監督は少々過剰気味に、実際の68年以上にベタでトンガった68年を演出しているように見えた。主人公やエキストラのファッションも時代の先鋭的な部分を映しているようだった。小説はあまり時代性を感じさせないが、68年と言えば、パリから世界へと広がった五月革命の年であり、ベトナム戦争の真っ最中でもあり、翌年には伝説的なロックフェス、ウッドストックが行われた。小説では辛うじて文学の議論によって時代の流行を垣間見ることができる。寮生の大多数が読んでいたのは、大江、三島、高橋和巳、フランスの現代作家(ヌーボーロマンのことだろうか)で、自分(=主人公)みたいにフィッツジェラルド、アップダイク、チャンドラー、カポーティなどのアメリカの作家を読んでいたのは極めて少数派だったと書かれている。
村上春樹もある意味スタイリッシュだが、それは趣味の良い上品さであって、決して時代の先端を追うようなものではない。消費主義的な洗練、あるいはモノとライフスタイルの細部に徹底的にこだわる一種のスノビズムだ。新興国の若い読者に人気があるのも、そういうものに憧れがあるせいだろう。『ノルウェイの森』では、見栄えも良く、お金にも困っていない、生の条件に恵まれた登場人物が次々に死んでいく。貧困や飢餓で死ぬわけではない。成り上がろうと無茶をして死ぬわけでもない。そういう理由のない死は、消費主義的な洗練の究極的な身振りだということなのだろうか。その部分をトラン監督がどのように描くのか非常に気になるところだ。1968年から20年後に『ノルウェイの森』が発表されたわけだが、それからさらに20年後の現在、日本は貧困によって多くの若者が命を絶つような『蟹工船』の時代に逆戻りしてしまった。果たしてそういう身振りは未だに説得力を持っているのだろうか(結局、バブル前夜の「1Q84」年に回帰するしかなかったということなのだろうか)。
蒸し暑い学生寮の中は1968年だった、というより、むしろみんながベトナムの若者に見えた。季節柄エキストラの寮生たちも日焼けしていたし、特に7対3で固めた黒々とした髪が額に張りつくレトロな感じがベトナムだった。何でトラン監督が『ノルウェイの森』なのかとずっと思っていたが、ベトナムを舞台に映画を撮ってきたトラン監督からすれば、私たちにとっての遠いノスタルジーが近くてリアルなものなのかもしれない。
ベトナムは現在、高度成長の真っ只中にある。今回の世界的な金融危機の影響も少なく、2009年においても5.5%の成長が見込まれている。また2025年までのスパンでは年平均8%の成長率が予想されていて、世界で最も成長率の高い国になると言われている。成長が止まるどころか、これから人口がどんどん減り、経済規模が縮小していく日本とは極めて対照的である。つまりトラン監督が「ノルウェイの森」を撮っている現在は、頂点を目指して昇っていく国と、頂点を極めたあとに落ちていく国の交差する地点=時点ということになる。そこが非常に興味深いのだ。村上春樹のスタイリッシュさは経済成長の頂点において醸成された上澄みのようなものだから。
私は舞台となる学生寮に関してこじんまりとした牧歌的なものを勝手に想像していた。しかし実際に行ってみると、それは古い鉄筋造りで、それもちょっとした総合病院くらいの規模だった。もちろん内部は病院のようにこぎれいではなく、雑然としていて、むさ苦しいほどの生活感にあふれていた。階段の踊り場にロープを張って洗濯物が干してあったのが印象的で、こんな場所が今もあるのかとちょっとびっくりした。そんな学生寮と見学したシーンの組み合わせは意外なものを想起させた。それはパリの13区である。トラン監督にとってもおそらく馴染みのある場所だろう。(続く)
cyberbloom
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