2008年03月10日

ウェブ社会をどう生きるか(1) 西垣通

ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書 新赤版 1074)この本には、梅田望夫氏の「ウェブ進化論」に代表される楽観的なウェブ礼賛論に対する、情報社会学者からの批判が展開されている。その論点をいくつか拾い出してみると、「ウェブ礼賛論が安易に既存の専門知を排斥し、新たなウェブの集合知を主張するあまり、急速に知の堕落が生じつつあるのではないか、という疑念がある」とか、「量産される膨大な知識断片の海の中で、真に大切な情報が飲み込まれ、忘れ去られてしまうのではないか」とういものである。

つまり、ウェブの集合知は知の堕落であり、既存の専門知こそが「真に大切な情報」を提供できるのだと。しかし、「真に大切な情報」とは何だろうか。情報は個人が意味づけることで価値を持つ。すでに意味づけられ、価値のあるものとして上から与えられるものではない。個人にとって価値があるということと、専門的な正確さや詳しさとは別の問題である。以前は上から与えられるものを個人の価値として受け入れていたのかもしれないが、今や「真の大切さ」は専門家が決めることではなく、個人が決めることである。

ウェブ人間論」の書評でも書いたことだが、これもアカデミズムの側の危機意識の表明なのだろう。誰も書かれた内容に責任を取らないネットの世界と違って、専門家の論文には厳しい審査があり、その内容は学会の責任において保証されていると言う。しかし、いくら学会が内容を保証しているからといって、アクセスが難しく、流通していなければ、責任の意味がない。「学問の場とは、決して一部の専門的権威が糾合する密室ではなく、原則として誰でも開かれているのです」と言うが、一方でアカデミズムは知を囲い込み、内輪でしか通じないような小難しい専門用語を使い、それによって自らを権威付けることで成立している。アカデミズムは、外部に向けて発信し、情報を流通させるというリテラシーの重要な部分においてレベルが低いとさえ言える。それゆえに何をやっているのか理解されず、大学無用論や教養無用論に付け込まれ、一方で当人たちは「わからないやつがバカなのだ」と開き直る始末である。

さらにブログについて、これが「民主的で平等な集合知なのでしょうか」と問いかけている。その際に、西垣氏が挙げるのは、アクセスの著しく多いタレントのブログと、アクセスのほとんどない無数の個人ブログである。それらを引き合いに出して、こんなもの集合知と言えるのか、というのはあまりにも皮相的な分析である。つまり、端からブログを信用していないのである。

西垣氏はブログを読まないのだろう。ブログが生成しているフラットな世界(=ブロゴスフィア)と、アカデミズムを比較すること自体が間違っている。学問的な境界や専門性を問題にしない、全く別の知の形式だと理解した方が良い。またアカデミズムを経由しない、「そんなのカンケーねー」という世界が出現したとも言える。確かにアカデミズムの厳密さは重要だが、一方で制度的な形式からはみ出ることを許さない不自由さがある。「ウェブ進化論」の梅田氏は毎日何十ものブログに目を通すというが、氏のブログに対する評価は、毎日の積み重ねから抽出された確信なのだろう。自分でブログを読み、あるいは書き、面白いブログを見つける努力をしなければ、ブログの面白さはわからない。特にジャーナリズムに関しては、ろくな情報や論点を出さないのは、むしろマスコミの方で、ブログによって、これまで決して表に出てくることがなかった貴重な知見や論考にアクセスできるようになった。これは文系的な集合知の重要な成果のひとつと断言できるだろう。

また西垣氏は、ウェブ礼賛論が唱える「玉石混交の知識の断片の海から、グーグルなどの検索エンジンの力を借りて玉をより分けることが可能だ」という考えに疑念を挟む。同時に、ブログを検索エンジンと結びつけて批判しているが、つまり、読むに値しないブログのエントリーが検索の上位を占めると言いたいのだろう。同じ部分で「マスコミが一方的に流す情報のシャワーを受動的に浴びる大衆」という言い方をしているが、マスコミの時代の「アホな大衆」をそのままネットの世界に移動させている。マルクス風に言えば「偽りのイデオロギーに騙される大衆」だ。かつてのマスメディア論や大衆文化論において、大衆は資本主義の哀れな奴隷として描き出され、大衆側で起こっていることは、受動的な消費のプロセスにすぎなかった。ウェブ論にあてはめれば、検索結果がそのまま個人の頭脳に「注入される」わけで、個人がどのように検索エンジンを使っているのか、という受容者のプロセスを考慮に入れていないのである。

しかし、私たちは検索結果をそのまま正解として受け入れているわけではない。重要なことは、検索エンジンを信用せず、あるいは、ほどほどに信用しながら、検索エンジンを使いこなすことなのだ。実際、私たちは検索エンジンにときには裏切られながら、どうやって精度の高い情報を得られるのか考えながら使っている。梅田氏は重要なリテラシーのひとつに環境適応を挙げ、ウェブの負の部分をいかにやり過ごすか、一種の効率的な取捨選択能力について言及している。面白いブログを探すときも、検索エンジンだけに頼るわけではない。ブログのリンクやトラックバック、あるいは口コミを通じて、面白いブログにたどり着くノウハウを身に着けるのだ。

同じように、私たちは与えられた情報を自分の文脈に、個々の生の条件に置き直して解読している。自ら意味を作り出しながら理解するのだ。この生産的な読みがリテラシーの本質なのである。さらにブログを初めとする様々なツールによって、それを再編集し、発信するという新たなプロセスも加わった。ウェブ社会の到来によって、個人の意味づけと生産の余地が飛躍的に拡大したということなのだ。
(続く)


ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書 新赤版 1074)
西垣 通
岩波書店
売り上げランキング: 94206
おすすめ度の平均: 4.0
4 精緻な論旨の中、わずかに垣間見える
著者の人間臭さが興味深い
2 主張は正しくても、何の影響力も与えられない
5 上滑りしない情報論
4 「アンチ」ウェブ進化論
3 単にアメリカの巨大企業を儲けさせる
だけではだめだ



cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします

FBN16.png
posted by cyberbloom at 21:40| パリ ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | サイバーリテラシー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック

ウェブ社会をどう生きるか:一石投じてます
Excerpt: ウェブとか、ネット社会とか、そういうものをちょっと違った見方で見ています。 「...
Weblog: はてさてブックログ
Tracked: 2008-07-23 10:46

×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。