10年くらい前に、シャンゼリゼに面した知り合いの部屋(ほぼ屋根裏部屋)を借りて2ヶ月くらい住んだことがある。建物の中庭には高級車がひしめき、中層階にはシャンデリアがきらめいていて、ブルジョワな住人が多かった。同じ建物に住んでいても、使用する入り口やエレベーターが違う。バルザックの「ゴリオ爺さん」(1834)の舞台となっているヴォケール館では、階によって部屋の広さと作りの良し悪し、部屋代が著しく異なり、各階がそのまま社会階層と対応していたが、おそらく19世紀から(バルザックが没した直後にオスマンによって大規模なパリ改造が行われたとはいえ)あまり変わっていないパリの構造を裏側から垣間見たような気がした。建物から一歩外に出ると目の前にヴィトンのメガストアがあり、多くの観光客が歩いていて、世界的に有名な観光地も居住地区として立派に機能していることを実感したのだが、19世紀からの変化の度合いよりも、最近の10年のパリの変化の方が大きいのかもしれない。
ヨーロッパの大都市が不動産価格の高騰に見舞われていることは以前から伝わっている。アメリカに端を発したサブプライム問題がこの先どこまで波及するかは不透明だが、少なくともパリでもこの10年で不動産の相場が倍になったと言われている。不動産価格の高騰が地元の人間のつながりを破壊するという話は、地上げ屋によって老舗が立ち退きを迫られるとか、日本のバブル期にもよく聞いた。しかし、日本でも地価や不動産価格の上昇は全面的に起こっているわけではなく、東京の一部だけで、バブル期にはなかった不動産流動化(証券化)という新しい事業が、個人投資家の資金も取り込んで不動産取引を活発化させている。もちろんヨーロッパの大都市も同じような条件下にある。
ところで、資本力に物を言わせてパリの有名な観光スポットに進出をもくろむのは、H&M(スウェーデン)のような比較的新興の外資だったりする。シャンゼリゼといえば強力なブランドイメージを持った老舗企業が看板を掲げるという印象が強かったが、日本のユニクロがパリ進出を果たすのもこの近くだ。
以前、「パリのカフェ的コミュニケーション」というエントリーで、ファーストフードの店やセルフサービスのカフェの進出に押されて、老舗のカフェ、街角のカフェがひとつひとつ姿を消し、「ギャルソンに微笑み、何か一声かける」という習慣が失われつつある、と書いた。また、カフェは政治、文学、芸術の議論の場を提供するという、文化創出と公共性の場としても機能していたわけだが、シャンゼリゼで最後の砦となっているのはカフェではなく、むしろ映画館のようだ。
不動産が高騰するとテナント料が上がる。テナント料の高騰に映画館の入場券収入が追いつかない。さらに郊外のシネマコンプレックスに客を奪われ、立ち退かざるを得ないような瀕死の状態にあった映画館が息を吹き返している。行政サイドの財政的な支援に加えて、地元の人々によって市民を映画館に呼び戻すための工夫が凝らされている。老舗の映画館「ル・バルザック」では、毎週土曜日の上映前に音楽学校の学生によるミニコンサートが開かれる。入り口にはバーが設けられ、映画館の支配人が自ら観客と映画談義を交わす。
「シャンゼリゼというブランドに頼らなくても、生身の触れ合いをすれば人々は戻ってくるという手応えを感じる」(朝日新聞)と支配人がいみじくも言うように、グローバルなカジュアル衣料チェーンが象徴する匿名的で流動的なシステムの拡大に抗するには、人のつながりを取り戻すような枠組みを自発的に、意識的に設計し、埋め込んでいく必要がある。これはスローフード運動などとも軌を一にする生活世界の実質を再帰的に取り戻そうという動きであり、古き良きブルジョワ文化をそのまま復興しようというノスタルジーとは一線を画すものだ。
もうひとつ映画でなければならない理由がある。
「生活世界の再帰的構成に必要な価値合意は、ハーバーマスの考えるような理性的な討議によってあたえられるのではなく、芸術やサブカルチャーなどの表現を通じて滋養されるコモンセンス=共通感覚に基づく。そのことは未だに古典的主題を反復するフランスやイタリアの小説や映画を見ているとよくわかる」(宮台真司、「トーク・オン・デマンド3」より)
宮台はここで古典的主題を反復する映画監督として、フランスのフランソワ・オゾンを持ち上げる。彼の作品は「表層的な見せかけに右往左往せずに、真の心を見極めろという伝統的なモチーフ」の変奏だと言うが、それに加え「映画館の支配人が自ら観客と映画談義を交わす」という試みが非常に的を得ていることがわかる。観客が映画館という場に居合わせるだけでなく、映画作品を通して得られた共通感覚を確認して帰ることができる。
人と人がつながるには価値観や現実を共有しなければならない。以前は現実世界の常識に準拠した手法をリアリズムと言ったが、今は逆で、現実には常識や共有するものがないので、映画の中にこそ共有すべき現実を求めなくてはならない。バーチャルな映画の世界が再帰的に人をつなぐことを期待されている。だからこそ映画には以前よりもまして普遍的で古典的なテーマが必要になるのだ。
cyberbloom
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